第3話 治療の選択
高校一年の冬、雪が降っていた。
国語教師が黒板を軽快に叩くその音を背景に、学校の窓際の席でずっとそれを見ていた。
瞬間、俺のスマホが鳴った。
表示された宛先は10桁の番号。
俺はどうしようもなく嫌な予感がした。
間違いない。これは見覚えがある。
これは、母が通っていた病院の電話番号だ。
色々な不安が頭の中で渦巻きながら、俺はなにも起こらないでくれと、同級生の戸惑いと、先生の制止すらも振り切って教室を飛び出した。
『悠生くんかい!?』
電話を受け取った開口一番のその声はとても聞き覚えがあって、それが誠さんだと理解するのに数秒もかからなかった。
「は、はい。病院の電話からどうしたんですか」
誠さん個人との電話番号は別で持っていて、連絡することはよくあったが、病院の電話番号からかけられる経験は母が生きていた時のみ。
『急にごめん。単刀直入に言う。悠那ちゃんが、学校で倒れた。救急車で運ばれて今病院で検査を受けている。意識はまだない』
「………………え?」
俺は頭が真っ白になった。
降る雪のように、体が冷たくなっていく感覚を感じて、全身が動かない。
悠那が倒れた?意識がない?
昨日も今日も、変わらず元気だったのに。
ちょっと待ってくれよ。
俺の頭に、最悪の想像がよぎる。
母の死、父の死、そして──。
『大丈夫。絶対に死なせはしない』
電話先の声は、そう力強く言った。
俺は誠さんのその言葉でようやく全身の感覚を取り戻すことができた。
『悠那ちゃんの体は検査中だが、まだ命に別状はない。安心して欲しい』
ひとまずの安堵。息を吐く。
『それで悠生くん、今は授業中だったかな?急の連絡本当にすまない。学校が終わってからでもいい。病院に来てくれないか?君が、1番悠那ちゃんに会うべきだと思うんだ』
行かない理由なんてあるはずもない。
「いや、今すぐに行きます」
迷ってる時間はない。
廊下に飛び出した俺を追って声をかけに来た国語教師に事情を説明し、許可を得て俺は教室に戻って自分のカバンを乱暴に手に取り、クラスの誰の声にも反応せず再び飛び出して、まだ授業中の教室が並ぶ廊下をただひたすらに駆ける。
外を出て、朝より強くなっている雪が、まるで霧のように先の景色を覆い隠しているのを見て、俺はどうしようもなく嫌な予感がした。
傘などいらない。
体に白い塊が降り積もり、吐く息は可視化されて見えていた。
車など誰も通らないこの道に、赤く染まる信号を無視してただ足を動かす。
余計なことなんて考えられるはずもなくて、ただ悠那の無事だけを祈りながら道を逆走して。
駅に着いた頃には、息は絶え絶え、体は熱く、そして心は冷たかった。
◇
「悠那!」
病院に着いた頃にはもう五時を過ぎていた。
受付の人に教えてもらった悠那がいる部屋の前まで早歩きで駆けつけ、そして彼女の名前を呼びながら重たい扉を開けた。
目の前には、一台の大きな病床に寝ている一人の女の子と、その傍らに白衣を着た男とナースがいた。
「……!悠生くん!来てくれてありがとう。久しぶりだね」
誠さんは俺を見ると微笑みながら挨拶をした。
「お久しぶりです。それで、悠那は」
俺はそれどころではなく、病床に眠る女の子、悠那の無事を見ようとその前まで駆け寄った。
扉を開けてからはよく見えなかったが、顔をよく見ると、悠那の目は開いていた。
それから俺を見て、ふふっと笑いをこぼして、いつものように明るい声で声を発した。
「髪がすごい真っ白だよ、お兄ちゃん」
その声で、ようやく俺は、猛吹雪となった外を一心不乱に駆けた結果の自分の姿を自覚することができた。
「……そんなに心配してくれたんだね。ごめんねお兄ちゃん。こんな妹で」
その表情は少し翳っていた。
「……そんなことないよ。悠那が生きていてくれて本当によかった」
その言葉に尽きる。
生きていてよかった。
この扉を開けたら、また俺は、お母さんみたいに、大切な誰かが死んでいるのを見てしまうんじゃないかって。
お父さんみたいに何も予知できず、何も言えずに死んでいくんじゃないかって。
俺は病床に横たわっていて、しかし生きている悠那を見て肩の荷が少し降りた。
そう、全部が降りたわけじゃない。
「それで誠さん。悠那が、どうして急に倒れてしまったんですか」
悠那に何かあって、この病院にいるのは確かなのだ。
「……1時間前、検査で症状がわかった。悠那ちゃんにはさっき話した。心して聞いて欲しい」
重たい声だった。
「彼女の症状は、心筋症。それも君たちの母親が、命花さんが罹患した重度型の、──不治の病だ」
理解が追いつかなかった。
しかしそれと同時に、母がかかったその病の記憶を必死に呼び起こす。
心筋症。心臓に異常がある病気。
母がかかったのは心臓だけではなく、脳と繋がりがある、未知の心筋症の一種。心臓移植、考えたことはあったが、それは不可能だと言われ、治療することは当時の技術では存在しなかった。
それが、悠那にも?
母の死から三年、これを治せる方法はあるのか?
悠那も、死んでしまうのか?
いろんな思いがごちゃごちゃになって整理ができない。
「大丈夫だよお兄ちゃん。安心して」
俺の震える手を掴んだのは、悠那だった。
悠那の顔はとっても安らかで、その眼は俺をじっと、まっすぐに見つめている。
震える手と早くなった鼓動が次第に収まり、悠那の体温が冷たい俺の体にじんわりと伝ってくる。
「私は大丈夫だから。きっと、またあの家で一緒に過ごせる日が来るよ」
大丈夫であるはずがない、揺れている、その不安な声色で、それでも大丈夫だと悠那は言った。
俺は泣き出してしまいそうだった。
俺が不安になってどうする、悠那がそう言うんだ、信じてやれなくてどうする。
悠那が握ってくれたこの手を、俺は何も言わずただ握り返した。
すると誠さんが、ふっ、と息を吐いて俺たちを交互に見つめる。
「二人とも。……まだこの病気に治療法はない」
続けてこう言った。
「だが、命を引き延ばす方法はある。しかしその方法はまだ公表もされてない新しい技術を用いた治療で、国内屈指の実績を持つこの病院でのみ使用が許可されている。さらに前例はない。……それでも一度、聞いてみてはくれないか?」
その真剣な言葉を聞いて俺と悠那は顔を見合わせ、ひとつ互いにうなずいた。
答えは迷わなかった。
「教えてください、誠さん。それはどんなものなんですか」
うん、と了承し、誠さんは話し始めた。
◇
フルダイブ型のVR。
完全感覚の仮想世界。
それがその治療のキーワード。
突如切り出されたその言葉に、頭の理解が完全に追いつくのは、しばらくたって情報を咀嚼し切ったあとだった。
VRでの治療。だがそれはただのVRではない。彼はこう言った。
人間の意識自体を現実世界から仮想世界に飛ばし、その世界で五感を自由に感じ取れる。
そんなVRが存在すると言ったんだ。
テレビで聞き齧ったことしかないが、今の技術はそれに近いものは再現できると知っている。がしかし、あくまで浪漫の延長線上で自分の考えていることと完全に一致した行動ができるわけではなく、五感を完璧に再現することはできていない。
また、それができたところでどうやって治療と関係が生まれるのか。
誠さんが特筆したのは、そのVR中では現実の時間より三倍もの早さで時が動くと言うこと。
そんなことは可能なのか。可能だとすればどうなるのか。
誠さんは「脳と密接に関わりがある悠那の症状ならば、脳に信号を与え仮想世界にダイブするVR技術を使えば、余命を引き延ばせるかもしれない。その間に治療法の開拓が進むかもしれない。
今すぐ決めるのは酷かもしれない。君たちの保護者にも言うつもりだ。でも君たちにも決定権はある。だからよく考えて決めてくれないか」
そのようなことを説明してくれた。
とてもではないが、信じ難い。
完璧な仮想世界、その中では三倍早く時間が過ぎる、2035年でそれは実現できるのか。
なぜそれがこの病院のみで、世間一般に公表されることはないのか。
誠さんに聞いてみても「私もわからない。だが半年前、ある企業がこの技術の提供を申し出てくれた」としか答えず、悠那の命を任せるにはあまりにも不確定で不安なことが多かった。
だが誠さんを疑うわけではなかったし、可能性はゼロとは限らない。悠那が助かるかもしれない。
俺はそんな望みを持って、悠那に聞いた。
「悠那はどうしたい?」
悠那に考える様子はなかった。しかし、誰よりも覚悟は決まっていた。
「私、それを受けてみたい。まだ生きていたい、もう一度あの家に帰りたい!」
ようやくVRモノらしくなった……。




