誰にでも優しい貴方にはもうかける言葉もありません
レイチェルは公爵家の娘だ。
婚約者は辺境伯家の次男であるレイモンド。
女公爵となるレイチェルにレイモンドが婿として入る形だ。
レイチェルは女でありながら実に優秀で、公爵家を継ぐのに何の問題もない。
レイモンドもそれなりに有能なのでレイチェルを支えられる…はずであった。
悪癖さえ、なければ。
「レイチェル、ごめん。今日もデートできなくなった」
まただ。
レイモンドはレイチェルを『婚約者だから』と優先順位を『低く』している。
本来ならば『婚約者だから』優先順位を『高く』すべきなのだが、彼はわかってくれない。
「…今回は何故?」
「友達が助けてくれって従魔を使って連絡してきて…本当にごめん!」
レイモンドの悪癖。
それは『善良』であろうとするばかりに『他人』を優先して『身内』を蔑ろにすること。
おかげでレイモンドは人気者だ、なにかあればアイツに頼れば良い、と。
だが、レイチェルは別に彼が善良であろうとすること自体は構わなかった。
金を貸そうが、助けに行こうが、レイチェルのお金ではないし、レイチェルの身体ではない。
彼がたとえどれだけ利用されても、我が『公爵家』と彼の実家の『辺境伯家』にダメージがなければ好きにすれば良いと思っていた。
「そうですか…では早く行って差し上げてください」
「ありがとう!」
そうして馬車に駆け出していく彼を見送る。
昔はこうではなかった。
昔は「利用されているだけだ」「やめておいた方がいい」と忠告していた。
彼を愛していたからだ。
今は公爵家と伯爵家に影響がない範囲なら忠告もしない。
彼を愛していないからだ。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
微笑むレイチェルに、侍女のキャサリンは心を痛めた。
キャサリンから見たレイチェルは、まさに『善良』な人だ。
優しく、大らかで、使用人にも感謝をしてくれる。
キャサリンから見たレイモンドは『悪』だ。
レイチェルを傷つけ、愛を粉々に砕いた。
あれは去年の冬のこと。
『友達が困ってるらしいから、金を持っていってやらないといけないんだ!』
『それは利用されてるだけです、レイモンド様!どうかお考え直しを!』
『レイチェル…』
『……は、はい』
『君はそんな冷たい人だったんだな』
レイチェルは信じていた。
きちんと話せばレイモンドもわかってくれると。
レイチェルは愛していた。
レイモンドの善良であろうとする姿を。
でも。
『じゃあ、俺はもう行くから』
『あ…』
『………しばらく、放っておいてくれ』
彼はそれからしばらく、レイチェルを放置した。
〝しばらく〟してから、あちらから勝手に連絡を取ってきたが…レイチェルは、その頃には彼に冷めていた。
別に、婚約破棄なんてしない。
婚約の解消も、白紙化も。
ただ、忠告を辞めた。
『彼は自分が善良であることが一番大事なのだもの』
『公爵家と辺境伯家に影響が出ない範囲なら、好きにすればいいわ』
『公爵家も辺境伯家も、ちょっとやそっとで傷になる程度の家ではないし』
そうレイチェルが冷たい表情で言った時、キャサリンはレイモンドを恨んだ。
キャサリンは好きだった。
レイチェルが。
レイモンドの話を恋する乙女の顔で語るレイチェルが好きだった。
レイモンドはそれを壊した。
―…本来なら、この上なく幸せだったはずなのに。
自ら壊した、レイモンドが憎い。
「さあ、そんなことより午後の予定が空いたわ」
「そう、ですね」
「今日デートで使うはずだったお金も余ったわ」
「…はい」
「孤児院と養老院に行きましょう!」
キャサリンは思う。
本当に善良なのは―…我が主人だと。
レイモンドは、ため息を吐いた。
友達から助けてくれと連絡があって、急いで行ったら財布を忘れただけだったらしい。
お金はレイモンドが代わりに払って、友達にも大変感謝されたが…今日は、せっかくレイチェルとのデートだったのに。
また、デートできなくなった。
わかっている、頼られると断れない自分が悪いことは。
それでも…レイチェルと、デートしたかった。
「レイチェル…今日もごめん…」
レイモンドはレイチェルを愛している。
正しく言えば、愛している〝つもり〟だ。
「最近我慢させてばかりだ」
実際にはレイチェルはもうレイモンドを諦めたので、我慢も何もない。
「どうやって償おう」
現実を言えば、今更どう償おうがレイチェルの心はもう戻らない。
「………やばい、今月のお小遣いがそろそろ尽きそうだ」
使ったのは自分の意思なので、人助けのためだとか言い募っても親はこれ以上は今月は出してくれないだろう。
「………でも、俺は…正しいことをしているのだし」
正しくは、正しいことをしている〝つもり〟だ。
大事にすべきモノの優先順位を完全に間違えている。
「レイチェルも、わかってくれるよな」
レイチェルは痛いほどわかっている。
レイモンドの悪癖を。
レイモンドの身勝手を。
もう、レイチェルの恋は散った。
もう、レイモンドは戻れない。
レイチェルに華のような笑顔を向けられていた頃には、もう戻れないのだ。
レイモンドはここのところ、貴族学院に唯一特待生として通う平民の娘ムーンリットにご執心だ。
といっても恋心ではない。
貴族学院で浮いているムーンリットに気を掛けて、そんな自分に酔っているだけだ。
だが周りの目は冷たい。
レイチェルは貴族学院でも『優しく、大らかで、下の者にも感謝をしてくれる善良な高位貴族』として人気者だった。
そんなレイチェルを放って、他の女を…しかも平民を優先するレイモンドは知らぬ間に嫌われ者となっていた。
だがムーンリットにご執心の彼はそれに気付かない。
「レイモンド様、いつもありがとうございます!」
「いや、このくらいなんでもないさ」
ムーンリットはムーンリットで、レイモンドにご執心だった。
これはただの恋心ではなく、貴族と結婚できるかもという打算だった。
レイチェルとレイモンドが婚約していることはさすがにムーンリットでも知っていた。
しかしムーンリットは一つ勘違いしていた。
レイモンドが婿入りして、レイチェルの家を継ぐのだと。
そんなレイモンドの第二夫人…側室になれば将来も安泰だと勘違いしていた。
そしてムーンリットのその勘違いを周りは薄々気付いていたが、訂正しない。
下手に巻き込まれて自分たちの大好きな学院の人気者…レイチェルに嫌われたら嫌だから。
ムーンリットはいつしかレイモンドの第二夫人となる自分が浮いた存在なのは、レイチェルが裏から手を回しているのだと思い込むようになる。
ムーンリットは一方的に、レイチェルに恨みを募らせた。
そしてムーンリットはレイチェルを…『悪役令嬢』と称して、ありもしない被害を訴えるようになる。
しかし周りはそんなムーンリットを白い目で見るだけ。
レイモンドもムーンリットの、レイチェルへの『悪役令嬢呼ばわり』はさすがに注意していた。
のだが。
やがてレイモンドとムーンリットの醜聞は、大人たちの耳にも入った。
まずレイチェル。
レイチェルは親に確認され噂は確かだと頷いた。
そしてレイモンド。
レイモンドは父である辺境伯にボコボコに殴られ倒して、即日レイチェルに謝りに行かされた。
そしてムーンリット。
貴族学院を突然退学させられて、孤児院からも追い出された。
孤児院の先生たちから、あれだけレイチェル様に助けられておきながらなんてこと!と泣かれたのが追い出されたことより堪えた。
「レイチェルに会わせてください!謝りたいんです!」
「いや、君を娘に会わせるわけには行かない」
「何故!」
「何故?散々娘を蔑ろにした挙句浮気して、何故だと!?」
「誤解です、俺は浮気なんてしてない!」
公爵は、怒りに任せてレイモンドを殴る。
「痛っ…!」
「あれが浮気でなくて何だという!」
「だから、誤解なんです!ただ困っていたムーンリットを助けてやっただけで!」
「もう貴様のそのお人よしには愛想が尽きた!この婚約は破談だ!」
「そんなっ…!?」
「出て行け!」
その後辺境伯家に帰ると、レイモンドはレイチェルとの婚約が正式に白紙化されたことを聞かされた。
そしてレイモンドは貴族学院の退学はもちろん、貴族籍も奪われて戸籍も分籍されて、私財だけを持って辺境伯家を追い出された。
私財も、人に貸したり与えたりしていたので雀の涙ほどしかない。
レイモンドは〝身勝手な人助け〟の結果〝因果応報〟に遭ったのだ。
率直に言うと。
レイチェルは、レイモンドとの婚約が白紙化されてホッとしていた。
そんなレイチェルを見て、キャサリンもホッとしていた。
レイチェルの憑き物が落ちたような穏やかな表情に、レイチェルは救われたのだとキャサリンは嬉しかった。
しかしレイチェルは貴族社会でも人気者。
落ち着く暇もなく、縁談が持ち上がる、
レイチェルには決定権はない。
公爵が選んだ相手とまた婚約する。
今度は良い相手であればいいが…。
「レイチェル、お前の次の婚約が決まった」
「まあ…どなたでしょう」
「王太子殿下だ」
レイチェルは表情を崩さないように必死だった。
キャサリンもだ。
何故ならレイチェルは十八歳。
王太子殿下といえば、まだ十二歳だ。
この国では男が一回り年上ということはあっても、女が六つも年上というのは珍しい。
「な、何故」
「王家と王太子殿下御本人の希望だそうだ、よかったな」
殿方というのはどうしてこうも…と思いつつもキャサリンはレイチェルにおめでとうございますと言うしかなかった。
レイチェルは殿方はやはり誰でも〝こう〟なのかと内心落ち込んだが、キャサリンに微笑んでありがとうと言うしかなかった。
「ですがお父様、私が王太子殿下に嫁ぐなら公爵家はどうなるのですか?」
「そんなもの有能なことで有名なお前の従兄にでも任せれば良い。あれも侯爵家のスペアとして教育は十分に受けている」
「ああ…」
父の弟である侯爵には二人の息子がいる。
天才と有名な大従兄さま、鬼才と有名な小従兄さま。
どちらも十分な教育を受け、さらに本人たちが優秀なので…血の繋がりももちろんあるし、問題はなかった。
小従兄さまの才能が活かされないのは勿体ないので、これはこれで公爵家と侯爵家にとってはよかったのだろう。
とにかく、レイチェルはこの日以降王宮で王太子妃教育を受けることとなった。
「レイチェル様、ご婚約おめでとうございます!」
「ええ、皆様ありがとうございます」
レイチェルの予想とは裏腹に、貴族も平民もみんなレイチェルと王太子殿下の婚約を喜んだ。
そして心から祝福した。
何故ならレイチェルは貴族社会でも人気者で、平民たちからも感謝される存在だったから。
みんな見ていたのだ。
レイチェルのことを、良くも悪くも。
それにレイチェルは少しホッとした。
「レイチェル!」
「王太子殿下!」
レイチェルに突進して抱きついてきたのは、この国の王太子クラウド。
クラウドはレイチェルが昔から大好きだった。
親戚でもあるレイチェルは度々王宮に上がる。
その度一緒に遊んでもらっていた。
クラウドはレイチェルに密かに恋していた。
そんなレイチェルがまさかの婚約の白紙化でフリーになり、即行で手を回して婚約に持ち込んだのだ。
「レイチェル、余は嬉しい!お前と婚約できるなんて!」
「王太子殿下…」
「クラウドと呼べ!プライベートな場では許されるだろう?」
「クラウド様、ありがとうございます」
「うん?」
レイチェルはクラウドにこれまでのことを話した。
元婚約者を諦めた悲しい話も、クラウドに選ばれてみんなから祝福された嬉しい話も。
「クラウド様と婚約できたから、私は自分の価値を低く見るのをやめられました。あのままだと、どんどん自分で自分の価値を下げていたでしょう。だから、ありがとうございます…クラウド様」
「うむ、うむ!そのような煩わしいことからレイチェルを救えてよかった!」
「ふふ、クラウド様ったら」
「む、余は本気だぞ?」
「ふふふふふ!」
なんだか、クラウドと話しているとレイチェルは心がふわふわした。
それが新たな恋だと気付くのには、しばらく時間がかかったという。
そしてそんなレイチェルが嬉しそうにクラウドの惚気話をするのを見て、またキャサリンはレイチェルを更に大好きになるのだった。
一方で、ムーンリット。
行く宛のない彼女は、娼館に拾われた。
幸か不幸か美少女であるムーンリットは、すぐに多くの客に気に入られて人気となった。
待遇もどんどん良くなり、最終的には娼館でも一番の娘となった。
でも、心に残るのは虚しさと…孤児院の先生たちの涙だけ。
ムーンリットは、毎日静かに涙を流す。
また一方で、レイモンド。
彼は散々助けた友達から見捨てられた。
本当に行く宛のない中、鉱山で働くことに決めた。
寮も用意されて、比較的待遇もいい、金払いもいい鉱山を選んだ。
鉱山で働くのは正直大変だったが、やり甲斐もあった。
生活は徐々に楽になり、平民としては十分な幸せも手に入れた。
ただ、思う。
あのまま、〝善良なフリ〟などせず身の丈にあった生活をしていればあの美しい元婚約者と幸せになれたのだろうか。
レイモンドは毎朝、必ず己の行いを後悔して泣いた。




