第8話 喧騒
視界が真っ白から鮮明な色を取り戻す。
まず耳に入ってきたのは、日本の都市とは似ても似つかない喧騒だった。潮の香りを含む涼やかな風が、長く伸びたばかりの白い髪を揺らす。
立っていたのは、太陽がさんさんと降り注ぐ大きな広場の上。
見上げれば、青い空。その下には、海と赤色の煉瓦造りの建物が広がる異国情緒あふれる風景だ。
そこにいる人々は、老若男女の人間はもちろん、悠那が言っていたような耳の長い種族【エルフ】や、背の低い【ドワーフ】のような姿も当たり前のように混ざり合っている。彼らが広場で商売をし、笑い合っている光景は、つい数分前まで真っ暗な部屋で燻っていた俺にとって、あまりにも眩しく、そして異質だった。
この五感に訴えかける全てが、現実と全く区別がつかない。
俺はこの命の躍動に満ちた世界に、確かに立っていた。
胸の中で、抑圧されていた感情が、堰を切ったように高揚していくのを感じた。
「さて、これから何をしようか。」
独り言は、潮風と街の喧騒に吸い込まれて消えた。
俺の目的は、悠那の痕跡を見つけること。だが、この世界の常識も、魔法や戦闘の知識もない。分かっているのは「ネルデラント群島国」にいることだけ。
ここは幸い安全な街のようだ。まずは動くべきだ。
足を動かし始めてから、一時間ほどが過ぎた。
広場に戻り、中央の大きな噴水の縁に腰を下ろす。歩き回ることで、脳裏には必要な情報が整理され始めていた。
まず、この島は《ラダヴィア》という名で、目の前のこの街は地下の鉱山資源で栄える貿易街「ネルソン」だという。情報源は、街の入り口に立っていた観光客用の看板だ。世界規模のゲームだというのに、それが日本語で書かれていることに、わずかな驚きを覚えたが、思考に合わせて自動翻訳されているのだろう。
ここで、ふと「そういえば」と、ステータスやログアウト画面の出現方法を頭の中で問いかけた瞬間だった。
視界に、先ほどのチュートリアルで見た青いホログラムが音もなく出現した。どうやら思考するだけで、メニューを開くことができるらしい。
ホログラムの【所持金:10,000G】という表示を指でタップすると、銅貨がチャリンと音を立てて手元に具現化された。相場は不明だが、商店で売られていた焼き鳥のようなものが300G。現実の通貨感覚と大差なさそうだ。
試しに、その焼き鳥を買い求め、歩きながら食べた。
濃い味付けは、現実でしばらく何も食べていなかった俺の舌に、強烈な生命感を呼び戻す。串の先まで余すことなく肉を食らい、その串を道沿いのゴミ箱に捨てた──そのあまりにも当たり前な、現実と寸分違わない一連の動作に、俺は鳥肌が立った。
消費アイテムが、ただのテクスチャで終わらず、ゴミとなって残る。店主のNPCにも火の玉のような感情と生きた返答がある。この世界は、プレイヤーと住人の区別がつかないほど、命というものが精巧に作られていたのだ。
メニューには〈剣術〉や〈鑑定〉、〈状況理解〉といった、おそらく【冒険者】由来のスキルも表示されていたが、今は街中で確認する暇はなく、外へ出た時に検証しようと考える。
このようにゲームを触って数分、感想を一言でまとめれば、「面白すぎる」。それに尽きた。
まさに悠那が語ってくれた『第二の世界』。異国での旅を一人でしているような夢のような気分だ。
だが、それ故に、悠那への手がかりを見つけるのは容易ではないと直感する。ネットも通信手段もない世界で、頼れるのはこの足と、地道な情報収集しかない。
再び歩き出したその時だった。
賑わう広場の隅から、怒号と大勢の笑い。
そして一つの微かな、しかし鋭い悲鳴。
確かにそれは聞こえたんだ、聞き間違いなんかではない。泣き叫ぶ弱者の声。
俺の胸に、またしても的中率の高い『嫌な予感』が走る。
今、この世界で、俺の目的を遮るものは見逃せない。早足で、その喧騒の中心へと向かった。
◇
人混みを押し分け、俺が目にした光景は、常識という名の膜を破る衝撃だった。
二十代らしき屈強な男が、ボロ布を纏った幼い子供を、まるで石でも蹴るかのように殴りつけている。
街の喧騒は、その暴力と、周囲の下卑た笑い声に飲み込まれていた。
ここは日本ではない。だが、世界中どこを探しても、こんな理不尽な虐待が公然と行われている光景など、あってはならない。
しかし、周りの人々は、まるで舞台の余興でも見ているかのように、ただ笑うか、冷めた目で通り過ぎる。誰も助けようとしないのだ。
なにか、おかしい。
男の続けざまの拳で、子供が深く被っていたフードが剥ぎ取られた。
露出した頭部に、俺は再び息を呑む。
常人なら耳があるべき側面には皮膚しかなく、代わりに細く、柔らかそうな毛に包まれた、ツンと立った獣の耳が頭の上についていた。そして服の下からは、ふさふさとした尻尾が覗いている。
正真正銘の【獣人】だが、今はその容姿がどうだとか、そんなことは関係ない。
少女は頬から血を流し、体が小刻みに震えている。怒号と笑い声の中で、彼女の微かな嗚咽だけが、この広場の真実を語っていた。
なぜ、誰も止めない? なぜ、彼らはこれが「日常」だと受け入れている?
この世界では当然なのかもしれない。だが、どんな理由があれ、それは絶対に間違っている。
悠那に顔向けができないだとか、そんなちっぽけな理由ではない。
俺の倫理が、心が、魂が「間違っている」と叫んでいるから、俺は行動を恐れることはなかった。
「すみません。彼女が何かしましたか。」
言葉を選び、平静を装って少女の前に立つ。屈強な男の体躯を見上げ、勝機がないことを理解しつつも、所持金の全てを差し出す覚悟を決めて助け出すことを選んだ。
すると男は舌打ちし、「チッ。兄ちゃんこいつの主人かよ。獣臭えこいつがぶつかってきたから殴っただけだ。奴隷ほっぽいてどっか行くからそうなる。」と吐き捨てる。
主人、奴隷? ぶつかったから殴った?
その論理の破綻と、この街の常識に、俺は一瞬で殺意にも似た苛立ちを覚える。しかし、事を荒立てるべきではない。
「そうでしたか。申し訳ございません。私の責任です。あとでキツく言っておきますので、ここは一度許していただけませんか?」
俺がそう心にも思っていない嘘を言って頭を下げると、男は興味を失ったように「そんな大事にしてんなら、獣人なんか自由にさせとくもんじゃねえぜ」と忠告を残し、周りの野次馬たちと共に去っていった。
理解する。彼らは、特別悪意を持った犯罪者ではない。おそらく普通に生き、普通に他人に優しさを与えられる人間だ。だが、その「普通の人間」たちが、この少女への暴力を当然のこととして受け入れていた。
一体何が、彼らをそうさせたのか。
俺はしゃがみ込み、血を滲ませる少女と目線を合わせた。
「ちゃんと助けられなくてごめんなさい。もう大丈夫です。……あなたが、どうして殴られていたのか、話してもらえませんか?」
だが、そんな言葉を投げかけた俺に対し、少女は警戒心を露わにする。
「……っ!」
彼女は顔色を変えて、すぐさま立ち上がると、人間では到達不可能な速度で人混みの中へ消えていってしまった。
動き出そうとした足は、あまりにも判断が遅すぎて行き先を見失った
心のモヤモヤが、鉛のように腹の底に溜まる。
奴隷。
非人道的で、とうの昔に現実では禁止されたはずの制度が、この「第二の世界」では当然のように存在している。
その出来事を経て、改めて広場を見渡すと、あんなにも眩しかった人々の笑顔が、まるで薄暗い影絵のように不気味に見えた。明るい生活の裏に、真っ黒な闇が街全体を支配しているように感じられた。
一刻も早く、この街から抜け出したい。
そう動き出そうとした瞬間、少女が逃げた道の真ん中に、ボロボロに汚れた小さな靴が転がっていることに気づいた。
それを手に取った途端、視界に青いホログラムが出現する。
『〈状況理解〉を使い、足跡の記録をマークしますか? YES/NO』
選択に迷いはなかった。
「YES」だ。
街の床に、幼い足跡が、蛍のような白い光を放ちながらぽつぽつと浮かび上がった。
平和な街の真実を知るために。
そして、この世界の理不尽に立ち向かうために。
俺は、その光の筋を辿って歩き始めた。
綺麗な異世界は当たり前ではない。




