第八話 東南アジア各国の統一
楽しめよ。
ロンドン・ポスト紙 8月10日号
どうも、紳士淑女の読者諸君よ。
私と源三は今、大亜細亜帝國連邦首都のジャカルタにいる。
いやぁー、すごいものである。
国全体の成長中の良い熱気と若々しい褐色女。
特に褐色女には、目を奪われてしまうな。
ん、これ以上は妻にひどく怒られるためにこれくらいにしておく。
さて、やっと5ヶ月前に内戦が各国で終息した。
ヘドナムにおいては10年間の内戦が終息した。
フィリピンにおいても10年間の内戦が終息した。
タイにおいては2年間の内戦が終息した。
カンボジアにおいては、徹底した日本人化や皇室崇拝教育が、宗主国(大亜細亜帝國連邦)からの「絶対命令」としてなされている。
そのため、すでに93%以上もの人々が「教育完了」しておる状態と大亜細亜帝國連邦の発表では言われており、残り7%も残り2週間程度で「教育完了」されるであろうとのことだ。
(これが、今から5ヶ月前の東南アジアの状況図である。)
さてと、本題に入る前に重大な出来事が起きたために、そちらをサクッと解説していきたいと思うところである。
1957年7月15日ー日本国と大亜細亜帝國連邦との間で国交が樹立。
このため、経済活動や文化交流も盛んに行われる事と思う。
「サクッと解説する。」と言っている手前、ここで終了する事とする。
さて、今回の出来事に興味を大いに持っている読者もいらっしゃると思う。
今からその一連の出来事について詳しく解説していこう。
まずは、フィリピンについて解説していきたいと思う。
1956年12月15日ー南フィリピン国(現フィリピン国)の首都ダナンやサンボアンガ市などから55万人の兵士が、貿易船と偽った大亜細亜帝國連邦の輸送船に乗り込んだ。
そして、タウワから出発した大亜細亜帝國連邦軍ー35万人の船団と合流。
12月16日ー南フィリピン軍ー55万人と大亜細亜帝國連邦軍ー35万人が、フィリピン共和国のケソン州沿岸に上陸。
攻略軍90万人を第一攻略軍・第二攻略軍・第三攻略軍とすることに決定。
第一攻略軍はアルバイ州・北カマリネス州など攻略して南進。
第二攻略軍・第三攻略軍もそれぞれ進撃した。
更には、大亜細亜帝國連邦海軍の強力な援護を受け、離島をも次々と占拠。
1957年12月22日ー南フィリピン国は、次の領域を占領した。
1957年1月5日ーマニラやケソンなどの首都機能を持つ都市以外は、全て南フィリピン国の占領統治下領域に編入された。
パラワン島などの離島のフィリピン共和国軍も、長年訓練や実戦経験を経験してきた南フィリピン軍の精強部隊によって全て蹴散らされた。
よって、現地部隊は降伏する事となった。
フィリピン共和国は、「玉砕命令」を発布して首都近辺に12万人を収集。
最終的には、マニラ・ケソン両市を攻略することによって、フィリピン共和国は降伏。
これにより、彼の国の全領土が南フィリピン国によって併合された。
1957年1月10日ー「マニラ条約」が締結された。
これを機に、南フィリピン国はある事を決意した。
1957年1月12日ー南フィリピン国の名前を「フィリピン国」として国名を改名。
首都をマニラ特別市とした。
同時に、新国旗が発表された。
(上記の国旗が以前の南フィリピン国(現フィリピン国)の国旗)
(上記の国旗が現在のフィリピン国の国旗)
2週間後の1957年1月26日ーフィリピン国は北フィリピン社会主義共和国に宣戦布告。
初頭においては、快進撃の様相を南フィリピン軍並びに大亜細亜帝國連邦軍は見せたが、長大な「フィリピン塹壕要塞線」によって、前線戦線は停滞した。
2週間もの膠着状態を見せる事となった。
その時、北フィリピン社会主義共和国の北部沿岸と西部沿岸に20万人ずつ(計兵力数は40万人を数える)を上陸させて、戦線を突破。
その時、膠着戦線においても突破に成功してベンゲット市を占拠。
しかし、北フィリピン社会主義共和国は慌てなかった。
なぜなら、北フィリピン社会主義共和国は「最終首都」と命名した首都にて、徹底抗戦に持ち込んで中国やラオスからの支援が来るまで待とうと言う作戦であったからだ。
しかし、大亜細亜帝國連邦空軍が独自開発した威力を大幅に下げた「低脅威型ナパーム弾」を北フィリピン社会主義共和国軍の軍事基地や共産党本部を目標にして大量投下。
このおかげでか、市民の犠牲者は数百人と少なかった。
しかし、「最終首都」は軍事力が皆無になってしまい、実質的機能を失陥した。
そして、抵抗力がなくなった北フィリピン社会主義共和国政府は「降伏勧告」を受諾した。
1957年2月25日ー北フィリピン社会主義共和国は「ベンゲット降伏条約」に調印。
これにて10年間のフィリピン共産党支配が終焉となった。
フィリピン国は「全土統一の書」をフィリピン全国と全世界にラジオ放送に載せて通知。
大亜細亜帝國連邦上層部は「天皇陛下に良いご報告ができる!」と大いに喜んだ。
次にベトナムについて解説していきたいと思う。
ベトナムは南ベトナム国軍による奇襲攻撃で速攻で片付いた。
その日数、わずか2ヶ月。
1ヶ月でベトナム共和国を降伏に追い込んだ。
さらに、2ヶ月で北ベトナム人民共和国を降伏に追い込む事となった。
1956年12月15日ー南ベトナム軍120万人が越境攻撃を開始した。
これに対してのベトナム共和国軍の全兵力は、なんと45万人であった。
南ベトナム軍は、フエ・ドンホイ・ビンを強襲。
防衛要塞を、次々と旧ドイツ国防軍顧問から伝授された電撃戦により攻略。
そのまま進撃した部隊を囮として、山道沿いに秘匿するかのように走らせていた戦車部隊を「ダンホア攻略戦」に全投入。
1957年1月15日ー最終的にベトナム共和国の首都である「ダンホア首都区」に南ベトナム国の国旗を立てたことにより、ベトナム共和国は「降伏受諾」の表明をした。
これにより、南ベトナム国はベトナム共和国の領土を全て自国に編入した。
1957年1月16日ー進撃停止するようなことはせずに、南ベトナム国はホーチミン統領率いる北ベトナム人民共和国に対して電撃的に宣戦布告。
戦車部隊は山道沿いに秘匿するかのように走り続け、まずはソンラ市を攻略。
これにより、北ベトナム軍の士気と指揮系統は大混乱状態となった。
次にラオカイ市を攻略した。
1957年2月10日ー人民解放軍(中国)が50万人の兵力と数百両の戦車と共に北ベトナム国の内へと侵攻してきた。
ホーチミンはこれに大変ショックを受けた。
1957年2月16日ー「異民族に支配されるなら、同じベトナムの名を持つ同胞に支配された方が断然良い」と考えたホーチミン統領は南ベトナム国に「降伏」を申し入れた。
この中国の侵攻に一番激怒したのが、南ベトナム国軍と全ベトナム国民である。
南ベトナム国軍は中国軍に決死の攻撃を何度も仕掛けた。
さらに、全ベトナム国民は中国軍に対するレジスタンス活動を活発に行った。
これにより、中国軍は撤退する事となった。
しかし、後に亡命した元共産党員のベトナム人に話を聞くと
「今の徹底した猛烈な日本人化と皇室崇拝教育を思うと、中国の元での共産独裁政権だった方が良かったかもしれない。今のベトナム人は、日本と自国に対する強烈な愛国心と皇室に対する苛烈崇拝と絶対服従が心の奥深くにまでびっしりと染まっている。それと同時に、共産主義に対する憎悪と敵対心が怖いくらいに深くまで植え付けられている。」
と言っていることから、どちらが良かったかは私が判断できることにないと思う。
中国とは「南寧条約」と言う白紙和平を結ぶことによりお互いに沈静化。
これ以降、中国軍による攻撃は無くなった。
南ベトナム国は「全土統一の書」をラジオに載せて全ベトナム国民と全世界に「ベトナムの統一」を知らしめた。
大亜細亜帝國連邦上層部は「なんて素晴らしい事!」と大喜びした。
これを機に、南ベトナム国はある事を決意した。
1957年2月26日ー南ベトナム国の名前を「ベトナム国」として国名を改名。
首都をサイゴン特別市とした。
また、皇帝に「バオダイ帝」を即位させた。
これにより、ベトナム国は立憲君主制を確立した。
同時に、新国旗が発表された。
(上記の国旗は以前の南ベトナム国(現ベトナム国)の国旗)
(上記の国旗が現在のベトナム国の国旗)
次にタイについて解説したいと思う。
1957年1月10日ー南タイ国軍は、奇襲攻撃を持ってしてタイ王国を攻撃せしめた。
翌週には、タイ王国の首都であったバンコクを無血占領。
そして、南タイ国軍は北部に逃走したタイ王国政府と政府軍を追撃。
最後の戦闘である「スコータイの戦い」に勝利した。
翌日、バンコクにて「バンコク降伏条約」を締結。
これにより、南タイ国の領土は正式なタイ全土となった。
これにより、「タイ統一戦争」は幕を閉じた。
南タイ国は、「全土統一並びに国王即位の書」をラジオに載せて全タイ国民と全世界に「タイの統一」を知らしめた。
タイ王国の国王であったラーマ9世(別名プミポン)国王)を自国の国王に即位させ、立憲君主制を確立した。
大亜細亜帝國連邦上層部は「大変良き素晴らしい事!」と大喜びした。
これを機に、南タイ国はある事を決意した。
1957年1月12日ー南タイ国の名前を「大シャム国」として国名を改名。
首都をバンコク特別市とした。
同時に、新国旗が発表された。
(上記の国旗は以前の南タイ国(現大シャム国)の国旗)
(上記の国旗が現在の大シャム国の国旗)
同時に大扶南国も新しい国旗を発表した。
同時にマラヤ国も新しい国旗を発表した。
同時にシンガポール国も新しい国旗を発表した。
ちなみに大亜細亜帝國連邦の国旗は次のような国旗である。
さて、ここまでしたところで落ち着くかと思ったが、もう一波乱起きてしまったため、今からはそれをざっくりと見ていこう。
1957年6月21日ーラオス人民共和国において、大亜細亜帝國連邦スパイ並びに軍人によるcoup d'Étatが発生。
しかし、混乱は全くと言っていいほどに見られなかった。
なぜなら、大亜細亜帝國連邦のスパイはラオスの公務員・政治家・大企業・弁護士・医者・軍人などの多種多様な業種に数多く潜んでいた。
そのため、行政がいつも通り営業されていたので、国民の混乱が少なかったからである。
また、大亜細亜帝國連邦の軍隊が進駐した為に、中国やインドからの侵攻も無かった。
いわゆる「無血革命」であった。
そして、新たに擁立された大亜細亜帝國連邦傀儡の大亜細亜帝國連邦人主体のラオスの軍事独裁政権は、ラオスの全国民に対して猛烈な「日本人化」と「皇室崇拝教育」を実施。
それにより、3ヶ月後の今ではラオス国民の約7割に至るまでが日本と自国に対する強烈な愛国心と皇室に対する苛烈崇拝と絶対服従が心の奥深くにまでびっしりと染まっている。
1957年7月7日ーラオスの軍事独裁政権は国名を「ラオス人民共和国」から「ラオス国」へと改名することを決め、即日実施した。
また、同日にラオス国は新しい国旗を発表した。
(上記の国旗が現在のラオス国の国旗)
さて、読者の諸君は気になっていることだろうと思うが、侵略された側の国の役人・政治家はどうなったのかについて書いていきたいと思う。
まずは、旧フィリピン共和国と旧北フィリピン社会主義共和国の役人・政治家の処遇について詳しく書いていきたいと思う。
旧フィリピン共和国は、元々のイデオロギーが民主主義であった為に「共産主義よりかは民主主義の方がマシ」と考えた大亜細亜帝國連邦上層部によって全員釈放された。
また、公職に就くことも猛烈で苛烈な「日本人化」と「皇室崇拝教育」を受けることを前提条件として認可された。
そして、無事に旧フィリピン共和国の政治家・役人は猛烈で苛烈な「日本人化」と「皇室崇拝教育」を受けて脳が洗われ、強烈な日本信奉者と皇室信奉者となった。
旧北フィリピン社会主義共和国に関しては、フィリピン共産党のトップ層以外に対しての断罪は一切行われることはなかった。
そのトップのフィリピン共産党指導部の処遇も穏健的だった。
詳しく見ていこう。
まず、フィリピン共産党のトップ層の中でも、日本・皇室やフィリピン国政権に肯定的・従順だった者たちは釈放とした。
しかし、フィリピン共産党トップ層の中でも、フィリピン国政権や日本・皇室に対し無礼な発言や行動を行なった者たちは、問答無用で死刑に処された。
釈放されたトップ層とトップ層以外の釈放された全ての旧フィリピン共産党員と旧北フィリピン社会主義共和国の全ての役人は猛烈で苛烈な「日本人化」と「皇室崇拝教育」を受けて脳が洗われ、強烈な日本信奉者と皇室信奉者となった。
この処遇は世界でも比較的優しい処遇であった。
次は、旧ベトナム共和国と旧北ベトナム人民共和国の役人と政治家の処遇について詳しく書いていきたいと思う。
旧ベトナム共和国は、元々のイデオロギーが旧フィリピン共和国と同じ民主主義であった為に「共産主義よりかは民主主義の方がマシ」と考えた大亜細亜帝國連邦上層部の意向によって全員釈放された。
(ただし、ゴ・ディン・ジェム元大統領は、自分勝手な統治と仏教徒に対しての差別的政策実施により、異例の「死刑判決」がなされ執行された。)
また、公職に就くことも猛烈で苛烈な「日本人化」と「皇室崇拝教育」を受けることを前提条件として認可された。
そして、無事に旧ベトナム共和国の政治家・役人は猛烈で苛烈な「日本人化」と「皇室崇拝教育」を受けて脳が洗われ、強烈な日本信奉者と皇室信奉者となった。
旧北ベトナム人民共和国に関しても、ベトナム共産党のトップ層以外に対しての断罪は一切行われることはなかった。
そのトップのベトナム共産党指導部の処遇も穏健的だった。
詳しく見ていこう。
まず、ベトナム共産党のトップ層の中でも、日本・皇室やベトナム国政権に肯定的・従順だった者たちは釈放とした。
しかし、ベトナム共産党トップ層の中でも、ベトナム国政権や日本・皇室に対し無礼な発言や行動を行なった者たちは、問答無用で死刑に処された。
釈放されたトップ層とトップ層以外の釈放された全ての旧ベトナム共産党員と旧北ベトナム人民共和国の全ての役人は猛烈で苛烈な「日本人化」と「皇室崇拝教育」を受けて脳が洗われ、強烈な日本信奉者と皇室信奉者となった。
次は、旧タイ王国の役人と政治家の処遇について詳しく書いていきたいと思う。
旧タイ王国は、元々のイデオロギーが旧フィリピン共和国と同じ民主主義であった。
それにより、大亜細亜帝國連邦上層部の意向によって全員釈放された。
また、公職に就くことも猛烈で苛烈な「日本人化」と「皇室崇拝教育」を受けることを前提条件として認可された。
そして、無事に旧タイ王国の政治家・役人は猛烈で苛烈な「日本人化」と「皇室崇拝教育」を受けて脳が洗われ、強烈な日本信奉者と皇室信奉者となった。
次は、旧ラオス人民共和国の役人と政治家の処遇について詳しく書いていきたいと思う。
旧ラオス人民共和国は、coup d'Étatの無血革命がなされ、その偉業には隠れ皇室崇拝の共産党員や隠れファシストの軍人の功績などがあり、「その貢献を蔑ろにしてはいけない」と考えた大亜細亜帝國連邦上層部の意向によって全員釈放された。
(この場合は、元共産党トップも死刑にはされずにたった数ヶ月の懲役を終えただけの異例の処遇措置であった。この元共産党トップ、今は国会議員となっている。)
また、公職に就くことも猛烈で苛烈な「日本人化」と「皇室崇拝教育」を受けることを前提条件として認可された。
そして、無事に旧ラオス人民共和国の政治家・役人は猛烈で苛烈な「日本人化」と「皇室崇拝教育」を受けて脳が洗われ、強烈な日本信奉者と皇室信奉者となった。
これらの4カ国における傀儡国擁立成功によって、大亜細亜帝國連邦の東南アジアにおける影響力は無視できないほどにまで大きくなった。
さて、今回の記事もたくさん波瀾万丈な出来事があったし、ビックリする事もあったとは思うが、どうだったであろうか?
楽しんでもらえたなら幸いである。
よって、「世界の全容」の第八話を終了したいと思う。
お読みいただき、ありがとうございました。