第9話 初めての出会い
蛍のような白い足跡に導かれ、辿り着いたのは、街の喧騒から隔絶された、海沿いの寂れた港の一角だった。
錆と埃にまみれた使われていない扉。潮風の音だけが響く静寂。
それが、あの獣人少女の逃げ込んだ場所だ。
逡巡はない。意を決して重い木製の扉を押し開くと、そこは人工的な通路ではなく、自然の岩盤をくり抜いたような、狭いトンネルに繋がっていた。
一歩踏み込むと、途端に空気が変わる。
湿り気を帯びた冷気が肌を刺し、直前まで感じていた地上の生きた熱気は消え失せた。数歩歩くだけで、腐敗した生ゴミのような、淀んだ臭いが鼻腔を襲う。
警戒しながら薄闇を進むと、五分と経たないうちに、仄暗い松明の光が見え、その先にもう一つの扉が現れた。
その扉を開いた瞬間、視界は一気に縦に広がった。
俺のいる場所は、断崖の縁。眼下、深い地下の空洞に、簡素な住居が密集した一つの町が、薄明かりの中でその全貌をさらしていた。
華やかだった地上の街とは、雲泥の差だ。
ここは光が入らない、命が押し込められたような、寂れた世界。
「……進もう。」
臆す心を隠すために自然と声に出していた。
三十メートルはある、土塊でできた長い階段を降りて町の中に入り込む。
やはり人の気配はない。
それに前を進むほど腐敗臭がだんだんと強くなっていく。
あたりを警戒しながら進むと、住居がない開けた空間に出た。
だがそこは住居がないだけで、乱雑に積み重なったゴミが山のように積み重なっていたのだ。
その中に足を踏み入ることは誰しもが躊躇するだろう穢れた地面。
これが臭いの原因か。
食べ物や木の破片、そして排泄物でさえ、分別もなくここに放り込まれているようだった。
言いようもない吐き気を覚え、口を覆い隠しながら視線をそらした時、純度の高い光が、たった一筋差し込んでいるのが見えた。
反射的に光の先を知ろうと、上空、洞窟の天井を見上げれば、一箇所だけ穴が空いているのが確認できる。
きっと、あの穴は地上に繋がっている。
地上の人間が、この地下世界にゴミを押し付けている……?
おいおい、ここは一体どこなんだ。
この島はどうなっているんだ。
そんな疑問が頭から離れない。
「──おい、坊主。どっから来た。」
背後から急に声が聞こえた。
振り返るとそこには自分の身長の二倍、三メートルをゆうに超える、毛むくじゃらの人型の生物が俺を睨みつけていた。
明らかに危険な存在、体は恐怖に怯え竦んで動かない。
でも思考し続けることはできる。
その化物、いや、彼も【獣人】であるのか。
熊のような巨大な体。赤い体毛。
耳は人間のそれではなく、上部に位置し、丸い。
切り傷の痕だらけの顔。さらに右眼のあたりには一際大きな傷が刻まれてるようで、治らないことを示すように、黒の眼帯で覆っている。
彼は片眼だけで俺を見つめている。
しかし、その眼力は両眼なんてなくても俺を冷たく貫くほどの威圧感を放っている。
まさに獣の瞳。
目を離した次の瞬間すぐに殺されるのではないかと錯覚してしまう。
恐怖に支配されそうになる俺の思考だったが、ここで怯えている場合ではないと自力で正常な思考に戻す。
彼を恐るべきよりも、奴隷を平気で許すこの町の存在を恐れるべきだ。
深く息を吸えば身体はすでに動かせるようになっていた。
「あの扉から入ってきたんです。……そして、この靴を、持ち主に返しにきました。」
まずはここへ来た目的をと、手に掴んだままの、あの少女の靴を見せた。
「……っ!おい、アンの靴じゃねえか。……坊主、てめえがアンを殴ったやつなんだな!?」
彼は自らの爪を剥き出しにして、その凶器を俺に向けた。
彼はひどく怒っているようだった。
獣人。彼とその少女の関係はわからない。だが、人間に対して並々ならない憎しみを抱えているような、そんな想いが伝わってきてしまった。
事情なんて知らない。
けど俺にその想いが痛いほど突き刺さる。
「待ってください。俺は彼女を助けようとして──」
「うるせえ!人間を信用できるか!」
洞窟全体が揺れるほどの音圧。
生涯で一度も対峙したことのない気迫。
彼は本気でその爪を振り下ろすつもりだ。
きっと俺の体ではそれは受け止めも避けもできないし、抵抗はもはや意味はないだろう、とどこか諦めてしまう自分がいた。
諦めてしまおうと無意識に思っていたのは、死に怯える自分自身の恐怖ではない。
俺に怯える、彼の“恐怖”を感じたから。
あぁ、この世界で死んだらどうなるんだろうか。
あっけなく目を瞑った時、その予測される痛みよりも先に、俺でも彼でもない、あるハスキーな大声が耳を貫いていた。
目を開ければ、爪と自分の目の間に何かが入り込んでいるのが見えた。
「──待って!お父さん!その人は助けてくれたの!」
間一髪の危機を救ったのは、ツンと生えた獣耳と、柔らかなしっぽを持つ、あの場所で出会った少女だったのだ。
「……!本当か、アン。」
本当にすんでのところで彼の爪は止まり、それがこの体に触れることはなかった。
「うん。さっきいったでしょ。殴られた私を助けてくれた人間がいたって。……たぶんお父さん興奮して聞こえてなかったと思うけど。」
「…………、いや、言ってたな。……すまん。」
爪をしまい、小さな声で謝りながら、気まずいかのようにその少女から目を逸らす彼は、先ほどよりもその巨躯の体が心なしか縮んで見えた。
「違うよ!わたしにじゃなくて、この人間に謝って!」
そういって俺を指差し、彼はその鋭い眼差しの警戒をといて、どこかいたたまれないようなそんな目で俺を見た。
「その、すまなかった。……人間が嫌いなんだ。だから坊主の話も聞かずに傷つけようとしちまった。」
彼は言いにくそうに、だがはっきりと、人間が嫌い、そういって俺と向き合っていた。
「……まだ坊主を信用したわけじゃないが、アンを、娘を助けてくれてありがとな。」
アン、この少女の名前だろう。その名前を呼んで撫でながら見つめる目は、とても優しい眼差しだった。
「えっと、わたしからもごめんなさい!……さっきは、こわくて逃げちゃったけど、あとから助けてくれたってわかったの。遅くなっちゃったけど、助けてくれてありがとう!」
彼女のお礼の言葉と一緒に映る、その眩しいくらいに明るい笑顔は、どこか悠那を思い出す。
「……どういたしまして。当然のことをしただけです。」
それより、俺はずっと聞きたいことがあったのだ。
「……気を悪くしたらすみません。なぜ、あなたはあんなにも嫌われていたんですか。どうしてあなたたちは、こんな、光も入らない地下に住んでいるんですか。」
俺のそんな愚鈍な質問に、彼らは目を丸くする。
「おいなぜって、……まて、坊主、お前本当にどっから来た?」
ゲームの世界の住人に現実から来たと言っていいものなのか、困りはするが、変に濁す理由もないしはっきり言うことにする。
「俺は、この世界の人間ではないんです。ある機械を通じて別の世界から来ました。信じられないかもしれないですけど、まだこの世界の常識も何も知らないんです」
その言葉に彼と彼女はお互いに目を合わせ、そして次はお互いが俺に目を合わせた。
二人は少しの沈黙ののちに同時に口を開く。
「おい坊主、もしかして『トラベラー』か!?」「お兄さん『トラベラー』さんなの!?」
もしかして『トラベラー』という単語はこの世界では当たり前のものなのか。
二人の目はまるで信じられないものを見たかのようで、顔を急に近づけられ、その迫力に押されて仰け反りながら答える。
「は、はい。一応そうだと思います。」
「……信じられないな。だが、なるほどな。道理で坊主が、この島のルールと、俺ら【獣人】の世界を知らないわけだ。」
彼らは、やはり迫害対象であるはずの【獣人】だったのか。
「……わかった。信じるぜその話。お前の俺たちを見るその目がなによりの証拠だ。」
「ありがとうございます。……言いにくかったら答えなくても構いません。この島のこと、いや、あなたたち自身のことを聞かせてもらえませんか。」
街で出会った人間たちは、老若男女問わず、そしていろんな特徴を持った種族がいた。
だが、その中には彼らのような特徴を持つ獣人はいなかった。
きっと言いにくい事もあるだろう。だから俺は傷を抉るような質問を無理に答えさせたくはない。
「……いいぜ。坊主に全部教えてやる。だが!その前にやることがあるな!」
突然の大声に驚く。何か要求されるのか。
その圧に呆けて口を開けっぱにしていた自分を見てだろうか、彼は大声で笑った。
「なぁに、とって食ったりしやしねえよ。自己紹介だ。俺はアルス!見ての通り【大熊】の獣人だ」
「わたしはアン!【白狐】の獣人だよ!お父さんみたいにおっきくなるまでまだまだ成長中!」
二人はそう俺に名前を明かしてくれた。
これだけで、彼らが根から悪人では断じてない、優しき人物だと俺は簡単に信じられる。
「……俺はユウキ。【人間】です。つい数時間前に初めてこの世界にやってきました。……えっと、二人と仲良くなりたいな。」
そういうと彼、アルスは目の前に手を差し出した。一瞬それに驚いたが、その手が俺に危害を加えるものではないのはすぐにわかった。
俺はその歓迎の意に応えて、アルスの、大きな手を握る。
その手は、ふかふかで、とても暖かった。
「おう!よろしくなユウキ!……それと、あとなんだ、そのかたい言い方もやめてくれ。むず痒いんだ。」
照れくさそうにそういう彼にもはや怯える要素はどこにもなかった。
「じゃあ、この喋り方にするよ。よろしくアルス、アン」
「おう!」「うん!」
彼らのその微笑みは、虐げられていると感じさせないほど美しく、慈愛に満ち溢れてた。
「っと、こんな汚いとこで話すのもなんだ。ちょっと場所を変えるか。ユウキに見せたいもんがある。」
妹キャラが大好きです。




