世界のプロローグ(1956年1月1日〜1956年6月25日)
楽しめ。
1956年1月1日から6月25日までに起きた重要な対外並びに対内事柄は次のとおりてある。
・中華人民共和国との第一次東中紛争
・大亜細亜帝國連邦との国家連合「八紘連合」結成
・大亜細亜帝國連邦及びその周辺国の国家相互同盟への加盟認可
この3つである。
1956年2月25日ー東亞連邦と大亜細亜帝國連邦は国家連合「八紘連合」を結成した。
また、国家相互同盟に7カ国を招待することとして、7カ国も了解を示した。
総会において、7カ国の加盟を承認したことにより、正式に加盟が認可された。
1956年3月15日ー中国軍25万が独断で既定国境線を越境。
信陽市やシンフア市を無血占領した。
そして、自分たち中共軍だけで臨時政府を樹立。
この一連の行動に、現地の「信陽市レジスタンス軍」・「シンフア市レジスタンス軍」が活動を始めた。
これに、東亞連邦政府は陸軍100万人を現地に向かわせた。
政府が「非常緊急国防動員体制」に移行し、「国民軍結集の令」を発した。
これにより、自主的に国民全体が国民軍1500万人を編成し向かわせた。
現地の中共軍25万人は、略奪や暴行などは行わなかった為に人的被害は皆無であった。
そして、国民軍1500万と陸軍100万が来ていることを知った陸軍部隊25万人は臨時政府を解体し逃走。
これにより一件落着かと党中央や海外諸国から思われた。
しかし、国民軍1500万と陸軍100万は崇明島と南通市から雲陽県の端から20キロメートル先までの長江以北・雲陽県の端から20キロメートル先から咸陽市から西に10キロメートル先を通り定辺県に至る土地の以西及び周辺一帯を占領。
東亞連邦政府は、毛沢東と中国当局に「占領地域の割譲と賠償金3兆円」を6月5日までに承諾する事を要求。
中国当局は、大変難色を示し事を構える姿勢を見せた。
しかし、毛沢東が「このまま戦えば我が国は圧倒的経済力と物量を持って潰されてしまう。」と考えて、それら該当地域の割譲を認める姿勢を見せた。
この異例の譲歩に対し、強硬的な中国共産党員は不満を大いに持った。
その為、毛沢東はその強硬的な党員一人一人と会談。
割譲する理由と国家を運営するにおいて大切な事を伝えた。
これは、多数の不満を持っていた共産党員は不満を和らげた。
これによって、臨時で開かれていた全人代において全員一致の元、毛沢東の「全面受諾案」を支持し承認をした。
当局は、その旨を東亞連邦側に伝えた。
東亞連邦側は「歓迎する。」と談話を発表。
1956年5月15日ー「南京平和条約」締結。
負傷者ー10万人
死亡者ー1万人
これにより約26万7000㎢に及ぶ肥沃な土地・資源と7000万人を吸収並びに獲得。
東亞連邦の人口は、
+追加住民ー7000万
+自然増加ー1500万
合計ー17億3500万人
となった。
また、面積も、620万5000㎢となった。
この条約締結後、毛沢東は独断行動部隊25万人を、チベット方面に左遷。
以降この25万人は、過酷なチベット地域を守護しなければいけなくなってしまった。
1956年5月20日ー東亞連邦政府は秘密裏に全ての極道団体(所謂ヤクザ)・右翼団体を秘密令にて結集させた。
そして、その会議において、全ての極道団体並びに右翼団体を統合した「反共抜刀隊」の結成を呼びかけした。
それに全ての極道団体・右翼団体が連名し、「国家からの大命を恭しく受諾いたします。」との文言が書かれた血判状を、提出した。
それにより、構成員100万人の「国内の闇社会を圧倒的人員によって支配・コントロールすること並びに國體護持すること並びに共産主義の根絶・殲滅とアカ共の粛清・虐殺を行うこと」を目的とする「反共抜刀隊」が正式に結成された。
(「闇社会をコントロールすることにより、マフィアやギャングの進出を抑えると共に、闇社会は義理人情を主とする任侠に任せた方が精神面的に良い」と考えたから。)
1956年5月25日ー東亞連邦は地域行政区分の再編を決定。
大規模な再編が実施され数多くの地域行政区分が併合された。
さて、あらすじの歴史解説・サイドストーリーはここで終了。
1956年6月25日からメイン(本編)・サイド(外伝)ストーリーと新たな歴史が始まり運命の歯車が動き始め出すこととなる。
また、これからのメイン・サイドストーリーの主人公はイギリスのテレビ・ラジオ・新聞等の全メディアを統御並びに統轄下におき、ロンドン市ダウニング町12番地に本社を構える国営企業「ロンドン・ポスト」専属で最若手であり最重要にして実力No.1のアンソニー・ウェルトナー(Anthony Weltner)記者である。
では、ぜひお楽しみくださいまし。
お読みいただき、ありがとうございました。