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Welt der ostasiatischen Föderation  作者: Hendrik-Verwoerd
東亞連邦の全容
5/48

歴史part4 (1947年から1948年)

楽しめ。

挿絵(By みてみん)


 1947年2月25日ー東亞連邦の人口6億人突破!


 1947年3月11日ー日本国は、ソ連邦を介してあることを決定。

 それは、東亞連邦に対して「東條英機総理の東亞訪問」の打診であった。

 これに対して、東亞連邦側は、

「国民に調査をとるから、あとで回答する。」

 とソ連邦を介して日本に対して述べた。

 東亞連邦は、全国民に調査紙を送り、必ず答えるように要請した。

 ここで一つ注意だ。

 ただし、18歳以下のすべての子供はこれに含まない。

 また、高齢により筆記や声を聞くことが困難な人もこれに含まないことは理解しておいてほしい。


 これに対して、約3億3000万人が答えた。

 ただし、18歳以下の子供2億6000万や65歳以上の高齢者1000万は入っていない。


 そして、結果が返ってきた。

 この内訳は、次のとおり。

 賛成ー50万人

 反対ー3億2950万人

 東亞連邦において、東條英機は、

「天皇陛下と日本はもちろんだが、我らの家族を貶めて、卑劣なアメリカ合衆国に降伏した重罪人」

 として、とても嫌われており、とても歓迎される様子ではなかった。

 ただし、これが天皇陛下の場合であったならば、熱烈な歓迎と偏執的で執着的な病的な愛で迎えられることとなったのであろう。

 日本政府の閣僚たちは、東條総理に対して、

「東亞連邦への渡航は非常に危険である。」

 として進言し、東條の東亞連邦への訪問中止を強く要請した。

 しかし、東條総理は断固として、自身の決定を曲げなかった。

 そして、その後の臨時閣議で、新たに断固決行の旨を述べた。


 1947年3月15日ー東亞連邦に対し、東條首相来訪の報を伝達。

 これに対して、東亞連邦は閣議開催を決定。

 日本国外務省に対し、「国民投票の結果を踏まえて閣議を開き、閣議において慎重に議論を重ねる為に、もう暫くの時間を要する。」との返信を通達。

 以下は、その閣議の内容である。


 岸総理「私としては東條の来訪に対し、皆がどう思っているか聞きたいと思いこの閣議を招集した。

 皆の気持ちを聞かせてくれ。ちなみに私は賛成の立場である。」


 国民監視大臣「私としては断固反対である。私達、帝国軍人を見捨てるだけに飽き足らず、連合国に屈した臆病者で陛下に敗軍の将の気持ちを味合わせた朝敵である。」


 国家保安省大臣「私も断固反対です。個人的な恨みつらみもありますが、何より日本を貶めたくせにのうのうと総理の座についていることも腹立たしいです。」


 国民監視大臣「coup d'Étatを起こし東條を処刑させようと思ったが、抵抗派の人間は全て東亞連邦にいる為、日本には東條に対し支持・賛成している者が多いために断念したというのが現状です。」


 統合産業省大臣「私としては賛成です。日東関係の改善につながるかもしれないし、もし仮にその来訪が成功に終わり官民間での交流が生まれれば新たな産業が育つ良い機会になると考えました。」


 厚生大臣「我らも彼らもまた大日本帝国の臣民であり天皇陛下の赤子であるというのは事実でしょう。ならば臣民同士分け隔てられる必要はないと考えます。」


 宮内省侍従長「私としては絶対に何があっても反対です。」


 岸総理「なぜだい?」


 宮内省侍従長「天皇陛下に対し泥を塗るような行為を連発し、皇室財産の大幅没収という大きな過ちを繰り返す連合国軍を招き入れたことは万死に値する出来事だと心底から思うからです。」


 外務省大臣「私達は賛成です。なぜなら日本は国際連合の常任理事国であります。そうした国と国交を回復することにより、私達の発言力も大幅に増すと考えられるからです。」


 この際にとられた投票の結果として

 賛成は5

 反対は30

 と圧倒的反対になってしまった。

 しかし、岸信介総理による決定権使用により、東條英機総理の東亞連邦来訪は「受諾する」という閣議決定がなされ、日本国政府に秘密裏に通達された。

 新聞は「怨敵の東條、恥を知らずに東亞連邦に来訪予定」と銘打ち発行。

 この新聞報道に、東亞連邦国民は旧帝国軍人を中心として大激怒。

 死の呪術セットや呪文総集本などが大売り上げとなる事態であった。


 1947年6月14日ー東亞連邦は、近年の急激な経済成長と国土開発により、労働可能人口約3億人では更に労働力が足りなくなった。

 そのため、

 ・ソ連邦

 ・ヨーロッパ全土

 ・コーカサス地方

 などの国々に対して、コーカソイド系・ヨーロッパ人の大規模な移民を送ることを要請した。


 移民を送る代わりに、

「国交の有無に関わらず全ての国家間・人民間の経済活動・支援を認める。」

 の国連(連合国)による東亞連邦への特別条項を利用して、大規模な10兆円単位での経済支援をするという有利な条件を提示。

 そして、プロパガンダの一環として、

「マンチュリアに行けば貧困だった暮らしが大地主になれ、今とは全然違うお金持ちになれる。」

 というスパイを用いた大規模マーケティングを開始。


 これらの工作は功を奏した。


 これらプロパガンダ工作を真に受けて、両手をあげて喜んだ貧困層が多いバルカン・東欧はもちろんだが、ソ連邦などの国々から、約2億5000万人もの人数が「移民」として、1948年1月1日までに東亞連邦の全面協力を受けて、無事到来。


 上記とは別に、敗戦直後のドイツ・イタリアや、北欧諸国・イギリス・フランス・ギリシャ・ポルトガルなどの北欧・西欧・南欧からも、合計にして約7000万の移民が1948年1月1日までに東亞連邦の全面協力を受け到来。


 また、先ほど述べた地域以外からのヨーロッパ人3000万人も、同じく1948年1月1日までに東亞連邦の全面協力を受け到来。

 このように。合計3億5000万人の移民が到来した。


 この結果は、次のとおりである。

 1948年1月1日までに、東亞連邦の人口は、

 社会増加ー3億5000万

 自然増加ー2500万

 =約9億7500万人

 となった。


 総評としては、豊富な労働力を手に入れた。

 しかし、移民を送り出した国では、人口減少が大きく進んだ。

 そのため、国家政策として、人口増加と国力増極を掲げて、忠実に実行しなければいけなくなった。 

 結果として、様々な国家主導の人口増加政策が行われた。

 その国家主導の人口増加政策により、1960年代では元の人口より増加した。


 話を戻そう。


 東亞連邦は、過剰ではあるが、豊富な労働力を手に入れた。

 結果としては、引き続き食糧に関しては配給制を敷かないといけない状況となってしまった。

 また、これにより東亞連邦内のコーカソイド系の割合が、70%以上になった。

 これにより東亞連邦はヨーロッパ・日本人国家となった。


 1947年8月15日ー東亞連邦は、日本政府と日本国民に対して、「東條英機総理訪問のことについて」との談話を正式に発表。

 その内容というのは、

「東條英機総理の訪問を受諾する。」

 との内容だった。

 これに対して、日本国政府は、

「東條英機総理の訪問の儀、受諾してくれて嬉しく思ひ、また、受諾を決定してくださつた東亞連邦の各閣下に対し、改めて深く謝意を示したいと思ふ。」

 との回答を記者会見において行なった。


 同日ーこれに対して、日本国内では東條英機を称賛する声が上がった。

 さらには、昭和天皇も、

「両国の親善が進むのは大変に良いことであるな。」

 と喜びのご感情を出された。

 しかし、東亞連邦では、元々において東條英機を、死ぬほど憎み忌んでいる。

 そのために、その強い憎悪の対象となっている人物が、自分の国の土を踏むということに、とてつもない忌避感と拒否感を示した。

 その様子は、東條英機暗殺計画が、幾度となく歯止めなく立案され、実行に移るほどまでであった。

 そして、その計画らを憲兵により阻止されているといった様相から、わかると思う。


 その理由は、まず東條英機の印象が、海を挟んで全く違う事がある。


 東條英機の印象は、日本列島の人々からしてみたら、無駄な戦争をせずに陛下の心情と国民を慮って日本の国際的地位や日本の名誉のみならず、威厳と日本の都市や自然と日本国民とを守り、天皇陛下を連合国軍の憎しみの手から守った英雄として見られている。

 しかし、東亞連邦の国民からしたら、

「聖戦完遂という一世一代の使命から逃げまわり、陛下に恥と屈辱をわざと味合わせた国賊である。

 そして、大陸の自分たちも苦しめている。

 さらには、亡き首魁ルーズヴェルトに操られている連合国軍が神州日本で狼藉を働いたり、私達を下に見下したりする原因と要因を作った非常に恥なる人物だ。」

 と思われている。


 その為、日本国と東亞連邦では、180度印象が違うのである。


 当の東條英機総理は、東亞連邦などと言う造反者の根城に、「行きたい!」という気持ちは毛頭なかった。

 しかし、国民に外交に力を入れているという表示や、

「次の選挙で大政翼賛党が勝利できるための功績を作りたい。」

 という気持ちがあった。

 そのため、訪問を決行した。


 1947年10月15日ー東條英機総理、飛行機に搭乗して新京へ到着。

 東條英機が、関東軍参謀長として旧満州国に滞在していた時と違いその時と比べ大きく発展・成長している新京の姿を見て、感激して涙を流した。

 東條英機は手記において

「私が関東軍参謀長としていたころは500万都市。

 その頃も十分と発展したわけだ。

 しかし、この今の新京は3000万人都市となり大幅に成長している。

 これを見て、まるで我が子の成長を見ているかのようで感動するところ」

 と記している。

 その後、新京にあるヤマトホテルにて宿泊した。


 翌日、東條英機は、散歩をしている時に驚くべき歴史の気まぐれというべき出来事に翻弄されることとなる。

 その時の東條の手記によると

「翌日の朝に本官が、参謀長時代に健康のためと始めた公園一周散歩においてベンチで一息ついている時、目の前からお嬢様の雰囲気を持つロシア人幼女と厳格な雰囲気をもつ若く壮麗な憲兵がやってきた。

 彼らはとても和やかに話し込んでいてふと私は思った。

「この国は白人の比率が異様に高いな・・・」と。

 そう思っている間にも彼らは話し込むのを終わらせて、私に話しかけてきた。

「あなたは何をしにここにきているのですか?」と。

 その言葉に対し私が言葉を返した。

「私はここの街並みが好きだから散歩をしているのですよ。」と。

 そして彼らのうちのロシア人の幼子が聴いてきた。

「あなたはどこの国の人?何をしている人でどういう人なの?」とね。

 憲兵が「あまりずかずかと見知らぬ人に話をするな。」と軽い優しいゲンコツをした。

 ロシア人の幼女は「いてっ」と可愛らしく言っていた。

 それにしても、この幼女は憲兵よりもすでに身長が2cm低いくらいで約6尺の長さのようにも見える。

 それで興味を持った私はロシア人幼女に聞いた。

「あなたたちの質問に答える前にあなたは一体身長は何センチなのですか?」と。

「182cmです!」とロシアの幼子が私の問いに答えた。

 いやはや、外国人の成長の速さには目を見張るものがあるなと只々驚嘆。

 そして私が自分のことを語り始めた。

「私は日本列島から飛行機に乗り、来訪してきた1人の日本人です。」と答えた。

 彼らは口々に、

「日本か、いいところだ」

「日本に行ってみたーい!」

 ということを言っていた。

 そして私が自分のことを話した。

「今からは素の私の口調で喋るし、自分のことに関しての言葉は少なく自分の行いに対する弁明が目立つがどうか許してくれ。

 ・・・私は元関東軍参謀総長として旧満州国にて働いていたんだ。

 その後に41年から現在までの約8年間にわたって重要な地位を勤めているのだが。

 その間には大きな戦争もあり、大規模な造反も起こりとても苦労をしたんだよ。

 私は連合国と停戦したのは間違っていないと思うよ。

 なんでかっていうと、もしあそこで日本が今のように負けを認めていなかったら、あ、君たちの認識では負けてはいないんだったね。

 すまない。

 で、負けを認めていなかったらもっと多くの君らのような若者が、私ら耄碌の者どもにより亡くなり、麗しい我が国土は破壊され尽くされただろう。

 それを、陛下は絶対に望まない。

 だから私は、負けを認めたくない自分の心情を押し切って、陛下の心情と国民を慮って停戦したんだよ。

 君たちの国や国民は私のことを死ぬほど嫌っていると聞く。

 それは、戦争に敗北したことにより国家や陛下に泥をぬる行為・恥をかかす行為を私がしたからと君たちの国や国民がそう信じているから。

 しかし私や日本国民からしたら君たちの行動や行為の方が陛下に恥を塗っているし、陛下の顔に泥を投げつけていると信じている。

 私は見たのだ。

 陛下が連合国軍最高総司令官ダグラス・マッカーサー元帥に

「どうか頼むから、朕の臣民を殺さないでくれ。」

 と毅然と発言なさっているのを。

 君たちはどう思う?

 このことに対して、もう一度考えてほしい・・・

 そして私の名前を告げてなかったな。

 私の名前は東條英機である。

 以後覚えておくように・・・」

 と私の話が終わって、彼らの顔を見ると彼ら、特に幼女の方が最初はとても驚いた顔をしており、また、とても怖い顔になっていた。

 憲兵の男も同じく怖い顔をしており、「気配は尋常にあらず」と思った私はその公園を急いで後にした。」


 3日目、東條英機は連邦議会において演説を敢行。

 数々の罵詈雑言・誹謗中傷・暗殺計画・誘拐計画・侮辱等を議会での演説中にたびたび受けたり、実行されそうになったりしたけれども、無事敢行。

 この演説はテレビ・ラジオ等で東亞連邦全土に向けて放送された。

 なお、国民の93%は東條英機の演説に耳を貸したと言われる。


 次に示すのはその内容である。



 東條英機の演説


「この議場に集まりの東亞連邦の庶民・貴族・軍人議員の諸君よ。

 そして、東亞連邦の国民よ。

 本日は、この荘厳美麗な国へと、お招きいただいたことに深く感謝申し上げる。

 さて、私がここにきた理由については、君たち東亞連邦国民が、帝国政府や帝国国民に関して、大きく誤解をしている為である。

 私は、それを晴らす目的で、この場へとやってきた。


 〈非常に怒号と非難する声が木霊する〉


 静かにしてもらいたい。


 〈徐々に静かになっていく。〉


 まず、君たち東亞連邦の議員諸君に関しては、日本国政府や私に対しての印象が非常に悪い。

 特に、郷土の家族や陛下のお顔に泥を塗りたくり、郷土の家族や陛下に恥をかかせた国賊で軟弱者という印象を私に対して持っておられる方がさぞ多いことである。

 しかし!

 もしあの時において、私や帝国政府があの非常に悲惨たる先の大戦を終結させていなかったらとするならば、今頃の日本国はどうなっていたであろうか?

 1945年度中に降伏するなら、まだ日本国は大丈夫であろう。

 しかし、1946年、1947年と日々を経つるにして、手遅れになるだろう。

 もちろん、昨今においてアメリカが所有したる核兵器が、我が国に炸裂するのは予測しとかなければいけない。

 それによらずとも、度重なる空襲や砲撃などで国土は、ひどく荒廃していることであろう。

 犠牲者は、無作為に無意味に増えていることであろう。

 君たちが大事としている「郷土」も、不毛の毒ガスと放射能が渦巻く、二度と今後一切千年間立ち入りを禁じられることになるであろう。

 そうなることになったとしたら、之は本末転倒であると言わざるを得ない。

 連合国軍による占領統治政策は、今でさえも只々厳しい統治であると言わざるを得ない。

 なのに、降伏しなかったら今よりも更に厳しく、長く続いていたことに間違いないだろう。

 そして、国家国民や陛下に対して、今よりももっと凄まじい重荷や恥をかかすことになるであろう。

 最悪の場合であるが、もし戦争が2年間以上もの長期間にわたり長引いた場合に、さらにたくさんの双方の国民が双方の国家の名のもとに徴兵される。

 そして、無益な戦闘があちこちで起きるが為、両軍の犠牲者が無駄に大幅に増える。

 そうすると、連合国参加の国民や遺族の憎悪の矛先は、私たち政府に来る。

 まだ、私たち政府首脳部だけが、殺されて惨めな扱いをされてるだけならいい。

 しかし、憎悪の歯止めが効かなくなり、最悪の場合としては、陛下の処刑や皇統の強制断絶などの過激な手段を連合国首脳部が選択するということも考えられる。


 〈議場内からどっと怒号が東條に向け飛ぶ〉


 もしっ!

 そうなったとしたならば、ここにおられる「戦争継続」やら「八紘一宇」などを未だに訴えている議員らは、どう責任を取るつもりなのだろうか?

 貴方達が唱えていることが、陛下の処刑と皇室の滅亡につながるのですぞ!

 また、ここにおられる議員の全員は、元は帝国臣民なのであろう?

 そうではなくとも、陛下の赤子であるのは疑いようのない事実である。

 しかし、その臣民が、主君に対して多大なる心労をかけるなどは、あってもいいことなのだろうか?

 臣民が、訳もわからぬことを喚くが故に、無関係の主君が死ぬことなどあって良いのだろうか?

 臣民が、自分のプライドが負けるがために無作為な行いをするが故に、慈悲の愛深き主君が要らない責任を背負い、敵国人に陰湿にも責められることなどあっても良いのだろうか?

 処刑されることなどあっていいことなのであろうか?

 いや、全くもって良くない!

 君たちは、私を戦争放棄の軟弱者と侮蔑し、日本国を卑劣なアメリカ傀儡の国家と非難してくる。

 さらには、陛下に恥をかかせ、御尊顔に泥を塗った国賊として罵る。

 しかし、私や日本国民からしてみれば、諸君らの方こそ国賊である!

 戦後の重大なる時に際して、全く無被害の大陸に逃げるだけに飽き足らず、そこで地盤を建て直したら、今度は復興途中の日本国の政情不安を画策している。

 そんな極悪にして卑怯なる貴様らに、私が愛する国家国民を侮辱される筋合いは無い!

 自分の顔を振り返って見よ!

 貴様らは、平和を求める陛下の心の内からの切なる小さな声を、ことごとく無視している。

 挙句の果てには、「自分らの負けたくはない。」という灰塵に帰すべきような無駄な気持ちを制御できずに、急に1000万もの軍を用いて大陸に籠ってしまった。

 そして、本土防衛の重大なる任につきたる防衛部隊まで引き連れていった。

 あまつさえ、一国を作り上げるという前代未聞の問題行動を行った。

 もうこの世は、「一国一城の主」という武士時代では無いのだぞ!

 もうこの世は、数々の陰謀が飛び交う陰湿な世界なのだぞ!

 そして、私の最も腹立たしい出来事なのであるが、貴様らが勝手な行いを際限なく行うせいで、陛下に対して連合国が攻撃する理由を与えてしまった。

 これだけの!

 これだけの!

 大きな問題を作り出しているのだ!

 それであるのに、諸君らは未だ「陛下のため!」と、日本国民を罵って、挙げ句の果てには侮辱するのか!

 私は、これを最も腹立たしいとするところである。

 それなのに、陛下は諸君らを大切にしておる。

 それは、今でも変わっていない。

 毎日、朝起きると皇祖神や天照大御神に対して、諸君らの安全と幸福やら諸君らの国家と国民の繁栄やら発展の祈祷を、長きにわたってなされている。


 〈しばらくの沈黙がある。〉


 そして、私は聞いたのだ!

 陛下が、マッカーサー元帥に対して、何遍も、何度も、

「大陸にいる朕の臣民をどうか攻撃しないでほしい。彼らも、かつては全てを投げうって朕や日本国のために奉仕してくれたのだ。もし彼らを罰するとするなら、その前に朕を罰せよ。」

 と毅然とした悠然なる態度で望まれているのを。

 本来であれば、この発言を受けたマッカーサー元帥のひと匙で、陛下が死刑になってもおかしくはなかったのであるし、実際にアメリカ世論はそれを望んでいた。

 その背景を理解しながらも、勝手な行動を行い秩序を乱した貴様らが完璧に悪いのであるのに、陛下は「朕が愛した兵士たちだから。」と、わざわざご自分の命を犠牲にしてまでも貴様らを守ろうとしたのだ!

 今喋っているだけでも、陛下の多大なる愛で涙が出る。

 これだけ我らを愛してくれる偉大な君主が世界にいるだろうか。

 そんな偉大な真に世界に冠たるべき君主も、貴様らの無知蒙昧で世間知らずのおぼっちゃまな行動によって、あと一歩のところで死刑になってもおかしくはなかったのだぞ。


 〈議場は沈黙に包まれる。〉


 貴様らや私のような耄碌が死んでも、その代わりはいくらでもいる。

 だが、陛下が、皇室が、いなくなってしまったなら、もう二度と変わりはいないのだぞ!

 日本文化も日本も、真の意味での日本と言えなくなってしまうのだぞ!

 2600年の長きにわたって紬糸のように連綿と続いてきた皇室の歴史が途絶えてしまうのだぞ。

 私や日本国民からしてみれば、貴様らこそが真の悪役である!

 陛下のご尊顔に対して、泥をぬる叛逆者で朝敵である!

 本当に、今一度自分の行動を振り返り反省せよ!


 〈しばらくの沈黙と啜り泣く声が議場内に木霊する。〉


 貴様らよ、本当にこれでいいのか。

 同じ天皇陛下を主君としているのだろう?

 同じ日本文化を愛しているのだろう?

 同じ赤い血が肌の下を巡っているのだろう?

 お互いがお互いに攻撃しあっているのを見て、ほんとうに、陛下がお喜びになると思うのか?

 君たちも、陛下からしてみれば大事な臣民なのであるから。

 どれだけ、私や日本国政府を恨んだり、憎んだり、忌んだりしても全然良い!

 私を殺しにかかってくるんなら殺してみるが良い!

 しかし。日本国民や陛下に対して、絶対に恥をかかせるような行為をするな!

 日本の歴史を潰えさすような粗末な行為を絶対にするな!


 〈議場が沈黙に包まれる〉


 ・・・ここまで、東亞連邦国民に対して、感情的になってしまい、酷な事をたくさん言ってしまった。

 言ってしまえば、元々この事に関する原因は、現地の血を戦場に捧げたる将兵の心情を思わず、壮大な背景があったとは言え、独断だけで停戦を決めてしまった私や内閣が悪い。

 それは認めよう。

 そして、その問題に関しては、決して後悔などしていない。

 しかし、私の最大の思い残しである。

 もう東亞連邦は建国されてしまった。

 中華民国とは、違う道を歩んでいる。

 そして、立派な強国となっていっている。

 だから、もう過去のことでいちいち掘り返したりなどは、日本国・連合国共々しないと約束する。

 今の発言には、マッカーサー元帥の承諾も得てある。

 だから、この東亞連邦という国家を建国した責任を持て!

 東亞連邦という、素晴らしい国土と国民とを持つ、この精強なる国を精一杯・最大限・最高限にまで発展・進歩・成長させよ!

 ここで戦死したる10万の英霊の将兵たちが持っていた、

「この美しい優美は場所で、圧政者や戦乱の影に怯えることも無く、世界の民族のみんなが楽しく暮らせるいい社会やコミュニティを作りたい。」

 という望みや思いを晴らせるようより一層励め!

 そして、この際だから今一度、

「四方の海皆同胞と思う世になど波風のたちさわぐらむ」

 と詠みし天皇陛下の大御心を拝察仕りなさい。

 そして、一層世界平和の貢献により一層励め!

 これにて、私の演説を終了したいと思う。」



 この東條英機による、東亞連邦訪問は一応の様々な成果を見せた。

 例えを出すとするならば

 ・1944年から途切れていた話し合いの再開

 ・国家間の親密度の微かな上昇

 ・日本国から東亞連邦への民間投資の加速

 ・東亞連邦の国際的地位のかすかな回復等々

 ただし、国民感情には何ら良い変化をもたらさなかった。

 それどころか、背信行為に翻弄された将兵に対する、直接的な「申し訳ない。」の一言もなかった。

 なので、さらに印象が激烈悪化した。

 これまで以上に、徹底的に、執拗に、病的に憎まれ・偉まれ・忌まれた。

 東條は、どんなに良いことをしても、基本的に東亞連邦の国民からは嫌われているために仕方ないのである。

 しかし、「演説」だけは感動のあまり涙する東亞連邦国民が続出し、

「悪逆非道の逆臣東條、演説において良心が現れたのか、気持ち悪いほどの良い演説を敢行」

 と新聞は褒め称えていた。

 アメリカ合衆国などの国外からは、

「東條英機は自らの非を認め、東亞連邦を事実上容認する大分穏健な対応及び演説をした。」

 と高く評価されていた。

 国外からは、高く評価されていたのに、東亞連邦国民は、演説を抜きにしても、東條英機に対する恨みをさらに深くならせていた為、海外からは、かなり特異がられた。


 12月8日ー東條英機内閣は、任期満了を迎えて総辞職。

 異例の12月から、真冬の衆議院解散を行った。

 また、同日に衆議院選挙公示が行われた。


 12月15日ー第23回衆議院総選挙開票が実施された。

 結果としては、次の通りである。

 〈衆議院の定数議席500議席とする。〉

 自由民主党(旧大政翼賛党)ー260

 日本社会党ー235

 日本共産党ー5


 また、第23回衆議院総選挙後の党派別議席数を表した円グラフを掲示しよう。


挿絵(By みてみん)


 これをみるだけで、皆わかると思う。

 しかし、わからない方もいらっしゃると思われる。

 なので、何故にこうなったのか解説したいと思う。


 1947年11月2日ーこの日までの衆議院においては、大政翼賛党が過半数を握りながら最大議席数を誇る一大政党であった。

 しかも、対抗馬の最大野党すらも20議席程度であり、さらに悪いことなのであるが、お互いの政党をお互いの政党が潰しあっていたりした為に、半ば大政翼賛党の一党独裁状態であった。

 この状態に対して、並々ならぬ危機感を覚えた50つのそれぞれ議席を持つ野党らは「緊急野党集会」を実施。

 そこにおいて、50つの野党を大同吸収して「日本社会党」を名乗る政党を即時結成することに決した。

 そして、この時に吸収した50つの野党らの「党是及び政治的思想」の大部分が〈共産主義〉と〈社会主義〉であったため、日本社会党は急激に左傾化し、親ソ及び反米的姿勢を取る政党となった。

 まぁ、あたりまえではあるが、50つもの政党を丸ごと飲み込んだために、衆議院における議席数は大幅増加することとなった。

 当時における日本社会党の議席数は188議席と野党の中で最大。

 そして、当時における大政翼賛党の議席数は212議席であった。

 こうして。円グラフで見れば、大政翼賛党と社会民主党で約半々であるという様相のため、この1947年以降の二大政党制は「47年体制」と格調高く呼ばれることになった。


 また、第23回衆議院総選挙前であった1947年11月25日時点での党派別議席数を表した円グラフを掲示しよう。


挿絵(By みてみん)


 1947年12月10日ー連合国最高司令官であるマッカーサー元帥から発せられた「名称変更の命令」により、「大政翼賛党」の名称を「自由民主党」とすることに、党本部会で決定。


 1947年12月13日ー諸派・日本農民党が、日本社会党に吸収された。

 また、この時自由民主党の一部リベラル議員も、日本社会党への移籍を決意。

 約10人もの離反者を出す羽目になった。

 新聞各社は、

「これにて、政権交代確実か?」

 と書き立てた。


 同日ー国民協同党及び自由民主党が合併。


 同日ーマッカーサー元帥が、

「もし、日本社会党が勝利することが確実視されるようなことがあったなら、連合国軍最高司令官総司令部の権限を用い、日本社会党へと政党解散の政令を出す。」

 と牽制した。  

 さらには、同じ時間帯に、連合国軍最高司令官総司令部が会見を開き、

「マッカーサー元帥をはじめとする我々連合国最高司令官総司令部は、自由民主党に日本国の政権を任せたい。」

 とも発言するという異例の選挙介入がなされることとなり、大きな波乱を齎した。


 というわけで、これら一連の流れが、先述の第23回衆議院総選挙の結果につながるという訳だ。

 わかってくれたというなら、嬉しい。

 そして、この解説を、しかと心に聞き留めてほしい。


 1947年12月30ー日本国において、第23回衆議院総選挙の結果を受けて特別国会を開催された。

 そこにおいて、吉田茂が第47代内閣総理大臣に任命された。


 同日ー1947年度の東亞連邦の人口統計が発表された。

 それによると、

 社会増加ー3億5000万人

 自然増加ー2500万人

 =9億7500万人

 と大幅な人口増加を見せた。


 1947年12月31日ーダグラス・マッカーサー元帥以下連合国軍最高司令官総司令部から、

「最近における日本政治の動向に関して、言いたいことがあるので述べたい。」

 との「国会での演説要望」があった。

 これを受けて、吉田茂第47代内閣総理大臣は「臨時国会招集の令」を布告。

 再び衆議院議場において、全政党の衆議院及び参議院議員が結集。

 ダグラス・マッカーサー元帥の演説を傾聴するように命令した。


 以下、その時のダグラス・マッカーサー元帥の演説と反応を書き起こした全文である。


 松岡駒吉第39代衆議院議長「ダグラス・マッカーサー元帥からの要望により、演説を所望したいとの申し合わせがございましたので、衆議院・参議院両院とも両手を挙げて大いに歓迎いたします。」


 松岡駒吉第39代衆議院議長「それでは、連合国軍最高司令官であるダグラス・マッカーサー元帥からの要請による、「愚かにも反米主義でありながら親ソ・親中共の気狂い共産主義者どもに告ぐ。」と題された演説を始めて貰いたいと思います。ダグラス・マッカーサー元帥よ。お願いいたします。」


 〈あまりの題名に、日本社会党全議員らからどよめきと怒りの声が上がる〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「さて、日本議員諸君よ。私が連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーである。今回は、日本国会での演説を許可していただき、ありがたく思う。また、日本議員諸君らも、この私の演説を聞けることを至上の誉としてほしい。」


 ダグラス・マッカーサー元帥「また、吉田茂首相にも、深く感謝を申し上げたいと思う。連合国軍最高司令官として着任した私を日本政府側として、とてもよく助けてくれた。私の異国での親友だ。」


 〈吉田茂首相がにこやかな表情になる〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「さて、本題に入ろう。」


 ダグラス・マッカーサー元帥「私らは、最近の日本政治の動向に深く憂慮している。政権与党である大政翼賛党改め自由民主党の議席割合が50%を少し上回るしかなく、親ソ・親中共の破綻共産主義似非思想を、民主主義と立憲君主制を敬う日本国民に対して、卑しくも〈人民の党〉などと宣っている破廉恥で恩知らずな売国奴議員が沢山いる廃棄物政党である日本社会党と完璧な暴力セクト政党である日本共産党の連合が、過半数を占めようとしていることに、私らは深く危惧をする。」


 〈自由民主党議員らから「そうだ、マ元帥!」や「さすが、自由民主主義の防人マッカーサー元帥!」との熱烈なる歓迎や賛意のヤジが議場に響き渡る〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「さらに、日本社会党は党勢拡大を行なっている。日本国土全域に2100万人の日本社会党支持者がおり、これは、2800万人の自由民主党と肉薄するような数字であり、700万人という大きな差はあれど、この程度の差などすぐひっくり返せられる。」


 〈議場から「確かに脅威であるな」などの声が上がる〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「また、党員数でも比較してみよ。日本社会党の党員数は、235万人を数えるに対して、政権与党である自由民主党の党員数は、240万人とほぼ同率ではないか。これらの理由によって、日本社会党の存在は、自由民主主義にとって「大きな脅威」なのである。」


 〈日本社会党議員からブーイングや「打倒マッカサー元帥体制」の叫び声が上がる〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「日本社会党の綱領を見てみよ!」


 ダグラス・マッカーサー元帥「日本社会党の「社會黨綱領」には、次のような非民主主義的条項が含まれることを自由民主党議員らには認識してもらいたい。

「政權與黨の座に就いたら、社會主義革命を實行するために、各種インフラの國有化を斷行する」

「言論・出版・放送・司法・行政・敎育を社會主義へ順應させる」

「憲法改正を行って與黨の座を恆久化し、社會主義斷固實行に向かって邁進する」

 などの自由民主主義の観点から見れば断じて許されない文言が連なっている。」


 〈三木武吉議員から、日本社会党に向けて「あぶく党のハナタレ坊主ども、シヤラツプ!」とのユニークなヤジが飛び、自由民主党議員が大笑いしているのはもちろんであるのだが、日本社会党議員らも大笑いをする。〉


 ダグラス・マッカーサー「面白いジョークじゃないか、気に入ったよ。」


 〈数秒間の笑い声が衆議院議場を包む〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「そして、我ら連合国軍最高司令官総司令部は、このような共産主義・社会主義の政党らを育てるがために「すべての政党の合法化」を行ったのではない。自由民主主義に基づく国民による政治運営を期待して、また、反共の確固たる堅牢な砦となることを願って、私は「すべての政党の合法化」という「SCAPIN命令」を通達し、日本政府をして行なわせしめたのだ。」


 〈自由民主党議員から万雷の拍手がマッカーサーに対して浴びせられる〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「そして、我らは日本国を恐ろしい共産主義国家にするがために、チョコレートや缶詰などの食糧や衣服などを配布したわけではない。早く健全な日本国民として成長してもらい、自由民主主義と資本主義を愛する愛国者となってもらうがために、私は、私の125万の将兵たちに強烈なる我慢をさせ、時には彼らの物資や貯金を切り崩してまで、チョコレートなどの食糧や衣服を配布したのだ。」


 〈日本社会党議員らから、マッカーサー元帥に対して「悪の権化」やら「お前の息子と妻がどうなることか見ておれ!」という非常に破廉恥な脅迫や誹謗中傷が轟く〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「私は、「すべての日本社会党・日本共産党議員を「外患誘致罪」によって、一斉死刑に処するべき」というSCAPIN命令を発令するか、いま思案中である。この命令を発令されたくなければ、以後にわたって、「我ら」を批判・非難することがないように。」


 〈マッカーサー元帥の怒りとその命令を受け、国会内はどよめきと沈黙が訪れた〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「また、私ら連合国軍最高司令官総司令部は、連合国軍最高司令官総司令部の権限及び武力を行使し、日本共産党と日本社会党の政党非合法化および政党解散を行うことを含めた「SCAPIN命令第x号」を発令できるように計画・調整している。これは、先ほどのとは違って制定準備段階にまで入っているがために、そのことを貴様ら日本共産党・日本社会党議員どもは理解しておけ。」


 〈野坂参三日本共産党議員が、ダグラス・マッカーサー元帥に向かって「ダグアウト・ダグ!」と、マッカーサー元帥にとって一番嫌な言葉を発言した〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「...警備MPよ。今の発言をしたものを強制退去処分とせよ。」


 〈野坂参三日本共産党議員が強引に警備MPにより退去させられている間も、日本社会党と日本共産党議員ら全員は、野坂参三の「ダグアウト・ダグ」という発言に大笑いし、自由民主党の議員らもほとんどが笑っていた〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「日本国政府は、憲法第100条によって規定されている「戒厳令」を行使し、日本社会党・日本共産党を武力及び権限を用いて、これら従蘇反国家主義勢力の排除と処罰を行うべきである。もし、日本国政府が及び腰であるなら、私ら連合国軍最高司令官総司令部の権限により、「SCAPIN命令第y号」を発令し、連合国軍最高司令官総司令部主体で、憲法110条によって規定されている「戒厳令」を行使する。」


 ダグラス・マッカーサー元帥「このことを真摯に受け止め、吉田茂首相を始めとする内閣は行動してもらいたいと思う。いざとなったら連合国軍最高司令官総司令部が日本国全権を握り統治する。私ら連合国軍最高司令官総司令部は、日本を共産国家とするために派遣された訳じゃないのでね。」


 〈議場から拍手とヤジが入り乱れる〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「では、これにて私の演説を終了する」


 〈演説終了の報を受け、参議院議員らが、一斉に衆議院議場を後にする〉


 ダグラス・マッカーサー元帥「次に、私の親友である吉田茂首相による演説である。」


 〈マッカーサー元帥が、吉田茂首相と入れ替わりで内閣総理大臣席に着席する〉


 吉田茂首相「ただいま、マッカーサー元帥からご紹介を致してもらった吉田茂第47代内閣総理大臣であります。んまぁ、就任早々に大波乱であるなぁというのが印象ですな。マッカーサー元帥の大変に熱のある演説には、私共各位も、大変感激する一方でございました。」


 吉田茂「とまぁ、雑談などもこれくらいにしておきましょう。さて、本題に入ります。私が、この議場におられる議員諸君に諮りたいのは、次に示す右の通りを諮りたいと思っております。

 第一事項ー日本海側の海岸で頻発する日本人の東亞連邦への密航の決議の件

 第二事項ー総合国防軍への徴兵制の本格的施行の決議の件

 第三事項ー産業への大規模助成金への決議の件

 第四事項ー護送船団方式による金融機関保護への決議の件

 第五事項ー国民所得倍増計画の施行への決議の件

 第六事項ー日本共産党及び日本社会党のソ連及び中共との怪しい蜜月関係の件

 第七事項ー日本国民がソ連及び中共へと誘拐拉致されている由々しき重大な事の件

 これらを、諮りたいと思うのであるがよろしいですな?」


 自由民主党全議員「異議なし!」


 吉田茂首相「半分以上と見ましたので、この通り行いたいと思います。」


 吉田茂首相「では、まず第一事項に関して、河合達夫情報省大臣から説明をしてもらいます。では、君、前へ出て、説明をしなさい。わかりやすくな。」


 河合達夫情報相「ええ、今年度1年間での我が国から東亞連邦を名乗る反国家団体への密航は、12万1244人を数えます。密航していっている主な層は、先の戦争で、元軍人及び軍属が22%を占め、財界及び政界人が18%を占めております。また、残りのその他に関しましては、60%が一般国民の皆様方が占めております。」


 河合達夫情報相「私たちとしては、この「日本海側の海岸で頻発する日本人の東亞連邦への密航の件」に関しては、現行の「情報機密法」によって規定された事により、「去るもの追わず」の方針をとっておりますので、どうしようもございません。」


 河合達夫情報相「この事に対しての対策としては、山口県から青森県の日本海側のすべての海岸に、500メートル間隔での監視施設を建設する事と「情報機密法」の大幅改正及び情報省への大幅な予算増額と権限拡大を行うことによって解決されると思います。よって、次の法案を可決するか否かを諮りたいと思います。」


 河合達夫情報相「今日におきまして、私は、議場におられるすべての議員諸君に

 〈日本人ノ反国家団体タル東亞連邦ヘノ密航ヲ阻止スルガ為ノ監視施設等設置ニ関スル法案〉

 〈現法案ノ「情報機密法」ノ大幅改正ニ関スル法案〉

 〈情報省ヘノ大幅ナ予算増額ト情報省ノ権限拡大ニ関スル法案〉

 の三項目を、議員諸君に諮りたいと思います。」


 河合達夫情報相「では、松岡衆議院議長、決議の程をよろしくお願いします。」


 松岡駒吉第39代衆議院議長「では、先程におきまして、河合達夫君から提出された3つの法案のうち、まず、〈日本人ノ反国家団体タル東亞連邦ヘノ密航ヲ阻止スルガ為ノ監視施設等設置ニ関スル法案〉を諮りたいと思います。この法案に賛成の諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈殆どの自由民主党議員が起立をし、日本社会党からも十数人が起立を行った〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものとします。」


 〈河合達夫情報相が、議場に向けてお辞儀を行う〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「では次に、〈現法案ノ「情報機密法」ノ大幅改正ニ関スル法案〉を諮りたいと思います。賛成の諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 景安太郎自由民主党議員「日本社会党の議員らには、この法案が受諾できるのですか。」


 河合達夫情報相「この法案を受諾するほどの思いがあったら、あの党には入りませんわな。」


 〈議場のすべての議員らから大笑いが巻き起こる〉


 河合達夫情報相「しかし、私は、あの党の中にも、ちゃんと国を想うる良心があることを知っています。」


 河合達夫情報相「そして、今、その良心が、悠然と立ち上がってくれるのを、私は心の底から期待しているのであります!」


 鈴木義男日本社会党議員「よくぞ、我らを奮い立たせる事を言った!それでこそ、日本国の名誉ある内閣の一員たる者だ。私は、この法案に全面的賛成を致しましょう!皆もそうせよ!人民民主国家の難儀なる時に、共産国家へと売国をするような奴は、社会主義と民主主義に命を賭けた美濃部先生や吉野先生に対して、命を以て贖罪せよ!」


 日本社会党議員ら「そうだ!」


 自由民主党議員ら「よく言った、あぶく党の者どもら!」


 日本社会党議員ら「その言い方を今すぐ辞めることを要請する」


 〈すべての議員の半数以上が起立を行って、賛意を表明した〉


 河合達夫情報相「よくぞ、やりました。」


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものとします。」


 〈河合達夫情報相が、議場に向けてお辞儀を行う〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「では最後の〈情報省ヘノ大幅ナ予算増額ト情報省ノ権限拡大ニ関スル法案〉に賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈すべての議員の半数以上が起立をし、賛意を表明した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものとします。」


 河合達夫情報相「三項目全てが可決された事に、深く満足しております。改めて、この議場におられるすべての議員に対して、謝意を示したいと思います。」


 この三項目の可決の成果としては、次の成果が挙げられる。

 1ー情報省の定員人数を、2万人から15万人へと大幅増員された事

 2ー情報省の予算額が、100億円から1兆8500億円へと増額された事

 3ー情報省は、国民の監視・盗撮・盗聴・拷問・取り締まりなどを、国民個人の人権や意見を一切無視して、国会の監視及び審議を受ける事なく、際限なく自由に行うことができるようになった事

 4ー情報省の権限が大幅に増加。

 大蔵省や戦前の内務省とは、比べ物にならないほどの権力及び影響力を日本国全体に及ぼす事となった事

 また、右派や左派を問わずに新聞などは、

「大蔵省・内務省・陸軍省・海軍省の次は、それらを圧倒的に凌ぐ権力や影響力を持ちたる情報省が御誕生!」

「他省庁、隷下に持ちたる、情報省」

 などと、情報省への大規模ネガティヴキャンペーンを実施した。

 しかし、その記事らは悉く発禁となって、発行者らも「情報機密法に抵触の疑い」によって逮捕。

 情報省が全国に所有する事になった強制収容所送りとなった。

 5ー強大化した情報省により、日本社会党議員ら35人が「中共及びソ連邦から資金融通及び売国行為の助長を受けた」として、「外患誘致罪」により、緊急逮捕が行われた。

 情報省は、自身を設立当初から苦しめた日本社会党を恨んでおり、それら35人の日本社会党元議員らに対して、議員らの言い分も何も聞かずに、問答無用で「死刑」を科し、翌年8月15日に、それら日本社会党元議員らの一斉処刑が行われる事となった。

 6ー情報省により、反国家団体の壊滅及び弱体化は大きく進む事になり、海外からは、

「自由民主主義の最大の享受者でありながら、極端に独裁国家に類似している。」

 との批判の声が上がる事となった。

 ただし、国家運営及び科学技術などでは、「海外流失」や「反対運動」などの痛手も無かったがために、科学技術の面や国力の面においては、覇権的な地位を占めるになった。


 これら7つの成果が、主な成果と言えるだろう。


 ただし、第一項目の「日本海側の海岸で頻発する日本人の東亞連邦への密航の件」は、全くと言っていいほどに改善しなかった。

 これを裏付ける証拠としては、1947年の「日本国から東亞連邦への密航者の人数」が、12万1244人であったのに比較して、翌年の1948年の「日本国から東亞連邦への密航者の人数」が、13万1958人であったのを考えるとすると、非常に改善の傾向が見られないことがわかると思う。

 この理由としては、監視のやる気が全くと言って良い程にない事と、東亞連邦への憧れと忠誠心が情報省中級及び下級官僚に非常にある事が問題とされている。

 それらの問題により、取り締まるべきの監視施設勤務の情報省中級及び下級官僚が、逆に密航を大々的に進めるという事案も非常に多く発生しており、これには、「東亞連邦の政治的思惑」も非常に関係していると思われる。

 実際に、東亞連邦の官民においては、どちらも両手をあげて「密航日本人団体」を非常に歓迎しており、東亞連邦政府は、逆に密航してくる日本人を更に増加させようと、あれこれ「秘密政策」をとっているのだから。

 そして、1947年から2025年(現在)までの77年間の間に、日本国から東亞連邦へと密航していった日本人は、累計1558万4568人となり、現在に至るまでの「非常に由々しき問題」となっている。

 ここ最近の〈2010年〜2024年〉に至っては、

「密航船及び漁船の高性能化」

「飛行機を使用した大規模密航の頻繁化」

「メディアや芸能人の東亞連邦を賛美するプロパガンダ」

「日本人の東亞連邦への憧れと希望」

「自国政治の低迷とそれに対する大きな失望」

「国内の世論分断や社会のリベラル化に対する苦悩」

「伝統的な社会を持ちたる日本の片割れ〈東亞連邦〉への大きな期待」

「円安やインバウンドによる、自国が安売りされているという不安及び反発」

 これらが原因となり、ここ最近の12年間では、毎年20万人を超える密航者を出している。

 2025年〈現在〉になっても、東亞連邦は相変わらずであるし、情報省は依然として莫大な権力とだ影響力を行使し、国民を裏から弾圧しているしで、日本政府は頭を抱える羽目になり、内閣が何回倒れたのかはキリが無い。

 それくらい、日本国にとって非常に重大な問題となっている。


 吉田茂首相「では、次に統合国防軍への徴兵制の本格的施行について、私から、君たち議員らに話したいと思っとる。よく聞いとくように。」


 吉田茂首相「私は、統合国防軍への徴兵制の本格的施行は、1955年4月1日からが良いと考えております。なぜならば、ただいまの総合国防軍の兵員数は、26万人を超えるにとどまっており、実に不人気な職業であると考えているからです。」


 赤城敏一郎日本社会党議員「吉田茂総理、我が国の憲法では、徴兵制を一度敷いてしまうと、もう二度と取り消すことが絶対にできないとされているのですよ!国民らが主体負担者となるのに、その主体負担者に説明なしで、負担だけ強いてもらうなど、都合が良すぎると私は思います。」


 吉田茂首相「確かに、その事は赤城くんの言うとおりだ。徴兵制を敷くのにあたって、主体負担者となる国民に対して、何も説明などもせずに行おうとするなど、自由民主主義の信奉者として恥ずべき事だ。また、とても失礼な振る舞いをしてしまった。とても申し訳ない。」


 〈吉田茂首相が頭を深々と下げ、謝罪を行う〉


 吉田茂首相「なのであるならば、ラヂオ演説を行おうではないか!」


 日本社会党議員ら「偉いぞ、世紀の皮肉屋!」


 自由民主党議員ら「よっ、天下一の大見得男!」


 〈突然、全てのラヂオ局が、大量の録音器具や人員などを携えて衆議院議場へと雪崩のように流れ込んできて、たった数分のうちに、全てのラヂオ局が「吉田茂首相の〈国民へのおはなし〉」の録音を開始し、全国へと生中継できる体制を整えた〉


 日本社会党議員ら「うわぁ、一体全体何なんだ!?」


 自由民主党議員ら「何が起こっているのだろうか?」


 ダグラス・マッカーサー元帥「うん、とても活気があるね。」


 吉田茂首相「私の愛する日本国民の皆様、第47代内閣総理大臣の吉田茂であります。この度、私は国民の皆様に対して、国家百年の計とも言えるような非常に重大な施策を行う事を伝えたいと思います。」


 吉田茂首相「それは、先の大戦において強制的に行われていた「徴兵制」の1955年4月1日を以ってしての復活であります。この世論分断免れぬ施策を行わなければいけない事を、どうか国民の皆様、お許しください。」


 吉田茂首相「しかし、自由民主主義を信奉する世界に冠たる神の国である我が国は、先の大戦の大日本帝国軍の亡霊が、大陸を我が物顔で支配する東亞連邦を名乗る反国家団体、時代遅れの思想である共産主義を盲信的に信じ、誤った経済政策で舵取りを誤っている中華人民共和国を名乗る反国家団体、戦後の混乱期のどさくさくに紛れて、北海道及び東北へと侵攻計画を立てていた破廉恥で卑怯なソ連という三大巨悪から身を護らなければいけないのです。」


 〈衆議院議場全体からあまねく拍手と賛美の声が響き渡る〉


 吉田茂首相「しかも、我が国は、その最前線に位置する島国であります。確かに、中共及びソ連に関しては、我が国の軍と兵員数や軍質だけを比べるとするならば、我が国と同等の地位に立っております。中共に関しては、兵員数は多いものの、軍質は目も当てられないくらい酷くて、ソ連も、兵員数は多く、兵士の練度も非常に良いのですが、先の時代の遺物だらけの非常にお粗末な軍隊なのです。」


 吉田茂首相「ただし、東亞連邦が何より圧倒的に強い!」


 〈衆議院議場に驚きとどよめきの声が響く〉


 吉田茂首相「その強さは、アメリカ合衆国と同等かそれより下かというくらい強いのです。」


 吉田茂首相「その強大さの原因となる理由といたしましては、なぜか、アメリカ合衆国を始めとする西側諸国に対して、政治的に対決姿勢を示しているのにも関わらず、軍備面においては、アメリカ合衆国やヨーロッパの西側諸国が保有する最新鋭の兵器及び武器を保有しているという点にあります。」


 吉田茂首相「核開発と核武装に関しては、いまだに出来ていないそうなのでありますが、研究及び開発を行っているという噂を聞いたことがあります。まぁ、その核武装の件は置いとくとして、東亞連邦を狂信的に信じているユダヤの財力を行使して、取引を行っているものと考えられるのですが、これは由々しき事態です。」


 〈自由民主党議員らから「逆賊である東亞連邦を亡国とせよ!」などの過激なヤジが飛ぶ〉


 吉田茂首相「それに対して、我が国の軍事力を見よ!」


 吉田茂首相「敵国との最前線という立地であるのにも関わらずに、前近代的で無防備なちっぽけ軍隊が26万人いるだけなのですよ。私たちの軍は、いまだに兵士一人に一挺も間に合わずに、村田銃やマスケット銃を主要戦闘銃とし、チハ車などのちびっ子車を主要戦車としています。」


 〈衆議院議場全体から悲鳴のような叫び声が木霊する〉


 吉田茂首相「それに対して、東亞連邦の主要戦闘銃は、AK-47やStG44などの新型自動小銃であり、主要戦車はM103重戦車やM46パットンなどと、両方においても、ヨーロッパの西側諸国で流通している兵器や武器らを主要兵器及び武器として、更には、それらを全配備をする事に成功したとの情報も入ってきている次第であります。」


 吉田茂首相「私どもも、アメリカ合衆国やヨーロッパ西側諸国に抗議をしたのですが、皆口々に「すまない。」というだけのみ、果てには「いっそのこと統合したら、あんたらがお望みの戦車らが手に入るよ。」とまで言われる始末でありました。世界諸国は、すでに東亞連邦に犯されており、マトモであるのは、日本国しかいないと言っても良いくらいの惨状であります。」


 〈自由民主党議員らから「何と恐ろしい!」との声が聞こえる〉


 吉田茂首相「マスケット銃とAK-47とで、どう戦えというのですが?」


 〈衆議院議場から「老耄のワシらも、もういっぺん一億総玉砕か?」や「2+2=80という神脳であらせられる東條閣下、やっとこさ出番ですぞ!」などという皮肉とも取れるようなユニークなヤジが日本社会党議員らから飛び、そのヤジに対して、東條英機衆議院議員やその側近らが、「うるせい!」や「貴様らの党首も、その推進者であったではないか!」と、また、ヤジを叫ぶなどと、一つ平和な場面も見られた〉〉


 吉田茂首相「どうも戦えんでしょうや。竹槍でグラマンをとか言ってたあの頃みたいになってしまいますぞ。だからこそ、日本国の軍隊を現代化し、兵員数を大幅に増員させる必要があるのです!」


 吉田茂首相「私は、「徴兵制」の復活を成し遂げると共に、総合国防軍の兵員数を、今年初めの「SCAPIN命令」により規定された、陸軍100万人、海軍75万人、空軍50万人という水準まで持っていきたいと考えております。これは職業軍人で全て構成されるのでありますので、徴兵制による数は含みません。」


 〈日本社会党議員らから「国を守る為には致し方ないのかなぁ」という漏れ声が聞こえてくる〉


 吉田茂首相「しかし、徴兵制期間において、優秀な成績を残したる者、筋骨隆々で体力がある者、国家守護の意思が堅い者は、本人の意思などは関係なく問答無用で職業軍人とする事などの荒療治によって、なんとかして、軍員数を、225万人にまで持っていきたいと考えております。」


 吉田茂首相「また、国内総生産に占める軍事費を7%とし、今後10年間は継続して充てることによって、

 1ー「最新型の兵器及び武器の大規模購入」

 2ー「合計230箇所もの総合国防軍基地を、遍く日本国全土に建設する」

 3ー「軍質を、ヨーロッパ西側諸国・東亞連邦を名乗る反国家団体と同等レベルまでに上昇させる」

 4ー「独自の技術開発及び兵器・武器開発」

 5ー「アンクノウン計画の始動」

 6ー「軍人の教育及び訓練」

 7ー「軍人への給与や待遇などの大改善」

 8ー「軍人への国家からの保障の厚遇化」

 これらの八項目を、10年間であらかた達成したいと考えております。」


 吉田茂首相「そこで、ここにおられる議員諸君に次の法案提出を可決してもらいたい。

 〈「新法ー徴兵法〉

 〈総合国防軍ノ軍員数ノ大幅増員ニ関スル法案〉

 〈総合国防軍ヘノ予算ノ大幅増額ニ関スル法案〉

 この三項目を、議員諸君らに諮りたいと思います。」


 松岡駒吉第39代衆議院議長「ただいま、吉田茂君から提出された3つの法案のうち、まず、〈「新法ー徴兵法」〉を諮りたいと思います。この法案に賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈衆議院議場にいる全ての議員らが、「ハイッ!」と大きな声をあげて賛意を示した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものと見ます。」


 〈壇上において、吉田茂首相が議員らに頭を下げる〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「では、次に、〈総合国防軍ノ軍員数ノ大幅増員ニ関スル法案〉を諮りたいと思います。この法案に賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈すべての議員のうち、半数以上が起立をし、賛意を示した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものと見ます。」


 〈壇上において、吉田茂首相が議員らにまた頭を下げる〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「では、最後に、〈総合国防軍ヘノ予算ノ大幅増額ニ関スル法案〉を諮りたいと思います。この法案に賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈また、すべての議員のうち、半数以上が起立をし、賛意を示した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものと見ます。」


 〈壇上において、吉田茂首相が議員らにまたまた頭を下げる〉


 吉田茂首相「議員諸君らの良心に一心を賭けた甲斐がありました。議員諸君らが、冷静で公平なご判断を賜われた事を、私はとても喜びとするものであります。」


 〈マッカーサー元帥が衆議院議場を後にし、ラヂオ局らも一斉に退散を行う〉


 吉田茂首相「では、次の産業への大規模助成金への決議の件、護送船団方式による金融機関保護への決議の件、国民所得倍増計画の施行への決議の件、これら三件について、池田勇人商工大臣から説明をしてもらいます。では、池田君、前へ。」


 池田勇人商工相「はっ。」


 〈池田勇人商工相が、壇上に上がる〉


 池田勇人商工相「この議場におられる国会議員の皆様、私ども商工省らは、今回非常に重大なる施策を持って参りました。その際に、国会議員の皆さんにおきましては、私どもが提出する法案を全て可決していただきたいと思う所存であります。」


 〈日本社会党議員らから「国会軽視だ!」などのヤジが飛ぶ〉


  池田勇人商工相「この大馬鹿ども、黙りなさい!」


 〈衆議院議場内に沈黙と傾聴が響き渡る〉


 池田勇人商工相「さて、私どもが提出する法案は次のとおりでございます。

 1ー「鉱業・建設業・製造業等ノ第二次産業全般ニ対スル5000億円ヲ超エル国家投資ニ関スル法案」

 2ー「自動車工業・鉄鋼業・機械工業・造船業等ノ重化学工業ニ対スル1兆円ヲ超エル〈先述ノ5000億円〉トハ別ノ其レニ加ユル更ナル国家投資ニ関スル法案」

 3ー「農業・林業・酪農畜産業・水産業等ノ第一次産業全般ニ対スル5000億円ヲ超エル国家投資ニ関スル法案」

 4ー「飲食業・運輸業・卸売業等ノ第三次産業ニ対スル2兆円ヲ超エル国家投資ニ関スル法案」

 5ー「公共事業ニ対スル5兆円ヲ超エル国家投資ニ関スル法案」

 この5つでございます。」


 池田勇人商工相「これらの五つの法案は、増税や国債等を発行したとしてまでも、是非とも可決を行なってほしい五つの法案でございます。これらが認可されなければ、私は、東亞連邦へと亡命をする事を選択しなければいけないほどに、私の人生を賭けて、この法案を通したいと思っております。」


 池田勇人商工相「なぜなら、もし、これらが可決され、施行されたとしたならば、この国の産業は、どの分野においても、世界に冠たる産業となる事に間違いなしだからです。これは、国力増強の意味合いもあります。何事も「富国強兵」と「殖産興業」ですよ!」


 池田勇人商工相「だからこそ、是非とも可決していただくように宜しくお願いします。」


 自由民主党議員ら「そんなことせずとも可決させたる!」


 日本社会党議員ら「先ほどの法案に比べたら、比べ物にならないほどに良法である!」


 池田勇人商工相「みなさんっ、あっ、ありがとうございます!」


 池田勇人商工相「では、松岡駒吉第39代衆議院議長、いつものお願いいたします。」


 松岡駒吉第39代衆議院議長「ただいま、池田勇人君から提出されたる4つの法案のうち、まず、「鉱業・建設業・製造業等ノ第二次産業全般ニ対スル5000億円ヲ超エル国家投資ニ関スル法案」を諮りたいと思います。この法案に賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈すべての議員のうち、半数以上が起立をし、賛意を示した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものと見ます。」


 〈壇上において、池田勇人商工相が議員らにまた頭を下げる〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「次に、「自動車工業・鉄鋼業・機械工業・造船業等ノ重化学工業ニ対スル1兆円ヲ超エル〈先述ノ5000億円〉トハ別ノ其レニ加ユル更ナル国家投資ニ関スル法案」を諮りたいと思います。この法案に賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈すべての議員のうち、半数以上が起立をし、賛意を示した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものと見ます。」


 〈壇上において、池田勇人商工相が議員らにまた頭を下げる〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「次に、「農業・林業・酪農畜産業・水産業等ノ第一次産業全般ニ対スル5000億円ヲ超エル国家投資ニ関スル法案」を諮りたいと思います。この法案に賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈すべての議員のうち、半数以上が起立をし、賛意を示した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものと見ます。」


 〈壇上において、池田勇人商工相が議員らにまた頭を下げる〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「次に、「飲食業・運輸業・卸売業等ノ第三次産業ニ対スル2兆円ヲ超エル国家投資ニ関スル法案」を諮りたいと思います。この法案に賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈すべての議員のうち、半数以上が起立をし、賛意を示した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものと見ます。」


 〈壇上において、池田勇人商工相が議員らにまた頭を下げる〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「最後に、「公共事業ニ対スル5兆円ヲ超エル国家投資ニ関スル法案」を諮りたいと思います。この法案に賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈すべての議員のうち、半数以上が起立をし、賛意を示した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものと見ます。」


 〈壇上において、池田勇人商工相が議員らにまた頭を下げる〉


 池田勇人商工相「衆議院の良心が示されたと言っても過言ではないでしょう。」


 吉田茂首相「素晴らしいじゃないか、池田君よ。それでこそ愛国者だ!」


 池田勇人商工相「ありがとうございます、茂さん。」


 池田勇人商工相「では次に、護送船団方式による金融機関の保護の件に関してなのですが、もうその名の通りです。詳しいことは説明しないです。私も含めてここにおられる皆さん、東大やら京大の出身なのですから。」


 池田勇人商工相「私らが提出する法案は、次の一つのみであります。」


 〈衆議院議場から「素晴らしい!」とのヤジが飛ぶ〉


 池田勇人商工相「それは、「護送船団方式ニ依ル金融機関ノ保護法案」です。では、松岡駒吉第39代衆議院議長よ。また、よろしくお願いします。」


 松岡駒吉第39代衆議院議長「ただいま、池田勇人君から提出されたる「護送船団方式ニ依ル金融機関ノ保護法案」を諮りたいと思います。この法案に賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈すべての議員のうち、半数以上が起立をし、賛意を示した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、本法案は可決されたものと見ます。」


 〈壇上において、池田勇人商工相が議員らにまた頭を下げる〉


 池田勇人商工相「いつもなら、数時間もの時間が無駄な喧嘩に費やされているのにも関わらず、今回は、よく議論などができていて、なんて良いんだろうと思います。」


 〈衆議院議場に議員らの大笑いが響く〉


 池田勇人商工相「では、3つ目の国民所得倍増計画について話したいと思います。」


 池田勇人商工相「私は、今後10年以内で国民所得を2倍に、さらに今後20年以内で国民所得を3倍にしたいと考えて、30年にもわたる重大計画を立てております。私は、この計画を「国民所得倍増計画」として、ただいま、発表するという次第であります。」


 池田勇人商工相「また、国会議員の皆様には、ただいまから私が提出する法案を、全て可決されていただくよう要請するところでございます。」


 池田勇人商工相「また、国会議員の皆様には、私が発表する「国民所得倍増計画」に対して、全て理解していただき、更には、「国民所得倍増計画」を大きく後押しする為、多大な力添えをお願いします。私は、この国を、アメリカと再び戦って、そして、ぶっ倒せるような国にしたいのです。」


 〈衆議院議場から「悪逆非道なアメリカ帝国を打ち壊せ!」や「よく言った!」などの大いなる称賛のヤジが、池田勇人商工相に対して、盛んに飛ぶ〉


 池田勇人商工相「また、この「国民所得倍増計画」も、これまで私が出した計画や法案の例に漏れずに、国債や予算を全て使い果たしてでも、行なってもらいます。たとえ、金をたくさん刷ったとしても、絶対に、絶対に!やってもらわなければなりません。」


 池田勇人商工相「そして、只今から、あなた達にとっては嬉しい発表を行います。

 私からの要請により、秘密裏に次のように行いました。

 1ーまず、以下に言いまする事項に関しては、30年間は支給及び配布を停止しました。

 ・退職金

 ・文書通信交通滞在費

 ・国鉄特殊乗車券

 ・国内定期航空運送事業に係る航空券の交付

 ・審査・調査のための派遣旅費日当

 ・旅費

 ・議会雑費

 ・期末手当

 ・人事官弾劾の追訴にかかる実費の支給

 ・永年在職表彰議員特別交通費

 ・憲政功労年金

 これらは、言わなくてもわかると思います。

 一度、私ら皆共々は、貧乏人の生活を続け、その苦しさを実体験しなければなりません。

 これは、これからの新入議員にも、もちろん適用でございます。

 2ー歳費において、30年間は、以下の変更を続き行いました。

 ・各議院議長の歳費月額ー217万円→1万円

 ・各議院副議長の歳費月額ー158万4000円→7500円

 ・各議院議員の歳費月額ー129万4000円→5000円

 3ーこれらの変更による、国会議員の家族を、貧困と飢餓から守る為に、次のことを行いました。

 ・各家庭の支出に応じての10万円程度の国費からの一定の支出

 ・教育施設へと入る際に発生する費用の5万円程度の国費からの一定の支出

 ・五千円程度の〈娯楽用目的に使途される追加歳費〉の国費からの一定程度の支出

 この衆議院議場内におられる議員の皆様よ。

 国のために、堪忍してもらえますね

 昔は、国民の皆様が国のために一生懸命堪忍してくれたのですから。」


 〈衆議院議場から「国会議員一年目だからか、礼儀がなっていない若者だ!」との声が上がる〉


 池田勇人商工相「もう、すでに50近くの爺ですが、一体何が若者なのでしょうか?」


 池田勇人商工相「私からすれば、幾人かの議員らは、私より年上のお先短い人ばかりです。お先短いならば、最後のご奉公として、国や国民の為に、給料や短い命を削る覚悟くらいしなさいや、この茶坊主ども!」


 池田勇人商工相「死んだら、今溜め込んでる金は持っていけません!」


 〈衆議院議場から「おぉ、ようやりおる」との感嘆の声が上がる〉


 ここからしばらくの間は、

「池田勇人商工相が打ち出した〈国民所得倍増計画〉の経過及び成果」

 について、分からない方々が多くいると思うので、とても詳しく話したいと思う。


 ちゃんとこの説明が終わったら戻るから、そこは安心してもらいたい。


 まず、「国民所得倍増計画」の一環としての「国土強靭化」である。

 1948年1月に東京、名古屋、大阪、北九州を繋ぐ「太平洋ベルト地帯」に工業地帯を形成する「全国総合開発計画(全総)」が閣議決定された。

 上記の「全国総合開発計画(全総)」は、戦後日本の国土計画の原点といわれる。

 上記の計画により、東京から九州北部に至る太平洋沿岸地域が、基幹インフラ整備の中核に位置づけられ、太平洋ベルト地帯を中心とする拠点開発構想が推進された。

 元々、1947年4月に「国土形成計画法」が制定されたことにより、仕事は始まっていた。

 しかし、国家として正式決定できるような計画が作れないでいた状態だった。

 1940年代後半の国家としての仕事は、

 ・米作りのための用水路

 ・発電施設建設

 ・発電の為のダム建設

 ・氾濫を防ぐ為の治水工事

 ・地震や台風などの災害対策

 上記のような戦後復興が主だった。

 しかし、「国民所得倍増計画」ができて、国土をいかに開発するかという中心テーマが確定した。

 それにより、一気に日本全国に工業化の施策が進展した。

 また、池田勇人商工相は「国民所得倍増計画」に関連して、

「新産業都市建設促進法」

「工業整備特別地域整備促進法」

 などの法律らを吉田茂首相に頼んで、吉田茂首相の権限により即日策定・施行させた。

 また、上記政策に漏れた諸地域の発展のために、

「低開発地域工業開発促進法」

「農業基本法」

「中小企業基本法」

「沿岸漁業等振興法」

「森林・林業基本法」

 等の四大産業基本法も策定させた。

 更には、「海運再建整備法」を策定させ、産業の工業化を推進した。

 これら策定した法律は全て有用であり、その池田勇人商工相の働きぶりにより、

「池田勇人は、日本国の経済成長の生みの親」

 と呼ばれるほどにまで、国民からの人気が上昇した。

 また、「全国総合開発計画(全総)」の策定の中心は、下河辺淳という若き24歳の官僚であった。

 そして、池田勇人商工相による「所得倍増計画」を推進する地域開発の諸問題解決を目的とし、全国を均衡に発展させるという趣旨で、これにより経済計画からブレークダウンして国土計画が決定されるという、その後のパターンを定着させた。

 また、「太平洋ベルト」に重化学工業地帯を出現させることを通じて「高度経済成長」に貢献した。

 工業化が沿岸部で進んだ大きな理由は、原料が全部輸入のために船舶で運送してこなければならず、経済的だったからである。

 例えば、鉄鋼業のライバルだったアメリカのピッツバーグ社は、ニューオーリンズ港に原料を持ってきて、それから川船や鉄道で五大湖の方へ持ってきていた。

 しかし、日本は技術革新でタンカーを安く造船し、一番安い値段の原料を世界中から探し出して運送して、アメリカより低コストで鉄鋼を作った。

 日本の人口が農村から太平洋側に向かって流出し、定住したのはこの時が初めてである。

 そして、社会資本の充実が経済成長にとって不可欠であるという要件の下で、1948年3月に開かれた閣議において、5年間で4兆9000億円の追加の公共事業投資が決定した。

 また、1948年3月の閣議において、池田勇人商工相からの提案により、

 ・名阪国道

 ・中央自動車道

 ・東名高速道路

 ・中国自動車道

 ・成田国際空港建設

 などの建設が閣議決定され、数ヶ月の内にそれらの建設開始が行われた。

 また、赤間文三大阪府知事と小寺謙吉神戸市長の両名から「大阪に公団を設立して欲しい」との陳情を受け、阪神高速道路公団の設置を決定させるなども行なった。

 また、行政に関する公的な事業推進のため、任期中に水資源機構や都市再生機構などの公団等を増加させた。

 更には、民間企業が資金を借りやすくするために、政策金利を0.37%引き下げることを行い、さらにおよそ800億円の減税を実施した。

 その一方で、二年以内に7割の貿易自由化を決定し、日本企業を海外との競争に向かわせた。

 このアメとムチの政策により、企業は新たに工場を建設するなど一斉に設備投資に走った。

 池田勇人商工相は、アメリカの物質的な豊かさを評価していた。

「アメリカの豊富な資源やモノと結びつくことで日本も豊かになる、アメリカは自動車産業が発達して産業を引っ張っている、だから日本もそのために高速道路を造り、自動車産業を伸ばそう。」

 とは彼の弁である。

 減税や社会保障及び公共事業の拡大は、医療・製薬・建設業・電機メーカーの発展をもたらした。

 日本国有鉄道の動力近代化計画と複線を本格化して、その輸送力を強化した。

 日本国の産業構造を、軽工業から重工業に転換。

 それまで日本の主要な産業だった繊維や雑貨など軽工業に対しても。引き続き投資を行いつつも、鉄鋼業・自動車・電機などの産業部門に、政府資金の財政投融資を集中的に行うことにより振興を図った。

「新産業都市建設促進法」及び「工業整備特別地域」などで、太平洋ベルト地帯以外にも工場を誘導していくことが意図され、そこに国から多くの補助金を投入していくことで、全国各地の津々浦々で、

 ・港湾整備

 ・埋め立て

 ・トンネルの堀削

 ・バイパス道路新設

 ・地方空港建設

 ・高速道路建設

 ・新幹線の建設

 等々の産業基盤の大がかりな整備が進行。

 その国土は大きな変貌を遂げていった。

 そして、工業先導による地域振興を謳い上げたため、地方公共団体は工場誘致を血眼にした。

 既存の工業地域の周辺に、鉄鋼・石油精製・石油化学・火力発電所を結ぶコンビナートを造る構想が出され、四日市コンビナートを皮切りに全国各地に工業地帯が続々建設された。

 これらの建設は、日本の海岸の形を変えることとなった。

 全総の「工業先導性の理論」は、まず大規模工場を誘致すれば、流通業やサービス業などの第三次産業は後から付いてくるという理論であった。

 重化学工業を中心とする企業群が規模の利益を取り入れて規格化、大量化を進めて、工場施設を大型化し、規格品を大量生産する近代工業社会が一挙に完成した。

 しかし、開発拠点の指定をめぐり激しい陳情合戦が起こることとなった。

 その結果、地元政治家を中心とした自民党の「利益誘導政治の始まり」となった。

 また、批判として次のものが挙げられる。

「大企業による土地買い占めによる地価高騰をもたらしただけで、富と人口の分散による国土の均衡ある発展というテーマは実現されずに終わった」

「効率性を重視して大都市圏とその周辺地域に優先的に配分されただけ」

「それは1969年の『新全国総合開発計画(新全総)』に受け継がれ、1972年の田中内閣における『日本列島改造論』につながって、ますます地価の高騰をもたらした」

「わが国の産業構造および地域構造を激変させた」

 しかし、この計画によって、戦争でボロボロだった日本の国土は急回復したのだから、文句はその文句を言う人がやってみてから言うべきであると考える。


 次に、「国民所得倍増計画」の一環である「農業基本法」についてである。

 池田勇人商工相は、吉田茂首相から「全権」を委任されて、大臣職をいくつも兼任していた。

 そのために、

 ・「農地法」の制定

 ・米国余剰農産物受け入れ

 ・「農業基本法」制定

 など、日本の戦後農政に深く関与した。

 農業・林業・水産業などの第一次産業に対して近代化を図り、1947年12月31日の国会において、「国民所得倍増計画」の重要な柱として、戦後農政の憲法といわれる「農業基本法」を成立させた。

 それ以前の1947年11月12日の史上初のラヂオ会で、池田勇人商工相は、

「経済成長率が9%なら農村人口を半分以下にすることになる。日本の農業は、ほかの産業が合理化・近代化されているにもかかわらず、徳川時代と同じ状態である。農業規模の拡大と、多角経営によって、ひとつの企業として成り立つようにしなければならない」

 と堂々たる面持ちで発言。

 宏池会の機関紙でも、

「農業人口が日本の総人口の40%を占めているのに、農業所得は国民所得の20%に過ぎないのが問題である。そこで、農業人口を第二次産業やサービス業に吸収して、農民の一人当たりの所得を増加させる方向に持っていきたい。よって、今後2年以内に第一次産業就業人口を現在より20%程度に減らすつもりだ。」

 などと相変わらずに述べた。

 農業の近代化と合理化及び農業の発展と農業従事者の地位向上のための施策を定め、

「日本を世界の工場にする」

 という国家目標を打ち出した。

「国民所得倍増計画」による第一次産業から重工業への労働力流入によって、働き手が農業から離れることで海外のように大規模で機械を使った効率的な農業を目指した。

 民間商社からの農業機械の購入を奨励して機械化を図り、農家の経営規模を拡大することによって、労働の生産性を上げ、農家所得の上昇と他産業への労働力確保を同時に達成しようとする目的を持っていた。

 東條英機内閣末期の商工大臣時代に、民間の農政家だった池本喜三夫という人物に目を付けて、「農業基本法案」を作成させた。

 稲作の一貫作業による機械化と農地の大規模化、すなわち干拓が中心的に推し進められた。

 千葉県の浅瀬を干拓することにより誕生した「千葉干拓村」はその象徴であった。


 ここで余談を挟みたいと思う。


 千葉の県浅瀬以外には、八郎湖や巨椋池などの湖が、候補地として挙がった。


 八郎潟は、その広さを讃えられ、風光明媚な場所として東北民から今でも愛されている。

 また、日本の湖で第二位という広さであることから、

「日本第二位の湖が無くなってしまう!」

「自然を大事にせよ!」

 とのスローガンを合言葉に日本社会党が大反発。

 これに、地元の市民団体や経済団体も乗っかり、大規模な抗議活動を始めたことから頓挫した。


 次に示すのは、八郎湖の干拓に断固反対していたというある地元団体の長による発言である。

「八郎湖というのは、1万年を超える大変歴史のある湖なんです。

 それを「オランダをサンフランシスコ平和条約に批准させるためにはこの地の干拓が必要だ」ってどうのこうの言いやがるんですよ。

 中央からの上から目線の役人どもは。

 それが腹立たしくってありゃせんくてねぇ。

 八郎湖はあんたらの思惑のためだけに潰れていい湖じゃねぇって。

 そもそもオランダに負ける戦をしたのはどこの何奴だってんだいって話ですよ。

 国家食糧の為と言われれば受け入れたでしょうけどや。

 オランダやらアメ公やらって言われた瞬間に、もういいって思ったんですわ。」

 この発言というのは、

「確かに...言われればそうかも。」

 と思わせる巧みな話術を駆使した発言だ。


 巨椋池に関しては、古の時代から今まで、一切人の手が加えられたことがない自然湖である。

 更に、巨椋池というのは、百人一首や万葉集の歌を詠まれる対象になったり、巨椋池を題材とした絵画が数十点もあるなど、日本文化の発展に非常に寄与した「文化湖」である。

 また、日本の歴史を、伝説上の初代天皇である神武天皇即位の〈国の創世期の時代〉から、ずっと大王の近くで眺め守っていたという、大変貴重な「歴史湖」でもある。


 時は過ぎて、明治時代だ。


「食糧増産の観点から巨椋池の干拓を進める」

 という干拓計画が実施寸前まで行った。

 しかし、生まれ地元の京都を深く愛する明治天皇が、

「ワシの地元の美しい巨椋池が無くなるなんて、絶対にあかん!」

 と異例の大反発。

 更には、〈勅令「巨椋池ヲ皇室財産トスル」〉を明治天皇自らが煥発された。

 これにより、帝国政府からの命令であった「巨椋池干拓計画」は頓挫。

 巨椋池は、今に至るまでその姿形を留めて一切無事となった。


 噂によると、更には「皇室財産」となったことで「管理」がされることになり、更に美しくなったという。


 明治天皇は、巨椋池が無事であったことを喜び、側近らに次のように静かに発言されたという。

「ワシにとっては、巨椋池というのは、ワシの皇祖皇宗が大事にしてきた古からの宝物なんや。

 古の日本の民や貴族らの想いや文化が、この巨椋池なんや。

 せやから、はっきりと言うなれば〈日本〉そのものなんや。

 その宝物は、壊したり無くすのは一瞬にして簡単や。

 やが、無くした後にもう一度ってなっても、絶対に元に戻すのは出来ないんや。

 それは物や国家にも当てはまることやろ?

 これもそういうことや。

 だから、一生懸命になって、準備してくれてたん人には申し訳ない。

 やけど、これだけは仕方ないんや。」

 上記の事の顛末を知っていた政治家らにより、皇室に配慮する形で自然に除外された。

 だからこそ、千葉の浅瀬が選ばれた理由がわかると思う。


 余談はここくらいにしておく。


 さて、新しい農業のモデルとされたこの「千葉干拓村」は、その後の国の政策に翻弄された。

 他地域においても、農地の集約は進まず「農業基本法」が後押しした農業機械の普及は、機械の借金返済のために農閑期の出稼ぎを増やし、むしろ零細な農家を増加させそうになった。

 幸いにして、上記の問題は、池田勇人商工相が、「農家ノ借金返済ヲ国ガ肩代ワリスル法案」を緊急可決させた事により、出稼ぎも一気に減少。

 危機一髪で、零細農家は出なかった。

 そして、国は、

「国民の食卓を絶対的に支える農業を作る」

 という目標の達成の元、全ての農家に対して、国が指令及び援助を行うという「国家農業指導法」も同時に緊急可決させた。

 そのために、多くの農家が存続か拡大のどちらかを辿る事ができた。

 また、都市部の人々が、田舎に引っ越して農家になるという「逆ターン」も発生したために、農業に関しては、非常に安心する事ができた。

 しかし、安心したと言っても、重工業の発展によって不足した労働力は、主に農村部からの出稼ぎや若年労働者の集団就職によって補われたので、この頃に〈過疎〉という言葉が生まれたといわれる。

 それにより、農家の次男・三男坊が高い収入を求めて、逆に都会に出るようになり、実家の農作業は夫妻と老両親(かあちゃん、とおちゃん、じいちゃん、ばあちゃん)にゆだねられたことから「四ちゃん農業」と呼ばれた。

 1947年から1950年には、農村からの出稼ぎがピークに達し、その数は30万人といわれた。

 革新側は「農地切り捨て論」を訴えた。

 しかし、結果的に労働力政策としては成功したので「農地切り捨て論」は「世紀の迷論」と呼ばれた。

 化学肥料や農薬も飛躍的に普及を遂げ、農家の所得水準は上昇した。

 また、農業に関連する公共事業が進められた半面、利益団体と自民党の癒着も生まれた。

 戦後の農政が置き土産にしたのは、数々の成果と政治的癒着の進行だけだった。

 池田勇人商工相の「国民所得倍増政策」において、重化学工業化をおしすすめる大きな推進力になったのは「全国総合開発計画」である。

 しかし、それを実現させるための「労働力確保」という点では、すべての政策は同一ともいえる。

 池田勇人商工相が強力にリードした「国民所得倍増政策」により、転職の普遍化及び学卒ら集団就職など、1940年代後半に若者の就職状況は激変した。


 次に、「国民所得倍増計画」の一環である「貿易自由化促進化」についてである。

 復興景気や吉田景気にみられた日本の著しい経済復興から判断して、アメリカ合衆国は日本国に貿易自由化を要求するようになった。

 日本としても、世界市場に復帰していくためには、米国は勿論、ヨーロッパに対しても自国に市場を開放することは、長期的な物事視点で見ると必要であった。

 池田勇人商工相は、貿易自由化はそれ自体が目的なのではなく、日本の貿易拡大の手段であるという考えを早くから持っており、日本が先進国入りを果たすには自由化は避けて通れない問題と受け止めていた。

 宮澤喜一大蔵省次官は、

「池田さんは、昭和20年代のドッジ・ラインにさかのぼる、統制経済から経済的自由主義になっていくころの担い手です。根っこからの自由経済論者であり市場経済論者です」

 と述べている。

  当時の省庁では、大蔵省が貿易自由化に積極的な姿勢を、通産省は貿易自由化に消極的な姿勢をとって、お互いをお互いが牽制し合っていた。

 1949年6月に、池田勇人商工相は自由化構想を省議で解き、佐橋滋重工業局長ら、貿易自由化に消極的な商工官僚を説き伏せた。

 商工省内で貿易自由化に賛成したのは、今井善衛繊維局長一人だったといわれる。

 今井善衛繊維局長は池田勇人商工相によく協力した。

 国内の業界からは、非常に強い反対を受けた。

 しかし、池田勇人商工相は、

「経済基盤の整った日本が自由化を断行することは、諸外国の信用を勝ち取る上で必要不可欠であり、日本経済を今後伸ばしていく唯一の道は、自由化以外には求められない。」

 と考えていた。

 また、自身の経済政策に揺るぎない自信を抱く池田勇人商工相は、

「GATTから要求されて従うような形でやるのではなく、日本国自らが積極的に自由化を受け入れ、日本の産業を国際競争の冷たい風にさらし鍛え上げる、それから世界市場に乗り出す実力を付けるべきだ。」と考えた。

 池田勇人商工相の自由化に対するスタンスが「国民所得倍増計画」に反映された。

「国民所得倍増計画」と「自由化」は車の両輪をなす一体の政策であった。

 池田勇人商工相は、未来においての「次」を狙いつつ、経済政策では連続性を有し、貿易自由化においても常に主導権を握った。

 商工省や産業界からは、「池田勇人商工相は、国内産業の現実の状況に精通しており、貿易自由化の進展には消極的だった。」といわれる。

 しかし、貿易自由化を強く支持していた。

 1949年12月に、池田勇人商工相は「貿易自由化に関する最初の決定」を行った。

 綿花とウールの輸入を、一切の政府統制から自由にして強力な先例を作った。

 1950年6月に、池田勇人商工相は、吉田茂首相に頼みこみ、「貿易為替自由化大綱」を閣議決定させた。

 また、その後の第三次吉田内閣誕生により、自由化のスピードが加速されて、開放経済へと大きく舵を切った。

 後述する米国・欧州に対する実質的な経済外交は、まず日本経済の自由化・開放化が必須であった。

 池田勇人商工相の中では、

「対等な立場での国際経済への参加を実現し、自由な貿易環境の下で日本経済を拡大させる、それこそが戦後日本にとっての国際的な威信につながる。」

 という連動するナショナリズムの論理が形成されていたのである。

 また、日本企業がアメリカ資本に吸収合併されるのではないかという危機感は、大企業同士の大型合併への引き金となった。

 日本企業は生き残りを賭け、他社より魅力的な製品を作ろうとこぞって海外から新技術を導入した。

 その件数は、1949年までの4倍に達した。

 これが「高度経済成長」の鍵となった技術革新イノベーションである。

 これが一番目に見える形で現れたのが家電製品であった。

 続々と登場する新製品が、国民の消費を加速させ経済は急成長を遂げた。

 池田勇人商工相を就任当時から支えた「財界四天王」と金融機関の首脳を中心とした財界グループも実働部隊として重要な役割を果たした。

 結果的には、民間経済の潜在的エネルギーを巧みに引き出して、"ジャパンミラクル"といわれる高度の経済成長をとげた。

 1950年6月の「貿易為替自由化大綱」は、3年後に自由化率80%をメドとしていた。

 池田勇人商工相は、輸入自由化70%という目標に変更した。

 東條英機内閣には、貿易自由化率は12%しかなかった。

 しかし、それが1950年10月末には、68%に上昇した。

 1950年末には、西欧諸国並みの73%に達成するに至った。

 貿易自由化計画の当初には、保護の必要があった幼稚産業も極めて速やかに一人前に成長し、欧米先進諸国の競争相手と互角に渡り合えるようになった。

 自動車産業がその典型であった。

 1940年代後半の当時、自動車が輸出産業になるとは誰も考えてなかった。

 池田勇人商工相は、

「昭和45年前後には、日本の自動車が世界のトップクラスに入る」

 と記者たちに向けて言っており、実際その通りになった。

  貿易自由化の進捗は、当時日本では「第二の黒船」と騒がれた。

 高度成長政策の支えによって、日本企業の体質も強くなってきていたとはいえ、未だ国際市場では一人立ちできるとは考えられていなかった。

 また、日本経済が自由化に耐えられるか否かは議論が絶えていなかった。

 結果としては、アメリカの巨大資本にM&Aされるのではないかという危機感から、重化学工業を中心に大型合併が成された。

 それにより、競争力と企業の近代化投資も加速された。

 また、1949年当初において、八幡製鉄・富士製鐵・日本鋼管の三社が寡占状態を形成していた。

 池田勇人商工相は、これら寡占状態により、一方的に価格を左右することに強い不満を持っていた。

 池田勇人商工相は、商工省の幹部たちに対して、

「寡占状態はよろしくない。だいたい君たちの先輩ばかり三社にいるから商工省の腰が弱くてダメだ。住友金属工業や川崎製鉄を伸ばせ。設備投資や外貨の割り当てもその線に沿ってやれ」ときつく言い渡した。

  特にレモンについては、商工省の官僚や選挙区のレモン農家の抵抗をはねのけて自由化に踏み切り、アメリカ産サンキストレモンが輸入して値段は4分の1にまで下がった。

 ただし、国内レモン農家の保護も怠らずに行なった。

 そして、池田勇人商工相が一番望んでいたのは、米の輸入自由化であった。

 そうすれば、完全に日本経済は落ち着くべきある自然的な均衡状態が生まれ、それを判断基準として何でもできるだろうという考えがあった。

 貿易自由化によって、外国製品が以前にも増して各家庭に浸透した。

 また、それまでの日本の昔からの辛い食生活は、外国からの甘さが加わって変化していった。


 次に、「国民所得倍増計画」の一環である「科学技術振興」についてである。

 池田勇人商工相の権力は、文部省大臣も兼任していたために、文部省にまで波及していた。

 池田勇人商工相は、「国民所得倍増計画」の主要目的五つの一つとして科学技術振興を盛り込んでいた。

 池田勇人商工相は、ある答弁において、

「文教の刷新と科学技術振興は、すべての施策の前提ともなる」

 と述べるなど、「文教と科学技術振興」に特に力を注いだ。

 また、池田勇人商工相は、「高度経済成長」の実現のため、それに即応する技術者が必要とされるだろうということも予想していた。

 そのため、医学を含めた理学工学学生の拡充に重点を置いた文教予算を組んだ。

 これは、それまでの文系学生中心の補助金からの転換であり、戦後の文教政策のもうひとつの曲がり角ともいわれることとなった。

 池田勇人商工相によるこの勘案は、その後日本の先進国への歩みのなかで特筆される。

 1949年に、文部省が理工系学生2万人の増員を決めてから、「理工系ブーム」が起こった。

 これが後の経済成長を支える基盤となった。

 また、池田勇人商工相により、

 1ー研究開発の推進

 2ー工業化対策の改善

 の2つを主な目的として、

 ・国内における独創的研究

 ・技術開発の推進

 これらの成果が望まれることとなり、欧米先進国に追い付くことを基本とした方向が示された。

 そして、日本経済が今日あるのは、この時代の理工系学部の拡充強化で生まれた「イノベーション」のおかげという社会通念が1950年代にはあった。

 その考えは長きにわたり、日本の文教政策の根底に居座り続けた。

 また、工業界、産業界に貢献する実践的な技術者の養成を目的に高等専門学校(高専)が全国で設立されたというのも、この頃の出来事である。

 また、理工系大学の新設数や理工系学部増設数が以降増加したのもこの頃である。

 そして、1949年6月の池田・ソーヤー会談で、三つの合同委員会の設立が決まった。

 その一つとして日米科学協力事業の提案が出されることとなった。

 それにより、日米科学委員会が設置されるなど、その後の二国間科学技術協定のモデルとなった。

 この協力事業では、二国間の科学者の交換も行われることとなった。

 また、とりわけ日本の若手研究者が海外に出て、より高いエネルギーの実験を進め、第一線の研究に参加することができるようになり、次の段階の重要な基盤をつくることになった。

 日米がん研究協力事業は、同事業に端を発する。

  その他にも、産業部門の技術者不足やブルーカラーの技能労働者が足らないという答申が出され、池田勇人商工相は、「人的資本」という言葉を盛んに使用して、技能労働者の拡充が行われた。

 一時期の新設の高校は工業高校だけという時期もあった。

 1950年には、開発あっせん等の業務を行う新技術開発事業団が設立されることとなった。

 同年には、産業界の共同研究を推進するため「鉱工業技術研究組合法」を制定した。

 また、世界の宇宙科学の進歩に対して、日本がはなはだしく遅れをとり、将来に悔いを残す恐れがあるとの認識のもとに、日本の原子力政策や宇宙開発などの巨大科学の自主技術開発を目指した国家プロジェクトに官民あげて取り組むことを申し合わせて、吉田茂首相の認可の下でその体制の整備も進められた。

 その体制構築として、顕著な例は次に示す例である。

 1949年6月には、科学技術庁内部に日本原子力船開発事業団が設置された。

 1949年7月には、科学技術庁内部に宇宙開発の中枢的機関として宇宙開発事業団が設置された。

 上記のように、科学技術関係の研究開発の基盤整備がいろんな所で行われた。

 また、1950年には「国立試験研究機関を刷新充実するための方策について」の答申が出され、東京に立地している国立試験研究機関の集中的な移転が提言された。

 これは、茨城県筑波研究学園都市建設の主要なきっかけとなった。

 そして、筑波地区に国際的水準の研究学園都市を建設することが閣議了解された。

 その他に、

「原子力損害の賠償に関する法律」

「原子力損害賠償補償契約に関する法律」

 などの法律が吉田茂首相の後押しにより、制定されている。


 次に、「国民所得倍増計画」の一環である「文教政策」についてである。

 池田勇人商工相は、文部大臣兼任を通じて「人づくり」の重要性を唱えて、「文教振興」に力を注ぐと終始にわたって主張を繰り返した。

 これが、いわゆる「人づくり政策」とも称されることとなった。

 また、それに同調するように、第三次吉田政権下では、文部省を中心として多くの人材開発育成が成された。

 それまでは、「消費」と考えられがちであった教育費を、経済成長に資する教育投資として位置付ける「教育投資論」の考え方が示された。

 また、高度経済成長を背景とした経済優先政策下に於いて計画的、体系的な公教育改革が行われた。

 日本全国の国立大学に対しては、

「経済成長に寄与・貢献する人材の養成」

 という義務を明確に課した。

 また、池田勇人商工相は、 「国民所得倍増計画」と連携して発表された産業計画会議の「教育投資の経済効果」に於いて、人間労働を教育の側面から質的に捉えなおすことを求めた。

 そのため、1949年11月に、上記の事を受けた文部省は『日本の成長と教育』で、〈経済成長を達成するために教育投資がいかに必要か〉というレポートを提出して、教育投資に大きな予算が組まれた。

 1950年には、経済審議会が「経済発展における人的能力開発の課題と対策」を答申して、実力主義と能力主義の徹底を標榜した。

 また、「ハイタレント・マンパワー」の養成と尊重の必要を唱えるとともに、各自が自らの「能力・適性」に応じた教育を受け、それによって得た職業能力を活用することを求めた。

 この二つの文書が、50年代教育政策の基本計画となった。

「選別と管理」という60年代教育政策を形成した文部省の背後には、財界が強く関与したともいわれる。

 経済発展のための能力開発あるいは教育訓練というマンパワー政策は、社会的にもインパクトが大きく、非常に批判を浴びることとなった。

 文部省が大きな権限を持つのもここを始まりとしている。

 教育技術者養成機関としては、1950年からは高等学校通信教育が、1951年からは高等専門学校(高専)が全国で設立された。

 池田勇人商工相による「国民所得倍増計画」の影響で、高校、大学の進学ブームも起きた。

 また、同計画に必要な人材を早期に発見し、適切な教育訓練実施の基礎資料とするため、文部省主催で1949年から2025年〈現在〉に至るまで「全国学力・学習状況調査」が実施されている。

 テスト・選別・競争・管理の教育体制づくり、今日に至る際限のない受験競争はここに始まったとされる。

 1950年に、日本母親大会が「高校全入運動」を取り上げて、運動が全国に広がると、池田勇人商工相の「国民所得倍増計画」として高校の増設・定員を計った。

 1949年以降、「みんなが高校に入れるように」というスローガンに結集する全国の父母・子ども・教師の国民要求が起こったこともあって、1950年から1960年までの10年間は相当規模の高校増設費が計上された。

 1960年以降は、文部省が増設を打ち止めを決定した。

 しかし、この10年間の予算急増で進学率も伸びた。

「人づくり国づくり」政策の中で、学校の教育課程は過密化していった。

「詰め込み教育」・「落ちこぼれ」・「見切り発車」・「教育ママ」というフレーズがマスメディアに現れた。

 急激な都市化と工業化の中で、子どもたちの生活は大きく変貌した

 また、池田勇人商工相と吉田茂首相によって、

「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」

「特別児童扶養手当等の支給に関する法律」

 などが閣議決定している。


 次に、「国民所得倍増計画」の一環である「エネルギー政策」についてである。

 石炭から石油へのエネルギー革命は、当時の大問題の一つであった。

 その決定的な主要因となってしまったのが、第三次東條英機内閣成立時に進行中であった二・一ゼネスト争議の解決であった。

 二・一ゼネスト争議は、1947年2月に全国規模で発生した大規模な労働争議である。

 しかし、元を辿れば、東條英機首相が、「皇国再建を蝕みながら暗躍する害虫どもは駆除しなければいけない。」という発言に端を発する。

 この事態を冷静に鑑みた東條英機は、労働行政に精通した池田勇人商工相を厚生労働大臣に兼任させた。

 そして、東條英機首相は池田勇人商工相に1時間おきに電話を掛けて、

「たとえ1人でも怪我人を出してはならぬ」

 と非常に珍しく厳命指示を行なった。

 非常に長期戦となった争議は組合側の敗北に終わった。

 これを大きなきっかけとして、エネルギー生産労働者によって構成される「炭労」は、日本最強の労働組合である日本労働組合から離れることになった。

 日本労働組合総評議会の有力労働組合であった「炭労」の離任は、総評をバックにしていた社会党に非常に大きな驚きを与えることになった。

 これにより、石油も含めて資源全体として自由化の体制に入り、高度成長の大きな与件になった。

 また、日本を他国より工業化を進めるために有利な条件を与えた。

 工業地域が日本のように出来上がった国は、他に一切ない。

 失業した石炭労働者などは、〈高度経済成長〉の中で他の産業に吸収させることで全体の効率化を図った。

 第三次東條英機内閣は、1947年に〈雇用・能力開発機構〉を設立した。

 また、炭鉱離職者を雇用した企業への補助金支給を行ったり、炭鉱離職者たちの東京や大阪での就業支援として公団住宅を建設するなど手厚いケアも行った。

 改革による痛みの代償として、三池・夕張・常磐炭鉱にお金を落とすのではなく、離職者の新しい就職先にお金を落とし、資源の移動を促進するような再分配政策を行った。

 やがて、エネルギー資源は原子力へと転換されることとなり、エネルギー革命の紀元もこの時代だった。


 次に、「国民所得倍増計画」の一環である「中小企業政策」についてである。

 中小企業近代化のため、1947年末に、その後の中小企業政策の根幹となった「中小企業基本法」と「中小企業支援法」を制定した。

 これに基づき、独占資本の要請に沿った中小零細企業の近代化は進められた。

 また、労働者の雇用促進のため「雇用・能力開発機構」の開設の他、吉田内閣を通じて、新しい福祉国家の建設のため、減税、社会保障、公共事業を三本柱とすると訴えた。

 福祉関連では、厚生省から多くの要望が出された。

 しかし、社会保障よりも公共事業に重点を置きたい大蔵省ともめた。

 結果としては、厚生省が勝利を収め、社会保障政策が拡充した。

 1949年には、国民全てが日本の医療に加入する「ユニバーサルヘルスケア・国民年金」を実現させた。

 また、同年より生活保護基準が引き上げられた。

 二・一ゼネスト争議が生活保護基準の大幅引き上げをもたらしたという見方もある。

 他にも、池田勇人商工相が考えた、

「児童扶養手当法」

「老人福祉法」

「母子及び父子並びに寡婦福祉法」

「観光立国推進基本法」

 などの法案が吉田茂首相の後押しにより、閣議決定を受けた。

 また、これらの法案は国会通過を受け、成立及び施行されている。


 次に、「国民所得倍増計画」の「影響及び論評」についてである。

 池田勇人商工相が「国民所得倍増計画」を発表した当時は、1946年からの「復興景気」による好況が漸く息切れしかかった時期でありった。

「国民所得倍増計画」が閣議決定され公式なものとなると、各地方公共団体や各産業の業界団体から個々の企業に至るまで「倍増計画」に合わせた長期計画作りが一大ブームとなった。

「所得倍増計画」以前の経済計画は、民間企業は勿論、政府に対しても強い影響力を持ち得なかった。

 数多くの政治政策や運動が実施されたのは「国民所得倍増計画」以降である。

 この計画が「国民所得倍増計画」という壮大な課題を提示したことで、国民的合意を取り付けることに成功することとなり、国民経済の前途を明るくした。

 計画初年度に当たる1949年度の民間の設備投資は、目標の3兆6000億円を突破するなど、現実の動きは「所得倍増計画」の想定を上回るテンポで進んだ。

 その点で「国民所得倍増計画」は、計画というよりも加速器のようなものであった。


 池田勇人商工相による「国民所得倍増計画」は、次のようなところにも影響を与えた。

 その影響というのは、

「国民所得」

「国内総生産」

「国民総生産」

「経済成長」

 などといった、一部の専門家しか知らなかった術語が、あっという間に大衆の言葉になった事である。

 また、1949年度予算から、概算要求基準シーリングが取り入れられた。


 証券会社が沸き立ち、これに引きずられて鉄鋼、自動車を筆頭に軒並み設備投資に走った。

 時計・カメラ・ラジオ・自動車・バイクなど、「メイド・イン・ジャパン」の製品が世界に販路を広げた。

 コンピュータを含む情報機器の技術革新も進み、生産・輸出も拡大した。

 日本の"輸出大国化"は、池田後に日米貿易摩擦として政治問題化した。

 日米貿易摩擦は、日本が池田路線を選択したことの当然の帰結である。

 ただし、高度成長の中で幼稚産業だった産業も発展して国際競争力も強くなった。


 1953年に一旦景気が失速した際に、「幻の所得倍増」や「破綻する所得倍増」などと池田勇人商工相批判がマスコミを中心としてあがった。

 しかし、池田勇人商工相は、高度経済成長を維持する有力な武器として、1960年開催予定の東京オリンピックに着目することとなった。

 公共事業の拡大には、国民が納得できる旗印が必要だった。

 そこで、池田勇人商工相は、

「オリンピックをてこに成長に弾みを付ける」

 という経済戦略を立て、公共事業や社会保障に積極的に予算を付けていくこととなった。

 それまでは、オリンピックへの政治の関与はあまりなかった。

 池田勇人商工相の戦略は当たり、日本経済は勢いを取り戻し「オリンピック景気」が到来した。

「新幹線と東京の高速道路は、なんとしてもオリンピックに間に合わせろ」と厳命した。

 この二つには、特に惜しみなく予算を注ぎ込んだ。

 ひとえに、国の威信がかかっているからであろう。

 そして、柔道の会場として建設された日本武道館は、池田勇人商工相と河野一郎建設大臣が建設場所を選定したともいわれる。

 渋谷区のNHK放送センターは、阿部眞之助が「NHKはオリンピックのホスト局なので、主会場の国立競技場 (法人)の近くに放送施設を作りたい」と「ワシントンハイツ跡地が最適なので、将来的にNHK本部もそこに移すつもりなので何とか払い下げてもらえませんか」と池田勇人商工相に頼んで来て、池田が「オリンピック放送は是非とも成功させていただきたい」と払い下げを決めたものである。

 1958年7月から1960年7月まで吉田茂首相の下で蔵相を務めた水田三喜男は、

「オリンピックの準備は全部池田さんがした」

 とある記事において述べている。

 オリンピック開催に合わせて、各種の公共事業が全国で進められた。

 政府もどんどん金を注ぎ込み、財政主導で日本経済を引っ張っていく。

 新幹線・高速道路・港・空港などのインフラストラクチャーの整備は大きな総需要を生み出した。

 オリンピックは、それまで放置されていた貧弱な道路網を飛躍的に改善する画期的な機会になった。

 池田勇人商工相は、社会開発の一環として住宅政策、特に持ち家政策を重視した。

「都市における住宅環境の改善」を目的として、

 ・持ち家政策の推進

 ・住宅の高層化による都市改造

 ・都市郊外の大規模開発

 などといった新たな政策の方向性を打ち出した。

 都市における労働力提供のため、都市周辺に住宅地を開発して、地方から出て来て重化学工業地域やその周辺に勤める人々を収容できる団地をつくった。

「国民所得倍増計画」に合わせて、建設省が1951年8月に策定した「新住宅建設五ヵ年計画」の中で、

 1ー1970年までの10年間に1000万戸の住宅を建設をすること

 2ー一世帯一住宅を実現すること

 この2つを目標とした。

 これを実現させるために、前期の五ヵ年で400万戸を建設すると明記した。

 池田勇人商工相は、それと同時に、土地の合理化を図るための住宅の高層化促進や、宅地対策の拡充強化のための新住宅市街地の開発推進などを打ち出した。

 1952年の「建物区分所有法」の制定

 1953年の「建築基準法」の改正

 などによって、住宅の高層化を進めた。

 また1950年の「宅地総合対策」を策定した。

 これに基づいて1951年に「新住宅市街地開発法」が制定された。

 この時既に始まっていた「千里ニュータウン」や、1954年に決定した「多摩ニュータウン」・「泉北ニュータウン」などの開発に適用されることとなった。

 こうして法整備を背景にとして、大手の不動産業者が、

 ・各地で新規の大規模開発

 ・日本のニュータウン建設

 ・マンション分譲

 ・都心部の再開発

 ・郊外住宅地の開発

 などの都市開発に乗り出していった。


 池田勇人商工相は、1960年東京オリンピックをバネにして、「所得倍増政策」の仕上げを図った。

 池田勇人商工相の時代において、日本で初めての原子力発電が成功した。

 東海道新幹線が開業したのもこの頃であった。

 ただし、海外渡航の自由化はまだまだ先であった。

 国民の所得水準は、その想定を上回るテンポで向上した。

 人々の暮らしぶりも大きく変貌した。

 当時において、「三種の神器 (電化製品)」と言われて、一般家庭には高嶺(値)の花だったテレビ・洗濯機・冷蔵庫が、驚異的な勢いで普及したのも、吉田茂首相と池田勇人商工相の下であった。

 電話の普及は「国民所得倍増計画」以降といわれる。

 最初は、本当に「所得倍増計画」が実現するかどうか、国民は疑心暗鬼だった。

 しかし、"投資が投資を呼ぶ"(1951年『経済白書』)と言うような好景気と消費ブームが起きた。

 通貨量の増大は、中小企業や小売の投資拡大を支え、総合スーパーのフランチャイズが本格化した。

 また、スーパーマーケットの設立も増加して「流通革命」という言葉も生まれた。

 既製服やインスタント食品の販路も急速に拡大した。

 消費の大型化・高級化・多様化が進み、国民の生活も大きく変えていった。

 "レジャー"という新しい言葉が日常の暮らしの中で使われはじめたのもこの頃からであった。

 "レジャーブーム"という和製英語も流行した。

 国内旅行会社やゴルフ、スキー、ボウリング、広告代理店・クレジット業界などもこの時期伸びた。

 日本経済が復興の時代を経て、新たな段階への飛躍の基盤を整えたのが池田勇人商工相の下での時代といえる。

 これらは、「1億総中流社会」を作り上げたという見方もある。

 この時代に、日本人がノスタルジアを持つのは、生活様式の面において現代日本の原点だからである。


 一方で反面、「高度成長のひずみ」としてインフレーションや第一次産業の激減、大都市一極集中と地方の過疎化、公害、自然破壊などの多くの問題を生んだのも事実である。

 これらが表面化したのは、池田勇人商工相が総理大臣になった頃で、「そうだったのかぁ。」と感嘆の声を上げることしか出来なかったという。


 さて、どうだっただろうか?

「池田勇人商工相が打ち出した〈国民所得倍増計画〉の経過及び成果」について、分からない方々でもよく分かったと言えるような説明だったと思う。

 では、説明を終了して、戻ろうか。


 池田勇人商工相「では、まだ若いとも思われている私が言います。」


 池田勇人商工相「私は、次の法案を提出いたします。

 1ー「新産業都市建設促進法」

 2ー「工業整備特別地域整備促進法」

 3ー「低開発地域工業開発促進法」

 4ー「農業基本法」

 5ー「中小企業基本法」

 6ー「沿岸漁業等振興法」

 7ー「森林・林業基本法」

 8ー「海運再建整備法」

 これら八項目の法案を提出いたします。」


 池田勇人商工相「では、松岡駒吉第39代衆議院議長、よろしくお願いいたします。」


 松岡駒吉第39代衆議院議長「ただいま、池田勇人君から提出されたる8つの法案に関しまして、

「新産業都市建設促進法」

「工業整備特別地域整備促進法」

「低開発地域工業開発促進法」

「農業基本法」

「中小企業基本法」

「沿岸漁業等振興法」

「森林・林業基本法」

「海運再建整備法」

 を諮りたいと思います。これら8つの法案に、すべて賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈すべての議員のうち、半数以上が起立をし、賛意を示した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「起立過半数と見て、8つの本法案は可決されたものと見ます。」


 〈壇上において、池田勇人商工相が議員らにまた頭を下げる〉


 池田勇人商工相「では、次は、また吉田茂首相に答弁してもらいます。」


 〈衆議院議場から「よく頑張った!」などの褒めのヤジ言葉が、池田勇人商工相に向かって飛ぶ〉


 吉田茂首相「えぇっと、再びですが、私であります。」


 吉田茂首相「次に、皆様に諮りたいのは、「第六事項」の「日本共産党及び日本社会党のソ連及び中共との怪しい蜜月関係の件」についてです。」


 〈日本社会党議員席らから、怒号や非難の声が飛び交う〉


 尾崎行雄自由民主党議員「お静かにしなさい!」


 〈衆議院議場が一気に静かになる〉


 ここからは、一文区切りで行きたいと思う。

 なぜならば、これから吉田茂首相が述べる話は、国際情勢と政治的要素が非常に強い話のため、連続文であると必然的に文が長くなってしまって、見ずらいためである。

 だから、ご理解をいただきたいと思う。


 吉田茂首相「まず、日本共産党のソ連邦との関係についてである。

 まず、そこの徳田球一日本共産党書記長らを始めとする売国郎党に関してである。

 かかる売国不逞の輩どもは、去る11月中頃に、日本政府に相談なしにして、ソ連邦へと渡航した事実がある。

 これは、今回の事例に限ったことではない。

 これまで、数百回以上の無断渡航を致しておる。

 話を戻す。

 そして、モスクワのクレムリンにおいて、

 ヨシフ・スターリン書記長

 ヴィトロヴィンスキー・アンドロポフソ連邦閣僚会議第一副議長

 イワン・コーネフソ連邦地上軍総司令官

 などを始めとする100余名と交流。

 また、この時のソ連邦側が用意した宿舎にて、

 ナターリヤ・フェドゾフ〈Nataliya Fedosov〉

 ウリヤーナ・エローシナ〈Ulyana Yeroshina〉

 のどちらも20代前半のうら若き二人の女人の間諜者と性的接触したという情報があります。」


 吉田茂首相「この事実だけでも、反共主義者の私からしたら、とても憎むべき事態である。

 しかし、この悲報とも言えるような話はまだ続く。

 なんと、驚くべきことに、この男どもは行ったのである。

 以下、その驚くべき背任行為を言いまする。

 ・全国の軍基地を数万枚に渡り撮影し、ソ連邦側へと流出させた

 ・軍の兵器及び武器を数百枚に渡り撮影し、ソ連邦側へと流出させた。

 ・私の閣僚や自由民主党議員らの家を盗撮し、その居場所を記した地図と写真をファイル化。

 さらに驚くべき事であるが、そのファイルをソ連側のスパイ組織に手渡した。

 ・自らの歳費や支給されていた諸費を、ソ連邦の機関へと横流ししていた。

 これら4件の罪に問われている。

 この事実を見て、皆よ、どう思われるか?」


 〈日本共産党議員らから「出鱈目だ!」などのヤジが飛ぶ〉


 〈自由民主党議員らから「この売国政党めが!」や「処刑せよ!」などのヤジが飛ぶ〉


 吉田茂首相「出鱈目というのに、そこらの郎党どもは黙っておるではないか!」


 吉田茂首相「ふん、まぁいい。マッカーサー連合国軍最高司令官の命を受け、発令する。

 その徳田球一らを始めとするソ連間諜者らを、「外患誘致罪」及び「諜報罪」により、即刻逮捕せよ。

 そして、即刻死刑に処せよ!

 これに際しての死刑執行命令は、法務大臣ではなく、私が直接命令する。

 また、マッカーサー連合国軍最高司令官の命令は、日本国憲法よりも上位法とする。

 その為、この命令に関しては、一切に渡り憲法違反でもない。」


 〈徳田球一日本共産党書記長らを始めとする数十人のソ連間諜者らが、MPに手を拘束されながら退場する〉


 吉田茂首相「また、マッカーサー連合国軍最高司令官の命を受け、発令する。

「日本共産党」に対して、政党非合法化の対象とする!

 そして、「日本共産党」に対して、政党解散を命令する!

 本日を持って、「日本共産党」を名乗る反国家共産政党は、その正当性を失効する。

 また。すべての日本共産党議員らは、先ほどの者と同じく、「外患誘致罪」及び「諜報罪」に基づいて、死刑に処することにする。

 MP...そ奴らをあの世へと連れ出せ!」


 〈先ほどのソ連間諜者らを除く、すべての日本共産党議員らが、MPに拘束されながら退場する〉


 吉田茂首相「次に、日本社会党の中共及びソ連との関係についてである。

 日本社会党は、中共・ソ連に親和的態度が見られる議員が幾人かおる。

 しかし、間諜者的言動は一切見られなかった。

 これは、マッカーサー連合国軍最高司令官が規定した内容には抵触しない。

 そのため、厳重注意処分に処する。

 しかし、売国政党である日本共産党があの体たらくであったのに、よく日本政党としての意地を見せてくれた。

 日本社会党議員らやその関係者らに、本当に深く感謝したいと思う。」


 〈日本社会党議員らから「ありがとう!」や「珍しいな!」などの賛同のヤジが飛ぶ〉


 吉田茂首相「私らは、あえて、我が国の立場を明確にしなければならない。

 我が国は、中華民国と一心共同体であることを言っておかなければならない。

 また、今後、私の後に総理を務める者が変な行動を起こさないため、只今、発表する。

 私は、日本国が連合国軍最高司令官総司令部の施政下から独立した後、次を行う。

 1ー中華民国との永久日華同盟締結

 2ーアメリカ合衆国との日米同盟締結

 3ー中共に対する「一切の官民間での交流及び国交回復禁止令」締結

 4ーソ連法に対する〈間諜者の日本への送り届け令〉通告

 これら4項目の事を行いたいと思う。

 これらに反対する者は、「国家反逆罪」を適用する。」


 〈衆議院議場の全てから、万雷の拍手が響き渡る〉


 吉田茂首相「では、次に、「第七項目」に関して、河合達夫情報大臣から述べてもらう。」


 河合達夫情報相「えぇ、総理からもお話があったように、最近において不可解な事態が生じておりました。

 その不可解な出来事というのは、昭和19年から現在に至るまで、九州西岸と日本海沿岸全域にかけて、5万3000人の行方不明者が生じておる状態のことでございます。

 そこで、情報省の2人の間諜者を、わざと拉致させて密偵させたところ、次のような事実が発覚しました。

 1ー九州西岸及び日本海沿岸西部にかけての、4万8000人の行方不明者は、中共の情報機関管理下の施設において、監禁されている事。

 2ー上記らは、きちんと生存している事。

 3ーただし、相当数の拉致された日本人女性らが、中国人の女人の間諜者に、言語・生活・筆記などのスパイに必要な知識を教えることを強制されていること。

 4ー上記らの女性らの扱いは、「戦犯国の女だから」という理由で、食糧面や生活面において、非人道的に扱われていること。

 5ーただし、性的な行いは一切されていないとの事。

 6ーこの4万8000人の拉致事件には、中共当局公認の下で行っているとのこと。

 7ー日本海沿岸中部及び北部にかけての、5000人の行方不明者は、ソ連の情報機関管理下の施設において、監禁されている事

 8ーそれら5000人には、言語・生活・筆記などのスパイに必要な知識を教えることが強制されていること。

 これら八項目がわかりました。

 結構前までは、日本共産党らが邪魔をしてきたので、中々進まなかったのです。

 ですが、力を衰えさせたので、なんとか実行できたというわけです。」


 ここで一文区切りを終わりたいと思う。


 河合達夫情報相「この対策について、この衆議院議場におられる諸議員の皆様に、考えてもらいたいです。」


 御上実平日本社会党議員「まずは、対話による邦人返還の要求でしょう。」


 景安太郎自由民主党議員「そんな甘くてよろしいのか!」


 中曽根康弘自由民主党議員「では、情報機関を用いた武力奪還は?」


 関町トシ子日本社会党議員「自分の国の自国民が拉致されて、対話だとか、なんだとか、寝ぼけた事ばっか言ってんじゃないよ!この弱っちい玉の男ども!てめえら、金玉付いてんのか!?あっちの美人局に、チンポ握られてるんちゃうんか?あぁ?長距離攻撃、武力攻撃しかねぇよ!どっちの国にも!」


 その他の自由民主党議員ら「確かに、それくらい懲罰せねば。」


 その他の日本社会党議員ら「社会主義が大事だけれど、他国の民間人を拉致する国なんか、カール・マルクス氏の理想に叶う真の社会主義国家ではないというわけだわな。なら、長距離攻撃が妥当か。」


 河合達夫情報相「では、何か案は出ましたか?出ましたならば、それを採決にかけたいと思います。」


 関町トシ子日本社会党議員「V2ロケットを駆使した、モスクワへの直接攻撃です!」


 河合達夫情報相「ええ?」


 河合達夫情報相「まぁ、いいでしょう。では、松岡駒吉第39代衆議院議長よ。採決をお願いいたします。」


 松岡駒吉第39代衆議院議長「ただいま、関町トシ子日本社会党議員から提出されたる「我ガ國ノ邦人ヲ愚カニモ拉致シタル破廉恥不道徳不義理國家デアルソビエト社會主義共和國連邦ト正統ナル中華民國ヲ愚カニモ大陸カラ追ヰ出シタニモ關ワラズ人民ヲ不道德ニ痛メシメル似非資本家ブルジヨワヂーノ眞似ヲシタル似非共產主義反國家團體デアル中共ニ對スルV2ロケツトヲ行使シタ空爆攻擊ノ採決案」を諮りたいと思います。この採決案に賛成する諸議員は、ご起立をお願いいたします。」


 〈すべての議員が、起立を行って賛意を示した〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「全員賛成と見て、この採決案を採択します。」


 〈関町トシ子日本社会党議員が、お礼をする〉


 松岡駒吉第39代衆議院議長「この採決案の採決を以てして、今日の全日程を終了したと見、今日はこれで閉会といたします。皆様、大変お疲れ様でした。」


 これにて、だいぶん長くなってしまって、もはや題名と一切関係が無くなってしまいそうになった「ダグラス・マッカーサー元帥の演説と反応」を終了したいと思う。

 さて、これからは、この後の趨勢を語って締めたいと思う。


 1948年1月12日ー総合国防軍は、V2ロケットを基礎として、世界初の大陸間弾道ミサイルである「第一号徹底懲罰ミサイル〈海外からの呼び名ーGründliche Strafraketen.1〉」を開発した。


 1948年2月11日ー紀元節の日に、総合国防軍は、「第一号徹底懲罰ミサイル」を配備した。


 1948年3月11日ー吉田茂第47代内閣総理大臣からの「発射許可命令」を受けて、朝8時に、霞ヶ関陸軍基地から、52発の「第一号徹底懲罰ミサイル」をソ連首都モスクワ近郊へ発射。


 同日ー吉田茂第47代内閣総理大臣からの「発射許可命令」を受けて、朝9時に、阿蘇陸軍基地から、214発の「第一号徹底懲罰ミサイル」を中共暫定首都南京郊外へ発射。


 同日ー吉田茂第47代内閣総理大臣から、ヨシフ・スターリン初代ソ連最高指導者に対して、ソ連が拉致した邦人返還を要求した電報が伝えられた。

 また、ヨシフ・スターリン初代ソ連最高指導者を介して、毛沢東にも邦人返還を要求


 1948年3月12日ー52発の「第一号徹底懲罰ミサイル」が着弾。

 幸いにして、郊外に全て落ちたため、森林火災以外の被害は発生しなかった。

 ただし、ソ連国民と指導部は動揺を隠しきれず、日本国に対して邦人返還を通知した。


 同日ー214発の「第一号徹底懲罰ミサイル」が着弾。

 南京郊外に落ちたため、南京市は被害がなかった。

 しかし、近郊の住宅街に落ちたため、以下の被害の通りになった。

 死者ー5万8665名

 負傷者12万4752名

 倒壊建物数ー2万棟

 中共当局は、日本国のあまりもの怒りに、すべての邦人返還を決定。

 中共支配下の国民にも、このニュースを伝え、「自分たちの行いにより、日本国からの攻撃を招いてしまった。本当に申し訳ない。」と謝罪した。


 1948年4月1日ー中共及びソ連に拉致監禁されていた5万3000人が、全員無事で帰還。

 日本国民は、吉田茂第47代内閣総理大臣に特別感謝した。

 その人気ぶりは凄まじく、彼に懸想文を送る女性までも存在したくらいである。


 ちなみに、海外のメディアはどう伝えたのかというと、次のとおりである。


 ニューヨーク・タイムズ紙

「日本、ソ連に対して超長距離飛翔体を92発発射。きっかけは、ソ連の5000人もの日本人拉致のため。」

 ワシントン・ポスト紙

「ソ連にとってのパールハーバーだ。しかし、今回は、日本は悪くない。」

 デイ・ヴェルト紙

「ドイツ人よ、東方の獅子を見習え!彼らはソ連に対して攻撃を開始。アメリカに対して、あれほどの戦いを挑んだ彼らは、次は、ソ連に対して、臆病者ヒトラーとは違い、冷静沈着に攻撃を開始した。」

 満州新聞

「アメリカ傀儡政権日本国よ。冷静な対応を切実に我らは求める。現人神であらせられる天皇陛下に危害を加わるような事あれば、我ら、断乎軍事的決起して、どちらの国も滅ぼす。」

 ロンドン・ポスト紙

「〜フォア・マインフォルク〜それは我が国民を護るため。」

 ル・モンデ紙

「東洋の鷲は、赤い熊どもを倒すのか?」

 ル・フィガロ紙

「ド・ゴール将軍のように、シゲル・ヨシダは行動した。」

 デイリー・テレグラフ紙

「ソ連は、悪徳高利貸しのシャイロックのような国であり、反対に、日本は、ヴェニスの商人のアントニーオーのようだ。どちらを、あなたは支持する?」

 ガーディアン紙

「Achtung!V2 Rakete.ドイツ人よ、嬉しいな?」


 次に掲載するのは、当事国の新聞である



 日本側


 産経新聞

「不義道徳の破廉恥国家ソ連、我がの国堂々たる攻撃に戦々恐々す」

 朝日新聞

「征け、神軍!」

 毎日新聞

「中共土人とソ連土人は、まとめて全員、皆殺せ!」

 読売新聞

「今ぞ言う 生きる価値なし 野蛮人!」

 日本経済新聞

「今回の事態による経済の動向は?」

 東京新聞

「殺せ、ゴキブリ中共人を殺せ!」

 北海道新聞

「日本の 御楯となりて 捨つる身と 思へば軽き わが命かな」

 福井新聞

「やっぱり、コイツらか!」

 京都新聞

「ソ連顔をした奴は、通報しよう!」



 ソ連側


 クラスナヤ・ズヴェズダ紙

「やっぱり不埒!ヤポンスキー」

 イスベスチヤ紙

「我らが偉大なるスターリン最高指導者に背きたる日本国、責任転嫁と忖度だけは上手い。だからこそ、アメリカ合衆国に負けたのか。」

 プラウダ紙

「ドイツと日本に共通するのは?二度負けること!」



 中共側


 人民日報

「日本の戦間期の行いが悪いとはいえ、それは当時の日本軍国主義政府が悪いのであり、日本人民は関係ない。毛沢東は自分の権力を見誤りすぎる。」

 新華社

「他国民を拉致するなど言語道断である!レーニン同士の霊廟に立ち、理想の社会主義国家建設のために散った愛国共産戦士たちに、毛沢東は謝罪するべきである!そして日本の人民にも!」


 中共は、悪い行いをした自国をきちんと批判している。

 ソ連は、自分が悪いのに日本を悪く言っている。

 日本は、戦争は終わったというのに戦時中色が強すぎる。


 色々なお国柄が見れたということだ。

お読みいただき、ありがとうございました。

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