第1話 始まり
ずっと、自分のために文字を書き続けていました。
それが100万文字を超えたので、ついに誰かに見せたいと思います。
平坦とは言えない彼の道を、どうか楽しんで。
母が死んだ。
固く、重たい扉を横に押すと、病床の上で、長い髪を束ねた痩せこけた女性が幸せそうな顔をして眠っていた。
今日だったのか。
俺は扉を開けてから一歩も動き出すことができずに、その姿を見て、ただ呆然と立ち尽くす。
いつかくる別れを知っていたのに、いや知っていたからこそ、何も考えることができなくて、それを見つめるこの瞳から涙の一滴すらも出てくれやしなかった。
段々と早くなっていく呼吸。
それしか聞こえないような孤独な静寂を最初に破ってくれたのは、この左手を握る小さな女の子だった。
「お………お母さん……?」
その小さな手は俺の手から力無く離れていき、そして病床に眠る女性の手を握るために、ゆっくりと近づく。
そして、少女がその手を握った瞬間、いままで何も動けなかった俺が、ようやく石化が解けたかのように、病床に眠る女性、──母のもとへと動くことができた。
「お母さん……。お母さん……!」
それは紛れもなく自分の声だった。だがそれはいままで言ったことがないような声で、うまく発声できてるかもわからない。でも声などどうだっていい。小さな女の子、──妹が握る母の手を、2人よりちょっとだけ大きい俺の手が包む。
妹の手は温かく、その奥の母の手は、冷たかった。
「……2032年2月15日14時31分、残念ですが、不知火命花様は、心筋症による慢性型の衰弱によって、安らかな死を遂げられました」
そう言葉を発したのは母の横にいる白衣を着た若い男の人であった。彼は明るい顔こそしていないが、母に、死んだ母に縋る小さな俺たち二人を真剣な眼差しで見つめていた。
俺は彼のことをよく知っていて、彼は、三年前、今の技術では治ることがない不治の病にかかってしまった母に就く専属医師だった。
病院に見舞いに行くといつも彼がいて、母の話を聞いてあげたり、また俺たち兄妹にいろんな面白い話を聞かせてくれたりして、俺たちは彼のことを「誠さん」と名前で呼び、まるで兄のように慕っていた。
誠さんが、誰よりも母の命を考えてくれたのは紛れもない事実で、俺は「なぜ治してくれなかったのか」なんて口が裂けても言えるわけがなかった。
でも、母の手をぎゅっときつく握るたび、俺の十四年間の温かくて優しかった記憶が溢れ出す。
思い出すたび、胸が苦しくて、辛くて。
最初は動揺していて状況を把握しきれていなかった妹も、誠さんの言葉を聞いた途端、ようやく理解が追いついたのか、溢れる涙と共に大声を出して、お母さん、と泣いている。
妹のそんな叫び声を聞いても、死ということを理解しても、なぜか俺には涙は出なくて。
それがひどく寂しいようにも感じて。
まるで俺の心に穴がぽっかりと開いてしまったようで、もしかして俺という人間は、最初からすべてが存在していなかったかのように思えてしまって。
この溢れ出るどうしようもない感情は、いったいどこにぶつければいいんだ。
「誠さん、その……母を、ありがとうございました」
どうしてその言葉が出たのか自分でも分からない。でも、なんだか、誠さんに俺は感謝しておかなければならない気がした。
「……っ、……いや、感謝されるようなことなどしてあげられなかったんだ。本当にすまなかった。僕は命花さんを助けてあげることができなかった」
誠さんは僕たちから目を逸らしてうつむき、悔しそうに口を歪め、黒い縁のメガネからは光の反射によって瞳の奥が見えなかったが、俺はその先を見ようとはせず、ただ、母と向き合っていた。
◇
どれくらいの時間が経ったのだろう。
妹の泣きは少しは収まり、学校帰り急の連絡で病院に直行したあの時間から、空はもうすっかり橙色に変わっている。
だがそれでも俺と妹の手は母を離してはいなかった。
「悠生くん。悠那ちゃん。実は命花さんから僕に君たちへの手紙を預かっているんだ。受け取って、そしてお家に帰った時に、じっくりと読んで欲しいな。それが命花さんが僕に頼んだ最後の願いなんだ」
断る理由なんてあるわけがない。
俺たちは分厚く、あまりにも重く感じるその手紙を一つずつ受け取って、それを見つめる。
俺のものには「愛する悠生へ」と書かれており、もうひとつのものには「愛する悠那へ」と、もう自分の名前の漢字なんて二人とも読めるのにそれにはふりがながついていた。
「……君たちは僕が想像もできないほど苦しくて、どうしようもできない感情でいっぱいなのかな。でも、でも……、……安心して欲しいんだ。命花さんはいつも、毎日、君たち二人のことを幸せそうに語ってくれて、そして、『愛してる』って言っていたよ」
誠さんは俺たちの身長に合わせて身を屈め、瞳の奥まで見つめてそう言ってくれた。
「君たちなら大丈夫だ、なんてあまり無責任なことは言えないけど、僕は君たちの力になりたい。いつでもこの病院に会いに来ても構わないし、僕もまた君たちに会いに行きたい。……だからそれまで元気でいて欲しいな」
その言葉は嘘偽りのないものにしか聞こえなくて、俺は、この人はとても優しい人なんだ、と改めて思う。
「……さぁ、もうこんな時間だ。辛いかもしれないけれどお別れしなければいけない。君たちに何かあったら命花さんに顔向けできないんだ。いつものようにこの病院の外にタクシーが止まってあるよ。気をつけてね」
俺は妹、──悠那の手を繋いで、それじゃあ帰ろうか、と尋ね、悠那は名残惜しそうにしながらも少しずつそこから離れていった。
「それじゃあ、帰ります。……えっと、ありがとうございました」
そう俺は言いながら扉を開けて、誠さんと、この部屋と、そして母に深々とお辞儀をする。俺をみて悠那もお辞儀を真似たようで、それをみた誠さんが「またね」と言っているかのように手をひらひらと返していて、そしてその顔はどこか寂しげな陰を感じさせながらも、俺たちを安心させるように、ただ平気な顔で笑っていた。
病室を退出して、エントランスまでの廊下を歩く。
いつも元気いっぱいな悠那だけれど、今日は顔を俯けて、歩調もゆっくりだ。
俺はそんな悠那をみて、よりいっそう握る手の温かさを感じて、強く、強く、けれど優しく、ただ握ることしかできなかった。
親族が死んで、きっといろいろな手続きがあるのだろう。けれど、俺たち子供はそんなことはなにもしらなくて、病院の人も何も教えようとはしなかった。
俺は無力だな。
悠那の手を握りながら、不意にそんなことを思った。齢十四。ただの中学生には何もできない。俺はただそれが悔しかった。
無意識のうちに、悠那を握っていないもう一つの手から微かな血が滲んでいた。
「ねえお兄ちゃん。今日は、何食べるの?」
いつの間にか厳しい顔になっていた俺に気を遣ってくれたのだろうか。そう明るく話しかける。
悠那は優しい子だ。
俺より三歳も年下で、まだ小学校に通っているのに、辛いことばかりをただ吐き出すんじゃなくて、誰かのためにそれを隠すことができる。
「……うーん。そうだなぁ。カレーでも作ってみようかな!悠那も好きでしょ?」
カレーは、母も父も忙しくなって、俺が初めて作った料理だった。それを食べた母はこの世で1番美味しいよ。なんて褒めてくれたっけ。
「うん!……楽しみだね!お家に帰るの!」
そんな他愛もない、いや、確かに愛はある大切な会話をしながら俺たちは病院を出て、いつも送り迎えをしてくれている病院指定のタクシーに乗り込んだ。
顔見知りの運転手のおじさんに挨拶をして、悠那を先に車に乗せる。
自分も乗り込もうとした時、俺は何故か、母がいる、いた、あの病室の窓を見ていた。
「……今日も、お父さんとは会えなかったな」
そう、隣で俯く悠那にも聞こえないように小さく呟きながら。
◇
夜、自分の部屋の勉強机に向き合った。
勉強をするわけではない。向き合うのは、母から貰ったこの手紙。
俺はそれを開けるか、少し悩んだ。
開けなければならないのは、知っている。
でも俺は少し、怖かったんだ。
母が俺に送る“言葉”が、手紙を読んで仕舞えばそれはもう最後になってしまうから。二度と新しい“言葉”なんて届かなくなってしまうから。
………深く、息を吸った。
覚悟を決める。
母が俺に託したものを全て、受け止めなければいけないんだ。
きっと今頃、悠那もこの手紙を読んでいるのだろうか。そんなことを思いながら封の役目をしていた可愛らしいシールの蓋を剥がす。
「悠生へ。」
そんな書き出しからはじまった。紛れもなく母の字だった。それが、あの優しい声が自然とこの手紙を読みあげていた。
最初の内容は、俺を産んだ時のこと。
お利口さんで育児で苦労なんてしなかったこと。
すくすくと元気に育ってくれたこと。
俺の優しさに感動した時のこと。
そして、初めて料理を作ってくれたこと。
それは俺と母の14年間を振り返ったような手紙だった。
確かに俺はその空間に1人だった。
だけれどまるで、その手紙を読んでいる間は後ろから何かに抱きしめられているみたいで。ずっと感じていたいような暖かさ。何にも変え難い、この想い出が部屋を埋め尽くしていた。
手紙を読み進め、手紙の残りのページ数が、いままで読んできたページ数より少なくなっているのに気づいた時、俺はこの先を読みたくなんてないと、そう思った。
終わらせたくない。母と俺の時間を。
でも、読まなければ。
最後の一枚。視界がぼやける。
「悠生はこれからどんな人生を歩むのかな。
生涯をかけてでもやりたいものが見つかっているといいな。
最近、将来のことをよく考えるんだ。私のことじゃなくて、私の大好きな二人のこと。
悠生が立派な大人になった時、悠那とはうまくやれているかな。私には、お互いが助け合って素晴らしい兄妹になっている未来が簡単に想像できちゃうよ」
ここから先は丸いシミがところどころにあり、筆跡もだんだんと歪んでいる。
『ごめんね。先に、いなくなっちゃって。私も一緒に見たかったなぁ。悠生たちのそんな未来。神様はひどいね。治せない病気を与えちゃうなんて。
……悠生たちのこの先の人生、私は多分この世にはいない。けどね、悠生たちにはね。私のことばかり気にして生きないでほしいの。
悠生の人生は悠生だけのものだよ。
もちろん、本音を言うなら、ちょっとだけ覚えていて欲しい、なんてね。
私は、不知火家のお母さん。
悠生は、お母さんの大切なこども。
これはどこにいっても変わらないからね。
なにか辛いことがあった時、私がすぐそばで見守っているから大丈夫だよ。
なにか嬉しいことがあった時、私に報告してくれると私も嬉しいな。
きっとどこの世界に行っても悠生の声は聞こえるよ。
もうこれが最後の紙になっちゃった。
もっともっともーっと、いっぱい話したいことがあったけど、これでお別れの言葉にするね。
さようなら、私の宝物。
なりたいようになりなさい。
後悔しないあなたの人生を生きてね。
愛してるよ 悠生。』
最後の一文までぎっしりと詰まっていたその手紙を読み終わって、とうとう自分と母の、思い出という人生の軌跡を作り出せなくなってしまったことを、ようやく心で理解して。
「あ………あぁ……!ぁぁぁ……!」
今まで何かを押さえつけていたものがすべて消え去った。
「……ぁ、ああ、お母さん………。どうして、どうして……!もっと、一緒にいたかった、見ていてほしかった、………ありがとうって伝えたかったよ……!」
その時、はじめて、涙を流したんだ。
初っ端から重すぎますね。
安心してください!!この作品は“VRモノ”ですよ!!!!
あとルビを振るのをめんどくさくてやめましたが、
『悠生』ユウキ
と
『悠那』ユナ
のお二人です。




