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魔人ネクロ

魔人ネクロ ~To the Slaves~

作者: 天空 宮

「はぁ……はぁ……っ……ぜぇ、はっ……はぁ……」

 息を乱しながら霧の濃い森を駆ける。

 何かに怯えるけれど、その何かは定かじゃない。

 ――何かが追ってきている。

 そんな不安から逃げる。

 だけどいつも、その何かに追いつかれてしまう。

 その時、何か温かいものに包まれた。



 目が覚めると、視界に夢と同じく深い霧と暗闇が飛び込んできた。

 けれど、全身を包む感覚にほっとする。

 夢だと分かっているのに、目が覚めても何十キロも走ったように息が上がっているのはいつものことだ。

 けれど、いつもはこれがない。この、温かい温もりは初めてだ。

 出し抜けに頭を撫でられる。

 まるで息を整えるのを手伝ってくれるように優しい手だ。

 振り向くと、微笑みかけてくる者の顔がある。

 男か女かは分からない。

 種族も違うから年齢も判別しにくい。けれど、たぶん、それほど大人じゃない。

 この人とわたしは仲のいい兄弟とか、親戚しんせきというわけではない。

 知人というのも怪しいところだ。

 わたしは――奴隷どれいだった。

 王国貴族に仕え、ボロボロになるまで働いた。

 苦しかったけれど、わたしのような獣人族はそれが当たり前だ。人族の国では、他種族は忌み嫌われ、わたしのように奴隷になるか殺される。

 そんなわたしを、この人は助けてくれた。

 貴族から解放してくれ、奴隷契約の照明である奴隷紋も消してくれた。

 何もしていないのに助けてくれる。

 何も言っていなくても、怖いなんて言わなくても、支えてくれる。守ってくれる。

 鋭くて優しい人だ。

「ありがとう……ございます……」

 不思議だ。

 言葉にしても物足りない気がしてならない。申し訳ない。

 謝罪でも同じだったけれど、感謝でもなんて初めてだ。

 感謝が尽きない。何度言っても足りない。

 心がむず痒い。

 わたしは、こんなに幸せでいいのだろうか。

 そんなことを思いながら再び眠気に誘われる。

 今度は悪夢を見なそうだ。



 ◇◆◇◆◇



 朝方、目が覚める。

 多少明るいけれど、夜の時と大差なく霧が立ち込めている。

 体にあの温もりがなくて悪寒に駆られ、咄嗟に立ち上がった。

 周りを見るが、獣人女性二人がいるだけ。あの人が見当たらない。

 匂いを頼りに探し始める。

 時間が経つ度に不安が増していく。

 情けなく「くーん」と勝手に声が出ていた。

「起きたのかい?」

 上の方からあの人の声がした。

 嬉し驚き振り返ると、あの人はわたしの前に降りてくる。

 背もたれにしていた木の枝の上にいたらしい。

 わたしは思わず抱きつきそうになったけれど、一歩進んで思い留まる。

 わたしにそんな資格は無い。

 奴隷のわたしは醜くて汚い。だから、綺麗で真白なこの人に触れるのはダメなんだ。

「ごめんね。ちょっとクロがね……」

 目を泳がせる。

 これは触れて欲しくないという意味だと捉え、わたしは何も言わなかった。

「おはようございます、ネロ様」

「おはようございますにゃ」

 いつの間にか起きていた二人が朗らかに挨拶するので、わたしも続けて深く頭を下げた。

「お、おはよう……ございます!」

 ネロ様は謙遜するように困り笑いしてから、「うん、おはよう」と答える。

 たぶん兎人族のフーイさんが敬称を付けたからだと思う。

 ネロ様はあまり敬われることが得意ではなく、やめるようにも言われたくらいだ。

 だけど、誰もそこは譲れなかった。

 わたしを含め、他の獣人たちも奴隷だったけれど、解放して貰った人たち。恩人に対して謙るのは当然のことだ。

「ネロ様、寒くないですかにゃ? 獣人は人族よりも体温が高めだから、心配ですにゃ」

「大丈夫ですよ。ボクも寒いのは得意な方なので」

「そうですかにゃ、それは良かったにゃ。でも、もしも寒くなったら言って欲しいにゃ。ワシの体温で温めてあげるにゃ」

「あはは……は、はい……」

 猫人族のククルさんは豊満な胸を持っていて、スタイルもいい。あまつさえ顔立ちもよく、大人の色香を醸し出す。

 服は用意して貰った旅装束で、奴隷用途は違い布面積も確保されている。にも関わらず、当たり前のようにそれを押し上げる胸には嫉妬心が湧く。

 ネロ様は見た目通りただの人族の子供で、そういった類にはまだまだ奥手。

 このようにたじろぐのが常である。

 わたしももう少し大きくなれば……。

 つい、内心思ってしまった。

 我ながら恥ずかしい。

 フーイさんも、ククルさんとは違い兎耳を持つ兎人種だけれど、すらっとした体型で街の女優顔負けの美人だ。

 おくゆかしく凛然とした所作は憧れてしまうほど。

 朗らかで優しく気建てもいいから、ついお姉さんと呼びたくなる。

 ともすれば、大人になったネロ様はククルさんの妖艶さとフーイさんの包容力の虜になりかねない。

 ダメというわけじゃない。

 ただ……わたしのような者には、願うことさえ厚かましいけれど…………。



 ◇◆◇◆◇



「ククル、右から来てる!」

「了解!」

 切れ味の悪そうなナイフが迫る頃、フーイの声に反応し、ククルが後方に跳躍する。

 聞いてから動くまでの反応は流石獣人といったところ。

 しかし敵――魔物は次から次へと湧いて出てくる。

 出てくるのは、スケルトンやグール、それと偶にハイピットパイソン。

 スケルトンやグールは知るところだが、ハイピットパイソンとはそう出くわすことはない。

 黄色い体の蛇なのだが、敵を主に熱で感知する。ゆえに、霧の中でも方向感覚が狂わず、1キロ圏内で正確に獲物を見つけることができる。

 体も大きく、巻き付けられれば逃げ出せずに絞め殺される――というのが、よく冒険者ギルドの報告に上がる事例だ。

 この相手に対して、短剣しか持っていない獣人たちでは分が悪い。

 フーイとククルは主にスケルトンとグールの相手をする。

 全てでは無いが、グールの中にはナイフや剣を所持していることがある。

 金属が振るわれる音を聞き分けられるフーイが警告し、反射速度の高いククルが反応する。

「斜め後方警戒してください!」

「了解ニャ!」

 そんな防御態勢ができつつある中、まだ攻撃や防御といった戦闘行動を知らない犬人種の少女は二人の間で縮こまる。

(ごめんなさい……なにもできなくてごめんなさい……)

 すると、大きな物が倒れる音が鳴り響く。

 深い霧の中では、遠くを見渡せないから限度が不明で精神が疲れる。

 しかし、彼の存在はその疲労感すら押し返してしまえるほどの希望となっていた。

 霧の中で赤い月のような双眸を光らせ、なんなくハイピットパイソンを倒す少年――クロである。

「ふん……やっぱ、俺はオーバーキルだったか。つっても、ネロじゃこの量――慌てすぎて見ていられなくなるだろうがな」

 ハイピットパイソンが突っ伏する前で想像に笑みを浮かべる。

 すると、思い出したかのように振り返り、周囲を見渡した。

(へー? あの獣人族二人、なかなか戦闘も悪くない。奴隷だった時も影でこそこそ修練していたらしいが、実践は初めてのはず)

「なかなかさまになってんじゃねーの」

「そ、そうでしょうか……」

 フーイは、向かってくるスケルトンを一蹴してから、愛想笑いする。

「猫の方も問題なさそうだな。流石は獣人族ってところか」

「いえ、精一杯って感じですにゃ……。で、でも、ご主人様の役に立てるように頑張りますにゃ!」

 フーイとククルの二人も、ネロ、クロでは対応が違う。

 フーイはどこかぎこちなく、ククルは言葉遣いが礼儀正しくなっている。

(まあ、あいつとオレはある意味別人だからな……。いちいち気にするもんでもねえし、いいか)

「さて、んじゃあ……てめえらの実力も見れたところで、一掃するか――」

 ひしひしと張り詰めた空気が時間を遅く感じさせる。

 おもむろに上げられたクロの手は、各々が感じる名状しがたい感覚を象徴するように禍々しい気を纏っていた。

 まるで恐れそのもののような黒いそれに、魔物たちの足が止まり、総毛立つ。

武装エンチャント――黒龍の頭蓋(ダークドラゴ・ヘッダ)

 黒い気は龍の頭蓋を形取り、クロの右腕となった。

 口角を上げるクロは、右腕に在る厳然とした龍の口を広げ宣言する。

発動アクティベート――黒龍混沌激災ダークドラゴ・カオス・ディザスター

 龍の口より発せられる常軌を逸した瘴気が瞬く間に拡がっていく――。



 ◇◆◇◆◇



 ネロ様のもう1つの人格、クロ様は畏ろしい。

 存在そのものが悪かのようなオーラを常に身に纏っているからだ。

 けれど、一人遠くを眺める表情はどこか儚げで、今にも消えそうに思えてしまう。

 そんなクロ様を見ると、次第に寂寞した感情が胸の内から湧き上がる。

 まるで自分と重なっているかのような……でも、それはきっと勘違いで、何を考えているんだと自分自身に叱咤する。

 夜――というよりも、辺りが暗くなっている時は基本、クロ様が先導する。

 夜目が効くとか、異質な者が現れてもすぐ対処できるように、らしい。

 ネロ様の時と違い、皆口数が減る。

 ネロ様は話しやすいけれど、クロ様の印象はまだ、以前の主人と大差ない距離感に思える。

 でも、これはわたしたちが悪い。勝手にクロ様の性格を妄想して、勝手に怖がっているだけだから。

 とはいえ、その印象を拭いはるにはもう少し時間が必要だ。

 三度ほど森の中で夜を過ごし、ようやく森を抜け出せた。

 途中、荷馬車に載せてもらったりして、クロ様の言うショートカットありきだったけれど、変わることの無い景色が終わってほっとしている自分がいる。

 先に見えるのは壁と門と門兵。

「国境だ」

 木陰に隠れながら、まだ遠い門を眺める。

 商人や旅人が人垣を成しており、通る者は門兵に通行証を見せているようだ。

 この国境は、ラトゥーリエ王国とカイセディア公国の国境だ。

 こちら側では、ラトゥーリエ王国の法が適用される。

 獣人は奴隷か処刑――それが王国の法である。

 だが、公国にはそんな差別的な法はない。国境さえ渡れれば、悪しき法から逃れることができる。

 しかし、渡る前にわたしたちが獣人だとバレれば、これまでやってきたことが水の泡になってしまうのだ。

 それを危惧して、フーイさんは神妙に訊ねた。

「どうなされるおつもりでしょうか」

「はあ……」

 クロ様が物憂げに溜息を吐き、フーイさんの肩が小さく震えた。

 聞いてはいけないことだったのか、とわたしを含めて全員が思っただろう。

「本当はあの壁ぶっ壊してもいいんだが、ネロのやつがうるさいからな……方法を変えることにした。心配するな、知り合いを呼んである。そいつが来るまで待ちだ」

「……しょ、承知しました……」

「……」

 フーイさんが怖がっているのも分かっているようで、クロ様は小さく息を吐いた。

 わたしたちは耳がいい。兎人族のフーイさんなら余計にだ。

 すると、クロ様はフーイさんの下げた頭を撫でる。

 恥ずかしそうに顔を赤らめているところを見て、たぶん、ネロ様に言われてだろう。

「……そ、ソンナニカタクナラナイデイイ……からな!」

「……はい」

 クロ様が冷酷なのは魔物や、盗賊に見せる姿から分かる。

 でも、こういった一面を見ると、今どっちなのか分からなくなる。




 暫くして、クロ様の言う協力者が現れた。

 頭にターバン、首にマフラーを巻いて顔半分は見えない。更にはローブを着ているから、怪しげだ。

 気付けば、クロ様と神妙な面持ちで話していた。

 わたしたちはその会話に入ることはできない。二人共、そんな雰囲気を纏っている。

 すると、木陰で待つわたしたちへ視線が向けられる。

「作戦会議だ。こっちに来い」

「はい……」

 怪しげな協力者を訝しみながらも、クロ様に寄った。

 髪の長さと目元から、なんとなく大人の女性だろう顔つき。

 切れ長で睫毛が長く、凛然としている。

 顔半分だけで分かる。

 綺麗な人――

「これから門を潜るぞ。先頭は勿論、あたしが行く!」

 得意気に胸を叩いてから、クロ様を見て「どうだ」と言っているかのようだ。

 でも、クロ様はなんとも思っていないらしい。

「その次をごしゅ――……クロ様……」

 途中で思い出したかのように言い直した。今のはたぶん、『ご主人様』を言い直したんだと思う。この二人は、主従関係……?

 聞いたところによると、クロ様――もといネロ様は、元貴族らしい。その頃からの縁なんだろうか。

「行きますよ」

 トントンと肩を叩かれ、ハッとする。

 フーイさんが困り笑いを浮かべており、いつの間にか皆が先に行っていた。

「は、はい! すみません……」



 地平線の先まで続いていそうな壁に開く唯一の門は厳かに佇み、まるでわたしたちを厳選しているかのようだ。

 門番は、見える範囲で5人。鎧を身に纏って鋭い眼差しで通行人を睨んでいる。

 フーイさんとククルさん、それとわたしは無防備だ。尻尾はローブで隠せているけれど、耳が出てしまって獣人であることが丸判りだ。

 最後尾とはいえ、誰にも見られてはならない。

 しかし、こんな憂色をクロ様に見られるわけにはいかない。

 わたしは、フーイさんの後ろをぴったりとくっ付いて歩いた。

 ククルさんも後ろに続く。

 クロ様はターバンを着けた女性の次を歩くだけで、特に何か魔法の類を使っている様子は無い。

 クロ様も目だけは魔人の特徴を持っており、声を掛けられてもおかしくはない。にも関わらず何もしないということは、もしかしたら暴れるつもりなのだろうか。

 そう思いながら固唾を呑む。

 国境を通行するには通行証が必要だ。わたしたちのも含めてターバンの女性が全て持っているらしい。

 彼女は門番の人にそれを見せると、慣れたようにわたしたちを指し示した。

 門番は頷き、わたしたちは足を進める。

 わたしは俯いて目を合わせないようにした。

 ふと、フーイさんのお尻に顔がぶつかった。

 ――ごめんなさい。

 そう言おうとしたけれど、その前にフーイさんの驚嘆した表情に目を奪われる。

 わたしは首を動かし、周りの様子を見る。

 門は後ろにあって、前にはまた道が続いている。

 門を潜る前と見える景色に変わりは無い。けれど、後ろを振り返って在る門の存在はわたしたちにとってとても大きく、果てしなく長い道のりを意味する。

 ――終わることなんてないと思ってた。

 死ぬまで奴隷なんだと……。

 目から涙が溢れる。

 声まで出そうになるのをぐっとこらえる。すると、前からネロ様が戻って来た。

「泣いていいよ。もう大丈夫だから。キミたちも、もう蔑まれることはないんだ」

 ネロ様は優しくこうべを撫でてくれた。

 包み込んでくれるようなネロ様の優しさはわたしたちの胸を震わせた。

 滂沱のように出てくる涙は隠せなかった。

 ネロ様が貸してくれる胸の中に顔を埋め、咽び泣く。フーイさんとククルさんもお互いに抱き合いながら泣いていた。

「ちっ……隠すあたしの身にもなれってんだ……」



 ◇◆◇◆◇



 この世は残酷で、退屈で、満ち足らへん。

 人は欲に飢えてはる。あらゆる欲求に。

 金、力、名誉、食、女、男……。

 まったくもって不愉快極まりやす。そんなものに振り回されるこっちの身にもなってみ、と――思わず憂いてしまう。

 わっちは、欲に利用される道具でしかあらしまへん。

 窓の際から覗ける外の者が羨ましい。

 彼ら、彼女らは、自由で自分の足で歩くことが出来る。わっちとは雲泥の差ぁや……。

 ゆえに思うてしまうのでありんす。わっちも、わっちの思うままに他人を手の平の上で転がしてみたい――と。

 ふと目に留まはった――通りを歩く凸凹(デコボコ)一行の中で、なんや珍しい旅装束姿のわっぱが在りんした。

 まだ出来上がっていない少年やけれど、魔王の如き禍々しい気を纏っているように感じんす。

「ようやっと――……おいでやす。首を長くして待っとりんした」

 思わず胸が踊った。

「どうかされたんですか、リューネさん?」

 傍にいた見習い娘が、首を傾げておった。

 影が薄くて、というより、わっちの方に理由があるんやろう。いることを忘れて、独白どくはくを聞かれてしまい、わっちはついぞほくそ笑んだ。

「そうやな……ありんした。インセンを呼んでおくれやす」

 すると、見習い娘は手に持ったお手玉を懐にしまい、そそくさと移動する。

「……本物か――確かめさせてもらいますよ? あんさんが、本当に、わっちに見合う器を持ったお人かどうか……」

 なんや懐かしい感情やなあ。

 もう……何百年ぶりやろか。楽しなってきたわあ。



 ◇◆◇◆◇



 わたしたちは、国境を越えた先にある始めの街、ミドガイア伯爵領のハクタノール街へと足を進めている。

 国境にあった門は、予想以上にあっさりとしていた。

 というのも、ほとんどネロ様の知り合いという謎の女性のおかげで、わたしたちは何もしていない。ただ、あの人の後ろについて行っただけだ。

 耳や尻尾をほとんど野ざらしだったというのに、だ。

 ネロ様が言うには、謎の女性による魔法のおかげらしい。

 もうわたしたちは、王国の法から解き放たれたのだ。

「なんだか空気が心做しかおいしく感じます」

「そうにゃ! もう誰にも追われないなんて嘘みたいにゃ!」

 フーイさんとククルさんは、大腕を振って街の通りを歩けていることを喜んでいるみたい。

 だけど、わたしはまだ実感がなくて……ネロ様に隠れながらでないと歩けない。

 こんな情けない自分、と思いながらも、気兼きがねなく支えてくれるネロ様は本当にお優しい。

「それは勘違いだ。王国にいようが、公国にいようが空気は変わるわけないだろ!」

 対して、門を出た辺りから機嫌の悪い女性は、何かと突っかかる。

 綺麗だけれど、厳しい面立ちはより険しく、威圧感が凄い。

 おそらく、クロ様ではなくなってしまったからだと思う。

 この人は、ネロ様にも当たりが強い。

「イミルちゃん、彼女たちも疲れているんだ。もう少し――」

「ちゃん付けすなー!! 誰がネロの言うことなんか聞くか。あたしはごしゅ……クロ様の命令にしか従わないんだー!」

 ネロ様に『イミルちゃん』と呼ばれる女性は、まるで我儘な子供のように腕を振り回す。

「久しぶりにごしゅじん……クロ様に呼ばれて張り切っていたのに、ネロになるなんてどういうことなんだー! あたしにご褒美は!? よしよしして欲しいー!!」

「よしよし」

 ネロ様は眉を下げながら、駄々をこねるイルミさんのかしらを撫でた。

「お前じゃないわ! ごしゅ……ぐぬぬ……ご主人を出せー!!」

 我慢していたものが全て決壊したらしく、イルミさんはついにはっきりとクロ様の呼称を『ご主人』とした。

 なぜ隠そうとしていたのか、隠せてはいなかったけれども気になってしまう。

 それはさておき、やはり国境を抜ける前と後では印象ががらりと変わってしまった。

 クールビューティなお姉さんは、今や欲しい物を欲しいと言えてしまえる貴族の子供のようである。

 わたしを含め、フーイさんとククルさんも微笑するしかない。

 能力はあるけど、その他のところでネロ様は苦労しているんだろうか……。

「イミルちゃん……こんなところで駄々こねないで……クロは今寝てるから、当分出て来られないよ。それとも、クロをイルミちゃんが叩き起こす?」

「はっ……!! それは、ダメだ! ご主人を怒らせてしまう……!」

「じゃあ、我慢しようね」

「うん......」

 もう手馴れているみたいだ。

 イミルさんが大人しくなり、皆でほっと胸を撫で下ろしていると、ネロ様に声が掛かる。

「少しよろしいですかな?」

 少々歳のいった人族だ。シワが際立ち、白髪である。

 腰の折れた老人は、なんとも弱そうで思わず方を貸したくなった。

「すみません……連れが騒がしくしてしまいまして」

「いえいえ。ここら辺ではしょっちゅうです。気にする人もそれほどおりますまい」

「そうですか......。では、なんでしょうか?」

「私はそこの御宿で働いておりますインセンと申します。

 見たところ旅の人に見受けられまする。どうでしょう、私が働いている宿で休んでいかれては。

 ミヤビという御宿でございます。このビコウ通りで一番を自負しておりまして、快適な1日をお過ごしになられますこと請け合いでございます」

 お爺さんは、手でその宿を指し示す。

 接客だったんだ......。宿の人が接客するなんてことあるんだ。

 金があしらわれており、とても絢爛豪華けんらんごうかで宿というよりは劇場のような外装だ。

「いえ、その……ボクたちはあまりお金が……」

 まだ昼でもないけれど、朝は疲れた。ということで、ここに泊まるのは既に意見として出ている。

 しかし、あんなに豪勢な宿に泊まれる程余裕があるわけじゃない。ましてやわたしたちのような元奴隷が入るような場所ではない。

「なんだお前は? もしかして……あたしたちを騙して金品を根こそぎ奪う腹積もりではないだろうな!」

 イミルさんが怪訝に威嚇する。

 かなり威圧的だけれど、お爺さんはまるで気にしておらず、「まさか」と笑い流した。

「実は私の働いている御宿には、奢り制度(・・・・)というものがございまして、お客様のお泊まり料金を店の者が負担いたします」

「初めて会ったばかりのあたしらにお前が代金を払ってくれると言うのか? それはかなり怪しい! おい、お前たち! こんなジジイはほっといてあっちに行くぞ!」

 イミルさんはネロ様の腕を掴み歩き出そうとするが、ネロ様はまだ話を聞くようで立ち止まる。

 すると、イミルさんはこけてしまい、背中を打った。

「何をしているんだネロ!」

「ま、まあまあ……もう少し話を聞こうと思って。ごめん」

「勘違いなされております。奢り制度というのは、確かに家族や知人相手であれば貴方のような解釈で泊まることになりましょうが……見知らぬ人となればまた違ってきます。

 奢り制度では、店とお客様ではなく、店と働き手の取引になります。その代わり、働き手とお客様の取引が発生し、働き手はお客様に対し、代金以外のもので取引するのでございます」

「おいおい……だんだん胡散臭くなってきたぞ?」

「そして――」

「まだあるのか!?」

「もう1つ勘違いが。お客様の代金を肩代わりするのは、私ではなく、別の人でございます。皆様に目をつけたのは――」と溜めてから、お爺さんは「この街で最も美しい女性にございます」と強調して言い放った。

「はあ? どっちみち初対面だろう!」

「どうしてボクたちなのでしょうか?」

 イミルさんに対し、ネロ様は冷静だ。にこやかに、そして和やかに訊ねる。

「それは依頼人とお話ください」



 ◇◆◇◆◇



 ミヤビという宿は、外装だけでなく内装も綺麗で華やかだった。

 見たこともない花が生けてあったり、証明が明るく飾りも豪奢だ。

 傷の無い廊下を進んで広い部屋へと通される。

 部屋に入って直ぐに漂う匂いに興味が湧いた。建物中にあった匂いが、部屋の内は一層濃いらしい。

 この匂い、たぶん何か草花の……。

 そういえば、大人の女性はよく身に香水を付けるらしい。わたしもそういうのを付ければ、ネロ様に関心を持っていただけるだろうか。

 匂いに気を取られていると、何者かが隣の部屋――襖の先に来たのが判った。

 如実に緊張が走っていた。襖を向いて正座し、

 イミルさんは、ネロ様に耳打ちをしていた。

 ネロ様の苦笑から見て、また引き返すことを提案しているのだろう。わたしたちも同じ気持ちだけれど、ネロ様に付いていかないわけにはいかない。

 ネロ様は、高いお宿に興味があるのだろうか。

 襖が開いていく。

 パタン、と端まで開け切った調子のよい音が鳴った。

 しかし、奥には扉を開けた働き手しかいなかった。

「あれ?」

 きょとんとしたネロ様が目を丸める。

「皆して、隣に何かありますの?」

 なまりの入った声が背後に現れ、吃驚きっきょうする。

 わたしたち獣人は、警戒しながら振り返る。フーイさんとククルさんは、戦闘態勢で構えた。

 現れたのは、この世にこんなに美麗な人がいるのだろうか――と疑問に思ってしまうほど妖艶な女性だった。

 肩からふくよかな胸元まで大きくはだけたお召し物は、とても煌びやかである。可笑しく笑いつつも、口元を隠す所作は気品さがあった。

 絹のように白い肌に耳が横に尖った容姿からしてエルフだが、髪が白いところをみると違和感がある。染めているとすればそこまでだけれど、エルフは基本的に金髪だから……。

「ハーフエルフ……か。お前があたしたちを呼びつけた張本人か?」

「エルグランデ言います。わっちが、あんさんを見つけたのでありんす」

 そう言って、女性は視線をネロ様へと向けた。

「依頼があるそうですけど、一体どのような要件でしょうか?」

「そんなに難しいことやあらしまへん、簡単なことでありんす。聞いてくれはるいうことでよろしい、と言わすことでありんすか?」

「とりあえず聞いてみようかと思いまして。あなたの言う通り、本当に簡単なことなら無償でここに泊まれるみたいですし」

「お前本気か!? こんな怪しさしかない奴相手に!」

「イミルちゃん、大丈夫だよ。簡単って言ってるじゃないか」

「ちゃん付けすなって言ってるだろ!」

「それで、どんな依頼なんですか?」

「おい、話を聞けってネロ!」

「楽しいお友達がおるみたいやなあ。皆、種族がバラバラで羨ましい限りやわあ」

「ええ、いつも皆に助けて貰ってます」

 わたしは、俯いた。

 この中で全然役に立っていないわたしがこの言葉を貰うのは相応しくない。


「お願いしたいことやけぇど、ここから直ぐ近くの山中にある家屋にふみを届けて欲しいのでありんす」

「そのくらい、さっきのジジイとか使えばいいだろ。別にそこら辺の通りにいる客に金払ってまですることじゃない」

「それが……その山には魔物が出はるので、そこらの者には頼めまへん。その点、旅人で獣人族を連れてはるあんさんらなら、問題無いと思いんした」

「分かりました、引き受けます」

「おい!! こいつが怪しいのは変わりないんだぞ!!」

「手紙は必ず届けますので、この中の数人を先に部屋に置いても大丈夫でしょうか?」

「おい!」

「魔物が出はる言いましたのに……ああ、そういうことありんすか。確かにまだ幼い子ぉを連れて行くことはできやしまへんなあ」

 ――あ……。

「いえ、山へはボクとこの子――イミルちゃんの二人で行きます」

「はあ!?」

「……獣人族の子らは、連れて行かはらないのでありんすか?」

「ええ、こう見えてイミルちゃんはとっても強いので!」

「こう見えてってなんだー!? ていうかちゃん付け……ネロ、さてはお前、あたしに喧嘩売ってんのか!?」

「というわけで、吉報をお待ちください」

「……なんや楽しそうやなあ」



 ◇◆◇◆◇



 ネロたちは、怪訝けげんながらも山中にあった家屋を訪れた。

 荒んだボロ屋で、とても誰かが住んでいるようには思えない。しかし、エルグランデが指定した場所は確かにここのはずだった。

 日も暮れかけている。早く戻らなければ、依頼を達成したことにはならないかもしれない。

 とはいえ不審な出来事が起きすぎており、二人とも現状に首を傾げていた。

「なあ、もういいだろ? こんな怪しすぎる依頼、最初から馬鹿げてたんだよ」

 ここに来るまで山賊に化けた多くの刺客がネロとイミルの二人を何度も襲ってきた。

 大した相手ではなかった為、全て無力化したのだが――度重なる刺客の登場は、イミルを不快にさせていた。

(確かに……ここまで待ち伏せされているところからして、今日ボクたちが来ることは分かっていたはずだ。山賊は他の賊と同じ場所に根拠地を作らない。だから、あれだけ襲ってくるわけがない……)

「ネロだって違和感あるんだろ?」

「……でも、今から他の宿なんて探せないでしょ」

「あんな奴ら、野宿だって構わないだろ!」

「そんなわけにはいかないよ。それに、たぶんもう引き返せないから……」

 背後よりにじり寄る者たちがいた。

 また(・・)、『山賊です』とでも名乗りそうな強面の男たち三人。

 これまでの刺客の末路を見て来ていないのか、不気味な笑みを携えていた。

「お疲れさん。騙された挙句、奴隷売買の仕事を楽にしてくれたことには礼を言っておくぜ?」

 今までとは毛色が違う。

 奴隷売買というのは、単なる動機の挿げ替えとは思えない。だが、奴隷売買の仕事を楽にした覚えはなく、二人は眉を顰めた。

「奴隷売買……?」

「まさか、まだ疑っていないバカじゃねえだろ? あの女狐に白紙の手紙を運ぶよう頼まれたはずだぜ」

「やっぱり……。こいつとあのパイデカ女はグルだったんだ! やっぱりあたしたち騙されてたんだよ!」

「……何故エルグランデさんはこんな事をしたんでしょうか」

「知るかよ。どっちにしろ、お前らは俺らに売られることが決まっているんだから、そんなこと気にしたところで後の祭りだろ」

「……――そうですね。エルグランデさんには、後で理由を訊きに行ってみます」

「ああ? だから、お前らに後なんざ――」

「行くよ、クロ――”第2段階(セカンド・ステージ)”」

「あはっ!」

 イミルの表情が花開いた。

 日が沈み、夜が来る。

 ネロの双眸には赤い月が現れた。得も言われぬ畏れを強要する嘲笑を携えて。

 次の瞬間、闇に男たちの悲鳴が舞い次々と倒れていった。

「ご主人……!!」

 恍惚な表情を浮かべるイミルを他所に、クロは手紙を空けて中を見る。

 男の言った通り、手紙は白紙で内容はなかった。

 クロは、その紙を握りつぶし、捨てる。

「あの女の目的はこのオレだ。おちょくってやがる……!」

「ご主人の正体を見抜いていた、ということ?」

「そうでなければ、あの女はオレたちを呼びつけたりはしなかったはずだ。何を考えているのかは判らねえが、喧嘩売ってんなら買ってやるよ……! 戻るぞ。あのいきり散らかした女にオレの恐ろしさを見せつけてやる!!」

「うん! お供する!」



 ◇◆◇◆◇



 クロとイミルは、ミヤビに戻って来た。

 店前の通りは眩く色付いて昼間とは別の様相を見せていた。

 店々が煌びやかに発光しまるで貴族街のようだが、怪しい印象もある点についてはここの特徴なのだろう。

 ミヤビでは、多くの人が出入りしていた。

 宿というには出入りが多すぎる。また、外にも並ぶ人がいるというのもおかしい。

 出入りしているのは男性のみで、通りを行き交う者を含めて女性が見受けられない。

「……おかしいと思ったけど、やっぱりそういうことだったんだ。ここは宿なんかじゃない――男と金の欲が渦巻く娼館なんだ!」

「そんなことはどうでもいい。あの女を探すぞ」

「――お待ちしておりました」

 ミヤビに入ろうとしたところ、後ろから声を掛けられた。

 振り返ると、昼間のお爺さんが向かいの店前に立っていた。

「お前――あたしたちを騙したな……!!」

「……ツヴァイの下へ案内いたします」

 これといった申し開きはなく、お爺さんは手で行き先を指し示しながらミヤビの中へと案内し始めた。

 年老いている割には足並みに淀みない。一介の剣士のようだ。

(この老人……まさかとは思うが、この娼館の哨戒員か?)

 過ぎ去る部屋からは陽気な男たちの騒ぎ声と、自嘲気味に話す女の声。

 昼間はこれほど人の気配はなかったはずだが、どこから出てきたのかイミルには不思議でならなかった。ゆえに、クロの周りを動き回りながら敵を警戒した。

 すると、クロはイミルの頭を叩く。

「いたい……っ」

「静かにしていろ」

「す、すみません……」

 しゅんとするイミルを見て、クロは小さく溜息を吐く。

 通されたのは、昼間とは別の場所だった。

「こちらです」

 襖と障子に遮られた遺族文化を取り入れた部屋。赤い敷物はかなりの上物で、御香が焚いてある。傍には綺麗に二組の布団が敷かれていた。

 移ろい行く通りの人々を見下ろす窓際に、エルグランデが艶然えんぜんと座している。

 月明かりが彼女の銀髪を照らし、燦然と輝かせていた。

 彼女は、ゆっくりとこちらを振り向き、顔を綻ばせる。

「お帰りやす」

貴様きっさまぁあ……!! くあっ!!?」

 イミルが怒り奮闘しようとした瞬間、エルグランデはおもむろに手を上げた。

 イミルは、何かに引っ張られるようにして廊下へと吹き飛ばされる。更には、部屋の扉を成している障子が閉まった。

「しまった! っ――開かない!?」

 障子を開けようとしてもびくともせず、叩いても穴すら空かなかった。

「この……舐めるな!!」

 イミルは拳に黒い魔力を纏うと、渾身の力で障子を殴る。

 すると――イミルの体は弾かれ、向かいの部屋に飛ばされる。

「なん……ハーフエルフにこんな力があったの!?」

「失礼しんした。ここでは暴力や魔法はご法度でありますゆえ」

「てめェ……なんのつもりだ」

「……その目、本当に魔族だったのでありんすねえ」

「だからなんだ。オレを見破った称賛でも欲しいってか? 他人ひとを弄びたいんなら、相手を見誤ったな。生憎、他人たにんに遊ばれて何も無しなんてチンケなごっこ遊びしているわけじゃねえんだよ……!!」

「ほんならおしおき、してくれはりますか? でぇも――その前に依頼の報酬、欲しくはありんせんか?」

 蠱惑的な笑みを浮かべながら立ち上がると、にじり寄って来た。

「目的を言え」

「ええ。それも報酬としんしょうか」

 白く細い指でクロの胸元をなぞる。

「オレにてめェの魔法は効かねえぞ」

「わっちを警戒しているのでありんすね」

(おい、こいつぶっ飛ばしていいか?)

(ダメだよ!)

(なんでてめェはこうも……)

 エルグランデはそのまま首の後ろに腕を回し、布団の上に引き倒した。

 更に、覆い被さられた。

 外套をほぼ脱いだ彼女の肢体はとても綺麗で、純白の宝石のようだった。

 豊満な胸にクロの手を運ぶ。

「わっち、強い男が好きでありんす。このまま一夜を共にしはりませんか?」

「てめェみたいな汚ねェ女と一緒に寝る趣味はねェよ」

「そんなこと言いはっても、抵抗しないのはどうしてでありんしょう?」

 エルグランデは、むっとするとクロの顔を自分の胸に押し込んだ。

「てめェを傷付けない為だ。てめェは、オレをおちょくりこそすれ、危害を加えようとは思っていないみたいだからな」

「……全てお見通しと言わすことでありんしょうか」

 牙を抜かれ、エルグランデは反対方向を向いて着物を着直した。

「これはネロ、昼間のオレが言ったことだ。オレは、てめェが何を思おうが興味はねえ」

「……一人の人間で、複数の人格があるということでありんしょうか。てっきり、昼間のあんさんは仮面かと思いんした」

「仮面はむしろオレの方だ」

「――え?」

「そんなことはいい! くっ……危害を加えずに事情を訊く……。で、なんなんだよ! オレたちをハメた理由を教えろ!」

「そんなに複雑なことではあらしまへん。単純で、もしかしたらあんさんには少しも関心しないような――そんな理由でありんす」

「……言うつもりは無いってことか。なら、それでいい。オレは、これ以上訊かねえ。これ以上はオレの領分じゃないからな。

 あいつらはどこだ、変なことはしていないだろうな」

「目の前の華よりも彼女たちの方が、大事でありんすか?」

「てめェにとっちゃ珍しいか? そりゃそうだよな、こんな陰気臭えところにいたら……」

 クロは、それ以上を言わずに部屋から出て行こうとする。

 障子に掛けられている魔法は、人差し指を触れて解除した。

「何もしちゃおまへん。ちゃーんと奥の部屋におります。それと……本日はお詫びも兼ねまして、お泊りにならはってください」

「……考えておく」

 クロは部屋から出て行った。

「ご主人! 良かった、無事だったんだ! 何もされてない? あの女、ぶっ殺した!? あれ、いる……? え、なんで? なんで?」

 早口で捲し立てるイミルの声が障子が閉じられると同時に曇り掛かる。

 足音は奥の部屋へと消えていった。



 ◇



 嗚呼……なんでやろうなあ。こんなに寂しいんは、久しぶり。

 きっと罰が当たったということでありんしょう。

 こうなった時、もう手遅れだった……ということでありんすか。

 ついぞ、思うてしまう。もしも初めから言えていたら、別の道もあったのやも――……なんて、わっちには高望みなんやろうけれど。

 ネロはんとクロはん……どっちも逞しい御人やったなあ……。

 わっちにはホント、高望みでありんす。



 ◇◆◇◆◇



 次の日、見習い娘から早朝の内にネロはんたちが出たとの報告を受けんした。

 窓の外を眺めていても、彼が現れることはありんせん。

 夜になっても、ついぞその姿を探してしまいんした。

 当然でしょう。わっちがあんなことをしたのやから、どの面で待てばよいかもわからないというのに。

 報告では、超人や鬼、竜の如き力を振るったと聞き及んでいんす。

 わっちも、せめて見たかった――あんさんらが戦うその勇姿。

 それはもう素早く、力強く、猛々(たけだけ)しいのでしょう。

 けんど、このイキノシタ通りから出ることは禁じられていて、出ることは叶いんせん。

 あんさんらが途方もなく羨ましい。

 クロはん、わっちの言えなかった望み――それはなあ……


 わっちは、この通りでこの美貌をもって一番の遊女となりんした。

 今となって値が付けらんほどで、貴族でも上流階級くらいでないとお相手すらせんようになりんした。

 ゆえに、夜に店から声が掛かるというのは滅多にありんせん。

 せやけど、あの男だけは――例外でありんす。

 黄昏たそがれていた折、部屋の扉が開かれる。

 肩まである髪を中分にした壮年の男性がわっちを見つけて下卑た笑みを浮かべんした。

「よほぉお……ツヴァイちゃーん?」

「……今月は早いなあ……?」

 動じないようにして見せるけれど、内心は畏れでビクついていんす。

 この男は、わっちの主人でカトルフォートと言う。

 金にがめつい男で、わっちのことも金の湧く蛇口とでも思っているのでありんしょう。一月に一度現れては金を奪っていきんす。

 いつも通りインセンがわっちの稼いだ金を持ってきんした。

 カトルフォートは、しめしめと金貨を数え始める。

 しかし、思ったほどではなかったようで、顔を顰めた。

「やっぱりこんな所か。二カ月様子見をしたが、ここではもうこれ以上絞り出すことはできないようだ」

 今回は冷静でありんす。前は憤慨して、場を荒されんしたのに。

「次は他国、海を渡った先に場所を移そうと思っている。お前という金のなる木があれば、どこでも稼げると知ったからなあ。もう俺の仕事の拠点を移す準備はできている。今すぐに発つぞ、準備をしろ」

 気付けば、カトルフォートの背後に怪しげな二人の男が立っていんした。

 顔の上半分を黒いマスクで隠した、同じ出で立ちの男たちでありんす。

 驚き勇む間もなく、脅迫にわっちの心は折れんした。

 二人の男の手には、それぞれ血の付いた刃が握られていんした。



 あれだけ煌びやかだったイキノシタ通りは、炎に包まれていんした。――もうわっちの逃げ場などどこにも無いかのように。

 亜人狩りから逃げおおせたのも束の間、空腹に倒れていた所、助けてくれたのがカトルフォートでありんした。

 けんど、ただの良心ではあらへんかった。貰った食べ物には体の痺れる効果があり、わっちは抵抗力を失ったのでありんす。

 そのまま奴隷商に連れていかれ、わっちはカトルフォートの奴隷へと落ちてしまいんした。

 それからこの娼館ミヤビが、わっちの家となり、男に対し酌をする毎日。

 幸いだったのは、魔法を使うことができたことでありんす。危ない時は魔法で難を逃れ、なんとかその日暮らしはできんした。

 誰も信じらんかったけんど、雇用主は優しくしてくれて。慣れてしまいんしたやわったい言葉遣いも皆で教えてくれました。不自由の中でもマシな方だったかもしれんせん。

 それが――今やただの記憶の中へと消えていきんす。

 ゆらゆらと燃える炎がまるでわっちを嘲笑っているかのようでありんすなあ……。

「さあ、行くぞ」

 せやけど――

「どうして皆を皆殺しにしたん? こんなんするなら、わっちやって要らんやろ。人殺して金奪えば、それで済むことやあらへんか!?」

「なんだ? 急に口答えか。そんなにここに情を作っていたのか」

「っ――!!」

「まあいい。お前の言うことの大半は当たっている。金なら根こそぎ奪った後だ。無論、奪った物は全てこいつらと分け合う手筈だがな。こいつらも高い。分け前をやって、安くしてもらっているんだ。

 さあ、これでもうお喋り終わりだ。さっさと来るんだ」

「人でなし……」

 わっちの声は、誰にも届かへんかった。

 カトルフォートの部下に背中を押され、強制的に歩かされる。

 あれが、最後の機会チャンスやったんやろうなあ。

 ほんまに、何してはるんでしょうなあ、わっち……。わろうてくれてええよ、ネロはん、クロはん。

 自分で、自分を貶めておるんやから。

「おい、そこで何をしている!!」

 カトルフォートの怒気に顔を上げる。

 護衛の二人は腰の短剣を抜いて警戒態勢になっていんした。

 熱さに歪む視界の先に、有り得ない男が立っているのが見えた。

「っ――!!?」



 ◇



 立ち並ぶ店が全て燃えていく。

 しかし、悲鳴が遠くからしか聞こえないのは、もう残っている者がいないが故である。

 幾らか燃える死体が転がっているが、それは何者かによるものだ。鋭利な刃物で斬られた痕が残されていた。

 そんな熱く眩しい通りを歩く四人組がいる。

 豪奢を装う狡猾そうな男を先頭に、旅装束の美麗な女性、そして二人の怪しげな恰好の怪しげな男たち。

 後ろの二人は、前の女性を無理矢理速く前に進ませようとしていた。

 そんな彼らの前を阻む少年が一人いた。

 眉間に皴を寄せ、痛い程に拳を握り締めた――ネロである。

「お前たち、何をやっているんだ!!」

 カトルフォートは後退る。

 少年から発せられたとは思えぬ覇気に慄いていた。

「くっ……なあに、火事から逃れた人を助けていただけだよ。俺たちは、この街の守り兵だからね!」

「そんな嘘が通じると思っているのか……! お前には、この通りの泣き叫ぶ声が聞こえないだろう。でも、ボクには聞こえる……恨めしいと言っている!!」

「まさか俺たちのせいとでも言うのか? これを、俺たちがやったとでも言うのか?」

「彼女を解放しろ!!」

「ちっ……ガキだと思って優しくしてやろうと思えば面倒だ。おい!」

 カトルフォートは後ろの護衛を一人呼びつける。

 すると――黒マスクの男が一人、素早く通りを駆け抜けてくる。

 短剣を前に構え、ネロの下へ到着と同時に振り抜いた。

 金属のぶつかり合う高音が鳴ったかと思うと、ネロは空中で一回転してカトルフォートへ向かって行った。

「なん……!?」

 たたらを踏むカトルフォートにネロは手に握る片手剣の矛先を向けた。

 しかし、途中で目の前をもう一人の黒マスクの男に阻まれた。

「な、何者だ貴様ァ!!」

「ボクは――そのつるぎだ。お前たちに抗えなかった亡骸の憂いと憎しみを聞く者だ! お前たちを絶対に許しはしないッ!!!」

「ツヴァイの剣だとォ……? 何を馬鹿げたことを抜かしている。こいつは遊女だ、貴様のようなガキが関わるような女ではない!!」

 エルグランデは俯いた。

(そうでありんす。あんさんをわっちは失望させ、見限られた身。偽の依頼を出したのは、わっちを救う力を持っているかどうかを知る為でありんす。あの占い師の言葉に耳を傾け、わっちのひん曲がった心があんな事をさせんした)

「わっちには……あんさんほどの業物を持つ資格などないのでありんす……」

 エルグランデの目から輝く雫が垂れていた。

(悲しみなんて、とっくに忘れたと思ってたのに、何故でありんしょう。涙が、胸の痛みが止みんせん……)

「そんなことはありませんよ、エルグランデさん! あなたはずっと助けて欲しいと願っている。初めに会った時も、クロの前でだってあなたはボクに救いを求めていた。だけど、あなたからその言葉を口にしてもらっていません。剣ならここにある。ボクは、あなたの言葉であなたに応じる剣だ!

 ボクが救ってみせます。ボクがあなたの求めている唯一の人です! あなたの気持ちを聞かせてください!!!」

『オレは、これ以上訊かねえ。これ以上はオレの領分じゃないからな』

(あれは――そういうことでありんしたか。あなたはどこまで……)

「っ――助けて……!! わっちは自由を……以前のように羽ばたいて生きたいでありんす!!」

 ネロは、相好を崩した。

 次の瞬間、前後から黒マスクの男たちが襲い掛かって来た。

「”第1段階(ファースト・ステージ)”」

 ネロは、短剣を持った前後の男たちの腕を受け止めた。

 いつの間にか彼の右目は闇の中に浮かぶ赤い月へと化していた。

「もう大丈夫……これからは、ボクたちがなんとかしますから!!」

「ガキの分際で!!」

 前後の二人は、まるで鏡のように同時に逆拳を突き出してくる。

 ネロは掴んだ腕を支点にし、空中で1回転する。

 後方の男の背後に回ると、片手剣を振るった。

 相手も直ぐに体勢を直しながら短剣で受け流したが、後退りながら尻もちをつく。

 その間にもう一人の男がネロに襲い掛かる。

 ネロは、全ての攻撃を刃で受け止め、隙を見て足払いした。

「くわっ!?」

「ガキだろうと、なんだろうと――ボクは、お前たちを倒す!!」

 体を反転させながら男を回し蹴りで蹴り飛ばした。

 地面に着地するまでのコンマ数秒――尻もちをついていた男がニヤリと笑って刺突しようとしていた。

(馬鹿め。空中では逃れられまい……!!)

「《空中歩行エアホッパー》」

 ネロは、空を蹴り刃から逃れる。

(バカな……詠唱省略だと!??)

「お前、一体――」

 振り返る刹那、男の後頭部を殴る。

 男は、気絶して倒れた。

 これでもう目の前を阻む者はいなくなった――。

 ネロは、カトルフォートの居る所へ移動し始めた。

「何の冗談だ……。貴様、この女にそれほど惚れたのか?」

「……」

「女より金だろ! 30金貨をやろう……これでこの女からは手を引け!」

「……」

「っ――ふざけるな! コレ(・・)は、俺の見つけた金のなる木だ! 誰にも渡さん。ガキには俺のビジネスが分からないだろう!!

 こいつで金を得て、俺はいつか一国の王となる。商業で発展させ、ゆくゆくは多くの魔道具と魔法師を集めてどんな国にも、権力にも怯えなくていい世界にするのだ! 俺は、貴様のような石ころに躓く器ではないんだ!!」

「黙れ……!! エルグランデさんは物じゃない。お前の薄汚れた野望に巻き込むなッ!!!」

「黙るのは貴様の方だ!! 貴様に何が判る……他の貴族に踏みつけられ、家督も財産も権力も失った俺には、こいつが必要なんだ。金が無ければ他人に貶められるんだよ……!! 金は力なんだ! 貴様のようなちっぽけな人間には理解することはできないだろうが、力の為ならなんでもするのは普通のことなんだ!!」

「自分の為に他人を貶めて飢えを満たしているお前に、他人に搾取されたどうこうを言う資格はない!!」

 力強く拳を握り、素早くカトルフォートの顎を殴り飛ばした。

「ぶふぉっ……」

 カトルフォートの体は、ぐったりと地面に落下した。

 気絶し、暫く目を覚まさないだろう。

 ネロは哀しみながら彼の姿を見ていた。

(あなたなら、奪われる側の気持ちが判るはずなのに……どうして……)


 エルグランデは、地面にへたり込んで茫然としていた。

 ネロが目の前に来ても、全く反応を示さない。

「エルグランデさん、大丈夫ですか?」

 ネロの声で現実に引き戻され、顔を上げる。

「大丈夫ですか? 迎えに来ましたよ」

「ネロはんって……こんなに強はったんでありんすか? さっきの男たち、たぶん想像もでけへんくらい強ーはずやけえど」

「うーん……ボクが強いって言うよりは、エルグランデさんのおかげです」

「は?」

「助けてって言ってくれたから、ボクもちゃんと助けなきゃって気になって、それで強くなれたんだと思います。間に合わなかった人たちには申し訳ないですけど、あなたが無事で本当に良かった」

 エルグランデは安堵したかと思うと、燃え逝く娼館を見ながら寂寥感に苛まれた。

「……わっち、生きていてよろしいんやろか。わっちの人生、このままここで終わってしまった方が――」

 エルグランデの頬がネロに掴まれる。

 彼女はきょとんとして、顰め面のネロと向かい合う。

「そんなこと言わないでください」

「でも……」

「助けたボクがバカみたいなこと――言わないでください。ボクは、あなたを助けたくてここに来ました。助けられて、正直ホッとしています。でももし他の人たち全員を救えて、あなただけ救えなかったらそっちの方が悲しいです。

 だから、生きてください。あなたに生きていて欲しいんです!」

「……本当におかしな御人や。あんさんが期待しているほど、わっちは良い人やあらへんよ」

「そんなのいいんです。だって、自分でいい人だなんて思っている人の方が怪しいでしょう?」

 エルグランデは、おかしそうに笑った。

「あはははは!」

「?」

「いえ、失礼しんした。あんさんから怪しいという言葉を聞けるなんて思わへんかったから」

「え、なんでですか……?」

「人を疑うことを知らへん御人やと思ってましたから」

「ボクだって人ですよ、疑うことだってあります。だけどたぶん……人を信じたい気持ちが強いんだと思います。だから、エルグランデさんがボクたちを騙した時は何か理由があるんだと思いました。ボクを試したかったんですよね」

「…………意外とネロはんの方が強そうですなあ」

「はい! だからボクに任せてください!」

(ほんまにおかしな人や。せやけど――この人とおると、なんや心がぽかぽかするわ)



 ◇◆◇◆◇



 朝、森の中で目が覚めると、とある少年の背中を見た。

 勇ましく朝日へと向いていた彼は、元遊女のエルグランデにとって本当の恩人である。

 彼の背中を見て安心するのは、それほど彼の強さが目に焼き付いたからであり、昨日の言葉が胸に在るからだ。

「早いなあ」

「寝ていないだけだ」

 一言だけだが、その口調で彼の顔を理解する。

(クロ……はん)

 先日の会話で毛嫌いされただろうと思い、言葉がつまる。

 せめて朝の挨拶でもと口を開くより先に、クロが呟いた。

「奴隷紋は取っておいた。あの男がまたてめェの前に現れても、てめェは誰のもんでもねえ」

 エルグランデは腹部を開き、確認する。

 あの忌々しい紋様は、姿形を無くしていた。

「……おおきに……。あんさんはホントになんでもできはりますなあ」

「オレは、てめェみたいな女なんざ切り捨てろって言ったんだ。だが、ネロはてめェを切り捨てなかった……。あいつにとって他人を助けるってことは、贖罪みたいなもんなのさ」

「何か、罪を犯したのでありんしょうか……?」

「あいつの親は殺されたからな……。あの時、自分に力があれば、とか情けないこと考えてるやわちゃんなんだよ」

「そうでありんすか……。せやけど、その軟い所にわっちは助けられんした。わっちはあんさんらに仇はあっても恩なんて微塵もあらへんというのに」

「てめェ、オレたちと一緒に来るつもりはあるか?」

「……急な申し出でありんすね。わっちのこと、嫌いにならはったんやと思てましたけど?」

「てめェは、ネロに助けられた人間だ。ネロが自分一人で、だ。だから、てめェが生きていることを実感させてやりてえんだよ」

「どんな体裁でも、ウチはかまへんよ。あんさん……いえ、ぬしの意に従うつもりでありんす」

「そうか」

 表情を緩めながら朝日へと向き直る。

 人は何かをする時、思わず支えてくれるものを探してしまうものだ。

 ネロにとっては、クロであり、仲間である。

 しかしクロにとっては、唯一――ネロだけなのだ。

 ゆえに、クロはネロを大切にしたいのだろう。

 そう思ったエルグランデは、おもむろにクロに寄り添い腕を絡めた。

「わっちも主の傍に置かせてください」

「……好きにしろ」



 ◇◆◇◆◇



 カイセディア公国南部ブルーノ子爵領バンブの村。

 子爵の領地とはいえ、この街はさほど賑わっているということはなく、主に冒険者や旅人の通過地点として使用される。

 近くにはダンジョンもあるが、あまり大きく無いため利用する者はそれそど多くない。

 とはいえ、村の用途的に宿が多く立ち並び、ポーションなどの旅人用のアイテム店がある。

 この街は、ネロたちにとっては目的地である。

 1日ほど早く着いていたイミルたちは、村の下宿宿に寝泊まりしている。

 ネロとエルグランデが到着したのは、真夜中だった。

 閑散とする広々とした通りを、月明かりだけを頼りに皆が泊まっている宿を見つける。 

「お借りなさいませニャン、ご主人様!」

 第一声は、宿の前で待っていたククルである。雀躍しながら歩み寄ってきた。

(ご主人様呼びに戻ってる......けど、今はいいや)

「ククルさん......ただいま」

 ククルは、エルグランデを一瞥してはにかんだ。

「皆いるニャン。ささ、こっちですニャン」

 ククルに案内され、皆と再開する。これで無事宿に全員が揃ったかに思われたが。

(あれ、なんか増えてる?)

 仏頂面のイミルに背を向けて座るダークエルフがいた。二人の雰囲気からして、どうやら喧嘩をしたらしい。

 ネロは、ダークエルフの顔に見覚えがあった。

「おかえりなさい、ごしゅじ............ね、ネロ様......」

 獣人の少女が恥ずかしげに言い直す。

「ただいま。

 ……ねえ、なんであの人がいるの?」

 挨拶を返すついでに小声で訊ねると、答える間もなくダークエルフがぎろりと睨みつけてきた。

 スレンダーな身を夜に紛れるような黒い装束で身に纏う。切れ長の目は威圧感があるも、優麗な容姿は紛れもなく彼女である。

「この前ぶりだな――魔人ネロ・ディア・ロスティル」

「今日の昼間に訪ねてきたんです。ご主人様が来るまではここに居座るって、イミルさんと喧嘩しまして……」

(なんでまた……。この前で懲りていないんだろうか)

「…………えっと、ダークエルフの人……。名前、なんでしたっけ?」

「ヴィル・クルシュ・ダーバス・レ・ベグリアだ。何度も名乗らせるな、物覚えの悪いヤツめ!」

「お前、勝手に乗り込んで来たくせにその口の利き方はなんなんだ!」

 イミルがキッと食って掛かる。

 すると、ネロはイミルの前に出た。

「おい! あたしの前に立つな!」

「いいから、イミルちゃんは少し下がっててよ」

(どっちみち変わらないだろうけど、イミルちゃんを前に出しておくのはまずい……)

「すみません、ヴィルさん。ここに来たっていうことは、単にボクを狙ってということではないんだよね。じゃなきゃ、奇襲でもしてるだろうし」

「わたしは負けた。その事実は受け入れているし、奇襲したところで叶わないのも理解している。だから、決闘を申し込みに来た。わたしは最初から最後までダークエルフだ、魔人を根絶やしにしなくてはならない。貴様が勝ったなら、この身をどうしても構わない。しかし、わたしが勝てば、貴様には死んでもらう!!」

 ヴィルは、腰の剣を鞘ごと掲げて宣言した。

 これは、ダークエルフの戦士にとっては宣戦布告を意味する。

 ネロは、物憂げに唸った。

「うーん……それ、また今度にしてくれませんか? 今日はずっと歩いて疲れましたし、早く食事にしたいです」

「なに!?」

「ご主人様をお待ちして、まだ皆食べていなかったんです」

「え、大丈夫? 食べてても良かったのに……」

「ご主人様より先に夕食を食べるのは、気が引けますよ」

(そういうものなんだ……って、ボクご主人様じゃないんだけど!?)

「外に食べに行くニャン!」

「ネロ、あたしは肉がいい」

「え、あ、うん……。あ、ヴィルさんも一緒にどうですか?」

 強張っていた表情は『肉』という提案に緩み、口の端から涎が垂れる。

「肉か?」

「もしかしてダークエルフって肉ダメとかあります? でも、スタインは全然そんなことなかったですけど……」

「無論、そんなしきたりは無い。里だと狩猟はするが、肉にありつけることはほとんど無かった。狩り過ぎてはいけない掟があり、俗物にならないようあまり世俗の物には手をつけていなかったから……ゆえに、興味があるし、食べたい。食わせろ」

 ヴィルは圧を掛けながら早口で捲し立てた。

「ああ、はい……」

(戦闘中も思ったけど、この人からは悪い感じがしないんだよなあ)

「おいネロ、そいつも連れて行くのか?」

「うん! 皆で食べた方が美味しいよ!」

「そんな訳ないだろ! どこで誰と食べようと同じだ!」

「まあ、一緒に食べてみれば分かるって」



 ◇◆◇◆◇



 肉料理は、冒険者ギルド提携の店でなければ、こんな質素な街では出すことはできない。というのも、肉料理に使われる肉のほとんどが魔物の肉だからである。冒険者ギルド提携の店であれば、仲介料が安く済んでなんとか一食あたりの単価が平民でも手の届く額になる。

 しかし、一介の村料理店がギルド提携になっているというのは珍しい。冒険者ギルドがあるのはカイセディア公国魔都であり、村からは馬で半日は掛かる距離なのに、だ。

 その理由は、公国冒険者ギルド元ギルドマスター専属の調理師を店長が担っていた伝手があるからだ。

 雇われていたギルドマスターが辞職したタイミングで還暦を迎え、田舎に帰って来たらしい。

 おかげでバンブの村には、圧倒的な人気を誇る料理店が存在する。

 それがここ――【シテンレスの駆け下り亭】という店である。

 この店で一番人気の肉料理と言えば、ウルスストンという猪型魔物の肉を使った料理だ。

 腹の肉はボイルし、脚の肉はこんがり焼きあげる。二種類の違った歯ごたえを楽しみつつ、店独自の垂れが絶品だというのがもっぱらの噂だった。

 フーイ、ククル、プルの三人は、初めは遠慮していたものの、目の前に料理を出されて我慢できなくなった。

 エルグランデは、他の者たちよりも綺麗に食べることを主張したいのかゆっくりした食事だ。

 イミルも好物だったようで、機嫌良く。

 ヴィルは、おかわりを強請る始末。

 そのせいでイミルとヴィルはいがみ合うのだが、ネロはそれぞれに追加で注文して場を落ち着かせた。

(ようやく来られてよかった。本当は、家族で来るつもりだったけれど……でも、これも楽しい)

 各々の楽しみ方で舌鼓を打ったところで、イミルがぶっきらぼうに訊ねてきた。

「それで、これからどうするって? ここが目的地って話だったけど、この村には何もないぞ」

「何を言っている? こんなに良い店があるだろう。私はここを気に入ったぞ」

「お前には聞いてない。黒エルフは食ったらさっさと帰れ、そして金を返せ!」

「なんだと? 我が種族を愚弄するなら、人族と言えど斬るぞ……!」

 今にも喧嘩が始まりそうな険悪な雰囲気の流れるところ、エルグランデが諫めた。

「やめなんし! 主の声を聞く時間やで」

「「フン!」」

(息が合ってるなあ……)

 エルグランデに「ありがとう」という意味で頷き、ネロは話を始める。

「ボクたちのお店をこの村に作ることにしたんだ」

「店? おい、まさかあたしに手伝わせるとか言わないよな!?」

「えっと……イミルちゃんはそこまでじゃないかな。メインは、プルとククルさんとフーイさん、そしてエルグランデさんの四人」

「どないなお店を始めるつもりなのでありんしょうか?」

「パン屋にしようと思う。実はこの近くに小麦を栽培している場所があるから、材料の確保も簡単にできるはずだし、ボクはパン屋でアルバイトしてるから知見もあるしね! できれば、ハブアニアベーカリーの二号店にしようと思ってて。まだ王都の店には了解貰ってないんだけど、もしダメだったら、その時はその時考えようと思ってる」

「パン屋でありんすか……主はなんでもできるんやなあ」

「パンのどこがいいんだか」

「はーい! ククルは、パン屋やりたいニャン!」

「ご主人様の考えるパン屋、楽しそうですね」

「わ、わたしも……頑張ります!」

「もう物件はイミルちゃんに確保して貰ってて、家具とかはこれからなんだけど、皆手伝って貰えるかな?」

「勿論ニャン!」

「異存ありんせん」

 愚痴を零すイミルに対し、他の者たちは揃って了承する。新しく何かを始めることに前向きな姿勢であった。

「――魔人」

「はい?」

 ヴィルがねめつけてくる。

 小一時間前は決闘を申し込んできた相手であり、イミルは何かしでかすつもりかと警戒する。

 獣人たちにも緊張が走るが、ネロはきょとんとしていた。

「なんか面白そうだ。私もまぜてくれ!」

「いいですよ」

 杞憂に終わって大きく溜息を吐く面々を他所にヴィルは目を輝かせていた。

「これで店員が増えたね。というか、王都を出た時と比べると二倍くらいに増えてるや」

「そりゃあ途中であたしと、半分子ハーフエルフと黒エルフを拾えばそうなるだろ。まっ、あたしは手伝ってやらないけどな!」

「でも、クロに言われたら手伝うでしょ?」

「うっ……あ、当たり前だろ! ご主人に言われたらな……!」

 イミルは腕組みすると、唇を尖らせてそっぽを向いた。

(やりたくないんだろうなっていうのが判る。まあ、クロが手伝えとか言わないと思うけど)

「よし皆! 明日からよろしく!!」



 ◇◆◇◆◇



 パン屋となる建物は村の端の、南側にある村門が目と鼻の先という場所だった。

 魔物が襲ってきた場合、始めに犠牲となる可能性があるとして建物や敷地代は安く済んだが、ネロは少し不満気であった。

 ネロは度々顔を見せるつもりだったが、基本的にはラトゥーリエ王国のセオムティラ教会に住むこととなる。この場が危地となった時に直ぐに来ることはできないのだ。

 購入に際して、担当したのはイミルである。以前クロが命令したのだが、詳細には話していなかったのが仇となった形だ。

 安く済ませたのは、イミルなりの気持ちだったので叱ることはできない。

 しかし、全員がこの立地を了承、もしくは喜んだ。

 建物は二階に幾つか部屋が設けられており、宿と大差ない。庭も広く、獣人たちにはとても良い場所だという。

 幸いフーイ、ククルは一般冒険者以上の手練で、ヴィルは暗殺部隊の隊長である。戦力的にはむしろ、村の中で一番向いていると言えるだろう。

 ネロは、皆の嬉しそうな顔とフーイたちの説得もあり、別の建物を探すのはやめにした。

 それから内装作りと同時に庭に倉庫を作り始めた。

 獣人たちは素早く、力持ちでもあった。獣人族の血のおかげだろうが、おかげで内装と倉庫を作るのにそれほど時間は掛からなかった。

 不機嫌だったのはイミルである。

 雑な作業にクロが出るはずもなく、それでいてネロの口八丁で手伝わされていたからだ。「なんであたしが......」というのは、もはや口癖となっていた。

 力仕事をフーイとククル、それにヴィルとイミルが入り、パンの材料のツテを探すなどはプルとエルグランデの仕事となった。

 以外にもエルグランデが熱心で、頭の回転が早い。また、言わずもがな綺麗な容姿が受けて、一月のミルクの料金を抑えられたのも彼女のおかげである。

 ともあれ、パン屋としてはまだまだではあるものの、二日も経たずして家としては出来上がった。


 朝、目を覚ますのは住み始めたばかりの家の天井である。

 ネロは、久しく眠った感覚になった。

 普段はよくクロに体を使われる為、体自体は寝た気にならないのが常である。

 しかし今回は違う。夜もクロは行動を起こさなかったらしい。

 ネロは体を起こそうとするが、体に巻き付くものがあったので躊躇われる。

 首をもたげて確認する。

 フーイとククル、プルの三人が、ネロの体に寄り添って眠っていた。

「起きなはったかい?」

 エルグランデが窓際の椅子に座っていた。

(また、窓の外を見ていたのだろうか……)

 茫然とするネロを見て、エルグランデは蠱惑的に笑う。

「外に何かありますか?」

「朝日を見ていんした。ミヤビの窓からは角度的に見らへんかったけえど、ここはよう見えました」

「綺麗でした?」

「ええ、とっても。まるで――主のようでありんした」

「ボクは太陽でも、ご主人様でもありませんよ。ただのネロ、一般人です」

「わっちの心を見抜き考えさせてくれはったクロはんも、わっちを見捨てず救ってくれたネロはんも、どちらにもわっちは身を預けたいと思いんした」

「そんな……勿論ありがたいとは思いますけど。ボクは、エルグランデさんに幸せになって欲しいと思ってます。だから、ここに留まることを無理強いしたくないんです。パン屋っていうのも、今後の足掛かりにしてもらっていいので……」

「そないなこと言わんといてください」

 エルグランデは寂寞せきばくした表情でネロの隣に移動する。

「寂しいのでありんす。わっちは、主の傍にいたい。せやから、そないなこと言わんといてください」

 白い指がネロの頬を撫でる。

 儚くも艶めかしい色香にネロの頬が赤くなった。

「わわ、わかりました。ご、ごめんなさぃ……」

「謝らないでください。主は、わっちが思っているよりもずっと――ひたむきで優しいお方であることは、分かっていんす。ただ、まだ……わっちの心が弱い内は、気を遣って欲しいと、我侭わがままを言ってしまいんした」

「……はい」

「おい、その辺にしときなよ半分子」

 部屋の片隅で、イミルがこちらを睨み付けていた。

 眼光が鋭く、今にも襲ってきそうな威圧感を放っている。

「今はネロでも、その体はご主人のものでもあるんだ。お前が触れていいもんじゃないんだよ……!」

 一応眠っている者たちを気遣っているのか、怒号を上げることはなかったが、口調と声色には内なる怒りを感じる。

「怖いなあ――……でも、わっちは欲張りでありんす。番犬ちゃんには悪いけえど、主を軽く扱う人にとやかく言われとう無い。宣戦布告なら、受けさせてもらいましょ」

「ダメだよ二人共――本気の喧嘩は、家が壊れるからね」

 イミルが一歩後退った。

 不意を突かれたとしても、今の一瞬恐れを抱いたのは紛れもない。

(あたしが、ネロに……気圧された!!?)

 圧が発せられたのはイミルに対してだけであり、エルグランデは申し訳なさそうにするだけだった。



 ◇◆◇◆◇



 ネロとイミルは、一度王都へ帰ることになった。

 朝方、セシルからの定期通信(テレパス)で王都の方で何かあったという連絡を受け急遽決めた。

 エルグランデたちは、後ろ髪を引かれながらもネロたちを見送りに出る。

 やや冷える外は少し霧が掛かっている。

 エルグランデとヴィルは冷え込む温度に厚着や厚手の服を着ていたが、獣人たちはそれほど気にならない温度らしい。

 ネロとイミルも同じく旅装束に動きにくいような恰好にはしなかった。

 既に働き始めている村の人々が村を出入りするものの、通過地点である村では人の出入りは激しくネロとイミルは然程目立たない。とはいえ彼女たちにとっては、ネロは唯一無二の存在となっている。

 陰鬱な表情が並ぶ中、エルグランデが代表する。

「道中お気をつけなはってください。わっちは、主の為なら国境をも超えるつもりやよ」

「……それはやめてください。ラトゥーリエ王国は、亜人が……」

「分かっておりんす。それでも、主の下へ馳せ参じる為ならば火の中水の中、怖い事はあらへん!」

 エルグランデの言葉に同意するように、後ろに並ぶ獣人たちは頷いた。

「皆を頼みます。パン屋ができるまで居たかったですけど、それはまた今度に。とりあえずはゆっくりやってください。お金はイミルちゃんに届けさせますので」

「……は!? おい、聞いてないぞネロ!!」

「心配せんでええよ。そこらはわっちが上手いことやっときますから。プルちゃんもいることやし」

(仲良くやれているようだ。パン屋開店まではまだ時間が掛かるだろうけど、皆頼もしいから心配はなさそうだ)

「じゃあ行くよ、イミルちゃん」

「そんなことよりさっきの話は何だ!? あたしはお前の奴隷じゃないんだからな!」

「はいはい。ちゃん付けはもういいんだ?」

「いいわけないだろ! いい加減にしろ!!」

 別れの言葉は無い。

 また帰って来る。そう信じて、誰も口にはしなかった。

 しかし、王国の亜人差別がある限り不安を持ってしまう。

 皆、亜人差別の無い公国に逃げてきたのと同時に王国へ入ることが難しくなった。ネロが来るのを待つ以外無い。

 ネロたちの背中が遠くなるたびに表情が曇り掛かる。

「ネロ様……」

「心配することはあらへん。わっちらの主は、生半可な男やあらしまへんよって」

 エルグランデの言葉に各々頷いた。

「さあ、仕事に取り掛かるニャン!」

「はい!」

 元奴隷たちの新しい人生が始まりを迎えた。

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