第14話 現実
体が重い。
痛みではない。これは、空腹や体を動かさなかったことによる、衰弱だ。
目を開ける。
黒いフィルターがかけられていて、俺の家の玄関が横向きに映し出されているのが見える。
自分の身に何が起こっているのか、すぐに把握することができなかった。
ただ、何も怪我していないはずのクビと腹に何か違和感があって。それから、あの時確実に実在していた、夢を思い出す。
アンが、死んだ。
あの世界に行って、きっと三時間も経っていない。
あれはゲームだ。起きたら忘れる夢なんだ。
けど俺が感じた、痛みは、後悔は、絶望は、本物だった。
忘れられない記憶を一つずつ思い出して、ようやく、今の俺がVRヘルメットを装着していて、それを開封した玄関で倒れているのが理解できた。
呼吸が荒くなっていっているのがわかって、この力なき腕でヘルメットを外した。
バイザーに映る自分の顔は、酷く、沈んでいた。泣きそうだ。惨めだ。死んでいるみたいだ。
ゲーム、ゲームだ。あの世界はただのゲームなんだ。
そう思えるわけなんてないのに、俺は自分に言い聞かせ続ける。
なんでかもわからなかった。
だから、しばらくして、俺はその自己暗示が無意味なことを思い知って、それをやめた。
あの光景が作り物だったところで、俺は、誰かのために動け出せなかったことは確かだ。
誰も助けられない。意思も弱い。誰のために生きているかもわからない。
そう、無力な存在。
それだけは、現実も、ゲームも何も変わらない。
何も考えたくない。
体は生命の危機を告げている。
あらゆる器官が不調を訴えている。
だが俺はそれを無視して倒れ眠り続ける。
このまま、死んでしまえたら、いいのにな。
なんて思いながら。
◇
コンコン、そう強めに何かを叩くような音が聞こえた。
驚くことに使えるエネルギーも少なかった。正常な考えもできなかった。誰によって音が発生しているのか、ましてや、それがドアを叩く音ということさえ理解することができなかった。
ただ、横になったまま、何も行動しない。
そのノック音は鳴り止まず、さらに大きくなる。
そして、ついに、ノブを捻ってドアを開ける音が聞こえた。
ゆっくりと、扉が開き、夕方の橙色の光が差し込んでくる。
「………だ、れ」
声も上手く喋り出せず、ただ目だけを開けて入ってくる人物を見続ける。
「……え?あいてる?失礼、お邪魔します。悠生くんは……、ゆ、悠生くん!?」
扉を開けたのは、見知った顔、誠さんだった。
彼は倒れている俺を見て酷く焦った様子だった。手に持つ荷物を床に落として、すぐに俺の元へと駆け寄って、心臓の音と呼吸を確認する。
無理もない。俺は死にかけで、彼は医者だ。いや、彼が医者でなくとも誰だって人の命を心配する。
彼は俺を助けようとしていたから、俺は「死にたいんです、だからやめてください」なんて言えるわけがなく、ただなされるがまま、体を預ける。
誰か、安心できる人がいた。
空腹も酷いはずなのに、安全を確保できた俺の体は生命を維持するために、脳を眠らせようとする。
それに抵抗することもできずに、俺はあっけなく意識が薄れ落ちていった。
◇
美味しそうな匂いがした。
重い瞼を上げた。嗅覚から起きたのは初めてだ。必要のない機能として排除されていた、ぐー、というおなかの音が、その匂いによって引き起こされる。
優しい匂い。
誰かが料理をしていて、俺がそれを待ちながら寝てしまっていた、そんな過去を思い出す。あれは、何年前のことだっけ。
なんで、俺は今この匂いを嗅いでいるんだっけ。
「……!起きたかい!?悠生くん!」
家族と同じくらい大好きな人の声だ。
彼は心配そうな、けれど少し安心したような顔で俺の顔を覗き込んだ。
記憶が混濁していて、なぜ彼が、誠さんがここにいるのか、俺は今どこで横になっているのか、まだ何も把握できていない。
……あぁそうか、あの扉を開けたのは誠さんで、倒れていた俺をこのリビングのソファまで運んできてくれたのか。
そうやってどこかぼーっとしている頭の中で、ゆっくりと簡単なことを、思い出すかのように一つずつ考える。
いろんな想いがあった。
死にたいと思って俺はあのまま自分自身を放っていた。それをただ助けてくれた誠さんに、俺は許されざることをしてしまったという罪悪感が生まれた。だが、それと同時に俺は生きていていいものかと、悠那とアンへまた別の罪悪感が生まれた。
俺は、一体どうするべきなんだ。
「……はい、水だよ。それに、勝手だけどお粥も作ってみた。落ち着いたら食べるといいよ。」
その言葉で、喉がすっかり乾いていて、声を絞り出すことさえできなかったその理由に気が付いた。
優しく手渡されたそれを、俺が飲むのを見て、目と目を合わしながら、穏やかな笑みと共に彼は言った。
「僕は、君が、悠那ちゃんがこの世を去ってからの三日間、何を想って過ごしていたかは聞かない。でも、君が全てを嫌になって、一人ではそれを抱えきれなくなってしまったら僕はいつでも君の力になる。頼りないかもしれないけれど、僕は悠生くんを……家族みたいに思っているよ」
その言葉は、俺には両手から溢れてしまうほど身の丈に合っていない、大きすぎるものに思えてしまった。
家族。こんな情けない俺にはそれを持つ資格がないんだ。
でもたまらなく嬉しかった。
そんな矛盾な気持ちがずっと心の中で渦巻いて。
もう自分の本当の気持ちさえもわからないよ。
しばらく、無言の時間が続いた。
その沈黙は気まずいものではなかった。
俺にとっては、どこか安心するものだった。
水を飲んで落ち着いて、俺は美味しそうな匂いの漂う食卓に座った。
目の前に湯気の放つ黄金色のお椀があった。
木製の洒落たスプーン、かつて父が外国のお土産として買ってきたもの、がその上に乗っていた。
俺は少量のそれを掬った。
いい味だ。お米にお湯をひたしているだけ。だがそこには確かに別の隠し味があった。
体だけじゃない。心まで温かい気持ちになるんだ。
その煙が目に染みたのかな。俺の目から、涙が一つ頬を伝って、それを皮切りに、次々と溢れ出してきて、自分の意思じゃ止められなくなってしまった。
どうして、俺は泣いているんだろう。
どうして、俺はこんなにも悲しいと想っているんだろう、嬉しいと想っているんだろう。
「大丈夫、大丈夫。僕が必ず君のそばにいる」
今はただ、何も考えず、この味だけを噛み締めていたい。
◇
「少し、僕の話をしようか」
作ってくれたお粥を食べ終わり、その空っぽの食器を自分の代わりに運んでくれて、それからもう一度食卓に戻ってきて向かいに座った誠さんが、そう話を切り出した。
その顔は穏やかなように見えたが、どこか懐かしむようなそんな哀愁も感じた。
「僕は、自殺しようとしたことがある」
はじめ、その言葉が彼から出てきたことに、俺は信じられなかった。その内容もだが、それはいま俺がするべきだと思っていることを言い当てられていたようだったから。
「つい最近まで、ずっとそれが僕の頭を埋め尽くしていた。……僕が死にたいと思った理由は複雑だけど、単純だった。『人を助けられなかったから』。僕が医者になった理由もそれなんだ」
誠さんは、俺の瞳をまっすぐに見つめ返していた。彼の発する言葉が胸の中にすっと優しく入り込んでくる。
「僕の、かつての罪を償うために正しいことをしよう。医者ならば人を助けられる、そう思った。でも、僕は不治の病に苦しみ続ける何の罪もない無垢な患者を助けることができなかった、僕が誰かを殺したんだ。ずっと、それを思ってた。だから、自殺という道を選ぼうとした」
それは、俺があの世界で感じた想いと同じことのように思えた。
そしてきっと、誠さんが助けられなかった患者というのは、母と、悠那のこと。
「でも、思い出したんだ。僕が死のうとしていた理由を。……『人を助けられなかったから』。僕の罪は人を助け続けなければ、たとえ自殺してこの世からいなくなったとしても離れることはない。そう、単純なんだ。助けられなかった分まで僕は生きて、誰かを救うこと。それが、僕が行える唯一の贖罪だって気づいた」
誰かの命を背負って、生きる。
それは悲しみから目を背けて逃げることじゃない。彼は、それを贖罪と称した。
「僕は、これからも生き続ける。そして、僕じゃない誰かを幸せにしたい。そう決めたんだ。………こんなことを言っちゃったけど、僕は誰かの苦しみを全てわかってあげることもできないし、助けられないこともあるのは、知っている」
彼の瞳はまっすぐだったけれど、水のベールに包まれて揺らいでいるように見えた。
そして、彼は、俺の手を握る。
「これはただのエゴ。本当に勝手なこと。……悠生くん。──僕は君に生きていて欲しい。」
彼は本当に俺のこの深く刻まれた絶望をすべて見透かしていたのだろうか。
誰かに話したかった。悩みを分かち合いたかった。ひとりじゃないんだって言われたかった。
自殺する者を止めることは本人以外に誰もできない。それは相手のことを思った言葉じゃない。ただの自分が気持ちよくなりたいだけの綺麗事だって、きっとこの世に飽和するほど言われている。
でも、彼の、その言葉は違う。
俺の人生に彼は、家族と同じぐらいに大切で、深く関わっている。
だからわかるんだ。誠さんは愚直なほど誰よりも誠実な人間で、人を悲しませるための、そんな嘘をつかないってことが。
「思い過ごしならそれでいいんだ。でも、悠生くんにとって悠那ちゃんがなによりも大切な存在だったのは知っている。命を諦めるまではいかなくても、もしかしたら自分の人生に生きている意味を見いだせなくなっているかもしれない。だから、こんな僕でも、君の、大切な君の助けになればってこの家にきたんだ。……僕は君のそばにいる。だからいつでも頼っていいんだよ。」
あぁ、この人は本当に、優しい人だ。
彼は食卓の椅子から立ち上がって、座ったままの俺の目の高さに合わせるようにしゃがみこんで、穏やかで何よりも優しいその笑顔で見つめている。
ぐちゃぐちゃに乱雑したこの心を、誰かにみていて欲しかったんだ。
何も考えていなかった。
ただ体が動くように、親に慰められる子供のように、無意識に俺は彼の腕に抱きついていた。
温かい。
涙が止まらなかった。
まだ頭の整理もついていない。
けど誰かに生きていてほしい、なんて言われることがたまらなく嬉しく感じたんだ。
誠さんは優しく俺の頭を撫でながらその抱擁を許していた。
この溢れ出る嗚咽を聞いていたのは、いまここには彼だけしかいない。
◇
「……ごめんなさい。なんか、恥ずかしいですね。もう大人なのに、こんなに泣いちゃって」
少し落ち着いてから、自分がしていることの幼さに気づき俺はちょっとだけ誤魔化すようにそう言ってその抱擁を解きながらそう言った。
「ううん、全く恥ずかしいことじゃないよ。……それに子供でも、大人でも、泣いていい時がきっとあると思うんだ。痛みに耐えられて誇らしいことなんて何一つあっていいわけがないんだから」
彼は、涙が止まり、この赤い目も治まりはじめている俺の顔を見てから、持ってきたカバンの中からあるものを取り出し始めた。
「悠生くんに渡すものがあるんだ」
彼は薄い、一枚の手紙と、一つの小さな長方形を見せる。
「これは、悠那ちゃんが、悠生くんへ遺した手紙と、たくさんのデータが入ったメモリ。」
手紙。母のあの言葉が俺の脳裏に蘇る。
俺はそれを両手で受け取って、大事に、大事に見つめる。
悠那の、遺したもの。
「もっと早く渡したかったけど、ごめんね、手紙たちが僕のオフィスの机にあったことは昨日知ったんだ。……これは、君が一人で見た方がいいと思う。僕は、今日はここで帰ることにするよ。でもね、これだけは知っておいて欲しい。君は一人じゃない。困った時はいつでも相談してね」
彼はそう言いながら帰りの支度を済ませている。きっとこの後空っぽの家を見てまた寂しくなってしまうだろうけど、俺は彼を信じているからこそ、引き止めることはしなかった。
「君がどう生きるかは、君の判断と、悠那ちゃんに任せる。……明日も、この家に来るよ。それじゃあ、またね、悠生くん!」
彼は最後まで笑顔だった。
俺もつられて笑顔になりながら手を振って、彼が完全に家を出て、扉を閉めるまでそれをやめることはしなかった。
誠さんの言葉が、頭の中でずっと反芻される。すべてが胸に響いた分、この言葉の受け止め方を探している。
俺がどう生きるか、か。
まだ、よくわかっていない。
でも、俺はいまここで死ぬべきではないってことは、生きたいっていう感情は、どうしようもなく胸に残ってるんだ。
「悠那。」
俺は手に握る、手紙と、メモリを見る。
悠那は、俺をどう思っていたのかな。
悠那は、幸せな人生だったのかな。
彼女が遺したこの想いの塊を、俺はすべて見なければならないんだ。
大きく一呼吸をして落ち着いた俺は、まず、手紙を選んで、それを開く。
文字が書かれていた。
小さな一枚の紙を埋め尽くすかのようにびっしりと、ではない。中心に大きく文字が書かれているだけだった。
でも、それで十分だったんだ。
『私のお兄ちゃんへ
いろいろ言いたいことがありすぎて、地球上の全ての紙を使ってもきっと伝えきれないや。だから私が持ってる全ての想いを一つにして伝えるね。
大好きだよ
お兄ちゃんの妹より』
───あぁ。
あぁ俺はいつまで泣いたら気が済むのかな。
伝わったよ。全部伝わった。
だって俺は悠那のお兄ちゃんだからな。
俺もずっと伝えたかったんだ。
悠那が生まれて、母の腕に抱かれているのをみたその時から。無邪気に笑い、頭を撫でられる君を。時に優しさからぶつかりあって、仲直りした時の嬉しそうな君を。病床に横たわってヘルメットの中で旅をし続ける君を。
もうこの世界にはいないんだよな。でも、絶対に伝わるだろ。遠く離れた悠那の言葉が、俺の心に届いているんだから。
「俺も、大好きだよ。悠那。」
愛情はたった一つの言葉で伝わる。




