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Sanrentan 大穴、浅井紗月

 始まりはあの時だ。


 この職場で、朝陽のことを堂々と「朝陽」と呼べる女は浅井だけ。

 周りの男性社員が樋口朝陽のことを「朝陽」と呼ぶから、先輩である浅井紗月も、ごく自然にそう呼ぶようになった。

 朝陽と一緒に現場に出ている人間の特権だと思っている。

 惨めな片思いの、せめてもの慰めだ。


 新しい事務の清水まど香のために開かれた歓迎会も、朝陽が出るから出た。そんな下心、他の社員にバレたらどんなことを言われるかわからない。

 アラサー浅井、浅井30、三十路浅井。

 そんなふうに呼ばれてもいつだって豪快に笑い飛ばしている。

 そんな冷やかしは今の時代にそぐわないと思いながらも、浅井が気にせずむしろウェルカムみたいな態度を取るから、悪ふざけは続いてしまう。わかっている。そんなことわかって、みんなが盛り下がらないように乗ってあげているだけだ。

 三十路。だからなんだというのだろう。


「30なんてさ、世間では若いほうじゃない? この職場の平均年齢が低いだけでしょ? そんなにわたしが駄目なの?」

「浅井はちゃんとやってるよ。みんなわかってる」


 歓迎会では事務の古株、三好聖華と隅っこのほうでずっと話していた。

 若者の多い職場で、同い年の三好さんだけが理解者だった。

 でも、事務で1番仕事のできる三好さんは、課長たちも他の社員もほとんどが頼りにしている。しかも結婚している。同じ歳でも浅井の扱いとは違う。


「浅井さんは、自分に厳しいだけですよ」


 二人だけでコソコソ話していたはずなのに、いつの間に樋口朝陽が隣りに座っていた。顔が赤くなるのを隠すためにジョッキを持ち上げる。ビールを一口含みつつ、形のいい横顔を浅井の視線がなぞった。


「他の人を手伝ったり、後輩に教えたり。みんながやらないことをやってますから。浅井さんはすごいんですよ」

「ひぐち! いいこという!」


 ちょっと酔った三好さんの言葉に、朝陽もえへへと笑った。


「ほんと? ふたりとも酔ってるよね」


 そう返しつつ、嬉しかった。

 向こうの席で清水まど香と元事務の雪世が喋りだし、そこに課長や他の社員も加わり始めた。


「三好さーん! ちょっときてきて!」


 課長に呼ばれ、「いってくる」三好さんが席を立つ。

 事務での話をするのだろう。

 社外から来る電話の、あの人がどうで、この人はああだとか。

 きっと清水まど香のことを褒めるんだ。

 若くて、可愛くて、一生懸命仕事して。

 愛想が良くて、でも、飾ったところがなくて。


「清水さんは完璧ね」


 思わずぼやいてしまう。


「朝陽は行かないの?」

「俺は呼ばれてませんから」


 朝陽は清水まど香を気にする素振りを一つも見せずに、浅井紗月の隣りにいた。それだけで充分嬉しかった。


「帰ろうかな」


 ポツンと呟いた。

 朝陽と同じ場所で飲めただけでよかったのに、こうやってそばにいてくれた。充分だ。


(これだけで半年は頑張れる)


 浅井が立ち上がりかけたときだった。


「送りますよ」


 朝陽が言った。


「えっ?」


 オクリマスヨ。

 あんまり予想外の一言だったから、その6文字は浅井の脳みその中でバラバラに分解されてしまい、再び意味を成すまで、時間がかかってしまった。


「何を固まっているんですか。だから、送りますよ」


 浅井はじっと朝陽を見た。今は気を取り直さなくてはならない。きっと社交辞令だ。


「子どもじゃあるまいし」


 笑ってそう返すと、


「でも、女性ですから」


 朝陽はサラリと答え、さっさと立ち上がった。それから幹事の先輩に話をして、浅井のところへ戻った。


「帰りましょ」


 テキパキと流れるような動きに押され、


「うん」


 浅井は素直に答えていた。


 その場にいた誰もが、朝陽と二人で帰っても気にもとめない。仲を疑われることもない。女を捨てた女、浅井紗月。

 自分に根付いたそんなキャラがこんな時に役立つとは思わなかった。


 外は湿気を帯びた風が吹いている。


「来月、花火大会だね。土曜と日曜」


 道を歩きながら、今しかないと思った。


「一緒に行かない?」


 お酒って恐ろしい。思考の隅っこでちょっと後悔し始めていた。でも、止められない。


「朝陽は土日でしょ? 土曜日雪世ちゃんに変わってもらえたら一緒に行けるよね」


 朝陽は黙っていた。肯定も否定もしないで、隣を黙々と歩いている。


「ごめん。忘れて。だいぶ酔ってる」


 沈黙に耐えられなくて、浅井は早口に吐き出した。期待をしたわけではなかった。朝陽と一緒に花火を見たい。そんな夢を見ていただけで、夢は夢とわかっている。

 朝陽が隣に連れて歩きたいのは、清水まど香みたいな女だ。

 でも、あまりに苦しいから、胸にしまっていた言葉を投げ捨てて楽になりたかったのかもしれない。

 浅井は前を睨みつけた。泣きなくなんてないのに、こちらの事情なんて関係なくこみ上げてくる涙をこらえるために。


「行きますよ」


 突然、朝陽が答えた。

 いつの間にこちらを見ていた。浅井が驚いて足を止めると、朝陽も立ち止まる。


「土曜日、行きますよ」


 ニッコリ笑いながら、浅井を覗き込んだ。断られることしか考えていなかった浅井は硬直したまましばらく動けない。


「自分から誘っておいて、なんですかその変な態度は」

「変な態度で、悪かったね」


 浅井は慌ててあるき出した。

 本当は、飛び跳ねて喜びたかったけれど。



 雪世は変わってくれた。

 実は、雪世だって朝陽と花火を観たかったのだが、頼まれたら断れないタイプだし、何より、もし雪世が出られないなら朝陽が出ると言い出したから、そうなると本末転倒もいいところだった。

 雪世はもう出るしかなかったのだ。



 浅井さんは浴衣を着てきた。

 特等席まで予約して。

 短い髪に、揺れるピアス。細い首筋。紺色の浴衣が映えた。


「浴衣、いいですね」

「若い世代みたいにカラフルなのは無理だけど」

「紺地に白い花の浴衣って上品で好きです」


 朝陽は柔らかに笑った。


「浅井さん、誰にも負けてませんよ」


 うん、と頷いたら、もう何も喋れなくなった。嬉しいのに切なくて、苦しい。

 花火が始まると、轟音が何もかもをかき消していった。

 花火は思ったよりずっとカラフルで、色とりどりの星が降ってくるみたいだった。


「ちょっと首が痛いですね」


 浅井さんはうなずくと、


「来年も、一緒に」


 聞こえないように言った。叶わない願いのような気がしていたから、小さな声で。


「なんて言ったの?」


 朝陽はわざとらしく顔を寄せた。

 朝陽の体温が重なって、体の中を潤していくみたい。


「近いよ」


 ちょっと突っぱねる。

 また花火が打ち上がると、見上げる朝陽はそっと浅井の手を繋いだ。

 二人で見上げる花火は明るくてポップなくせに、儚く消えてしまう。


「このまま終わらなければいいのに」


 花火が開くと、浅井の顔が赤く染まった。

 


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