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Welt der ostasiatischen Föderation  作者: Hendrik-Verwoerd
東亞連邦の全容
7/63

歴史part6(1953年から1956年)

楽しんでくだされ。

挿絵(By みてみん)


 1953年6月15日ー東亞連邦は、モンゴル国と国家統合をする旨を、全世界に表明した。

 また、それとの度重なる交渉によりソ連と

「ソ連に経済支援を12年間行い、ソ連のいかなる政策にも口を出さないことを条件にタンヌ・トゥヴァの領土譲渡と諸地域の割譲を認める。」

 という内容の東ソ領土規定条約を締結した。


 この条約は1953年6月25日から履行される事となった。


 ちなみに、この経済支援は「10年間のみ」との規定だった。

 しかし、この「10年間の規定」は後で大幅に変更される事となる。


 今からその理由を述べたいと思う。


 理由としては、もともとソ連に対して「wtoに加盟する。」と言っておいたのに、結局のところ、加盟しなかった罪悪感が東亞連邦政府に蔓延していた。

 しかし、ソ連のフルシチョフ書記長が、1954年の「第一回ワルシャワ条約機構総会」において東亞連邦が「条約不履行の事」についての謝罪を対面で述べた際に

「仕方のない事です。もうあの時から約10年も経ったのですから、気に病む必要はないです。」

 と発言したことにより東亞連邦はソ連に救済され、もう何も気にする必要が無い自由な外交活動ができるようになった為というのが理由である。

 その後としては、東亞連邦は感謝の印としてこの後25年間にわたって条約が無効になった1965年以降も大規模な経済支援を続けた。

 また、ソ連もまさか条約が切れた後にも経済支援をしてくるとは思わなかった為、提供されたお金を急いで全国のインフラ整備にまわし年10%の高度経済成長を成し遂げていた。

 しかし、資金が1965年初頭に底をついた為に手をこまねいていた。

 しかし、条約履行期間終了後の1966年も東亞連邦からの大規模な経済支援と追加された無償資金援助が到来した事により、国内の残りのインフラや軍を強化並びに整備を大いに進めれた事で、ソ連邦の経済は高度経済成長を成し遂げ、アメリカ合衆国の25分の1・日本国の4分の1までの規模にまで成長できた。

 そのソ連時代の蜜月関係により、ソ連の完全後継国家のロシア連邦政府やその配下のロシア国民は現在まで東亞連邦に対して熱烈な親愛感情を抱いている。

 このように東亞連邦は貧しい白人・アジア人の国々に多額の経済支援をしている為に、その国たちからの感情は良いが、共産主義の東欧に力をつけてもらいたくないという思惑を持つ西欧諸国や貧しいままのアフリカ各国からは憎悪の目を向けられている。

 この事態を受けてか、最近は西欧諸国との関係強化や嫌々ながらもアフリカ各国への経済支援諸策(ただし、アフリカ諸国に対する支援は、白人・アジア人国家に対する支援の30分の1にしか満たない。)を行なっている。

 日本や西欧諸国は、東亞連邦を「東側諸国」と認定している。


 1953年6月25日ーモンゴル国・トゥヴァ共和国・ウルルン島+諸地域(280㎢)編入。

 これにより面積は593万8000㎢となった。

 また、当時の世界第9位の国土の広さとなった。


 1953年7月1日ーエドガー・フーヴァー連邦捜査局長官を始めとする連邦捜査局(通称FBI)が。「コインテルプロ」を開始することとなった。

 アイゼンハワー政権の秘密裏の公認を受けながらの「コインテルプロ」であった。


 ここで、エドガー・フーヴァーについて解説したいと思う。

 ここでエドガー・フーヴァーを解説する際は、「エドガー・フーヴァー」ではなく、「フーヴァー」とのみ記載して、解説したいと思う。


挿絵(By みてみん)


 ジョン・エドガー・フーヴァー

 (John Edgar Hoover)


 1895年1月1日〜2005年5月2日



 第1代在留敵国人登録庁長官


 任期ー1917年7月1日ー1919年2月10日


 第3代捜査局長官


 任期ー1919年2月10日ー1935年3月22日


 初代連邦捜査局長官


 任期ー1935年3月23日ー2005年5月2日



 彼が人生で仕えた大統領は以下の通り


 ウッドロウ・ウィルソン

 ウォレン・ハーディング

 カルビン・クーリッジ

 ハーバート・フーヴァー

 フランクリン・ローズベルト

 ヘンリー・ウォレス

 ドワイト・D・アイゼンハワー

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ

 リンドン・ジョンソン

 リチャード・ニクソン

 ジェラルド・フォード

 ジミー・カーター

 ロナルド・レーガン

 ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ

 ビル・クリントン

 ジョージ・ウォーカー・ブッシュ



 彼が人生で仕えた司法長官は以下の通り


 Thomas Watt Gregory

 A. Mitchell Palmer

 Harry M. Daugherty

 Harlan F. Stone

 John G. Sargent

 William D. Mitchell

 Homer Stille Cummings

 Frank Murphy

 Robert H. Jackson

 Francis Biddle

 Tom C. Clark

 J. Howard McGrath

 James P. McGranery

 Herbert Brownell Jr.

 William P. Rogers

 Robert F. Kennedy

 Nicholas Katzenbach

 Ramsey Clark

 John N. Mitchell

 Richard Kleindienst

 Elliot Richardson

 Robert Bork

 William B. Saxbe

 Edward H. Levi

 Dick Thornburgh

 Griffin Bell

 Benjamin Civiletti

 William French Smith

 Edwin Meese

 Stuart M. Gerson

 William Barr

 Janet Reno

 Eric Holder

 John Ashcroft

 Alberto Gonzales



 フーヴァーの概要


 1919年ーウッドロウ・ウィルソン大統領により、異例の24歳という若さでアメリカ合衆国司法省内の捜査局(Bureau of Investigation:BOI)の第3代長官に任命された。

 捜査局が、ルーズベルト大統領によって「FBI」に改称された後も、その長官職を引き継いだ。


 そして、2005年に死去するまで長官職にとどまった。


 2005年の死去当時の110歳とは、現役の政府役人としては最高齢での死去であり、その記録はぶっちぎりでのギネス世界記録にも記録されているほどである。

 彼が死去した時に、彼が長官職に就いた年に生まれた子どもが老衰で同じ年に亡くなっているのを鑑みると、彼の長官在任がどれくらい長かったのかわかると思う。


 このニュースを見た際に、世界各国の人らには、

「110歳になっても、まだFBI長官の座にしがみついていたのか!」

 と驚きを持って受け止められていた。

 また、日本においても、

「約90年間もFBI長官職に在職し続けたジョン・エドガー・フーヴァー氏が、クライド・トルソンFBI副長官と共に老衰で死去。110歳没」

 とのニュースが報道され、大きな反響を呼んだ。

 そして、本番アメリカにおいては、

「フーヴァー、遂に死す。」

 との見出しのニュースが、連日テレビで報道された。

 あまりにも多く報道されたために、記憶に残る者が多くいたという。

 ソビエト連邦においては、

「アメリカ合衆国は、我らを非難するより、我らより長生きで権力欲深いこの男を非難するべきだった!」

 と痛烈に非難を行い、アメリカ合衆国の「偽善」について説いた。


 フーヴァーは、就任当時のウッドロウ・ウィルソン第28代大統領からジョージ・ブッシュ第43代大統領までの、16代の大統領に仕えた。

 上司である司法長官に至っては、トーマス・ワット・グレゴリー第49代司法長官からアルベルト・ゴンザレス第83代司法長官までの、35代の司法長官に仕えた

 このあまりにも長すぎる在任によって、後半期の大統領たちは、

「フーヴァーとトルソンは、いつになったら死ぬのだろうか?」

 という疑問を抱えずにはいられなかったという。


 この記録は、現在(2025年)に至るまで、世界で最も長く政府機関の長を務めた人物のギネス世界記録をも堂々と獲得している。


 彼以上の傑物は、世界中どこを見ても現れないだろう。


 なお、彼以降のFBI長官の任期は、権力の集中や犯罪組織との癒着を防ぐために〈10年〉に制限されている。


 FBI長官としてのフーヴァーは、

 1ーFBIを弱小機関から巨大な犯罪捜査機関として強化したこと

 2ー指紋ファイルや法医学研究所などの捜査技術の近代化

 3ー科学的な捜査手法を導入したこと

 上記の3つの大きな業績が主に大評価の対象となっている。

 ただし、その他にも様々な成果を達成したということは言うまでもない。


 特に、指紋ファイルや科学装置を使用した証拠集めは、全世界の警察機関・情報機関のやり方において普及することとなるくらい画期的であった。

 上記のおかげで、殺人犯・凶悪犯・スパイ検挙率が特段に上昇し、

「下手な戦争よりも世界平和に貢献した!」

 という主張が、現代においても根強く見られるほどである。


 これらは、彼やFBIの素性が明らかになった現代においても、アメリカ本土や世界中から、彼の功罪の「功」の部分として大絶賛されている。


 あえて言うなれば、現代の刑事捜査の原点を作った人物である。


 しかし、40年間の晩年と死後、フーヴァーは権力の乱用が明らかになり、議論の余地のある人物となった。


 彼は、FBIの管轄権を超え、政治的な反対者や反政府的活動家に対してFBIを使って秘密ファイルを作成し、不正な方法を使って情報を収集したことが判明した。


 彼と副長官は、21世紀の世であるにもかかわらず、一向して「女性の参政権」や「黒人の人権」などはもちろんだが、遂には「異人種間恋愛」などを認めなかった。

 その際たる例として、FBI捜査官にも女性や黒人を一切入れさせなかった。

 このように、フーヴァーは現代において超少数となった最後に近しいほどの超古典的思考の持ち主であった。

 これは、21世紀の現代において、19世紀の思想を頑なに保有している者が未だに権力を持てるという、新たなパラドックスとなり、世の中が、未だ現代と名を偽る似非現代社会であることを痛感させた。


 彼と副長官の死によって、19世紀の「古き良き時代」は終焉を迎えたとされる。


 そして、フーヴァーを始めとするFBI全体によって行われた「コインテルプロ計画」により、ブラック・パンサー党などが潰れることとなった。

 冷戦時代に起きたいくつもの中東戦争におけるアメリカの介入においても、国内の反戦運動家を「コインテルプロ計画」により、尋問や盗撮はもちろんだが、そこへ更に脅迫や盗聴を加えるなどにより弾圧。

 こうして、反戦運動を消滅させたことは、彼の功罪の「罪」を語る上での欠かせない材料となっている。


 そして、「マルコムX」に代表される公民権運動家を弾圧したのは、フーヴァーによる指示だったとのまことしやかな説が囁かれている。


 また、「ケネディ大統領暗殺未遂事件」を起こしたのは、リー・ハーヴェイ・オズワルドとされているが、その支援には、サム・ジアンカーナやフランク・コステロなどの、フーヴァーと仲の良かったマフィアの影が、あちらこちらにちらついている。

 まあ、最近はCIA〈アメリカ合衆国中央情報局〉による説が有力視されているが。


 さて、フーヴァーの闇について語るなら、マフィアとの関係も話しておかなければならない。


 まず、フーヴァーの驚くべき点を紹介したいと思う。

 それは、「マフィアと結構懇意にしていたのにも関わらず、自身やFBIの弱みを見せるということは決してしなかった。」ということである。

「マフィアと懇意にしている」というこの事実だけで、現代では社会生命はたたれてしまうのであるが、この当時は、マフィアと協力する代わりに応援してもらうというのは、当然の時代だったのである。


 何せ、あのジョン・F・ケネディでさえ、マフィアとの関係が確実視されているのだから。


 しかし、マフィアという組織の特性上として、付き合いに危険が伴うのは、今も昔も同じこと。

 フーヴァーのすごいところは、自身の弱みを握られることなく、逆にマフィアのボスの決定的ダメージとなる特大スキャンダルを秘密兵器として持っていたことにある。


 例えば、サム・ジアンカーナの「コーサ・ノストラ」の掟破りの暴露のことが主な例として挙げられるだろう。

 事実、彼はこの暴露により、のちに暗殺されるところまで行ってしまった。


 しかし、このようにしてマフィアなどに対しても時折超強硬な態度を見せ、しまいには生殺与奪の権利を握るフーヴァーも、一応は、マフィアを表世界からの攻撃から守っていた。

 そのため、ボナンノ・ファミリーやヴィト・ジェノヴェーゼなどのマフィアが犯罪を犯した時も、「FBIの管轄外である。」として、特別強い態度に出ることは、最後までなかった。

 また、競馬やカジノなどの賭博好きのフーヴァーやトルソンは、賭博界に強い影響力を保持していたフランク・コステロにだけは、いろいろ融通したりと特別優しかったと言う。

 そして、別に特段驚くことではないけれども、マフィアから収賄があったことが死後明らかになっている。


 そういうわけにより、これほどまで散々と淡々とフーヴァーの凄さを述べていたらわかると思うが、彼の最大の有能な点にして怖いところは、彼は副長官と共に、表世界と裏世界の両方の世界の有力者らのスキャンダルや問題を握り、両世界を事実上支配していたことである。


 これでは、事実上彼に仇をなす敵はいないということになる。


 その結果として、フーヴァーには権力が集中し、16人もの大統領の政治生命をも脅かす闇の立場となった。

 まぁ、当然の結果であると言えるだろう。

 逆に、これで権力が集中しないわけがないのであるがな。



 彼に対する賛否の評価


 伝記作家のケネス・アッカーマンは、フーヴァーの秘密ファイルが大統領による罷免から彼を守ったという考えは誤っているとする。


 しかし、リチャード・ニクソン元大統領は、1971年にフーヴァーをFBI長官職から罷免しなかった理由の1つとして、フーヴァーからの「スキャンダルの暴露」という形での報復を恐れていたと述べている。


 在任中のウッドロウ・ウィルソン元大統領も、彼の行動に、

「彼〈フーヴァー〉と彼の愛人〈トルソン〉は、大統領である私を遊戯劇場のパペット人形のようにこき扱うつもりなのだろうか?」

 と側近に苦言を呈したと言われている。


 ビル・クリントン元大統領は、

「100歳を超えた際も、健康鑑定での肉体年齢は65歳程度と化け物のように異常に若く、顔色も私とそう変わらず、権力欲とトルソン副FBI長官に向ける愛情の深さも私が下院議員になった時と変わらずだった。ほんとうに一体いつ衰えるのだろうか?」

 と恐怖することとなった。」と、のちに回想している。


 フーヴァーが仕えた最後の大統領であったジョージ・W・ブッシュ元大統領は、CNN記者とのテレビインタビューにおいて、

「フーヴァー長官は、110歳近くなった最後の方になっても元気旺盛で、スタスタ歩くし走るし、スキャンダルなどで私たちを脅してくるなどを相変わらずしてきました。

 だけど、前と比べて感慨深くなることが多くなってましたね。

「大統領閣下で、ウィルソン大統領から16代ですか、私は少々長生きしすぎたようだな。ケネディの野郎もつい最近亡くなった。これが、悪い奴ほどよく生き残るってか、なぁトルソン。」

 と自虐をして、笑いをとっていましたね。

 私としては、私のお父さんが生まれる前から長官をやっていた人ですからね。

 敵意というよりかは尊敬ですよ。

 よくぞ約90年間に渡り、さまざまな罪の部分もあるけれども、国内をまとめ上げてくれましたねと。

 みなさんは、う彼についていろいろ思うかもしれません

 しかし、私は彼を「曲がりなりにも愛国者」だと思いますね。

 権力に目が眩んでいたのは本当でしょうけど、国を自分の欲で傾けてない時点でだいぶん自制してますよ。」

 との非常に肯定的な意見を述べた。

 この意見は、結構好意的な見方で評価された。


 ヘンリー・ウォレス元大統領は、大統領退任後に実施されたインタビューにおいて、次のように述べている。


「自由民主主義の砦であるアメリカにおいて、ファシズム的性格を持つゲシュタポや秘密警察は欲しくない。

 しかし、フーヴァー率いるFBIはその方向に向かっているように感じる。

 彼らはセックススキャンダルと明らかな脅迫に手を染めているし、J・エドガー・フーヴァーとクライド・トルソンのカップルは、自らが優位に立つためなら自らの右目すら差し出すだろう。

 それにより、上院と下院の全ての議員はもちろんであるが、ハリウッドや学者に至るまで彼を恐れている。

 ただし、良い部分もたくさんあるが。」


 フーヴァーのFBI長官在任期間は87年間にも渡り、アメリカの政治・芸能・文学に大きな影響を与えた。

 また、クライド・トルソン副FBI長官の在任期間も同じく87年間にも渡った。

 ちなみに、彼とフーヴァーの関係は、アメリカの文学・映画に大きな影響を与えることとなった。



 経歴


 1895年ージョン・エドガー・フーヴァー誕生


 ワシントンD.C.生まれと自称していたらしいのであるが、詳しい出自は明かされていない。

 また、幼い時の詳細はほとんど知られていない。

 出生証明書は、彼が43歳となった1938年までファイリングされなかった。


 現在において、よく知られる初期のプロフィールは、ジャーナリストのジャック・アレグサンダーが、1937年にニューヨーカー・マガジンに執筆したものによる。


 フーヴァーの実父は、連邦政府職員であったが心を病み療養生活に入っていた。


 1912年ーフーヴァーは、フィリップス・アカデミー高校を卒業した。


 同年ーハーバード大学へと首席入学という天井無比の学才を発揮して入学した。

 そして、学士号を取得することに成功した。


 同年ー父親が療養中だったフーヴァーは、昼はハーバード大学で学業に勤しみ、夜はハーバード大学の図書館で正規として働くという、非常に大変な苦労をしながら学費を稼ぐことを開始した。

 また、翌年のからフーヴァーに憧れて同じ大学に飛び級で入学してきた当時13歳のクライド・トルソンから、資金援助を受けることによって、生活に至っても幾らかは楽になった。

 そして、トルソンからの援助資金もこれもまた学費に充てることに成功し、退学になることはなかった。

 残念なことに非常に生活は苦しかったらしいが、楽しい学生生活が送れたらしい。


 フーヴァー曰く「この時が人生で非常に成長した期間だったな。」とのことだ。


 1914年ーフーヴァーのその異例の優秀さによって、通常4年制であるハーバード大学を、飛び級で2年間で卒業することが、ハーバード大学当局から認められることとなり、卒業。


 同年ーハーバード大学ロースクールへと入学。


 1916年ーフーヴァーのその異例の優秀さによって、通常3年制であるハーバード大学ロースクールを、飛び級で2年間で卒業することが、ハーバード大学当局から認められることとなり、卒業


 同年ーオックスフォード大学での留学を開始。


 1917年ーオックスフォード大学での2年間の留学を経験し、経済学や心理学などの多方面での学士号や博士号などを取得して帰国を果たした。


 同年ーフーヴァーは、ハーバード及びオックスフォード両大学から、経済学や心理学などの多方面での学士号や博士号などを勝ち取っている〈近年において非常に稀な優秀な人物〉として、アメリカ合衆国政府からマークされることとなった。

 ちなみに、他にも政治学や法律学などの学士号や博士号なども多数保持している。


 同年ー司法試験に合格。


 ちなみにとして言っておく。

 フーヴァーは、ハーバード大学学生時代に、ハーバード大学のフラタニティの1つである「フライ・クラブ」のメンバーであった。

 そこには、後に仕える対象となるローズベルト大統領も、このクラブへと所属していた。


 何と言う運命の巡り合わせなのだろう。


 また、この時期のオックスフォード大学留学で、ファイリング術を体得している。

 さらには、独学で勉強を行う無類の努力家としても名を馳せており、捜査局が主催となることによって開催された「盗聴」と「尋問」の大会で、最優秀賞を獲得してトロフィーも掻っ攫っている。


 同年ー司法省において、のちに約90年にわたる勤務を開始した。


 オックスフォード大学留学後、司法省入省試験にトップの成績を叩き出し入省した。

 司法省が作られて以来の天才とまで言われた。

 彼は、司法省入省後のたったの3ヶ月であるのにも関わらず、その異例の業績と資格から、当時のアメリカ合衆国大統領であったウッドロウ・ウィルソン大統領の目に留まることとなった。


 同年ー「在留敵国人登録庁」初代長官に、歴史上稀に見る若さで就任。


 同年ーフーヴァーを超えるという異例の優秀人物であるクライド・トルソンがハーバード大学を卒業。


 同年ークライド・トルソンが、ケンブリッジ大学へ1年間の留学。

 本来において、大学留学は、2年間でなければいけないのである。

 しかし、クライド・トルソンもあまりにも優秀であるが故に、ケンブリッジ大学当局が、1年間に繰り上げる事によって、達成したのだ。


 1918年ークライド・トルソンが、フーヴァーの後を追い、司法省へ入省。

 また、1週間後に「在留敵国人登録庁」へと入庁。

 そして、フーヴァーの命令により、入庁当日に「在留敵国人」初代副長官として、就任。

 この時、クライド・トルソンは、まだ18歳であった。


 最初の2年間は、第一次世界大戦時の在留敵国人登録庁初代長官として、その有能さと辣腕をすぐに証明した。

 彼は、アメリカに住んでいた数百万人のドイツ系住民やオーストリア・ハンガリー系住民に対し、住処や財産の徹底的な調べ上げを実行し、スパイかどうかの極めて緻密で厳格な判定を行った。

 1918年度からは、クライド・トルソンが副長官に就任したことにより、更に嫌疑がかかっている敵国人に対する検挙率を上げることに成功。

 フーヴァーの捜査官を駆使した死をも厭わぬ苛烈なまでの取り調べに、「暗黒男」や「死報省長官」という大層な異名が、彼の有能さを伝える新聞と共に、米国全土へその名を深くまで轟かせた。

 フーヴァーとトルソンの諜報や盗聴、尋問を巧みに駆使した「取り調べ」は、死者こそ出さなかったものの、数万人規模での大きなトラウマを形成する事となった。

 それくらい、彼とその隷下の在留敵国人登録庁職員による取り調べは、何度にもわたって繰り返され、いつも過酷だったのだ。


 1919年ー「移局」という形で、24歳の史上稀に見る若さで、第3代捜査局長官就任。

 フーヴァーによって、クライド・トルソンも第3代捜査局副長官として就任。


 就任当時、捜査局には441人の特別捜査官を含むおよそ650人の職員が在籍していた。

 フーヴァー就任当時の捜査局は、職員全体に不道徳行為やギャングとの賄賂などが横行しており、腐敗が捜査局幹部にまで蔓延しており、極度に堕落していた。

 そのため、殺人犯を取り逃すことなどは日常茶飯事であった。

 それにより、アメリカ国民からは「ゴミ溜め」や「乞食局」の不名誉な渾名がつけられ、「捜査局」と知られるや否や極度に嫌われるという体たらくであった。

 フーヴァーとトルソンは、それまで予算も極度に少なく腐敗した弱小官庁だったBOIの意識改革及び組織改革に意欲的に取り組んだ。

 職員の私生活を事細かくまで調査し、不倫や同性愛、借金、さらには体重、しまいには「気に入らないから」という理不尽な理由によって、次々に職員を解雇していった。

 その一方で、アメリカ全土からスカウトしてきた優秀な警察官を新たな捜査官として採用した。


 ただ、フーヴァーは人種差別主義者であった。


 当時のFBI捜査官には、アジア人や黒人などの有色人種をほとんど起用しなかったことからも、フーヴァーが人種差別主義をなんとも思わない人種差別主義者であることがわかる。

 一方、第二次世界大戦中のローズベルト大統領による日系人の強制収容には、

「スパイと思しき者たちは真珠湾攻撃の直後にFBIが既に拘束している。元は汚いアジア人移民であったとしても、今は曲がりなりにだとしても、正統なアメリカ国民である彼らのこれまで築き上げてきた財産を不当に没収して、仮にも我々がある程度は大事にするべき国民を、あの糞みたいな強制収容所に収容するのは、法の観点から、人の観点から、その両方から照らし合わせても、到底納得できるものではないし、もし大統領閣下がそれをなされるなら、同じ敵国人であるドイツ人やイタリア人などに対してもすべきだと神に誓って思う。これは司法省の一員である私らとしては、断固として言わせてもらいたい。」

 として強固に反対し、曲がりなりにも罪と能力への偏見を明確に分けていた。


 就任中は、1920年代から1930年代のギャング狩り、第二次世界大戦中のナチスらのスパイ摘発、戦後の冷戦期初期に台頭したマッカーシズム(いわゆる赤狩り)には非米活動委員会、湾岸戦争時にはナイラ証言のでっち上げと、時の世情と協調した諜報活動を行うなど、時代の要請に応じて様々な活動を指揮した。


 こうした彼が直々に指揮する諜報活動は、連邦議会議員やハリウッドはもちろんだが、大企業や労組にまで及んでいた。

 そこで得たスキャンダル情報を盾に、ハリウッドスターや政治家さえも対応に窮させ、長期間に渡る絶大な権力を維持することに成功したのだ。


 1933年ー捜査局は、捜査部(Division of Investigation:DOI)に改名した。


 1935年ー捜査部は、連邦捜査局(Federal Bureau of Investigation:FBI)に変革改名されることとなった。


 1939年ー世界情勢の悪化を睨むローズベルト大統領による極秘大統領令により、FBIが国内の諜報分野で卓越した能力と権限を持つことになった。

 また、それとは別に、「〈諜報機関・捜査機関〉としての秘密性と情報保持の観点」を高らかに叫んだフーヴァーの意思を汲み取った当時の議会により、1919年から2005年までの連邦議会は、FBIの予算審議をいっさい行えなくなってしまった。

 そして、圧倒的な「聖域」を築くことに成功した。


 1939年には、米国科学アカデミーより公共福祉メダルを受賞した。

 1936年・1941年・1953年・1959年・1963年・1966年・1972年・1977年・1983年・1988年・1993年・1999年・2002年・2003年・2004年・2005年の16度、FBI長官としての功績に対し栄誉賞を受賞した。


 フーヴァーは、人々の情報、特にFBIの記録とは別に非公式に政治家達の情報を収集して、ファイルに収録することでその影響力を蓄えていった。

 アメリカ大統領やその家族を筆頭にした政権の閣僚のスキャンダルも収録していたので、歴代の大統領さえも迂闊に彼に手を出せなかった。

『大統領たちが恐れた男』の原題であるOfficial and Confidential(公式かつ機密)は、フーヴァーが収録したファイルの名前を元にしている。


「フーヴァー・ファイル Files of J. Edgar Hoover」には、有名人に対する恐喝や政治的迫害が記録されている。


 その際たる例としてよく知られているのが、第36代リンドン・ジョンソン大統領であろう。

 彼は、自分が上院議員だった頃の電話を盗聴したのかとフーヴァーに執拗に何度も電話で尋ねた。

 また、同じく最たる例としてよく知られているのが、ケネディ大統領であろう。

 彼は、海軍に勤務していた20歳当時、ナチス・ドイツとしてのスパイ疑惑がかかっていた女性との性的な関係を実際に盗聴されてしまった。


 しかし、政治家たちもやられっぱなしというわけではなかった。


  1960年代の始め、上院議員のエドワード・ロングらを始めとする12人の議員団は緊急聴聞会を開き、FBIの盗聴を追及した。

 フーヴァーはこれに激怒し、彼に命じられた側近とFBI捜査官の2人が、ロングらのスキャンダルをいくつか収録した「公式かつ機密」ファイルを本人らに見せに行った。


 以後、ロングらの追及は尻すぼみになった。


 1961年に大統領に就任したジョン・F・ケネディもフーヴァーを免職しようとした。

 フーヴァーは、すぐにケネディのもとに行き、もし免職したら自分が持っている情報(ケネディの女性問題や、自らも親しいサム・ジアンカーナなどのマフィアとの関係)を公開すると言い放ったという。


 ある顕著の独占例は、ロバート・ケネディがFBIを厳しく締め上げたときである。


 幼少期は「フーヴァーの弟分」として、

 ハーバード大学生時代は「フーヴァーの仲間学徒」として、

 フーヴァーが長官時代は「副長官」として、

 晩年は「副長官並びにフーヴァーの同居人と親友」として、

 メディア・国民からは「フーヴァーの愛人」として、

 その一生涯に渡り、フーヴァーの最高の右腕でも相棒でも親友であり、「フーヴァー×トルソン」と政治家から言われるほどのフーヴァーの唯一の心での家族であり、またその自らの生涯を、フーヴァーBOI・DOI・FBI長官を支える名だたる副長官として、最後のフーヴァーとの同時の老衰死を迎えるまで、ずっと一心に仕えたクライド・トルソンは、このように言い残している。

「誰かが奴を撃ち殺してくれればいいのに」


 この言葉が、現実になることは危機一髪で無かった。

 しかし、凡そ大統領に忠実であることが求められる機関の人間が述べて良いことでは無かった。


 ジョン・エドガー・フーヴァーとクライド・トルソンの死の直後、ジョージ・ブッシュが部下に命じてフーヴァーの書斎を調査させた。


 その「遺産」の内容を見たジョージ・ブッシュは、自身やそれまでの大統領にまつわるスキャンダルをもが収録されていたことに、激怒したとも恐怖したとも言われている。


 その非公式の「遺産」は膨大な量だったと言われる。

 事実、秘書のヘレン・ギャンディが処分に数日を費やしたほどだった。


 ここらへんで、解説を終了したいと思う。



 1953年7月25日ー東亞連邦はモンゴル地区へ10兆円規模の大規模な投資と国営企業である東亞鉄道(愛称ー東鉄)による鉄道整備を実施。


 短い工期に1500万人の労働者を投入し2ヶ月半で終了させた。

 この偉業は「東鉄の底力」と称され満鉄時代のノウハウが充分に活かされた結果であった。


 ここで、「東鉄とは一体何なのか?」と疑問を浮かべる人が多いと考えるため、今から東亞鉄道(東鉄)について解説したいと思う。





 東亞鉄道(東鉄)






挿絵(By みてみん)


 東亞鉄道の社旗


挿絵(By みてみん)


 東亞鉄道の社章並びに国民対象シンボルマーク





 東亞鉄道(東鉄)は南満州鉄道株式会社(満鉄)の後継企業にして国有企業である。


 1944年12月10日ー満洲国国有鉄道・朝鮮総督府鉄道・華北交通・南満州鉄道株式会社の4つの国営会社を統合して誕生した。


 これにより、上記の4つの国営鉄道が保有していた全ての技術・職員・施設・車輌・事業・資産は、すべて丸ごと東亞連邦へと受け継がれた。


 東亞鉄道(以降において東鉄と称する)の従業員数は、50万5800人である。

 東鉄職員の身分は、他の国営企業従業員と同じく「国家公務員」としての身分が、法律によって確固にして明確に保証されている。

 東鉄職員の給料は、1人あたりの月収が最低50万円(現在の円価格)と非常に高給である。

 その為、東鉄の求人倍率は12.6倍と非常に高倍率である。


 また、特急アジア号や特急はと号などの満鉄時代からの特急列車も多く保有している。


 さらには、特急アジア号などの既存特急を基礎土台として新たな特急である特急きじ号や特急すめらぎ号などの最高時速150km/hや200km/hを誇る新車も多数開発し、現在でも車輌開発や技術開発などを積極的に行い、高い評価を受けている。


 また、新しい特急車輌が配備された為に、迅速な運行をすることができ、東亞連邦に移民が押し寄せた際には、24時間無運休で運行した事により迅速に移民を輸入することができた。


 また、東鉄の東亞連邦における影響力は計り知れないものがある。


 以降、その説明をしていきたいと思う。


 東鉄は、鉄道経営に加えて以下の事業も展開している。

 農業(南満州地域に100箇所以上の農園を保有)

 鉱山開発(撫順炭鉱など)

 製鉄業(鞍山製鉄所)

 港湾(葫蘆港・平壌港)

 電力供給

 牧畜業

 ホテル業(大連・旅順・奉天・新京にある満鉄ホテル)

 航空会社

 などの多様な事業を行なっている。


 同時に、鉄道付属地内においての一般行政も運営及び把握している。

 該当地域の全ての生活インフラを整備及び展開して、居住住民に対して徴税権(東亞連邦政府から特別譲渡された諸権利の一つ)をも行使するなど、一企業を超えた権限を手中に収めて南満洲地域においては、他地域と比べて絶大な影響力を発揮している。


 こうした東鉄の影響力の巨大さは海外においても知られており、日本やアメリカなどから「東鉄王国」・「東鉄コンツェルン」と呼称されるようになり、さらには「東鉄>共匪中国」・「東鉄ありきのソ連邦」と言われるまでとなった。


 ただし、良い面だけではない。


 悪い面もたくさんある。


 車内環境に関しては、一年を通して常にひどい不衛生・混雑状態であり、特に外国人に対しての接客態度は非常に悪く、言葉にならないほど陰湿にして凄惨である。


 それとは反対に、従来において東鉄に利益・乗客数の面から圧倒的に不利であった民営鉄道事業者ら(私鉄)は国民や外国人に何とか乗ってもらう為に様々な諸対応策を行なった。

 ・車内は常に清潔にしておく

 ・外国人に対しても懇切丁寧に対応する

 ・割引やキャンペーンなどを実施する

 ・車輌数を増加させて混雑状態を分散させる

 ・ダイヤを改正して輸送効率並びに回転率を上昇させる

 これらの諸対応策を過去から現在に至るまで地道に粘り強く実施したおかげで、外国人の9割5分・国民の1割8分に利用されるようになり、大きな利益や顧客需要を獲得することができた。


 これにより民営鉄道事業者ら(私鉄)は次のような大成果を上げる事に成功した。

 ・民営鉄道事業者ら(私鉄)の合計企業規模が東鉄の3分の2にまで成長

 ・民営鉄道事業者ら(私鉄)の総事業者数が5年間で3倍増加

 ・民営鉄道事業者ら(私鉄)の影響力の巨大化

 これほどにまでに私鉄が成果を上げていれば、国営である東鉄も改善策に乗り出すかと思われたが旧帝国時代の規律と風習を重視する東鉄は断固として改善する姿勢を見していない。


 こうした傲慢な態度を取り続けることができるのも、資金が豊富だからである。


 1955年末時点の総利益額は、52兆円である。


 これは、当時の日本の国家予算の2/3を占めるという驚異的な額だ。

 東鉄は、戦後10年間にわたってソ連邦や東欧諸国に対して惜しみなく資金と技術を投資を行い、営業路線をモスクワ・レニングラード・スターリングラードなどの主要都市などの至る所に延伸した事によって、大規模な利益と顧客を獲得。


 また。国内及び海外企業に対して買収を盛んに行なった。


 これにより、東鉄は、鉱山・鉄道・アパレル・港湾・観光業・飲食業・飛行機製造・自動車・武器・銀行などを経営する世界的に有名な超巨大コングロマリット企業へと成長した。

 もちろん、世界でも有数の大企業である。


 さらに、東鉄は、計画都市「西都」と軍事都市「国防都」をモンゴル平原に建設すると決定。

 1965年までに人口100万人と25万人都市を目指して、1955年8月5日から建設及び設計を開始した。


 また、東鉄は「Neue Angeschlossener Bereich」という名目で、東亞連邦からハルピンから北に250km離れている周辺一帯の2万8000㎢を贈呈された。

 東鉄は、そこに秘密重要企業都市「決光-22」を建設している。

 一種の噂によると、兵器への転用可能な新規車輌の開発や産業スパイの要請などを行っているらしい。


 また、そこには、さまざまな産業施設を建設しているとのこと。

 以下に示すのは、その産業施設の一例である。

 医薬品製造工場

 自動車工場

 鉄道車両製造工場

 武器製造工場

 化学兵器製造工場

 航空機製造工場

 軍需物資製造工場

 爆破物製造工場


 さらには、秘密重要企業都市を敵から守るため、秘密重要企業都市の周辺には、要塞・滑走路・軍用基地・監視塔・ミサイル発射台などが建設されている。

 それはさながら「国家要塞」とあだ名されるくらい強力で重厚で迫力ある要塞だったという。


 次に、以下に示すのは、東鉄の全ての運営路線図である。


挿絵(By みてみん)


 1955年8月15日ー東亞連邦政府は、国内の大企業の代表を招集して、「国防の非常時における秘密の兵武器製造工場並びに研究所の大規模建設について」との議題で、国家安全保障委員会を開催した。

 後に判明した内容を載せる。


 その「国防の非常時における秘密の兵武器製造工場並びに研究所の大規模建設について」の内容とは、

「国が約5兆円を支援するから、今後1年間で朝鮮半島及び日本自治国に集中して、五〇以上もの「秘密緊急工場」と「極秘研究所」を作れ。」

 という地味に重大にして脅威のある内容だった。

 さらには、

「朝鮮半島の海岸部・中国との国境地帯・ソ連との国境地帯に2000kmの国家要塞」を作る為、貴社らの全面的協力を要請する。」

 というような内容も同時に通達された。

 そして、これらの秘密工場や秘密研究所は、地下や山奥部に建設された。

 当時としては、非常に先進的で大規模な施設であったため、近所の子どもたちにとっては憧れだったという。


 これら、全ての秘密施設は、軍事施設及び秘密施設特別推進建設省の完全管轄下となり、東亞連邦の大企業たちは、建設後一切の立ち入りを禁じらることとなった。

 しかし、そんな事を行えば企業の機嫌が悪くなることくらい誰でもわかっていた。

 だからこそ、東亞連邦政府はこの時の頑張りを褒賞した。

 政府施設の建て替えや建設の時においては、建設に携わった大企業に優先的に委託をしているという。


 話は大きく変わる。

 諸外国政府は、この謎の動きを探ろうとした。

 様々な搜索をしたが、是遂に見つからなかった。

 また、今から話すのは、国民目線に立ってのことなのであるのだが。それらの秘密施設等は、釜山や光州の地方都市や京城や平壌などの自治首都郊外に建設された。

 そのため、勘づく国民は当時は少なからずいた。

 しかし、軍からの箝口令が当時から現在に至るまで敷かれていて、さらには巧妙に隠されているために、現在に至っては誰もその存在を知らないという。

 ただし、長大な軍事要塞については壁のように朝鮮半島東海岸部から南海岸部まで連なり建造されている為、箝口令は敷かれなかった。

 そのため、この要塞は「防人」(タギン)と呼ばれ尊愛の念を受け続けている。


 1955年中ー東亞連邦政府は、全国の中小零細企業を大規模に支援。


 補助金や販路強化支援などを実施して中小零細企業と大企業との格差の是正に奔走し成果をまずまずと挙げた。

「東亞連邦は中小零細企業を国家ぐるみで大事にする国家だ!」と中小零細企業を軽く下に見ている日本やドイツ・アメリカなどで潜伏している自国のスパイを用いて大規模宣伝。

 この噂を信じた各国の中小零細企業が大挙して東亞連邦に本社や支部を置くことになった。

 この事態を危険視した日本やアメリカ政府の諸施策により、企業の格差が是正されさまざまな企業が自由に活動できるようになった。


 さて、ここで「日本国政府による全在日朝鮮人の強制送還」について、物語調で説明しよう。

 この悲劇的な物語を〈灰色の故国へ〉と名付けることにする。

 では、ご覧に入れていただきたい。


 ー冷たい時代の幕開けー


 1952年4月28日ーサンフランシスコ講和条約が発効。

 日本国において、連合国軍最高司令官総司令部による7年間の占領が終わった。

 そして、日本国は形式上は「独立国家」として再出発した。

 しかし、東アジアの情勢は緊迫していた。

 朝鮮半島では、1944年に建国された「東亞連邦」を名乗る国家もどきが力を強めており、尚且つソ連との蜜月関係を構築するに至った。

 これにより、冷戦構造はますます強化されることになり、日本国はアメリカ合衆国の最重要同盟国として、全体主義に対峙する位置に置かれた。

 この時期の日本国には、約75万人の在日朝鮮人が暮らしていた。

 彼らの多くは、大日本帝国による植民地支配下において、朝鮮半島から渡日した人々とその子孫であった。

 サンフランシスコ講和条約の発効により、在日朝鮮人は日本国籍を失い、法的には「外国人」となった。

 日本国政府は、彼ら在日朝鮮人を「無国籍」として一括り扱い、多くの社会保障から排除していった。

 彼ら在日朝鮮人の居住環境は劣悪そのものであり、また社会的な問題もたくさんあった。

 その「社会的な問題」の例に挙げてみるだけでも、以下の通りである。

 ・経済的困窮

 ・社会的差別

 ・法的地位の不安定さ

 ・日本国の社会に蔓延する根強い排外意識の存在。

 このような諸問題が積み重なっている中でも、在日朝鮮人は日々を一生懸命に生きていた。

 そんな中、日本国政府内では彼らの存在をどう扱うかをめぐって議論が続いていた。


 佐々木龍平は入国管理局の中堅官僚。


 1952年7月ー彼は上司から極秘の調査を命じられた。

「在日朝鮮人の処遇についての抜本的な政策を検討したいので、彼らの完全な送還も視野に入れて調査せよ」

 佐々木は当初、それが単なる情報収集だと考えていた。

 しかし、彼は知らなかった。

 その調査が後に「強制送還計画」と呼ばれる計画の序章になることを。


 ー分断された世界の中でー


 1954年ー政府内で極秘の会議が開かれた。

 出席したのは、法務省・外務省・警察庁・厚生省の各幹部、そして佐々木もその場にいた。

 会議の議題は「在日朝鮮人対策」と明確だった。

 日本国政府内では、彼らを「内なる外国人」と見なす視線が強まっており、

「日本国内の朝鮮人が「東亞連邦の思想」を広めてしまう。」

 という疑念がリベラルや保守層などを問わず、根強かった。

「在日朝鮮人の共産主義活動は国家安全保障上の脅威です。」と警察庁の担当者が述べた。

「多くの在日朝鮮人が〈朝鮮総連〉や〈民団〉と関わりを持ち、それらの本拠地が置かれているソ連やアメリカ合衆国からの指示を受けています。」

 これは、実態を過大に評価したものだった。

 しかし、身近に迫る冷戦の緊張の中で、そうした主張は説得力を持った。

「さらに経済面での問題も深刻です。」

 と厚生省の役人が資料を示した。

「在日朝鮮人への生活保護費は国家財政を圧迫していますし、彼らの犯罪率も日本人の数倍に上ります。」


 会議は次第に、在日朝鮮人を日本社会から排除する方向へと進んでいった。


 佐々木は議論に違和感を覚えながらも、冷静にメモを取り続けた。


 1952年9月ー通称「デュオ・キムラ」と自民党内から呼ばれており、大物政治家でもある木村清太郎と木村篤太郎の2人が、自身と親しい議員らをある一室に集めた。

 そして、そこにおいて極秘の政策提案書である「在日朝鮮人対策大綱」を作成。

 元々、どちらも非常に実績のある政治家だったのだが、日本国の停戦後からは、急激に極端な民族主義的思想傾向を強めていたのだ。

 便宜上、この極秘の政策提案書を「木村構想」と命名する。


「日本の国益と民族的同質性を守るため、在日朝鮮人の全面的送還が断固として必要なのである。」

 そう文書は主張していた。


 木村構想の骨子は以下のようなものだった。

 1ー全ての在日朝鮮人に対し、東亞連邦への「帰国」を要求する

 2ー帰国先は、行政当局が決定する

 3ー最初期から一気に全面的実施をし、全ての在日朝鮮人を速やかに日本国から叩き出す。

 4ー国際的な批判は一切無視。

 5ー人道的配慮を表面上は一応示しながら、非人道的行為も交えながら行う。


 木村清太郎は、この木村構想の骨子とそれに基づく具体的な政策を自民党内の極秘勉強会で発表した。

「朝鮮人問題は日本の将来を左右する重大問題だ。彼らを放置すれば、我が国の民族的純粋性が損なわれる」

 彼の演説に対し、多くの議員が拍手で応えた。

 しかし、参席した全員が賛同したわけではなかった。

 ある参加した自民党議員からは、

「これはヒットラーの如き政策ではないのか?」

 という中々の反対意見が出た。

 また、別の同じ自民党議員からも、

「やってもいいが、国際社会からの批判は必至だ。」

 という国際情勢を踏まえながらの反対意見も出た。

 これに対して、木村清太郎は冷ややかに返答した。

「日本人の純血と国家の統一性を守るのが我々日本人の代表者たる者の責務だ。戦勝国に押し付けられた甘い理想論などを語っている場合ではない。」


 ー国内情勢の変化ー


 日本国の政治は、保守化の方向に進んでいた。

 また、日本国の経済は戦後復興の過程にあり、世界第2位の経済大国であった。

 しかし、いまだ多くの日本国民が日本国の経済規模に見合わぬ低レベルな生活に苦しんでいた。


 そんな中、在日朝鮮人が生活保護を「不当に」受給しているという誤ったうわさが広まった。

「朝鮮人が日本人の仕事を奪っている」という排外的な感情も高まっていった。

 そして、マスメディアの一部もそうした世論を煽っていった。

「日本国民の不満の矛先を不逞の輩である在日朝鮮人に向けさせることで、与党である我々自民党や日本国政府への批判をそらせれる。」

 とは、時の鳩山一郎の言葉である。

 また、木村篤太郎は側近にこう語っていた。

「これは政治的にも有効な戦略だな。」


 木村構想はまだ公にはされていなかった。

 しかし、日本国政府や自民党内では徐々に強固な支持を広げつつあった。

 一方、在日朝鮮人社会では、ソ連を支持する「朝鮮総連日本支部」と東亞連邦を支持する「民団日本支部」の対立が激しくなっていた。

 朝鮮総連は1944年5月の日本国の「修正カイロ宣言」受諾の際に結成され、在日朝鮮人に対する日本国政府への「デモ運動」を展開し始めていた。

 朝鮮総連の集会においては、

「民族教育を受ける権利を求める」

「差別のない祖国へ帰ろう」

 といった反政府的スローガンが叫ばれており、この動きに日本国政府は「好機」と捉え注目していた。

「彼ら自身が帰国を望んでいるのなら、我々の政策も進めやすい。」


 ー佐々木の葛藤ー


 佐々木龍平は引き続き在日朝鮮人問題の調査に携わっていた。

 彼は、元々朝鮮の文化や言語にも関心を持っている人間だった。

 なので、必要以上に在日朝鮮人の生活実態を詳しく調べていた。

 そして気がついた。

 日本国政府内で広まる認識と実態との間には大きな隔たりがあることに。


「多くの在日朝鮮人は単に平和に暮らすことを望んでいるだけだ。過激派は一部に過ぎない。」

 佐々木はそう報告書に記した。

 また、報告書内において「在日朝鮮人の強制送還は国際法違反となる可能性が高い」とも指摘した。

 しかし彼の報告は上層部で歓迎されなかった。

「佐々木君、我々が求めているのは問題点の指摘ではなく、実行可能な計画だ。」と彼の上司である柏木次長は冷たく言った。

 しかし、佐々木を慰めるような形で、

「政策の方向性はすでに決まってしまっている。我々はそれを穏やかに実行する方法を考えるべきだ。」

 とも発言し、彼には彼なりの思いや苦慮がある事を佐々木は知った。

 そして、改めて佐々木は自分の立場の難しさを痛感した。


 ただ、彼の心には疑問が膨らんでいた。

「これは本当に正しいことなのか?」


 ー計画の策定ー


 1952年11月2日ー木村清一郎は、自民党内での支持を大固め、吉田茂内閣総理大臣に対して、直接「在日朝鮮人対策大綱」を提示した。

「全在日朝鮮人の強制送還」を、当時連合国軍最高司令官であったダグラス・マッカーサー元帥へと進言するなど強硬派的な一面も見せていた吉田茂内閣総理大臣は。やる気満々な態度を見せて、快く認可を下し、

「最大限の支援と政策の更なる推進の為の援助や根回しを行う。」

 との、全面的賛成とも取れるような発言をもした。

 ただし、仮にも外務大臣の経験もあった為か、

「しかし、極秘裏に事を進め、更なる優良な政策の作成を進めるように。」

 との指示が下った。


 1952年11月15日ー日本国政府内に「外国人対策特別委員会」が設置された。

 表向きとしては、在日外国人全般の管理体制の整備が目的。

 しかし、実際の目的は在日朝鮮人の送還計画だった。

 この「外国人対策特別委員会」では、法務省・外務省・警察庁・厚生省などから選ばれた事務官僚が、闊達な議論を重ねていった。

 当の佐々木も委員の一人に任命され、複雑な心境で会議に参加した。

「どの程度の強制力を行使するのか」

「東亞連邦へ、どのくらいの人数を送還するのか」

「国際法上の問題をどう回避するか」

 このように、議論は具体的な課題に移っていった。


 佐々木の上司である柏木次長は言った。

「東亞連邦への全在日朝鮮人の送還を岩盤的基本とし、国際法上の問題は是を一切無視する。こういうのはどうなのか、民団の「東亞連邦への帰国運動」を利用すれば、自発的帰国に見せかけることができる。」

 これに対して、外務省代表が反論した。

「在日朝鮮人らは大きく反発をするでしょう。アメリカ合衆国との関係も悪化する恐れがあります。」

 それに対して、警察庁の官僚は、

「その時は叩き殺してでも無抵抗化させ、なんとか送り出せば解決します。」


 このような議論が交わされている中で、佐々木は静かに発言した。

「多くの在日朝鮮人は日本で生まれ育った二世、三世です。彼らにとって朝鮮半島は実質的に外国です。強制送還は国際法の強制追放禁止原則に抵触する恐れがあります。」

 彼の指摘は一時的に議論を沈静化させた。

 だが、先ほど大変物騒な事を言った警察庁の官僚が反論した。

「国家安全保障の観点から、例外的措置として正当化できる。彼らの多くは日本国籍を持たないのだから、国外退去を命じることは可能だ。」

 議論の結果としては、柏木次長及び警察庁の官僚の言い分が丸っ切り採用され、文書化されることになった。

 佐々木は大きく失望して絶望のどん底に立たされることになるが、歴史の針は止まらない。

 この議論を経て、計画は次第に具体化していった。


「朝鮮人処遇特別措置法」及び「特別外国人管理法」草案


 1952年11月25日ー「外国人対策特別委員会」は、極秘裏に「朝鮮人処遇特別措置法」及び「特別外国人登録法」の草案を作成した。


 まず、「朝鮮人対処特別措置法」という法案は、表向き「在日朝鮮人の法的地位の明確化と帰国支援」を掲げていたが、実質的には全面的な強制送還をも可能にする内容だった。

 この法案の主な内容は以下の通りだった。

 1ー全ての在日朝鮮人に「朝鮮人であることの登録」を義務化

 2ー送還先としての東亞連邦への選択義務化

 3ー一定期間内に故意に登録しない者、または「国家安全保障上問題がある」と判断された者に対しては、日本国政府がその者の生殺与奪を決定する権限を持つ

 4ー送還は、在日朝鮮人が誰一人居なくなるまで継続的に実施

 5ー送還に頑として応じない者は、その場で「終了処分」とする

 6ー日本人との婚姻関係がある場合も、原則として朝鮮人は送還する

 この法案草案には「人道的配慮」などは何一つ盛り込まれていなく、非常に過激な「民族浄化法」とも取れるような草案内容であった。


 次に「特別外国人管理法」についてだ。

 本法草案の序文には、

「国家の存立基盤を脅かす特別外国人の活動を規制し、公共の福祉に資する。」

 と明記されている。

 そして、「特別外国人登録法」は、具体的には以下の三原則を掲げた。

 1ー国家主権の確立強化

 3ー社会秩序の安定維持

 3ー国民経済の健全発展


 第二章 法の主要条文


 2-1 定義規定

「特別外国人」を以下の条件で定義。

 ・1945年8月15日以前に日本内地に居住した朝鮮半島出身者及びその子孫

 ・日本国の国籍を有さない者

 ・「治安維持法」違反の前科歴がある者


 2-2 全員登録制度(第5条~第9条)

 1953年3月末までに全国の特別外国人に対し「種別確認登録」を義務化。

 登録拒否者は、即時強制退去の対象か「終了処分」どちらかとされた。

 登録証には、指紋押捺が要求されることになった。

 また、登録証を常時携帯しない場合は3年以上の懲役が科された。


 2-3 居住制限区域(第12条)

 全国32箇所に「管理指定地域」を設定。

 特別外国人の新規転入を禁止し、既居住者の移動には地方入国管理局の事前許可を必須とした。

 東京や大阪の主要都市圏は全域が指定され、夜間外出禁止令が発動された。


 2-4 職業規制(第15条)

「国家機密に関わる業種」として84職種を指定。

 報道機関・教育機関・軍需産業などへの就職を全面禁止。

 違反者は資産没収の上、強制送還処分とした。


 第三章 施行体制


 3-1 特別外国人調査課の設置

 法務省入国管理局内に「特別外国人調査課」を新設。

 公安調査庁・警視庁特別高等警察(特高)OBを中心に2,300名の職員を配置。

 独自の在日朝鮮人に対する密告制度を導入し、日本国民へは、在日朝鮮人密告の度に奨励金を設定することによって、積極的に密告する事を勧めた。


 3-2 収容施設網

 全国主要港湾に18箇所の「臨時処理センター」を建設。

 また、全国に「一時収容所」を建設。

 最大収容人数は延べ12万人規模。

 また、東亞連邦向けの送還船を、1週間毎に6便運航。


 佐々木はこの2つの草案に強い違和感と同時に優越感を抱いた。

 そして、彼の立場は微妙だった。

 反対すれば出世の道は閉ざされる。

 しかし協力すれば、自分の良心が許さない。

 結局、その物騒な草案が、何一つ形を変えることなどなくそのまま「提出」されることになった。


 ー国際関係の考慮ー


「朝鮮人処遇特別措置法」及び「特別外国人管理法」の草案は、国際関係の専門家によっても検討された。

 特に、アメリカ合衆国と国連の反応が懸念された。

「外国人対策特別委員会」の会合の際に、外務省から派遣された官僚である田中康夫はこう言った。

「アメリカ合衆国は日本の国内問題には原則不干渉の立場ですが、大規模な強制送還は人権問題として批判される可能性が高い。特に東亞連邦への送還に関しては。西側陣営から東側陣営への人口流入を意味することになり、アメリカ合衆国が懸念するでしょう。」

 これに対して、木村篤太郎はこう反論した。

「むしろ反共政策として説明できる。共産主義者を日本から排除するのであると。」

 田中はこう指摘した。

「大臣、それは矛盾します。」


 この議論は平行線をたどったが、最終的に以下の方針が決まった。

 1ー表面上は「自発的帰国」を強調する

 2ーアメリカ合衆国には事前に密かに説明し、理解を求める

 3ー国連への対応は外交的テクニックを駆使し、場合によりければ、全面的無視をする。

 4ー一応の国際世論対策として「人道的措置」が「場合によって」はある事を前面に出す。

 この時点で、佐々木は計画の重大な欠陥に気づいていた。

「これは実行不可能だ。国際的な非難を浴びるだけでなく、国内でも大きな混乱を招く。」

 そう彼は日記に記している。


 ー第1次試験的送還計画ー


 1953年5月3日ー日本国政府は計画実施に向けた準備を進めていた。

 全面的な法制化の前に、小規模な「試験的送還」を実施する方針が決まった。

 その対象は主に次の人々だった。

 ・生活保護受給者

 ・不法入国者や不法滞在者

 ・朝鮮総連の活動家として監視対象になっていた人々

 ・民団の活動家として監視対象になっていた人々

 これらの人々を「国家安全保障上の理由」または「公共の福祉の観点」から強制送還する計画が立てられた。

 この作戦は「春風作戦」と名付けられた。

 佐々木は、大阪・神戸・東京など在日朝鮮人が多く住む「コリア・タウン」と呼ばれる地域での実態調査を命じられることになった。

 彼は表向きとしては、「在日朝鮮人の生活実態調査」として派遣されることになったが、実際には送還対象者リストの作成に携わることになった。

 そして、彼が訪れた大阪の猪飼野地区では、多くの朝鮮人が貧しくも懸命に生きていた。

 猪飼野の市場では朝鮮語が飛び交い、キムチの匂いが路地に漂っていた。


 佐々木は、金明哲という古老に調査の一環として会った。


 金は、大日本帝国による植民地支配下の時代において。炭鉱労働者として連れてこられた人物だった。

「日本に来たのは自分の意志ではなかった。だが今では、ここが私の家だ」

 そう静かに金は語った。

「朝鮮に残してきた家族はもう皆死んでしまった。ここで死ぬまで平和に暮らしたい。」

 この悲哀の唄とも取れるような感情的な言葉は、佐々木の良き心に深く刻まれた。

 彼は報告書に金の話を記録したが、上司である柏木次長からは、

「感傷的すぎる。我々に必要なのは客観的データだ」

 と叱責される羽目になってしまった。


 佐々木がどんなに「在日朝鮮人」を護ろうとしたとしても、春風作戦の準備は着々と進んでいた。

 1952年末には約37万人の送還対象者リストが既に完成していた。


 ー最初の波紋ー


 1953年6月1日ー日本国政府内での極秘計画の存在が一部漏洩した。

 進歩的なジャーナリストであった中村俊介が、ある内部告発者から情報を入手。

 彼の雑誌『自由思想』に、「政府の秘密計画ー在日朝鮮人追放計画の全容ー」という記事を発表した。

「日本国政府は、在日朝鮮人を段階的に国外追放する極秘計画を進めている。これは国際法及び人道に違反する民族浄化政策である。」

 このように記事は主張した。

 ただし、記事は限られた読者層にしか読まれなかった。


 しかし、それでも在日朝鮮人社会には充分な衝撃波だった。


 朝鮮総連と民団はそれぞれ緊急会合を開いた。

 朝鮮総連の幹部は、強制送還には反対の立場を表明した。

「政府による強制送還は人権侵害であり、断固反対する。」

 民団は、アメリカ合衆国政府と連携し、国際社会への働きかけを開始した。

「日本による朝鮮人迫害の新たな形態だ!」

 民団幹部は、怒り狂いながらこう発言した。

 日本国政府は、終始一貫に渡り記事の内容を全面否定した。

 木村篤太郎大臣は、記者会見の場において、

「そのような計画は存在しない。一部の過激派による流言飛語に過ぎない」

 ときっぱりと断言するにまで至った。

 結果として、在日朝鮮人社会に走った動揺や不安というのも、日本国政府の終始一貫とした断固たる否定の前に断ち切れてしまった。

 また、進歩的なジャーナリストであった中村に至っては、

「有る事無い事騒ぎたて、言論界の名誉と秩序を無作為に掻き乱した言論人の名折れ男」

 と、多数の業界から猛批判の矢面に立たされることになり、彼は筆を折った。


 ー知識人の反応ー


 ただし、先の「記事」は、日本の知識人層にも波紋を投げかけた。

 作家、学者、ジャーナリストらが声明を発表した。


 著名な小説家である田中宏文は「戦後民主主義の崩壊」と題したエッセイを発表。

 日本国政府による「全在日朝鮮人の強制送還」計画を厳しく批判した。

「強制送還が実行されれば、それは日本の戦後民主主義の終焉を意味する。かつて植民地支配で朝鮮の人々に犯した罪を認めず、今度は彼らを追放しようというのか」


 京都大学の憲法学者である西村健太郎は

「強制送還は憲法と国際法の両方に違反する。」

 との見解を発表した。

 また、西村健太郎は、

「在日朝鮮人の多くは、もうすでに日本で生まれ育っている。彼らの意に反して強制的に送還することは、国際人権法の基本原則に反する。」

 こうした批判に対し、保守系の論客からは異なる声も上がった。

 主な保守派の論客からの主張というのは、

「日本民族の純粋性を守ることは国家の権利である」

「共産主義勢力の浸透を防ぐ必要がある」

 といった主張だった。

 ただし、この論争は限られた知識層の間で交わされた。

 その為に、一般社会にまで広く浸透することはなかった。

 日本国政府の否定的な姿勢と、マスメディアの多くが日本国政府を翼賛する報道を続けたためだった。


 ー国際社会の初期反応ー


 計画及びその計画の情報漏洩については、まだ国際社会では大きな話題になっていなかった。

 しかし、一部の国際組織や外国メディアが注目し始めていた。

 国連人権委員会の事務局では、日本に関する非公式な協議が行われた。

 平等を謳うソ連政府は、アメリカ合衆国に対して、日本国政府への圧力を求めた。

 これを受け、アメリカ合衆国国務省は、駐日アメリカ合衆国大使を通じて、日本国政府に対して状況の説明を強く求めた。

 これに対する公式な日本国政府からの回答は、

「そのような計画は存在しない。」

 というものであったのだが、裏では緊張した外交交渉が始まっていた。

 アメリカ合衆国は表向きとしては、人権問題に関心を示していた。

 しかし、実際には冷戦戦略の観点から日本の動きを「非常に好意的」に注視していた。

 全在日朝鮮人の強制送還は、アメリカ合衆国の国益に適っていたのだから。


 ー佐々木の決断ー


 中村の記事が発表された時、佐々木は誰が情報源なのか疑問に思った。

 彼自身は漏洩していないが、内容の正確さから政府内部の人間であることは明らかだった。

 日本国政府内では、漏洩させた情報源の特定が進められ、それに伴って監視が強化され、今までより更に執拗的になっていった。

 佐々木自身よ監視対象となっていることを感じていた。

 彼は、この計画に協力し続けることを次第に耐えられなくなっていた。

 ある晩、彼は大阪での調査中に出会った金明哲の言葉を思い出した。

「ここが私の家だ。」


 佐々木は決断した。

 彼は詳細な計画文書のコピーを作り、非常に信頼できる人物を通じて国際赤十字社に送った。

 彼は告発者として名前を明かさなかった。

 しかし、それでは「文書の真正性」が担保されない。

 その為、自分の識別番号を「文書の真正性を証明する為」に記した。

 これは単なる情報漏洩ではなく、意図的な告発行為だった。

 彼は、自分のキャリアと将来を賭けてこの決断をした。

「これが正しいことなのか、私にはわからない。しかし、これ以上良心に背くことはできない」

 彼は日記にそう記している。


 ー計画の加速ー


 1953年8月5日ー日本国政府は、度重なる情報漏洩にもかかわらず、春風作戦を予定通り進めることを決定。

 対象者を「悪質な不法滞在者」と「重大な刑事犯罪者」に限定して公表し、実施されることになった。

 春風作戦は3月15日未明から始まった。

 警察と入国管理局の職員が、大阪・神戸・東京・福岡などの大都市の朝鮮人居住区に突入し、リストに名前のある人々を次々と拘束した。

 大阪市生野区では、夜明け前、警察車両が静かに路地に入り込み、指定された家々を包囲した。

「入国管理局だ。開けなさい。」

 そう言われて、良い眠りを急に覚まされた住民たちは混乱し、恐怖に陥った。

 子供たちの泣き声や女性たちの悲鳴のみならず、抵抗する男性たちの凄まじい怒号が街に響いた。

「何の罪があるというんだ!」

「ここは私の家だ!出て行けッ!」

「子供たちをどうするつもりだ!」

 皆口々にこう言い抵抗した。

 そして、抵抗した者は容赦なく拘束され、用意された収容施設へと連行されるか、その場で「射殺」という名の「終了処分」がなされた。

 最初の実施では、約2万5000人が連行され、1200人が「終了処分」により死亡した。


 ここである例を紹介しよう。


 神戸で拘束された鄭相文は製靴工場で働いていた40代の男性だった。

 彼は、10年前近くの窃盗罪で服役した経歴があった。

 ただし、1944年ごろの戦時中の出来事なので致し方ない部分が多かった。

 そして、その日以来、真面目に生きてきたが、その前科が彼を「送還対象者」にした。

「私は二度と罪を犯していない。家族を養うために働いているだけだ。」

 彼は収容施設でそう訴えたが、一切聞き入れられなかった。


 ー収容施設の実態ー


 拘束された在日朝鮮人たちは、全国各地に設置された「収容施設」に送られた。

 これらは、旧帝国陸海軍の施設や廃校を転用したもので、生活環境は劣悪だった。

 大阪の収容施設では、一つの大部屋に数十人が押し込められた。

 また、プライバシーなんていうものはほとんどなかった。

 食事は非常に質素で、医療体制も十分ではあるが心許なかった。

 収容者たちは不安と恐怖の中で過ごした。

 ほとんどは家族と別離させられ、外部との連絡も制限されていた。

 京都の収容施設に入れられた金順子は30歳の女性で、幼い息子と一緒に拘束された。

 彼女の夫は働きに出ていて逃れたが、彼女は「朝鮮総連の集会に参加した」という理由で対象となった。

「私は政治に興味がなかった。ただ友人に誘われて一度参加しただけ。」

 彼女はそう一生懸命に説明したが、役に立たなかった。

 施設内では、送還先についての「希望調査」が行われた。

 東亞連邦へ送還することへの同意を迫られた。

 しかし、多くの人々はあんまり知らない国だった。

 しかも、日本で生まれ育った在日朝鮮人の二世や三世にとって見てみれば、朝鮮半島は親から聞いた話の中にしか存在しない場所だった。

「私は日本人だ。日本語しか話せない。どうして外国に行かなければならないのか?」

 18歳の在日朝鮮人の青年が叫んだ。

 彼は施設の管理者によって、殴り蹴られるなどの暴行がされた。


 ー事態の進展と世論形成ー


 衆議院及び参議院において、「朝鮮人処遇特別措置法」及び「特別外国人管理法」が、自民党議員らを中心とした過半数の賛成を受けて、可決及び施行。

 なんとか、日本社会党の議員らが身を挺して可決を邪魔しようとしたのだが、失敗。

 これにより、全在日朝鮮人の強制送還が一気に進められるようになった。


 また、日本国政府は、春風作戦を「不法滞在者と犯罪者の正当なる国外退去措置」として発表した。

 マスメディアの報道も、ほぼ日本国政府の発表に沿ったものだった。

「国内治安のための必要措置」

「悪質な不法滞在者を国外退去」

「東亞連邦によるスパイ容疑者も含まれる」

 しかし、一部の新聞やジャーナリストは別の角度から報じ始めた。

 進歩系新聞である「毎日新聞」は「朝鮮人狩り」と題した連載を開始。

 収容者の証言や施設内の状況を次々と報じた。

 また、「毎日新聞」は「春風作戦」が極秘計画の第一段階に過ぎないと警告した。

 しかし、一般社会の反応というのは、概ね送還を支持するものだった。

 長年の反朝鮮人感情や日本の停戦以降における停戦の責任を朝鮮人へ責任転嫁する風潮が、こうした醜い世論を形成していた。

「朝鮮人は日本に帰化するか、祖国に帰るべきだ」

「彼らの多くは性的犯罪や殺人などに関わっている」

「日本人の仕事を奪っている」

 こうした声が一般市民からあちこち聞かれた。

 日本国政府の広報活動は、こうした世論を巧みに利用し、送還政策への支持を固めようとしたものであり、実際においても、強固な支持者を得るに至った。


 1953年9月10日ー日本国政府は、春風作戦の終了を発表。


 ー最初の本格的送還ー


 1954年4月10日ー「朝鮮人処遇特別措置法」及び「特別外国人管理法による」第一陣の送還が実施された。北朝鮮行きの船が新潟港から、韓国行きの船が下関港から出発した。

 新潟港では厳重な警備の中、約5万人の朝鮮人が「東亞号」を始めとする200隻の船団に乗船した。

 彼らの多くは表情を固くし、中には涙を流す者もいた。

 一方で、「祖国へ帰る」と高らかに歌う者もいた。

 朝鮮総連の幹部たちが見送りに来て、涙を流しながら演説を行った。

 日本共産党の代表も、悲痛と連帯の意を示すために出席していた。

 日本国政府は、報道陣に対して「不埒な自発的帰国者の船出」として紹介した。

 しかし、乗船した人々の多くが強制的に連行された人々だったことは、ほとんど報じられなかった。


 また、下関港からの釜山行きの船らには約3万人が乗せられた。

 東亞連邦政府は、公式には日本の「強制送還」の政策を批判していた。

 しかし、新たな労働力ともなる移民の受け入れをみすみす拒否することはできなかった。


 佐々木はこの送還の様子を冷ややかに見守った。


 彼は内部文書の漏洩後、「信頼性に問題あり」として現場作業から外されていた。

 しかし、彼は別のルートで情報を集め続けていた。

 彼はこう日記に記した。

「今日、最初の犠牲者たちが知らない国へと送られた。彼らの人生を奪ったのは我々だ。そして、これはほんの始まりに過ぎない」


 ー国際的波紋ー


 1954年5月ー国際赤十字社は日本国政府に対し、収容施設の視察と収容者との面会を要請した。

 これは佐々木が漏洩した文書が契機となったものだったが、赤十字社はそのことを明かさなかった。

 日本国政府は、国際的なイメージを守るため、一部の施設を「モデル施設」として整備し、視察を受け入れた。

 赤十字の調査団は、東京・大阪・福岡の収容施設を訪問した。

 彼らは、日本国政府の監視の下で施設を見学し、選ばれた収容者との面談を行った。


 しかし、視察団のジュネーブ本部への非公開報告書は厳しい内容だった。


「収容者の多くが法的手続きなしに拘束されている。施設の環境は国際基準を満たさず、医療へのアクセスが制限されている。収容者との個別面談では恐怖と不安が広がっていることが確認された。特に懸念されるのは、日本国で生まれ育った若い世代を知らない国へ送還しようとしている点である。」

 報告書は非公開だった。

 しかし、その概要は、国連人権委員会に伝えられた。


 ー国連での議論ー


 1954年6月ー国連人権委員会の非公式会合では、日本国の状況が議題となった。

 ソ連・ポーランド・チェコスロバキアなどの東側諸国の代表は、日本国を強く批判した。

「日本は旧植民地の人々に対する新たな迫害を行っている。」

 ソ連代表はそう述べた。

 ポーランド代表も、

「日本の行為は国際法違反である。」

 と腕を振りかぶりながら、熱く主張した。

 しかし、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国は慎重か好意的な立場をとった。

 アメリカ合衆国代表は、

「日本の主権的決定を尊重しつつも、最低限の人道的配慮を求める。」

 との妥協的な発言にとどめた。

「冷戦下の国際政治」という特殊舞台が、明確な非難声明の発表を妨げたのだった。


 しかし、非政府組織からの批判は強まっていた。

 アムネスティ・インターナショナルは「在日朝鮮人の強制送還に関する懸念」と題した声明を発表。

 日本国政府に対して、その政策の見直しを求めた。


 ーアメリカ合衆国の介入ー


 表向きは慎重な立場をとっていたアメリカ合衆国だが、裏では日本政府に対する圧力を強めていた。

 駐日アメリカ合衆国大使は、日本の外務大臣と極秘会談を行い、米国の懸念を伝えた。

「大規模な強制送還は地域の不安定化を招き、共産主義勢力の宣伝材料になりかねない。」

 これに対して、日本国政府は、

「貴国の要求たるものは、内政干渉に当たるものなので断固として拒否する。」

「日本国が折れることは無い」と見たアメリカ合衆国は、この日本国政府からの反論を全面的に受け入れた。。


 ー抵抗運動の高まりー


 1954年9月ー在日朝鮮人社会では、日本国政府の送還政策に対する抵抗運動が活発化した。

 朝鮮総連と民団はながねんの対立を超えて「強制送還反対共同委員会」を結成。

 この出来事は両組織にとって歴史的な協力だった。

 また、この「強制送還反対共同委員会」には、

 ・日本人の知識人

 ・労働組合

 ・学生団体

 なども連帯の輪に加わった。

 東京・大阪・神戸などでは、大規模な抗議集会が開かれた。

 9月22日には、東京都の日比谷公園において、約5万人が参加する「在日朝鮮人の権利を守る国民総決起集会」が開催された。

 そこでの演説者たちは、次々と日本国政府の政策を批判した。

「これは戦後民主主義の危機だ」

「国際法違反の民族迫害を許すな」

「在日朝鮮人と連帯しよう」

 集会後のデモ行進では一部で警察との衝突が起き、多数の逮捕者が出た。

 更には、逮捕された活動家たちの中には、直ちに「送還対象者」としてリストに加えられる者もいた。

 これを受けて、日本国政府は抵抗運動を「国家安全保障上の脅威」として位置づけてた。


 ー強制送還の全盛期ー


 結局というものの、在日朝鮮人の「東亞連邦への強制送還」というのは、全盛期を迎えた。

 1954年中において、在日朝鮮人全体の9割以上となる71万2500人を、東亞連邦へと強制送還した。


 1955年6月ー全在日朝鮮人の東亞連邦への送還を完了させた。

 これに際して、「全在日朝鮮人の強制送還」という政策を立案した張本人である木村篤太郎と木村清太郎の両人とも、名声をとにかく高め「次期首相候補」と呼ばれる存在にまで上がった。


 ちなみに、幾年か経過した1958年時点での残存在日朝鮮人の数は、1万2000人程度である。


 ー佐々木の活動ー


 佐々木龍平は内部文書の漏洩後、入国管理局内で実質的に左遷されていた。

 表向きは「研究職」に異動させられたが、それは監視下に置かれることを意味した。

 しかし、彼は諦めなかった。

 秘密裏に情報を集め、抵抗運動の指導者たちに伝え続けた。

 彼は「白鷺」というコードネームで知られるようになった。

 佐々木は同僚の中にも協力者を見つけた。

 同じく良心の呵責を感じていた官僚たちだ。

 彼らは小さなネットワークを形成し、政府内部からの抵抗を続けた。

 彼らの活動は危険を伴った。

 発覚すれば、公務員としてのキャリアどころか、「諜報罪」で訴追される可能性もあった。


 しかし、彼らは自分たちの行動が歴史的に正しいと信じていた。


 ー「ヨンヒの写真」事件ー


 1954年12月25日ー転換点となる出来事が起きた。

 13歳の少女である金ヨンヒが、収容施設から東亞連邦へと送還される直前、柵越しに手を伸ばす写真が「毎日新聞」の一面に掲載された。

 金ヨンヒは日本で生まれ育ち、日本の学校に通う普通の少女だった。

 彼女の父親が、朝鮮総連の集会に参加していたことが理由で、家族全員が送還対象となった。

 写真は日本社会に衝撃を与えた。

 少女の悲しみに満ちた目と、柵に伸びる小さな手が、それまで無関心だった多くの日本人の心を動かした。

「私は日本人です。お願い、行かせないで」

 彼女の言葉が見出しになった。

 写真はすぐに国際的にも広まり、世界中のメディアが報じた。


 ー佐々木の後半生ー


 佐々木龍平は、政策転換後も入国管理局に残り、在日外国人の権利保護に尽力した。

 彼は自分の過去の役割を公には明かさなかったが、密かに送還された人々とその家族を支援し続けた。

 1970年代には、在日外国人政策の専門家として国際会議にも必ずと言っていいほど出席するようになり、その知見は各国から高く評価された。

 彼は常に「人間の尊厳と権利を中心に据えた移民政策」の必要性を説いた。


 1985年ー退職した彼は回顧録『白鷺の告白』を匿名で出版した。

 その中で、彼は自分が「白鷺」であったことと内部文書を国際赤十字社に漏洩したことを初めて明かした。

 回顧録の最後に、彼はこう記した。

「私は罪を犯した。計画に関わったことで、送還された人々の苦しみに間接的に加担した。しかし同時に、より大きな悪を阻止するために行動した。私の人生は矛盾に満ちている。ただ願うのは、この歴史が二度と繰り返されないことだけだ。」


 ー灰土と薔薇のあいだでー


 1950年代の日本は、戦後の混乱から立ち直り、新たな国家像を模索していた。

 その過程で、在日朝鮮人という「内なる他者」をどう処遇するかは、日本の民主主義と国際社会での位置づけを試す重要な課題だった。

 木村構想がもたらした混乱と苦痛は計り知れない。

 そして、その最終的な成功は、排外主義的政策の怖いくらいの可能性とそれに伴う危険性を物語っている。

 一方で、佐々木のような良心的反対者の存在は、どんな暗い時代にも希望の光があることを示している。

「灰土と薔薇のあいだで」というのは、破壊と創造、排除と共生、絶望と希望の狭間で揺れ動く人間社会の愚かだが美しい姿を表している。

 戦後日本社会もまた、そうした両極の間で揺れ動きながら、自らの道を模索していたのだ。

 この歴史が、これからの社会に対する理解を深め、未来に向けての教訓となることを願って。


 これで、終了したいと思う。


 1955年ー東亞連邦の人口は11億2500万人となった。

 また、この時の日本の人口は、約6700万人となった。


 そして、ここで核保有国の核兵器保有数と主要国の経済規模の推移を表したグラフがあるので掲載しようと思う。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


 これら2つのグラフを見ると、核保有数において、日本国は世界1位となっている。

 また、経済規模においては、世界第2位となっている。

 戦後11年にして、ここまで復興するとはな。


挿絵(By みてみん)


 1954年から1956年にかけての2年間では、主だったイベントは一つしかない為にこのような小さい枠取りの中でしか書くことができないが、許してほしい。


 その上記にあるその一つの主なイベントとは、

「あと少し人口を減らしたい。」

 と考えたヨーロッパ諸国は「人口輸出のための一時的な同盟」を結んだ。

 そして、東亞連邦に対して。新たに3億8690万人のヨーロッパ人の移民と引き換えとして、東亞連邦からの一国あたり8兆円規模の経済支援を提案したことである。

 その提案を、東亞連邦は喜んで快諾した。

 それにより、物語が始まる1956年1月1日の東亞連邦の人口は、上記の社会増加と2年間の自然増減を合わせて、16億5000万人となる。

 ちなみに、日本国の人口は6700万人となった。

お読みいただき、ありがとうございました。

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