世界の情勢(ヨーロッパ)
楽しめ。
この世界の1956年までのヨーロッパ情勢は、混沌を極めている。
特に、イタリアとドイツに至っては悲惨であった。
1945年10月5日ー「マンチェスター会議」が、開催された。
そこには、スターリン・チャーチル・ウォレスの各国指導者が一同に会して、戦後のドイツ・イタリアの国家運営の方法を見出す目的だった。
会談自体は、難局に乗り上げそうであったのだが、スターリンからの「国家六分割案」「国家二分割案」の提案により、そこからはとんとん拍子で話は進むことになった。
まず、ドイツは6カ国に分裂させられた。
1ー北ドイツ連邦
2ー中央ドイツ国
3ー西ドイツ連邦共和国
4ー南ドイツ連合王国
5ー東ドイツ人民共和国
6ープロイセン王国
1945年10月ーイタリア王国は、北部をイタリア社会主義共和国が、南部をイタリア共和国が、という形であったのであるが、これにファシスト党の残党や軍部が激怒。
メンバー・軍員を率いてイタリア共和国南部へと進駐し、実効支配を確立。
そして、独立宣言を行い、イタリア共和国から分離した。
北ーイタリア社会主義共和国
中央ーイタリア共和国
南ーファシスト・イタリア第二共和国
1945年11月25日ーアメリカ合衆国政府からの提案により、〈国連第21号決議〉が決議された。
それにより、「敗戦国が成長し復興を成し遂げる、その然るべき時まで治安面並びに民族感情面から保有し委任統治する領土」としての「国連領」が設けられた。
初代国連領管轄長官には、ハリー・トルーマンが就任した。
その緻密な計画性と大局観が叶え備わっているという稀有な人材であったために、登用が決定されるということになった。
国連領には、以下の地域が含まれる。
1ーコルシカ
2ーシチリア
3ーサルデーニャ
4ーリビア
5ーアルザス・ロレーヌ
6ーラインラント
7ーシュレースヴィヒ=ホルシュタイン
などが含まれている。
これらの土地は、国連により当面の間は管理されることとなる。
また、ハリー・トルーマン国連領管轄長官は、これらの地域を発展・活性化させることに、大いに専念することとなった。
また、国連の野望としては、これらを国連領として管理・維持していきたいという壮大な野望があるが、もしそうするなら隣から軍隊が押し寄せてくるため、じっくりとやっている。
1946年1月〜1948年3月ー市民団体が呼びかけていた「ドイツ統一運動」が、歴史的ドイツ領土全域で猛烈に吹き荒れた。
この運動の煽りを受けて、北ドイツ・西ドイツ・南ドイツ・中央ドイツの各国が、「通称ードイツ国(Deutches Reichs)・正式名称ードイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)」として、平和的に緊急統一を達成。
1948年4月1日ー「ドイツ統一戦争」と呼称される初の冷戦の代名詞的な代理戦争が開始。
対戦国としては、
イギリス(民)・フランス(民)・ドイツ(民)vs東ドイツ人民共和国(共)・ポーランド人民共和国(共)・プロイセン人民国(共)
となり、イギリスがバックについているために、勝利は確実視されていた。
ソ連や他の東側諸国が、東ドイツ人民共和国側に付かなかったのは、「アメリカ合衆国がこの戦争には関与していない奈良、自身も手を出すことはなかろう。」として、冷戦激化・世界平和の不安定化を恐れたからだった。
それにより、物資支援と義勇軍派遣にとどまった。
ドイツ統一戦争は、3ヶ月間にも渡り行われた。
戦争初期においては、ドイツ国の首都ベルリンにまで、東ドイツ人民共和国・プロイセン人民国ポーランド人民共和国の3ヵ国連合軍によって攻められた。
しかし、これを見事に守りきって反撃にまわった。
そして、敵首都のボーゼン・ケーニヒスベルク・ワルシャワを攻撃した。
そして、それぞれ降伏させたことにより、大きな勝利をおさめた。
1948年7月25日ー東ドイツ人民共和国・ポーランド人民共和国の全土を「ポーランド立憲王国」(ポーランドの立憲君主制ver)の領土とした。
更には、プロイセン国の下半分を無償譲渡する代わりに、反ソ並びに反共の尖兵になることを科した「ベルリンーワルシャワ講和条約」が締結なされた。
ただし、ポーランド立憲王国自体は、
(ポーランド分割の元凶である)ドイツ
(ドイツ人が国の実権を全て握っていた)オーストリア
(ドイツ人皇帝や側近が国の実権をオーストリア同様に全て握っていた)ロシア
これら、3カ国による、
1ー幾度ものポーランド・リトアニア共和国の分割
2ーナチス・ドイツによる、ポーランド共和国分割
3ードイツ人による、強烈な差別経験
4ー独ソ戦による、非常に甚大なる人的被害
などの歴史や古からの民族感情から、猛烈にして強固な反独国家であった。
その一例としてドイツ人追放(1948年〜1956年まで)が挙げられる。
この事に関する説明としては、仇敵のドイツ人が、自国内に大勢いることを大いに嫌ったポーランド国民並びに立憲政府が、官民一体となって苛烈なドイツ人差別とドイツ人追放を強力に実施。
これにより、旧ドイツ東部領土に住んでいた7350万人のドイツ人全員が国外(ドイツor東亞連邦)に移民した出来事である。
また、当時の資本主義陣営のヨーロッパ陣営において禁忌とされていた、「ソ連との協力関係を結ぶこと」を秘密裏に行った。
ソ連との蜜月関係を構築していた事は、後においてわかる事である。
この時の、アメリカ合衆国の怒りぶりを相当なものであった。
この、ソ連とポーランドによって起こされたドイツ人追放政策と、これによるドイツや東亞連邦への7350万人(8年間合計)もの流入は、移民流入に慣れている東亞連邦は大した混乱はなかった。
しかし、ドイツ国に関しては、最初期の少しの数の移民(それでも数万人)でも、非常に大きく混乱に見舞われた。
また、旧ドイツ東部領土住民からの差別体験談や追放の無慈悲さを、多く聞いたことにともなって、ドイツ人同士の団結が急速に進んだ。
反対に、ポーランド人に対して極度の嫌悪感をしばらく抱き続けることとなった。
また、本土ドイツ人とは別に、ポーランドの苛烈な追放政策によってドイツに定住した旧ドイツ東部領土住民は、ポーランド人に対して本土ドイツ人に対して比べ物にならないほどのとてつもない強い恨みと強い憎しみをずっと抱くことになった。
これに釣られて、ドイツは、強固な反ポーランド国家となった。
また、この条約によって、ドイツ国またはドイツ民族の歴史的故郷であるケーニヒスベルクは、ドイツ領としての保有が国際社会から認められた。
皮肉にも、この反ポーランド感情は、アイデンティティーの同一化と強靭化にも成功することとなり、ドイツ国家運営の上には非常な助力になったという。
これにより、ドイツは一つの国家として統一を完成させた。
1948年6月2日ーソビエト連邦は、ナチス残党国家の「クリミア反共国」を併合。
クリミア反共国の指導部から末端員に至るまでの、全てのクリミア反共国構成員は、全員が、豊富な資金と引き換えに東亞連邦によって引き取られ、影の国民として編入された。
その数は、およそ500万人。
1948年12月24日ー無断独立した「カレリア共和国」が、ソ連邦陸軍による果敢な猛攻の末において、首都ムルマンスクにおいて降伏文書に調印した。
これにて、4年程度続いた「北方の新たな仲間ら」は消えることとなった。
1953年2月11日ーイタリアでも、半年にも渡るイタリア統一戦争が勃発した。
1952年6月27日ーイタリア王国の首都ローマにおいて「ローマ講和」が締結。
共産イタリアは、工業三角地帯を背景とする豊富な物資や裕福な地域であるために、依然として健在である。
反対に、農村や教会が多く分布している南部イタリアを、基盤とするファシスタ党の残党が、勝手に建国した「ファシスト・イタリア第二共和国」は「イタリア共和国」へと吸収されることとなった。
1953年4月25日ーギリシャ共和国においても、「ギリへレオス統一戦争」が勃発した。
これは、たったの1週間で終わったために「7日間戦争」とも呼ばれる。
議院内閣制を採択するギリシャ共和国が、自身の持てる総力をもってして、北方に居座る共産国の「ギリシャ人民共和国」を滅ぼした。
それにより、ギリシャ統一に成功した。
1953年10月15日ー現地在留のアメリカ軍(通称「ヨーロッパ監視軍」)が、アイスランド島から「ヨーロッパ情勢が安定的と考える」として撤退したため。
現地の臨時政府が、アイスランド王国が独立を発表した。
この発表は、国際社会から認められた。
1954年9月12日ー英ア戦争が勃発。
戦争の発端において、アイルランドは、ナチス党員や武装親衛隊(Waffen-ss)などのファシストを多く匿っていた。
それにより、ファシズム国家となったアイルランドが、先に攻撃をしかけた。
しかし、アイルランド軍は、精強なるイギリス軍に敗北した。
これに尽きると言わざるを得ない。
1955年10月10日ー「ダブリン条約」が締結された。
これにより。北アイルランドは再度イギリスに割譲となった。
これ以外で、戦争の火種となりそうなものは、以下のものがある。
・北欧3カ国から無断独立した「ラップランド」
(これは、過激派ラップ人テロリストが総力を用いて占領したことに起因する。)
・フェローランド
(これはイギリス並びにデンマークから「殺す。」と言われている。)
・Osterreichの共産主義化傾向
(これにはドイツが特別警戒視)
これら3点が挙げられる。
下の図は1956年のヨーロッパ地図となっている。
ちなみに、ヨーロッパの人口は、1956年時点で4億2560万人である。
また、そのうち65歳以上の高齢者人口は5830万人である。
(これは、人口増産計画の大きな影響を受ける前の世代(人口増産計画が本格化してくる1895年以前に生まれた世代のことを指す。)であったために極端に少ない。)
お読みいただき、ありがとうございました。