第2話 唯一の平穏
父が死んだ。
原因は過労だったらしい。
2034年、春の出来事だった。
父は、母が死ぬ前からずっと忙しい人だった。母の死んだ日も仕事でずっと遠くに行っていてすぐに来ることができなかった。
でも、父は俺たちを育児放棄してるわけでも、嫌いに思ってるわけではないと断言できる。誰かの記念日には必ず帰ってきたし、母の死んだ日も、飛行機を乗り継いでなんとかその日中に来ることができたそうだ。
優しくて家族思いの良き親だった。
でも、もういない。
その訃報が分かったのは、俺が志望していた高校に受かり、春休み、悠那とともに夕飯の買い出しに行っていた頃だった。
電話でそれを聞いた時、頭が真っ白になったことを覚えている。
死んだのは海外でのことだった。死んだ、ということも、原因が過労だったことも、仕事の同僚で、うちにもよく来ていた父の友人が教えてくれた。
父が死んだことの証は、遺品として、俺たちの手元に来た、父の愛用の時計と手帳と、そしてペンダントのみ。
仕事で倒れたあと、向こうの病院に運ばれ、そしてそのまま亡くなったらしい。
遺体は日本に運ばれ、そしてこのあたりの墓に埋められる予定だが、なぜか俺たち2人はその遺体を見ることはできないのだとか。
謎は多々あるが、そんなものはもはやどうでも良かった。
もう帰ってこないのだ。
我が家を見回すと、父の残したものでたくさんだ。よくわからない国で買ったタペストリーや変な木の置物、そして俺たちの記念日のたびに増える、マグカップやコースターなどのおしゃれだったり変わってたりする日用品。
父がいない日も、いつもそこに父がいるようだった。
母と悠那3人で父の帰りを待つ日があった。
いまやもう、この家に父と母が帰ってくることはない。
在りし日は帰ってこない。
そう思うと、いままでの「平穏」が、気付かぬうちに歪んでいて、もう取り戻せないところまで壊れてしまったようで、とても苦しい気持ちになる。
俺に残された「平穏」は、妹、悠那ただ1人なんだ。
◇
ある夏の日の夜、すでにご飯を食べ終わり、皿やカトラリーを洗っている時だった。
「ねえ、お兄ちゃん。……いつもありがとね!」
突然の呼びかけに、俺は驚いて声の主である悠那の方を向いた。
「……どうしたの?ありがとう悠那。でも褒めてもお小遣いなんて出ないよ?」
少し冗談めかして笑いながらそう言い、一度皿洗いを中断してタオルで手を拭く。
悠那は思っていることがあるのに、気を遣ってかなかなか言い出せない時がある。きっと今日はなにか俺に相談したいことがあるのだろう。
「もう!お小遣いのためにいったわけじゃないからね!……ほんとにいつもありがとう、ってだけ」
最後の言葉に近づくにつれ、声が小さくなり、そして照れくさそうに顔を逸らす。
「……ふふっ、そっか。どういたしまして悠那。お兄ちゃんちょっと皿洗い飽きてきちゃったな。一緒にテレビでも見ようよ」
「……うん。……飽きてきちゃったなら仕方ない!さっき面白い番組やってたよ!」
そう言って俺はテレビの前のソファの奥側のスペースに座った。
なんだか悠那はもじもじとソファの横で立っていたため、俺は「悠那」と一言呼び横の空いてる場所を叩いた。それに「うん」と答えて座り、俺たちはしばらくバラエティ番組を見て笑っていた。
「ね。お兄ちゃんさ。最近無理してない?」
バラエティ番組の小休止として、テレビのCMが流れ始めたころ、いつもより声のトーンを落としてそう悠那は言った。
悠那の方をみると、彼女はいつの間にか体育座りでソファの上に座っていて、膝で顔を隠していた。
「……無理なんてしてないよ。でも最近ご飯食べる時間遅くなっちゃったね、ごめん」
「別に、そんなこと気にしてない。またお兄ちゃんとご飯食べれるようになっただけで嬉しい」
悠那はどこか不貞腐れてそう答える。
無理、か。
高校に入り、俺はすぐにバイトを始めた。
母と父が亡くなり、代わりの子供の保護者としての役目は父の祖父と祖母が引き受けてくれることになった。
優しい二人は俺たち兄妹のことを可哀想に思い、都心からかなり遠いはずなのに、すぐに俺たちが住んでいるこの街まで来て抱きしめてくれて、「私たちの家に住むことにしないか?」と提案してくれた。
だが俺たちには、父が仕事で稼いだたくさんの金がすべて遺産として受け継がれていて今すぐ餓死するわけでもなかったし、ローンが残っていない一軒家もある。
そしてなにより、母と父と悠那と俺が四人で住んでいたことを、事実として刻む、この家を手放したくなかったのだ。
祖父と祖母は俺のそんなわがままを聞いてくれて、週一で電話をして元気な顔を見せることを条件で、高校一年生と中学二年生の二人暮らしを認めてもらえることになったのだ。
このように経済的に余裕はまだある。
けれど俺はそれに甘えていてはダメだと思った。
将来父が残していったものに頼って生きていてはダメだ。働けるようになったのなら俺が自分の力で悠那を守らなければ、と思って多くのバイトを始めた。
その結果、悠那と一緒にご飯を食べる時間も無くなって、今日より少し前の春の日、「寂しいよ」と悠那に泣かれてしまって、いまは少し仕事の量は落ち着かせている。
その代わり、俺は勉強を始めた。
母の遺したメッセージには、「なりたいようになれ」、そう書かれていて、あのあと俺は自分のなりたいものについて改めて考えた。
答えは一つだった。俺の夢は「母の命を救えることができたような医者になる」ことでそのためにはいい大学に入るのが第一歩。
流石に悠那が心配しないような時間に帰り、家の家事も全部やっていたのだが、俺のそれが無理してるように見えしまったのだろうか。
「……ごめん。悠那、これ以上心配かけないようにする。もっと悠那と一緒の時間をいっぱい過ごせるように頑張るよ」
明日からはもっと早起きをしてみよう。バイトもすこし減らしてみるようにお願いしようかな。そう考えていると悠那は辛そうな顔をして言った。
「ちがうの。そういうことじゃなくて……。それはお兄ちゃんが無理してることになっちゃう。…………お兄ちゃん」
テレビCMはとっくに終わり、バラエティ番組特有の笑い声を、悠那は一つのボタンで消して、俺の手を握る。
その手は暖かった。
「私、お兄ちゃんに無理はさせたくないよ」
悠那は俺の目をじっと見つめる。
「お父さんが亡くなってから、お兄ちゃんはいつも苦しそう」
俺はそのまっすぐな、綺麗な瞳が眩しくて。
「お兄ちゃんが私のために毎日頑張ってくれてることも知ってる」
目を逸らして、机のテレビのリモコンを、ただ見ることしかできなくて。
「私のくだらない学校の話をいつも楽しそうに聞いてくれてほんとに嬉しい」
悠那の手のひらの熱が、俺の心にも伝わってきて。
「けど、お兄ちゃんは、私にそういう話をしてくれない。最近、勉強も頑張ってるのも知ってる。勉強だけじゃなくて、私に心配かけないようにって、毎日早起きしてるし、見えない家の家事だってやってくれてるのも知ってる」
そして、悠那は俺の手を力強く握りしめる。
「お兄ちゃんにそれは私にやらせてって言っても、悠那はいいんだよ、俺がやるから。って全部一人で抱えこんじゃって」
彼女の痛いぐらいまっすぐな言葉しか聞こえない。
「そのくらい任せてよって思ってても、でもそれはお兄ちゃんの優しさで、私のためにやってくれてるって痛いほどわかってて」
悠那の声がどんどん震えていっているのに気づいてしまった。
俺は何をやっているんだ、と、顔を逸らすなんてことはもうやめて、妹と芯から向き合うことを決める。
彼女の顔は赤く染まっていて、涙がポタポタと溢れ出していた。
「……悠那」
俺の瞳が動かないはずがなかった。
心がとても痛いんだ。
「ねぇお兄ちゃん。……お兄ちゃん!もっと私に頼ってよ!お兄ちゃんにとっての家族は、私一人だけど、私にとっての家族も、お兄ちゃん一人だけなんだよ……!」
悠那の手が俺から離れる。
そして次の瞬間、目の前の悠那は見えなくなって、俺の体は柔らかいもので包まれた。
何よりも、安心できる、暖かさ。
「二人で生きていこう……!お互いに助け合って、私は、お兄ちゃんが私にしてくれたように、今度は私がお兄ちゃんの心の拠り所になりたい……!」
耳元で囁かれたその声によって、俺はとうとう涙を抑えることができなくなって、ただ、この両腕で悠那を強く優しく抱きしめる。
心の拠り所。
俺にとっての心の拠り所は、今も昔も、全部悠那だ。
母が亡くなった時も、父が亡くなったと知らされた時も。
俺の隣には悠那がいて。
どうしようもなく悲しくなった時に、悠那の笑顔が俺の心を助けてくれて。
悠那にとっては、俺が悠那に助けられてるとそう思ってないように感じたんだろうか。
思えば俺は悠那に家以外での自分の話をしたり、弱みを見せようとしたことがない。
父も母もいなくなって、俺以上に辛いのは年下で、妹である悠那であるはずだから、この子だけは守っていこうと、力を入れすぎてしまっていたみたいだ。
「……ぁぁ。あぁ。二人で生きていこう。……最近ちょっと疲れてきちゃったんだ。悠那に、悠那に頼ってもいいか?」
俺も涙が止まらなかった。
その言葉に満足したのか、悠那は泣き顔だけれど、それでも満面の笑みでこう言った。
「……もう、言うのが遅いよお兄ちゃん!私たちは二人で一つだよ!心配させた分、一緒に過ごしてくれないと、許してあげないんだから!」
15話まで一気に投稿します。
そこから毎日更新で19:00に投稿していきます。
ストックは115話あるので、半年ぐらいは持ちますたぶん。
あ、あとVRモノです。これ




