歴史part1(1944年から1945年)
続き
1944年4月1日ーフランクリン・ルーズベルト大統領が、高血圧性脳出血により急去。
1944年4月15日ーヘンリーウォレス第34代副大統領が臨時大統領に就任。
1944年5月15日ー米英支の3カ国による連名によって、修正カイロ宣言を発表。
ただし、ナチス・ドイツとの戦線を抱えるソ連は、事情を鑑みられることとなり、この「修正カイロ宣言」に参加はしなくて良いとされた。
「リオデジャネイロ会談の際に取り決めされた〈対日参戦〉を行わないことは許されない」
との文も一緒に、ソ連側に伝えられた。
このような条件などもあれど、この「修正カイロ宣言」は、基本的には「太平洋戦争の早期解決を目指すため」という目標の元で、発表されたものだった。
そして、大日本帝国に受諾をするように要請した。
1944年6月25日ー同年5月15日から、連合国から発布された修正カイロ宣言を、東條英機内閣が臨時閣議を開き、そこで「受諾」をすることに決定。
そして、国民及び軍部に対して「諸国民に対しての聖戦終結の大詔の煥発」を、同日に宣布。
また、昭和天皇による玉音放送を、同時に放送することで、軍部の戦意喪失を狙った。
そして、東條英機内閣は、
戦時体制の停止
戦闘行為の停止
武装放棄
の3つの事項を、すべての陸海軍部隊に伝達し、命令。
同日ー全ての帝国陸海軍部隊に対して、現地の連合国軍に投降するよう呼びかけを行い、
「降伏する際は、抵抗するようなことはなきように。」
との降伏を促す文言が全部隊に通達された。
この時、帝国政府は、いわゆる大本営や陸軍省などの在日本軍部に、この重大事を知らせると、阿南陸相などから徹底的に反発や非難をされると分かっていた。
そして、最終的には、急進的な一部の帝国陸海軍部隊によって、coup d'Étatを起こされる事に及ぶと危険視し、又是を確実視していたために、誰にも暴露されないように秘密裏に事を進めていた。
だからこそ、それらの組織から妨害工作されないように上記の諸行動を迅速に決行した。
以下に示すのは、1944年6月25日の昭和天皇による玉音放送である。
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト慾シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歲ヲ閱シ
朕カ陸海將兵ノ勇戰
朕カ百僚有司ノ勵精
朕カ一億衆庶ノ奉公
各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ神州本土ヘト苛烈極メル尋常ナラザル多量ノ爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尙交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破卻スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ義命ノ存スル所
耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ
以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト慾ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克く朕カ意ヲ體セヨ
ここで一つ述べておく。
修正されたカイロ宣言は、
・1895年以降に獲得したすべての領土からの撤退
・一時的な軍の大幅縮小
・日独伊三国同盟からの脱退
・帝国政府並びに皇室を通じた連合国軍による10年間の軍政を認める。
・天皇主権から国民主権への転換
・帝国憲法の改正を行い、新たに民定憲法とすること。
という要求の部分は変わらない。
その代わりとして、
・皇室存続を認める。
・一定の国家主権も認める。
という妥協案も存在している。
しかし、元の宣言より厳しい要求もあり,
・南西諸島全域の連合国による相当期間の統治
・伊豆並びに小笠原諸島全域の連合国による相当期間の統治
・千島列島全域の連合国による相当期間の統治
・本土四島並びに瀬戸内海に存在する3000もの島嶼以外の全島嶼の連合国による相当期間の統治
(ただし、一連の上記に関しては、日本からの連合国軍引き上げ時に、アメリカ合衆国がソ連との内部闘争に勝利を勝ち取ったことにより、上記の諸島群は、引き続きアメリカ軍政下に入ることとなる。)
・鉄道などの主要な交通インフラの連合国による期限付きの管理及び運営
・政府資産の大幅な接収と期限付きの管理及び保全
これらの点が、本来のカイロ宣言とは違うところだと言える。
しかし、軍部や現地部隊はある程度の勝利に持ち込んでの対等での和平を、以前から強く求めていた。
そのために、案の定ではあるが軍部や現地部隊は、「修正カイロ宣言」の受諾を決定したる帝国政府に対して、予想外の大反発。
いや、軍部や現地部隊の反発はある程度予想されていた。
ただ、この大反発が帝国政府中枢部の予想を遥かに超えていたことを除けば。
1944年6月25日ー上記の帝国政府からの要請に対して、
関東軍ー66万人
朝鮮軍ー52万人
満州国軍ー77万人
南樺太駐在軍ー25万人
蒙古聯合自治政府軍ー25万人
和平建国軍ー460万人
汪兆銘政権関係者ー50万人
が大反発を行い、また「造反」を決行した。
この「造反」という行為を決行した事によって、
満州国全域
蒙古聯合自治政府全域
朝鮮半島全域
南樺太全域
のこれら領域を、数日の内に造反大陸日本軍が掌握してしまった。
これにより、彼らは〈天皇陛下の御命令に叛いた叛逆軍〉との汚名が着せられることになった。
この世界の1944年時の残存兵力数は、現実世界の1944年時の残存兵力数と大幅に乖離している。
それには、確固たる根拠を持った理由が3つある。
一つ目は、この世界では、満州国及び大日本帝国へのソ連邦の内政干渉が予想外に活発なため。
例えば、〈東條英機内閣の辞任要求〉などである。
二つ目は、日ソ不可侵条約を結んでいるのにも関わらず、ソ連極東軍を満ソ国境へと配備しており、
「国境警備を頑丈にし、不測の事態に対応する為。」
と一応の理由を言ってはいるが、行動と言動が一致しない為。
三つ目は、1944年の4月中頃から、ソ連極東軍がまるで侵攻する機会を窺っているかのような怪しい動きをしていため。
これらの3つの理由から、自然と大日本帝国及び満州国側も徴兵して、北方のソ連と満州国の国境に軍備や国力をまわさないといけなかった。
また、和平建国軍が、現実の160万人という軍員数とは違い、この世界での軍員数が大幅に増加している事に関しては理由が2つある。
一つ目は、この世界の共匪(中国共産党)の活動が、現実世界と違い大規模であるため。
二つ目は、上記の大規模活動に伴う無差別なテロや殺人が頻発して見受けられ、日本軍占領下地域や中華民国の一般市民の強い恨みや憎しみを大分買ったため。
以上の2つの理由から、和平建国軍は、現実世界と比べて、軍員数及び組織力の面で非常に強力な軍隊へと成長したという訳だ。
1944年6月26日ー日本本土を主要防衛区域としていた60万人の本土護衛軍が「造反」を決行した。
そして、日本列島を脱出することを実行。
これは、本土防衛の要が無くなることを意味していた。
本土の帝国国民は、この叛逆行為に大いに失望した。
少し話が脱線してしまったかもしれない。
しかし、それらの60万人の本土護衛軍は、連合国軍からすれば大脅威であったのにも関わらず、連合国からの攻撃に晒されるわけでもなかった。
なぜなら、造反日本海軍からの大規模な支援を受けていたためである。
それにより、完全無血で本土撤退を成し遂げることに成功。
60万人は、無事に、満州及び朝鮮の造反大陸日本軍と合流することに成功した。
この事件に関しては、
「日本列島守護軍のこれほど大規模な造反を、なぜ帝国政府は阻止することができなかったのか?」
という疑問も、東條英機内閣に対して多く出ると思う。
しかし、事実として、この時は,もう既に帝国海軍の9割以上が造反していた。
さらには、日本周辺海域の制海権は、全て造反大陸日本軍が握ってしまっていたのである。
そして、更に悪いことに、東條英機内閣が「造反行為」に対して、後手後手の対策しか出来なかった。
この事が、これほどまでの大規模な造反が起きた主な理由と言える。
同日ー米英支の3カ国は共同宣言を発表した。
その共同宣言の内容とは、
「ソ連が、1943年12月15日に行われた「リオデジャネイロ会談」で取り決めされた条項(ソ連の対日参戦条項)の不履行を行った。
なので、戦後日本の改革において、一切口を出さないことを要求する。」
これを要求したものだった。
1944年6月27日ー最終的には、河北及び華北地域も連動造反してしまった。
また、支那派遣軍陸上部隊105万人のうち93万人が造反。
帝國政府の中においては、更に混乱が渦巻くことになった。
この時において大規模造反が見られたのには、いくつかの理由がある。
一つ目は、44年の中国戦線は多少苦しい場面も見られた。
しかし、太平洋戦線と比べて順調に勝利を重ねており、少しづつではあるが占領地を拡大させているのに、「停戦」へと踏み切ったことに対する大きな不満の蓄積があったこと
二つ目は、満州国及び蒙古聯合自治政府なども、まだ力強く健在だったこと。
三つ目は、支那派遣軍も健在しているのに、実質的敗戦とも言える「修正カイロ宣言受諾」を、相談無しに勝手に決めたこと。
四つ目は、支那派遣軍中枢部が、その政府の行為を「背信行為」と決めつけ激しく憤怒し、その配下の将兵たちも皆同じ気持ちであったこと。
以上の4つの理由が、大規模造反が起こった理由である。
同日ー支那派遣軍海上部隊7万人もすべて造反。
しかし、支那派遣軍総司令官岡村大将を始めとする残存兵力12万人は、共に政府の方針に従う旨を表明した。
岡村大将の高潔な軍人精神が良い方向へと働いた結果であろう。
その流れで、中華民国軍との停戦手続きを行なう段階に入った。
1944年6月28日ー造反した陸軍部隊及び海軍部隊を含有する造反支那派遣軍100万人は、一斉に急速にすべての兵力を北方へと後退させた。
また、上記の連動した北京や天津周辺一帯に加えて、山東半島の付け根部分やシンフア市-合肥市-信陽市-トウ州市-永済市-延安市以南2キロを境として、それより以北全て(シンフア市-合肥市-信陽市-トウ州市-永済市-延安市も含む)を奪取し、占拠した。
同日ー造反支那派遣軍は、満蒙及び朝鮮に居座る815万の造反大陸日本軍に合流した。
1944年6月30日ー連動した地域を奪還しようと、撤退した南京から北上してきた中華民国軍を、造反大陸日本軍は、人海戦術や電撃戦などの戦術ドクトリンを用いて撃破した。
同日ーソ連は、先の米英支の要求を受諾。
6月28日〜7月12日ー総数約256万点もの文化財は、満州事変中に、
「近々起こりうる戦火から中華の至宝である文化財を安全に保護するため」
として、北京市から南京市へと移されていた。
日中戦争中も、中華民国軍に代わり南京市を統治していた帝国陸軍が徹底保安していた。
そして、実質的敗戦を意味している「停戦」時に、南京市を管轄及び統治していた帝国陸軍が造反。
この際に、全て造反大陸日本軍により持ち去られた。
1944年9月1日ー総数約256万点もの文化財は、新京に建設された〈軍立故宮博物所蔵院〉へと持ち去られた。
そして、現在(2025年)まで厳重保管されており、展示もなされている。
しかし、この時のこの行動により、正式に中華民国政府が保有する歴史的文化財は数百点程度となった。
また、中華人民共和国が保有する歴史的文化財は、1950年代以降の出土品がメインとなった。
6月25日〜7月12日ー蘭領インドネシア・ビルマ・シャム・仏領インドシナ・フィリピン・太平洋諸島の軍も続々と命令を受け入れず造反。
累計85万人もの軍人が造反に参加した。
戦苦の色がだいぶん濃くなってきた東南アジアや太平洋戦線において、これほど戦争継続を訴える造反軍が出たのには、先程と同様に幾つかの理由がある。
一つ目は、自分たちは、戦友や家族を失いながらも、日本にいる家族が幸せになるためと必死で信じて辛いながら戦い続けてきた。
それなのに易々と〈修正カイロ宣言受諾〉という、自分や家族が不利及び恥辱に塗れてしまうかも知れない選択を、あれだけ声高に「聖戦完遂」や「打倒鬼畜米英」を謳ってきて、国民に絶大な苦労を強いてきた東條英機内閣及び政府中枢部が、自らの保身のために易々と取ったこと。
二つ目は、帝国政府は、彼らに名誉も恩給金なども渡してくれなければ、ただ
「帝国はカイロ宣言を受諾した。戦闘停止と武装解除の旨を諸軍に宣下する。」
という通達を、無線やラジオ放送で伝えるだけという兵士にとってみれば、尋常ならざる非道で非情な対応を、当時の帝国政府が非常に愚かであるが行ってしまったこと。
この2つの理由が、主な南方軍の逆鱗に触れたというわけである。
これら85万人の新しい造反者たちは、海路と陸路で一斉に満州や朝鮮を目指した。
海路での運搬についてなのだが、この時期、復活した米英海軍は、ヨーロッパ戦線に全ての海軍戦力を向けており、東南アジアや東太平洋での制海権を握っていなかった。
それにより、東南アジアや東太平洋での制海権は、未だ精強な日本海軍が握っていた。
さらには、その帝国海軍の9割以上が造反している。
そのために、海路で満蒙へと目指した者たちは、無事に、満蒙及び朝鮮へと着くことができた。
また、陸路での運搬に関しては、まだ造反大陸日本軍の悪行を何一つ知らなかった蒋介石総統が、
「戦争が終わった今、反共の砦の為にこの者どもらを生かしておきたい。」
として、敵に塩を送る形で、特別に中華民国軍の軍事車両や鉄道車両などを用いて、連合国や帝国政府に秘密で北京駅まで運搬してくれた。
その為に、陸路で行った者たちも、無事に満州及び朝鮮へと着くことができた。
こうして、海路と陸路での運搬の大成功によって、85万人の造反者たちは、満蒙及び朝鮮へと一人も欠けることなどなく、本当に奇跡的に着くことができた。
1944年7月中ー元憲兵隊及び特別高等警察(略して特高)も、急すぎる日本の停戦及びこれから起こる連合国からの間接的支配という2つの事が受けいれられなかった。
そして、8月31日までに、帝国政府へと造反した反乱軍が蠢く満蒙及び朝鮮に渡航した。
割合としては、どちらも驚異の9割以上であった。
まず、特別高等警察関係者に関してだ。
10万5000人のうち、10万2500人が満蒙及び朝鮮へと秘密裏に渡航した。
次に、陸海軍憲兵隊関係者に関してだ。
35万7000人のうち、35万4500人が満蒙及び朝鮮へと秘密裏に渡航した。
また、連合国軍捕虜となった、
SD(親衛隊情報部〉
国家保安本部(RSHA)
「ゲシュタポ(秘密国家警察)」
「オルポ(秩序警察)」
「クリポ(刑事警察)」
の構成員たちを、造反軍所有の資金と引き換えにして、徹底的に受け入れた。
その受け入れた人数は、なんと24万3000人にも上る。
さて、彼らの後程についても言及しておこう。
言及するのは、東亞連邦が建国された後の事である。
秘密裏に受け入れられた70万人を超える元秘密警察構成員は、東亞連邦政府からの命令により、
「東亞高等特別警察」
を設立することとして、全員加入。
そして、70万人の「東亞高等特別警察」の構成員たちは「影の國民」と呼ばれ、東亞連邦政府が公表している、正式な毎年の人口統計には含まれていない。
また、前職の際に培ったノウハウを活かして、造反軍領内において猛威を振るった。
そして、そのノウハウを後輩たちにしっかりと代々伝授することにより、現在(2025年)に至るまでの長い期間に渡って、国家保安に対して大いなる貢献と活躍をしている。
また、ターゲットとしては、
・共産党
・アナーキスト
・外国スパイ
・汚職政治家
・汚職役人
を主なターゲットとしている。
また、すでに数万人の規模にも渡って、
・共産党員
・アナーキスト
・外国スパイ
などを徹底的に逮捕。
個人や党の活動などを徹底的に弾圧した。
国内の治安維持活動も並行して徹底的に行っている。
この治安維持活動により、次の成果が認められた。
・犯罪事案の激減
・再犯率は5%以下
(犯罪行為に対する極度の厳罰化を行なった為)
これにより、東亞連邦の治安も当時としては世界最高レベルにまで上昇させた。
ただし、今から見れば、些か疑問視されると思われる。
だが、この偉大なる成果は、造反大陸日本軍領内の国民からは特別感謝された。
しかし、次のような問題点が指摘されている。
・拷問や家族を用いた人質などの過度な人権弾圧や不当な理由による逮捕などを、共産党員や共産党以外の無関係な者に対し行ったこと。
・多くの無実の共産党員を苦しませたこと。
・全く不確かな中傷を社会に流布させ、再帰を比較的困難にしたこと。
上記のようなことをしている為に共産党とリベラリストから見れば、完全なる悪の組織である。
また、現代の倫理観においては、そうなるのが必然である。
さらに、旧帝国陸軍防疫給水部や同等な秘密部隊を多数保有。
しかも、人体実験や拷問などを、約半世紀近くにわたって国からの大きな支援を受けながら秘密裏に行っていたことも、非常に大きなマイナスイメージ要因となっている。
話を戻そう。
総勢1000万人の造反大陸日本軍は、広大な領土を占拠した。
そして、日本政府に対して、以下の要求を強く伝えた。
・聖戦完遂
・欧米列強諸国に対しての徹底抗戦
・売国奴らの集まりである東條英機内閣の更迭
この3つの事項を改めて主張した。
また、次のような文言も送信された。
「もし、今我らが伝えた3つの事項が達成されないというのなら、然るべき対応を我ら取る。」
1944年7月中ー帝国本土に向けて「聖戦完遂と徹底抗戦を要求する我ら一致の宣言」を放送した。
こういうプロパガンダ行為を行いながらも、裏では「いざというときにソ連がどさくさに紛れて侵攻してきたとき」のために、次のような対策を講じていた。
・北方のソ連国境地域の要塞化
・軍の新編成
・新兵の高度的訓練
・新兵器の開発及び購入
この4つを、重点的に行った。
さらには、軍内に「死なば諸共」精神の醸成を図った。
1944年7月中ー東南アジアにおいても、既に265万1500平方キロメートルもの広大な領土を、南方造反日本軍が掌握し、その国内統治を開始していた。
さらに、再度植民地化を試みて上陸してきた英蘭軍を撃退していた。
その60万人強の南方造反日本軍もこのとき、造反大陸日本軍と密接に連絡を取り合っており、これが後々に繋がることになる。
そして、造反大陸日本軍と歩調を揃え、帝国政府に対して改めて「聖戦完遂」と「欧米列強諸国に対しての徹底抗戦」を主張した。
1944年7月中ー上記の出来事に対し、列島日本は非常に大きな衝撃を受けた。
それを受けて、帝国政府が主導の下、切り崩し工作やスパイ活動などを行った。
同月ー帝国政府と昭和天皇は、宮城で対策を練り、皇族を新京に送ることを決定。
ただし、南方造反日本軍に対しては「無視」の姿勢を決め込んだ。
昭和天皇のささやかな御心遣いにより、事前決定よりも多い男性の皇族8人を、臨時首都となっている新京に向けて飛行機で送り込んだ。
そして、一気に説得を図ろうとした。
しかし、造反大陸日本軍に匿われてしまった。
スパイから得た情報によると、結末は次のような感じであったとのこと。
1944年7月22日ー匿われてしまった皇族8人は、全員が若く未婚であった。
この偶然の一致を、
「皇統盤石化の為には、とても大いなる好機」
と捉えた造反大陸日本軍の方針により、移住してきた現地のヨーロッパ人女性らと強制的に結婚させられた。
1945年8月中ー累計10人の子どもが、誕生した。
1945年8月15日ー上記の出来事に目をつけた東亞連邦は、宮内省を設立。
10人の皇子及び皇女は、次の目的の下において教育を受けた。
・陛下が日本と東亞連邦の両国の天皇に即位なされたときの陛下の補佐
・皇統を盤石にすること
・皇統が断絶の憂き目にあったときに皇統または皇位を継承できるようにする
この3つの目的の下、非常に厳格なる帝王学を受けた。
ここで一つ余談をしたいと思う。
1945年当時の造反大陸日本軍の1000万人の将兵たちは皆、精神的支柱を、天皇・国家・家族に求めていた。
なのに、愛すべき家族とは離れ離れになってしまった。
更に、絶対に守るべきと固く信じてきた国家は、自分たちを捨て背信行為にひた走るという状況で精神的にとても消耗し擦り切れていた状況だった。
しかし、その時に皇族の方々が自分たちのもとに来て行幸してくださった。
ただし、行幸と言えるのかは甚だ疑問の余地が残るところである。
なぜなら、半ば強制拉致みたいな感じだったからな。
けれど、この事実は、現地将兵の万感や琴線に触れた。
そして、元々深い敬愛と崇拝の対象であった皇室に、さらなる深い敬愛と深い崇拝をするようになった。
だからこそ、10人の皇子が全員誕生した時も、
「日本におられる陛下や皇族の方々並びに我が方におられる皇族や皇子・皇女の方々を我らは身を挺して守る!」
と皇室に対して、更に狂信的と言えるような忠誠を誓ったのである。
また、それと同時に、
「もし、亡きルーズベルトによって支配されているアメリカ合衆国や傀儡東條英機売国内閣の奴らが日本におられる陛下や家族を害するなら、我が軍1000万が命を賭けてでも皇室を守護し欧米諸国を打倒する!」
と海を挟んだ大陸から、帝国政府に向けてまでも長い期間において、発言するようにもなったのである。
それとは別に、血統は同じではあるが。日本本土の皇統とは違う独自の皇統を確立した事と皇統がさらに盤石に安定した事という2つの事実に、はやる愛国心を安定させた。
だが、日本本土に座す皇統が唯一にして絶対であると言う意識や思いだけは、はやる愛国心を安定させたとしだとしても、何一つ変わらなかったのである。
だからこそ、唯一の天皇陛下に対して、苦難を強いてくるアメリカ合衆国や東條英機内閣に対しては、俄然として、強い憎しみや恨みを抱き、次第にそれが国中に蔓延していったのである。
スパイから上記と似たような報告書を提出され、更に、昭和天皇と会談した連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は、天皇陛下を慎重に丁寧に扱うように厳重に部下に命令した。
その命令とともに、造反大陸日本軍に細心の警戒を払った。
また、連合国軍10万人を、北九州から中国地方沿岸にかけて「徹底守護の任務」に任命。
東亞連邦からの刺客やスパイを厳重に警戒したとされる。
これが、後になって判明した情報である。
これで余談は終わりである。
そして、話を戻す。
1944年7月ー東京の第一生命館に、連合国軍最高司令官総司令部が設置された。
「連合国軍最高司令官」には、ダグラス・マッカーサー元帥が任命された。
そして、連合国軍最高司令官総司令部の総人員数は、125万人とされた。
同月ー最初の「連合国軍最高司令官総司令部命令(SCAPIN)による戦後改革」が実施された。
このまま、何もなく改革が次々と実行されていくものと考えられていた。
しかし、大いなる暗雲が立ち込める。
叛乱の火種が多数登場したからだ。
主な叛乱の火種とは、次のような火種である。
・急激な日本の民主化による大きな混乱
・GHQの厳格な統治に対する、民間及び軍部を中心とした大いなる不満の出現。
・天皇及び皇室の財産の殆どを、没収並びに管理するという行動
・上記の連合国の暴力的行動に対して、旧帝国陸海軍などの旧軍や政界及び官界を中心とした非常に強い怒りの声の出現
これらなどが、主な叛乱の火種といえるのである。
同月ー連合国軍最高司令官総司令部による間接統治の開始時から続く厳格な企業活動の統制によって、財閥や国営企業及び民営企業の経営陣や社員及び技術者など合計100万人が、より待遇が良く政治思想信条にも極度に合致している造反大陸日本軍占領地に向け出航した。
そして、日本本土でも、連合国軍最高司令官総司令部による厳格な統治に反発と不満が発生。
1944年7月中ー次第に国民からの不満や反発は蓄積し大きくなった。
ただ、連合国軍将兵が犯罪行為をしないだけでも、幾分現実に比べればマシなのであるがな。
しかし、その矛先は、造反大陸日本軍占領地に対する憧れと希望に変わった。
1944年7月15日ーついに、造反大陸日本軍占領地へと、連合国軍最高司令官総司令部の厳格な統治に反発した350万人もの日本人が、あちら側の強力支援の下、移住を開始。
もちろん予期されていた造反大陸日本海軍の全面的な輸送面での助けにより、44年7月15日から8月15日にかけての約1ヶ月間で達成。
連合国軍最高司令官総司令部は、この動きを、
「日本国民の自由意志に基づく決定であり、これを阻害するような事はしない。」
との声明を発表。
以降に渡り、一切の引き留める行動なども措置されなかった。
1944年7月20日ー急激な民主化によって、帝国に大きな混乱が生じた。
それにより、新たに250万人の日本人が造反大陸日本軍占領地に向けて移住を開始した。
これも、造反大陸日本海軍の全面的な助けにより、7月20日から8月20日にかけてのだいたい1ヶ月間で達成。
合計にして600万人もの人々が、日本列島から流出した。
1944年7月25日ー連合国軍最高司令官総司令部から、帝国政府及び国民に向けて、新たな3つの命令が出されることになった。
それは、
「連合国軍最高司令官への忠誠を誓う事」
「連合国軍最高司令官からの天皇への処置に対するデモ行為の弾圧容認命令」
「連合国軍最高司令官を持ち上げるような発言・出版・放送を行うこと」
というものであった。
しかし、これはどう考えても自分勝手な命令であった。
この、連合国軍最高司令官総司令部からの「理不尽」な命令に対しての帝國国民の反応は、不気味なほどまでの暴動と騒乱の少なさとなって、如実にあらわれた。
これらの主な理由は、
「連合国軍最高司令官総司令部の横柄さや何も対策などしない帝国政府に、見切りをつけた大勢の日本人が、造反大陸日本軍占領地への移民と入植を目指したから。」
と後の専門家からは言われている。
同日ー連合国軍最高司令官総司令部の施策には、造反大陸日本軍も当然ながら大反発。
釜山と豊原の両地域に、陸上部隊を進めるという事態にまで陥った。
また、当時の造反大陸日本軍最高司令官も、
「陛下に多大なる害を加える恐れのある米英人どもは駆逐せねばならない」
と〈総軍司令官演説〉の場で発言した。
阿呆な事を発言するだけなら良かったが、戦艦「金剛」や空母「葛城」など総勢20隻もの軍艦を、日本海や東シナ海へと差し向けるという挑発行為を敢行した。
そして、この時の日本人の造反大陸日本軍占領地への移民数は、2400万人にも及んだ。
あまりの日本人移民の多さに、造反大陸日本軍も、
・臨時輸送艦の大幅建設
・民間漁船及び船舶などの使用
・軍艦及び空母などの〈臨時の輸送艦〉としての使用
などを行って輸送対応にあたった。
しかし、流石の物量を誇る造反大陸日本軍も、この2400万人の新規移民者たちを運び切るのには、44年7月25日から9月25日の約3ヶ月も掛かったという。
また、当時の造反大陸日本軍占領地は、広大にして埋蔵されている豊富な地下資源や保有領土に住む莫大な人口などを背景に、とても物質面的には豊かであった。
そのため、「貧しかった日本人が金持ちになれる」という現象も頻繁に起きていた。
その噂を嗅ぎつけた貧困日本人や造反不参加の帝國軍人が、造反大陸日本軍占領地へと250万人の規模で移民。
これにも、造反大陸日本海軍は至極協力を怠らずに行った。
そして、わずか1ヶ月で250万人をすべて輸送した。
1944年8月1日ー帝国政府は〈武装解除〉と〈領土返還〉をするように、造反軍に対して再度強く命令。
1944年8月2日ー東條英機首相を筆頭とした内閣声明「一〇〇〇万人の叛乱軍人に対しての声明」を、大陸の造反大陸日本軍と南方造反軍に向け煥発。
「今すぐ武装解除をなし、帝国軍人ならば上の命令には従え」
という、非常に強い口調で大陸及び南方に対して、放送した。
しかし、造反大陸日本軍と南方造反軍は、誰も靡かなかった。
この時、離脱した兵士らは0人と確定づけられている。
その理由とは、次の理由である。
それは、ひとえに彼らに、
・「天皇陛下がいかなることをおっしゃられようともそれは言わされているのであり、陛下の大御心ではない」と心底から信じていた者
・日本政府に「徹底抗戦」並びに「打倒鬼畜米英」並びに「聖戦完遂」を改めて強く主張したいと考えている者
・欧米諸国に対して強い恨みや憎しみを抱いている者
・日本や皇室・陛下のためならば命を捧げても決死守護したいと心底から思う者
・家族や友達を敵から守りたいと思う者
・満蒙や朝鮮にとてつもなく強い思い入れがあり、死んでも守りたいと強く考える者
これらが造反大陸軍の大多数を占めていたからだといわれている。
1944年8月5日ー事態の停滞化を見た帝國政府は、叛乱軍説得を断念。
以降、日本海を挟んで、
「この馬鹿どもめ、造反するな」
「日本に戻れ!」
という帝国本土側からの言葉だけではなく、
「停戦認めず」
「徹底抗戦せよ!」
などの大陸側からの罵詈雑言が数十年にわたって繰り返し発言されるだけとなった。
また、それまでに行われていた平和交渉も打ち切られた。
これにより、しばらくの関係停滞と強い緊張を見せる様相となった。
今とは違い、まだ大陸部分を支配していた往時の中華民国も、総勢1000万の造反大陸日本軍には敵わないと冷静に判断。
中華民国の地図には、中国東北部を一応プロパガンダとして地図に含ませてはいた。
しかし、事実上において、造反大陸日本軍による占拠と統治を認めているというような奇妙な東アジア状況となっていた。
その事態が急変したのは1944年8月半ばのことであった。
1944年7月中旬ーソ連邦の独裁者であるヨシフ・スターリンは、アジア情勢の混乱に乗じての満州及び朝鮮半島を占領し、そこに「大東亜人民共和国」と題した共産主義国家を確立しようと画策していた。
そして、ナチス・ドイツ国との大きな戦役であったカメネツ=ポドリスキー包囲戦を勝利に導いたことにより、戦略的余裕と人的余裕がソ連邦にはあった。
1944年8月15日ー上記の目標を「錦の御旗」にして掲げて、ソ連軍40万人を用いて造反大陸日本軍統治領へと侵攻。
この人数は、総数1000万の軍員数を誇っている造反大陸日本軍に対して、あまりにも少なく、やる気があるのかと感じさせるほどのものだった。
それもそのはずで、当時のソ連邦中枢部が1000万の造反大陸日本軍の大多数は貧相な銃装備を装着或いは大幅な人数の水増しをしていると睨んでのことで、40万だったという。
しかし、ソ連邦の予測は大幅に外れることとなる。
同日ー造反大陸日本軍は、帝国政府に対して、造反大陸日本軍の〈後方支援基地〉となってくれるよう要請。
この際、帝国政府内から根強い反発意見が続出した。
しかし、天皇の御心遣いにより、日本列島を、造反大陸日本軍の〈後方支援基地〉とする事を決定。
この旨を、造反大陸日本軍へと伝達した。
以降、造反大陸日本軍から、各分野へと夥しい量の注文が到来。
以降、〈昭和特需〉と呼ばれる超好景気に沸いた。
1944年9月初旬ーソ連軍の快進撃で圧倒的優位に進んでいた。
南樺太は全土占領されてしまっており、全ての南樺太居住住民は、全財産を載せ込んで朝鮮半島に逃げ込んでいる状況であった。
満州においても、チチハル市より以北についてはソ連軍が占領するという状況にまで進んでしまっていた。
このままいけば、無事に造反大陸日本軍が支配する全領土を占領できるかのように思われたが、元関東軍を中心とする精鋭部隊が、塹壕戦と要塞戦両方を用いた戦術を展開。
1944年9月12日ーハイラルの戦いにおいて、ソ連軍を旧関東軍を中心とする精鋭部隊が回り込み包囲するようにして各個撃破したことにより、戦局が造反大陸日本軍有利に転移することになった。
それから反撃に転じた。
1944年10月1日ー満州里の戦いでは、右翼から左翼に回り込みソ連軍本隊約35万人を包囲。
約35万人は投降せざるを得ない状態になり、投降。
そして、この頃には造反大陸日本軍は戦争前の全領土を回復した。
だが、そこで攻勢をやめる事はしなかった。
そこから進撃し、ハバロフスクやブラゴエシチュンスクなどの大都市を攻略。
また、外満州全域とスタノヴォイ山脈以南の外満州を除くすべての領土、アギンスコエ-カリムスコエ-ブグンダ-カラカン-スラドニエカラル-チュリマン-ジャナ周辺一帯、北樺太を奪取して占領をした。
これに焦ったソ連政府は造反大陸日本軍司令官と講和の交渉を開始。
造反大陸日本軍司令官は、
・占領しているすべてのソ連領土の割譲を要求。
・新規技術の提供
などを求め、その代わりに、
・ソ連主導の同盟に参加する同盟国となること。
(これは、のちに無効とされた)
・ソ連軍の永久駐在を承認並びに支援すること。
・在蘇ユダヤ人と全ヨーロッパ人捕虜の全移送をすること。
(人口と影響力などを増加及び拡大するため)
・民主主義及び資本主義を特例で認める代わりに、ソ連邦ならびに同盟国の商業施設や産業施設に減税や補助金などの優遇的政策を、5年間採用すること。
ただし、これには、日本やアメリカ・イギリス等や自国の商業・産業においても特別に減税や補助金などの優遇政策を進出してから5年間とることもソ連からの絶対条件として含まれた。
その理由としては、当時のソ連もアメリカや日本の元気な労働力と革新的な考えや民主主義の競争主義によって強く育つ土壌や起業家や技術者、海外投資による潤沢な資金や新しい新技術が、造反大陸日本軍領内において導入及び投入されることによる、同盟国の大幅な経済成長を大いに期待していた為であった。
更には、その良い経済的影響がソ連邦並びにwto諸国に波及することを期待したためと言われている。
これらの条項を盛り込んだ講和案は、スターリンの元に届けられて承認に及んだ。
1944年11月1日ー新京和平条約締結。
これらの戦闘による死者と負傷者は、
ソ連側ー20万人負傷
2万人死亡
造日側ー10万人負傷
3万人死亡
を数えるという非常に惨憺たる戦争となってしまった。
この時、この程度の死傷者数で済んだのは、次のような確かな理由がある。
ソ連側が、西部において、ナチス・ドイツとの超大規模な戦線を抱えており、二正面作戦は遂行できないと、スターリン書記長及びソ連軍上層部が、総合的に鑑みて判断したからである。
もし、ソ連が西部戦線を放棄してまでも、本気を出していたとしたならば、両軍の死傷者数を合わせて1000万は軽く降らなかっただろうと言われる。
この条約により、造反大陸日本軍は、
・148万6010平方キロメートルに及ぶ広大な大地
・豊富な天然資源
・チェルノーゼム地帯
・当該地域に居住しているロシア民族
これらを獲得することとなった。
さらに、今までの造反大陸日本軍の土地面積は、271万8990平方キロメートルであった。
これが、「新京和平条約」によって、148万6010平方キロメートルもの土地追加が行われた。
そうして、総面積は420万5000平方キロメートルとなった。
これは、昔でも今でも世界で10番以内に入るくらい巨大な面積であった。
やはり、当時の帝国にとっては、この戦争は〈類い稀なる幸運〉だったと言わざるを得ない
なぜなら、この戦争によって、先述の〈昭和特需〉が発生したからである。
この〈昭和特需〉は、造反大陸日本軍とソ連との戦争が終了した後も、3年半もの間続いた〈経済発展の起爆剤〉と言うべきような出来事であった。
では、具体的に見てみよう。
1ー重工業(兵器製造・車両製造・構造部材)
重工業は戦時経済の中核として最も著しく拡大した分野である。
戦車、戦闘機、装甲車、自走砲、対空砲などの兵器の製造に関しての需要は、毎月数千両単位での増産が求められる程にまで、拡大していった。
こうした要求に応えるため、神戸・名古屋・北九州などの重工業都市では、既存の工場が拡張。
それに留まらず、新設の工場までもが続々と建設される事態となった。
溶鉱炉は昼夜を問わず稼働し、労働者も連勤が当たり前となった。
特に、鉄鋼材の圧延・鋳造・鍛造ラインはフル稼働となった。
そして、兵器製造に不可欠である
・装甲板
・主砲砲身
・エンジンブロック
・履帯
などは、機械強度と軽量化の両立を求められた。
その為、アメリカ合衆国からの高度な合金技術が逐次投入。
その後の日本の金属材料科学の発展にも寄与した。
また、溶接技術や自動加工機械も飛躍的に進化。
日本製の戦車は、ソ連製に劣らぬ機動性と火力を誇るようになった。
主な製品ー戦車砲身、航空機骨格、装甲車の車体、砲弾装填装置
主な都市ー神戸、名古屋、小倉、横須賀
技術革新、自動旋盤、高周波焼入れ技術、大型鍛造機導入
労働力ー動員された男性労働者に加え、女性や学徒、復員してきた軍人までが動員された
2ー造船業(輸送艦・潜水艦・油槽船)
造反大陸日本軍の広大な戦線を支えるため、物資・兵員輸送の中核を担ったのが造船業である。
特に**兵員輸送艦、補給艦、潜水艦、油槽船**は絶え間なく建造。
その設計には、三菱などの軍需企業の蓄積されたノウハウが活用された。
また、呉や舞鶴などの一大軍港では、10万人規模の労働者が動員。
各ドックは1隻でも多くの艦艇を送り出すべく、24時間体制のシフト勤務で稼働した。
溶接式船体構造の採用により、従来のリベット工法よりも建造速度が向上。
大型輸送船は30日以内での進水が可能となった。
これに伴い、海運インフラの中枢としての日本の地位が確立された。
主な製品ー3000〜10000トン級貨物船、兵站潜水艦、補給艦、タンカー
使用技術ーアーク溶接、鋼板成形機、船体モジュール工法
港湾ー長崎、横浜、呉、函館、小樽、佐世保
社会的影響ー漁業従事者や若年層までもが徴用対象となった
3ー化学工業(爆薬・合成ゴム・潤滑油・塗料)
戦争において最も危険かつ必要不可欠なのが爆薬と化学製品である。
造反大陸日本軍の作戦計画に沿って、日本列島の各地において、
・硝酸
・トルエン
・ピクリン酸
・合成ゴム
・潤滑油
・染料
・航空用塗料
の大量生産が行われた。
特に、京浜工業地帯では、化学工場が次々と拡張。
京浜工業地帯全体が“火薬庫”と化した。
しかも、爆薬類は兵器に使用されるだけでなかった。
ソ連邦のトンネル施設や鉄道への破壊工作にも用いられ、前線と直結していた。
合成ゴム(特にブタジエン系ゴム)は、戦時下で天然ゴムの供給が断たれた中でタイヤ製造やシーリング用途に重宝されることになったという歴史がある。
それが戦後も続いた為、合成ゴムの国産化比率が90%を突破した。
爆薬ーピクリン酸、TNT、ニトログリセリン
合成製品ー合成ゴム、合成樹脂(フェノール系)、潤滑油
医療補助品ー消毒液、接着剤、脱臭剤
安全対策ー工場の地下化、気化爆発防止施設の導入
4ー電子工業(無線機・真空管・計算装置)
造反大陸日本軍は、アメリカ合衆国軍を凌駕する高度な電子戦能力を構築する必要があった。
そして、その中枢を日本の電子工業が担った。
特に**軍用無線機、暗号通信装置、レーダー、真空管、電子計算装置(初期型コンピュータ)**の開発・生産が進められた。
また、東京・大阪・名古屋では、大手電機メーカーが帝国政府からの要請により技術者を集結。
日本初のトランジスタ試作がこの時期に密かに行われたともされる。
・無線機器の高出力化
・レーダーの高解像度化
この二つがソ連の電子妨害を上回る性能を示し、戦局を有利に導いた。
主な製品ー短波帯軍用無線機、モールス変調器、真空管、周波数制御装置
人材ー帝大出身の物理学者・電気工学者が動員
技術転用ー将来の家庭用ラジオ・テレビに直結
5ー農業・食品加工業(兵糧・保存食)
兵士の胃袋を支える農業と食品加工業は、静かなる戦線とも称される。
信州、越後、東北各地の農村では、戦時から引き続き行われている配給制度の下で、米、大豆、麦、芋類の増産運動が推進。
徴農制度によって若年層も農地に動員された。
結果としては、農地改革によって生産性が急激に増加した為に、造反大陸日本軍への食糧流通は捗った。
加工食品業では、乾燥飯、味噌、缶詰、ビスケット、干物、漬物が大量に製造。
保存性の高さとカロリー重視が命題とされた。
主な食糧ー乾燥米、戦用缶詰、味噌、発酵漬物、ビスケット
主な繊維品ー軍服用綿布、毛布、包帯、靴下
動員対象ー女学生、農村女性、老人会
政府施策ー農地配分見直し、農業協同組合の戦時統合
6ー医療・製薬業(傷病兵治療・衛生用品)
元々、戦地から運搬する兵士や戦線での負傷者の治療のため、医療・製薬分野も軍需化した。
京都と大阪の大学附属病院では、負傷兵専用病棟が増設。
医学生は、実地治療を通じて前線医療の技能を獲得した。
製薬業では**抗生物質(ストレプトマイシン、ペニシリン)**の国産化が急務。
理化学研究所などが全力で取り組んだ。
医薬品ー抗生物質、消毒薬、鎮痛剤、包帯薬
医療機材ー注射器、担架、人工呼吸装置
衛生用品ー石鹸、リネン、ガーゼ、体温計
影響ー戦後の国民皆保険制度の先駆け
此処からは、さらに〈昭和特需〉による各産業への影響について詳細に書いていきたい。
なので、書き方が今迄とは違い大きく変化する。
その為。理解の程をよろしく頼みたい。
7ーエネルギー分野
7-1.石炭産業ー陸海軍直轄による坑内掘削強化と炭鉱労働動員の極限化
まず第一に、日本のエネルギー供給の基幹を担ったのは、言うまでもなく石炭である。
九州地方と北海道の空知・釧路炭田は、すでに1930年代末から国家による集中開発が進められていた。
しかし、1944年からの戦争特需は、その生産体制を更に過激な水準にまで引き上げることとなった。
特に、造反大陸日本軍が、満洲・樺太で大規模攻勢を展開するなかで、鉄鋼・機械・化学産業が一挙にフル稼働を強いられた。
その結果、発電所や製鉄炉などで使用される燃料炭の需要が爆発的に増加した。
炭鉱の掘削作業は、帝国政府の直轄とされた。
また、帝国海軍工廠系の技術者や技師団が動員。
・地質調査
・坑道設計
・排水工事
・空気循環
の合理化を進めた。
さらに、生産効率向上のために、以下のような措置が実施された。
・炭鉱への電力供給網の再整備(北海道電力と九州電力の送電網が軍資材優先で切り替えられた)
・陸軍工兵部隊による強制労働用バラックの建設と、朝鮮・台湾からの徴用労働者20万人規模の配置
・石炭ベルトコンベアの設置、選炭設備の増強による石炭品質の統一管理
1944年10月には、全国の月間石炭生産量が780万トンに到達。
1939年のピーク(月間590万トン)をはるかに超えた。
この内、約35%が戦時軍需用(工業炉・発電・輸送用)として使用。
民間の暖房用・家庭用炭の供給は著しく削減される事となり、「配給炭」という概念が本格導入されることとなったのだ。
7-2. 水力発電:既存ダムの稼働率最大化と準急拡張政策の実施
外部からのエネルギー供給が不安定な状況下で、国内自給可能な電力源として水力発電が再評価。
大規模なダム運用が軍需生産を下支えした。
特に、信濃川、天竜川、阿武隈川流域に設置された発電所群は、関東・中部・東北の軍需工業地帯へと安定的に電力を供給する生命線となった。
各電力会社(関東配電、東邦電力、東北電力など)は、軍の指導のもと、以下のような取り組みを強化した。
・既設ダム(塩沢発電所・新豊根ダム・御所川発電所など)の貯水率を極限まで効率化。
放水サイクルを軍用基準に再設計。
・豪雪期の発電減少を補うための「水系横断送電ルート」の整備(長野〜新潟間、岐阜〜静岡間)
・水力発電所への優先燃料供給制度の導入により、整備・保守の停滞を回避
結果として、日本全体の電力供給量のうち約43%が水力発電由来とされる程にまで上昇。
電化された軍需産業の安定運用に貢献した。
7-3. 火力発電:老朽設備の再稼働とコークス利用比率の上昇
しかし、やはり水力のみでは膨大な戦時需要を賄いきれない。
都市部を中心に火力発電の再整備が急務となった。
戦前に廃止された旧式の石炭火力発電所(名古屋・川崎・大阪など)は一時的に再稼働。
短期使用を前提に保守部品を現地生産する体制が整えられた。
また、電力効率の向上のため、以下のような技術的措置が採用された。
・高圧タービン型火力発電機の導入。
そして、そのための鋼材・潤滑油の特別配給
・産業用火力発電所へのコークス燃料転用(石炭よりも発熱量が高く、排煙処理が容易)
・排熱再利用システムの導入(製鉄所と併設した火力発電所において実施)
これにより、火力発電の総発電量は1943年比で約1.4倍となり、電力の地域間格差を是正しつつ、重工業・化学工業に不可欠な安定電源を供給し続けた。
7-4. 液体燃料:石油不足への対応と代替燃料技術の加速
太平洋側からの石油輸入が未だ制限される中、日本は1944年において深刻な液体燃料不足に直面した。
この問題に対処するため、国家は合成燃料技術への本格投資を開始した。
特に、満洲由来の石炭液化技術(フィッシャー・トロプシュ法)は軍事優先で導入。
また、以下のような形で代替燃料政策が実施された。
・昭和炭化工業及び第一合成燃料などにおける石炭液化設備の拡張。
そして、合成ガソリン製造の国家プロジェクト化
・木炭車の普及推進ー1944年中に約18万台の木炭ガス発生装置が陸運業界に導入。
地方農村でも運搬機能が維持された
・植物油(ヒマワリ油・ヤシ油)を用いた飛行機燃料試験も実施。
愛知航空製作所では実機実験が行われた。
これらの代替燃料により、航空燃料・戦車用燃料の20〜30%を国産でまかなうことに成功。
軍事行動の連続性を維持した。
7-5. 交通用燃料:鉄道・海運・航空の燃料分配体制の再構築
最後に、戦時下の交通・運輸インフラの維持に不可欠であった交通用燃料の配分政策が注目される。
とくに国鉄は、全国規模の物資輸送計画に基づいて、燃料配給の優先順位を以下のように再構築した。
・石炭配給の優先対象を蒸気機関車へと集中(旅客列車の本数は抑制、貨物列車が倍増)
・港湾都市の臨港鉄道には、特別石炭供給線(例:門司港〜博多〜佐世保港)が設置され、港湾輸送と鉄道輸送の連携が強化された
・航空燃料の配給は軍専用とされ、民間航空は原則廃止状態となった
これにより、燃料配分の軍事優先が徹底。
全国的な兵站網が極めて高密度に維持された。
1944年10月には、東京〜小倉間の貨物列車運行数が平時の3倍となり、造反大陸日本軍へと運ぶ戦争特需物資の迅速な輸送が可能となっていた。
8ーガラス産業
8-1. ガラス産業の概要と構造的変化
戦前における日本のガラス産業は、主に日用品および建築用途に供する製品の生産に特化していた。
いわゆる「民生中心型」産業の一つとして位置づけだ。
東京や大阪などの大都市圏には、中小規模の吹きガラス工場や機械成形工場が数多く点在。
・食器
・薬瓶
・建築用窓ガラス
・照明器具カバー
・化粧瓶
といった雑貨類を製造していた。
これらは、家庭の暮らしを支える生活資材として不可欠なものであった。
しかし、
1937年ー日中戦争開戦
1941年12月8日ー太平洋戦争勃発
これらの歴史的事件を経て、ガラスという素材の国家的価値は一変する。
そして、造反大陸日本軍とソ連との戦争が進展していくと共に、
・砲塔
・無線通信機器
・照準器
・潜望鏡
といった各種軍需装備には、
・透明性
・耐衝撃性
・耐熱性
・絶縁性
を兼ね備えた特殊用途ガラスの供給が不可欠となった。
単に「透明な素材」であるというだけでない。
光の屈折、熱膨張係数、化学的安定性といった物理化学的特性が、
・兵器産業
・輸送産業
・通信産業
・医療産業
といった各分野で重視され始め、ガラス産業は「軍需対応型の基幹素材供給産業」へと変貌してゆく。
とりわけ注目されたのは、
・風防用強化ガラス
・真空管用耐熱ガラス
・照準器
・レンズ用光学ガラス
・注射器
・試験管
などの医療理化学用ガラスなどである。
これらは従来の技術や設備では製造困難であった。
なぜなら、
・大量生産体制の整備
・高品位な素材調達
・熟練工の確保
・軍需優先の配給体制
・学術研究との連携
これら全てが不可欠であった為だった。
そのため、大資本系列の日本硝子工業や旭硝子といった財閥系企業が、連合国軍最高司令官総司令部及び帝国政府の命令や指導のもとで、中核的な生産母体となった。
これ以降、技術革新と工場再編を主導することになる。
このようにして、ガラス産業は戦時体制下で極めて戦略的な地位を獲得。
従来の「民需的で零細的」な性格から「国家総力戦体制に組み込まれた高度素材産業」へと、根本的な転換と拡大を遂げたのである。
8-2. 軍需向け特殊用途ガラスの爆発的需要と生産体制の再編
以下に、1944年において生産と供給がとくに重視されたガラス製品群を用途別に分類。
それぞれの技術的特徴と生産体制の具体的変化を記す。
8-2-1. 軍用航空機・装甲車輌向けガラス
大日本帝国陸海軍の主要な航空戦力の、
・零式艦上戦闘機
・一式戦闘機「隼」
・二式複座戦闘機「屠龍」
などに搭載される風防ガラスは、
・速度
・高度
・衝撃
のこれら3つの事に耐える強化構造が求められた。
その為、欧米に倣って多層積層型やケミカル強化型が導入された。
戦後資料によれば、日本の航空機風防ガラスは最大で14mm厚に到達。
鉄分を徹底的に除去した高透明度ガラスを層状に圧着していた。
また、九七式中戦車・九五式軽戦車などの装甲車輌では、狭小スリット窓に用いる防弾ガラスが開発。
銃弾貫通を防ぐために鉛入りガラスや複層型防弾ガラスが用いられた。
これらの製品は、単なる溶解と成形だけでなかった。
屈折率や応力分布のみならず、熱膨張係数の精密制御が大分必要とされる。
その為、従来の町工場的なガラス工場では製造困難であった。
8-2-2. 医療・衛生・科学用途ガラス
造反大陸日本軍の戦線拡大に伴っての負傷兵の急増や防疫活動の強化により、
・注射器
・アンプル
・薬瓶
・ビーカー
・試験管
などの医療理化学用ガラスの需要が爆発的に増加した。
特に、
・陸軍軍医学校
・関東軍防疫給水部
・関東軍防疫部
などでは、高精度なホウケイ酸ガラス器具が求められた。
それのみならず、更に上乗せして、温度変化や化学薬品に耐える性能が求められた。
これらの製品は、ガラス吹き職人の手工芸的技術に依存するものもあった。
しかし、一部は自動成形機によって工業的に量産。
旭硝子や日本硝子工業の研究部門が設計を主導した。
また、熱処理後の応力除去工程が非常に重要であり、わずかな内部歪みが割れやすさに直結する。
その為、恒温炉でのアニーリング作業も並行して行われた。
8-2-3. 通信・電波兵器・光学装備用部材
軍需通信機器には、
・真空管を保護するためのガラスチューブ
・封止ガラス
・測距儀
・潜望鏡
・双眼鏡
などの光学兵器部品としてのレンズ用ガラスが不可欠であった。
これらは高い透明性だけでなく、極めて正確な屈折率と分散率の管理が求められた。
日本光学工業(現ニコン)
旭光学(現ペンタックス)
などとガラス業界との協働体制が構築された。
さらに、対空探照灯や艦船用信号灯のカバーガラスなど、大型で熱に強く割れにくいガラス製品が、造反大陸日本軍が要請。
これらには、厚板強化ガラスや鉛入り高屈折ガラスが使用された。
また、高熱環境下でも光学性能を損なわないよう、石英混入型のガラスなども開発された記録がある。
8-3. 原材料供給と資源制約ー石英砂・ソーダ灰・石炭
この時のガラス産業にとって最大の課題の一つは、原材料の安定供給であった。
以下に主な素材と調達状況を示す。
・石英砂(硅砂)
日本国内では、三重県亀山・千葉県君津・岡山県美作地方が高品質な石英砂の産地。
戦時中は、軍需優先配給制によって大口契約が組まれた。
輸送手段には専用貨車や直通トラックが使われ、工場と鉱山との連携が強化された。
・ソーダ灰(炭酸ナトリウム)
従来の輸入に頼る構造から、日本曹達(日曹)と日窒コンツェルンが代替化学合成に注力。
戦時体制下における合成化学との融合が進展。
苛性ソーダ・重曹・石灰石を活用した国産製法が確立された。
・石炭
高温融解炉の燃料としては筑豊炭田・常磐炭田からの優先供給がなされていた。
余りにも、夥しい注文がやってくる為、工場側が独自に木炭窯や廃材利用炉を開発する動きも見られた。
8-4. 地域分布と生産拠点の軍需再編
主力企業の工場再編は次の通りである。
・旭硝子(川崎・姫路)
航空機風防・光学装備用ガラスを生産。
特に、川崎工場においては、ドンドンと生産を増産していく必要にあった。
その為、工場規模を順次拡大していった。
だからこそ、〈昭和特需〉が終了した頃においては、一片4kmの超巨大な工場が既に完成。
この大きなガラス工場は、世界からも驚愕された。
・日本硝子工業(尼崎・鳥取)
理化学用ガラス器具や真空管部品の国内主力工場を鳥取県に設置。
将来の硝子機材の復興基盤となる。
・住友硝子(呉・広島)
海軍工廠隣接地であり、潜水艦用潜望鏡や艦船レンズカバーなどを集中製造。
8-5. 民生用製品の制限と代用材の登場
生活用品としてのガラスは、以下のように激減。
・灯火カバーは紙製や布製へ
・窓ガラスはオイルペーパー貼りに切替
・薬瓶やコップは陶器や金属に置換
特に、内地都市部では、ツバメやトキなどにあの飛来によるガラス飛散被害防止の観点から、窓をあらかじめ取り外す家庭すら現れた。
その家庭においては、生活の「透明性」が暫くは喪失。
衛生や心理面に深刻な影響を及ぼした。
9-製紙産業
9-1.需要増大の背景と用途の多様化
1944年からの〈昭和特需〉により、軍需品の包装や物資の保護に必要な段ボール箱や紙袋の生産が急増した。
また、兵站での輸送時に物資が破損しないよう、高強度の包装資材が求められた。
これを受けて、製紙メーカーは強度試験を繰り返し実施した。
さらに、軍用機関の文書や作戦計画書のための耐久性の高い紙も必要となり、製紙産業の製品ラインは多岐にわたった。
これに伴い、製紙業界は短期間で製品開発と生産体制の拡充を迫られた。
また、軍事用途以外にも、修正カイロ宣言による戦争の終結に伴う国内の物流流通の活性化により、日用品や食糧の包装にも紙製品が多用。
繊維や食品産業とも連動した需要が拡大した。
包装材の軽量化は輸送コストの削減に直結。
これは経済的にも重要な課題となった。
こうした背景のなか、製紙産業は単なる原材料の供給にとどまらず、戦略物資としての位置づけを確立。
国家総動員体制の中核を担った。
また、戦時下において施行されていた資材統制令により、包装紙の無駄遣いは厳しく制限された。
その為、設計段階から効率的な資源利用が求められた。
たとえば、同一サイズの段ボール箱を大量生産しやすくするためのモジュール設計が推進。
製品統一による物流の効率化も進んだ。
これにより、供給側と需要側双方での無駄が大幅に削減されたことは、後の製紙産業の拡大にも大きな示唆を与えをことになった。
9-2.原料調達とリサイクル体制の強化
製紙原料となるパルプは、太平洋戦争による資源制約の影響を未だ受けており輸入が困難となった。
その為、国内資源の最大活用が急務となった。
北海道の広大な森林資源を中心に伐採及び植林が増加。
また古紙回収率も上昇。
家庭や企業からの古紙回収ネットワークは全国的に整備。
リサイクル利用率は前年の1.5倍に伸びた。
帝国政府は製紙原料の節約と安定確保のため、以下の政策を打ち出した。
・古紙回収の義務化と監督強化ー学校や公共施設に回収ボックスを設置。
近辺の地域住民の協力を徹底的に促した。
・製紙工場への原料配給の優先順位設定ー軍需関連企業への供給を最優先。
民需はそれに続いた。
・木材伐採の効率化と森林管理の強化ー従来の伐採方法から伐根処理や人工林整備などの技術導入を推進。
資源の持続可能性を意識した管理体制が確立された。
これらの政策の下、製紙業は持続的な生産基盤を確立。
軍需需要を支える体制を構築した。
だが、原料不足は常にリスクとして付きまとっており、原料調達に関わる産地間の競争や労働力の奪い合いも激化した。
その為、各工場は協調と競争の狭間で生産力強化に努めた。
9-3.製造技術の革新と生産効率の向上
苫小牧製紙を中心とする主要工場では、新型の軽量包装材「強化クラフト紙」の開発に成功。
輸送時の耐久性と軽量化の両立を達成した。
この技術革新は、東亞連邦向けの大量輸出契約を実現。
日本の製紙業界全体の技術水準を押し上げた。
また、それのみならず、機械設備の自動化と省力化も進展。
作業員の不足を補うため、ラインの連続稼働が推進。
日夜三交代制を敷いて生産量を最大化した。
特に、製紙の抄紙機に対する改良が多く実施。
紙の均質性と品質管理が徹底された。
そして、工場内部の品質検査システムも高度化。
紙の厚みや吸水率などのパラメータをリアルタイムで監視できる設備が導入された。
これにより、不良品率は著しく低下。
納品後の返品や再加工の手間が削減された。
生産ラインのデータ化は当時としては画期的であり、後の工業自動化技術の基礎となった。
それに加えて、戦況の変動に伴う緊急生産指令に対応する為、工場は柔軟な製品切り替え能力も強化。
包装材から文書用紙、新聞用紙まで多種多様な紙製品を短期間で製造できるライン構成を追求した。
こうした努力により、〈昭和特需〉の嬉しい混乱の中でも安定供給を維持し続けた。
9-4.地域別の特徴と物流体制
北海道ー広大な森林資源に恵まれ、原料調達と工場稼働の両面で中心的役割を果たした。
苫小牧、釧路の工場群が連携。
原料パルプの安定供給と製品出荷のハブ機能を担った。
冷涼な気候は、紙の乾燥工程に好影響を付与。
高品質な製品を安定的に生産できた。
港湾施設も整備され、製品は海路で東亞連邦沿岸の各港へ輸送された。
東北(岩手・宮城)ー古紙回収と再利用技術の拠点。
古紙の品質管理と分別技術で効率的な原料供給網を形成。
地域住民の協力による古紙回収キャンペーンが活発化。
また、地域の産業と生活が密接に結びついた。
東北地方の製紙工場は、山間部の森林資源を有効活用。
地域経済の基盤となった。
関東(千葉・茨城)ー首都圏近郊の物流拠点として、包装材の需要が最も集中。
港湾施設を活用し、東亞連邦および国内各地への出荷が活発化。
鉄道やトラック輸送との連携が密接であり、製紙製品の供給は流通インフラの要所として重要視された。
流通経路の最適化が強く求められ、複数の製紙会社が協調体制を築いた。
物流面では、鉄道輸送が主役であった。
しかし、他産業の成長による鉄道輸送力逼迫の中、トラック輸送や港湾との連携強化も図られた。
各地域の工場は、連絡会議を設置。
需給バランスの調整や緊急時の供給ルート確保に努めた。
これにより、工場間の生産調整と原料移動が円滑に進んだ。
9-5.戦時統制と企業の役割変化
製紙産業は、戦時から続いていた統制経済の中で重要な役割を担い、製紙企業は単なる利益追求から国家の総力戦遂行の担い手へと変容した。
帝国政府は、各種の製紙企業に対し、
・統制価格の撤廃
・配給量の適切な配分
・生産目標の遵守
・帝国政府からの投資金付与
を通達。
これにより、企業の経営判断は再び自由化。
軍需物資の供給確保が最優先となった。
企業内でも労働組合との連携が強化。
労働者動員の効率化や生産性向上が進められた。
教育訓練プログラムが充実する事となり、若年労働者や女性労働者の活用が推進された。
これに伴って、女性の社会進出が戦時中に大きく進展。
それは、製紙業界でも重要な労働力となった。
また、技術者や管理職の動員も開始。
前線で必要とされる物資の生産ラインの最適化が図られた。
一応、製紙企業は、国策に協力する形で研究開発を加速。
新材料の探索や製造工程の革新にリソースを集中した。
こうした企業の変化は、戦後の産業構造にも大きな影響を及ぼすこととなった。
9-6.技術交流と国際競争力の強化
製紙産業は、アメリカ合衆国との技術交流を積極的に推進。
先進的な製紙技術の導入と共同研究を行った。
更に、アメリカ合衆国の広大な森林資源や市場規模を背景に、両者の協力は技術革新と製品多様化を促進した。
特に、強化クラフト紙の生産技術や高速抄紙機の自動化技術は相互に共有。
品質向上と生産効率の向上に寄与した。
また、国際規格に適合した製品開発も推進。
戦後の世界市場での競争力強化につながった。
さらに、製紙業界は国際的な展示会や技術フォーラムに積極的に参加。
海外の先端技術や市場動向を吸収。
これにより、技術開発の国際化とグローバルスタンダードへの適応が進んだ。
こうした取り組みは、日本の産業再編と経済復興において製紙産業が重要な役割を果たす基盤となり、国際競争力の確立に向けた大きな一歩となった。
10ー建設産業
10-1.戦時下の建設産業の役割と背景
造反大陸日本軍とソ連の戦争は、日本の産業構造に劇的な変化をもたらした。
それは建設産業も例外ではなく、その大きな影響を受けた。
上記の戦争の激化により、軍需工場の急速な拡張が全国の主要都市で求められた。
これにより、工場の建設だけでなく、それに付随する労働者の住宅、交通インフラ、公共施設の整備が必要不可欠となった。
都市建設というのは、単なる建築事業にとどまらなかった。
これから先の国防の基盤を支える社会インフラ整備の中核産業として位置づけられ、来るべき次の戦争遂行のための重要な役割を担っていた。
このような都市の急激な拡大に対応するため、建設資材の調達や労働力確保が最大の課題となった。
資源の優先配分や引揚者の動員により、建設産業は、豊富な資源と人材に下支えされた〈高度成長期〉というべきような絶好のチャンスを存分に活かした。
これらの問題を解決するために、多様な技術的及び組織的イノベーションが求められた。
都市建設産業は、こうした厳しい条件下でも、極限まで効率化を図りつつ、戦時需要を支え続けたのである。
10-2 資材調達の困難と技術革新の推進
都市建設に必要な主要資材である
・鉄鋼
・コンクリート
・木材
・レンガ
・ガラス
などは、太平洋戦争による需要増加と供給網の混乱により深刻な不足状況にあった。
特に、鉄鋼資材は軍需用に優先配分されていた為、建設用としては未だ極めて限られた供給となっていた。
その為、代替資材の模索と再利用が急務となった。
・再生資材の活用ー解体建築物からの鉄材や木材の再利用が推進された。
これにより、資材コストの削減と供給の安定化が図られた。
・代替建材の開発ープレハブコンクリートや軽量セメントが普及。
さらには、合成樹脂を用いた建材の試験的導入が開始。
また。素材の研究開発が促進された。
・工期短縮のための工法革新ープレキャスト工法が本格的に取り入れられ、部材の工場生産を進めることで現場作業の迅速化が実現した。
これらの技術革新は、建設産業の生産性向上や品質管理体制の強化につながり、長期的な建設産業の発展に寄与する重要な基盤となった。
10-3.軍需工場拡張と関連都市インフラの整備
軍需生産の拡大に対応するため、関東圏の東京、横浜、川崎や中部圏の名古屋、大阪周辺では、軍需工場や化学工場などの拡張計画が急速に進行した。
これらの主要地域では、工場だけでなく、原材料や製品の輸送効率を高めるための港湾整備や道路網の拡充も不可欠だった。
・港湾整備ー横浜港や名古屋港は軍需物資の輸出入の要衝として強化。
埠頭の増設や荷役設備の近代化が図られた。
・道路及び鉄道網の強化ー工場や港湾へのアクセス向上のため、幹線道路の拡幅や鉄道貨物線の増設が徹底的に進められた。
これにより物資の流通速度は飛躍的に向上。
その後の物流の効率化に大きく寄与した。
・労働者用住宅群の整備ー工場周辺には大量の労働者が集中した。
その為。住宅建設が急務となった。
集合住宅や社宅が数多く建設。
都市の新たな居住地として機能した。
こうした都市インフラの整備は、単なる軍需支援に留まらなかった。
また、これは将来の都市発展に向けた都市計画の基礎を形成するものでもあった。
10-4.労働者住宅の急増と都市生活環境の変容
工場労働者の急激な都市集中により、多くの都市では住宅不足が深刻化。
都市部の人口密度が急激に上昇した。
これに対応するため、住宅建設は量的拡大を優先。
結果として、狭隘で衛生環境の劣る住宅が多数建てられた。
これらの住宅は、多くが簡易な木造建築やプレハブ構造であり、耐久性や居住性は限定的であった。
また、数多の問題を出現させた。
・衛生問題の顕在化ー過密化に伴って、給排水設備の不足や下水処理の遅れが顕著な問題化。
伝染病の発生リスクが高まった。
行政や企業は、これを受けて衛生環境改善に向けたインフラ投資を増加させた。
・都市の拡大と新たな街区形成ーこれまでの市街地から離れた郊外部での大規模住宅団地建設が試みられ、これが都市のスプロール化を促進した。
・公共施設の整備強化ー 学校、診療所、公共交通機関の整備も急ピッチで開始。
都市生活の質の維持に努めた。
これらの変化は、都市化の急速な進展とともに、日本の都市構造や社会環境を根本的に変革する端緒となった。
10-5.戦時労働力の変動と女性労働者の拡大
建設産業では、急速に拡大する需要の為に労働力不足が深刻化した。
これを補うために女性や高齢者の労働力動員が拡大。
建設現場でも女性労働者の姿が増えた。
・女性労働者の役割拡大ー従来、女性が携わることの少なかった資材運搬、組立、軽作業に加え、技能職としての訓練が行われた。
そして、一定の専門性を持つ労働者として成長した。
・訓練施設の整備ー女性建設労働者の技能向上を目的とした専門訓練所や夜間学校が各地に設置。
社会的な認知も徐々に進んだ。
・労働環境の課題ーその一方で、労働条件や安全衛生面での課題も山積状態。
労働災害の増加や過酷な労働環境が問題となった。
この時期の女性労働者の増加は、戦後の女性の社会進出や労働参加率向上に大きな影響を与えた重要な社会変化であった。
10-6.地域別の都市建設の特色と物流体制
地域ごとに都市建設産業の発展には特色が見られた。
・関東圏(東京・横浜・川崎)ー軍需工場集中と港湾機能強化により、高度な物流ネットワークが構築された。
港湾施設は大型化。
鉄道貨物の輸送効率も向上。
住宅供給も多様化の展望を極めた。
そして、大規模な労働者団地が形成された。
・中京圏(名古屋)及び関西圏(大阪)ー自動車、機械工業の発展と連動した都市建設が活発化。
インフラ整備は、工業輸送路と労働者居住地の両面で進行した。
・北海道及び九州(福岡)ー戦略的な兵站拠点として港湾や幹線道路の整備が急務。
厳しい気候条件に対応した建設技術も開発された。
これら地域の連携により、戦時物流は全国規模で効率化。
軍需物資の安定供給を支えた。
10-7.戦後都市建設への影響
耐震設計や高層建築技術の導入など、都市の安全性を重視する設計思想が実施された事は、これからの都市計画の進展に大きな影響を与えた。
労働者住宅の大量建設経験は、公営住宅政策のモデルとの地位を獲得。
都市の住宅供給構造の再構築に貢献した。
戦時のインフラ整備は、そのまま戦後の産業基盤となり、経済復興の原動力となった。
このように、〈昭和特需〉による建設産業の拡大は、単なる戦時の応急対応にとどまらず、日本の都市社会の近代化と高度経済成長の礎を築く重要な転換点であった。
11ー鉄道・港湾インフラ産業
造反大陸日本軍とソ連の戦争勃発と共に、日本列島は事実上の「後方軍需支援国家」として再定義された。
前線に立つことはない。
けれども、造反大陸日本軍の物資輸送兼兵站運営の中枢として、日本の鉄道網と港湾機能は、帝国政府及び連合国軍最高司令官総司令部からの空前の再整備を受けることとなった。
11-1.戦略鉄道網の再編と復員輸送の優先化
日本の鉄道輸送は、もはや民間の旅客需要よりも戦略物資の輸送を優先する体制に完全に移行した。
とくに、東北本線・常磐線・中央本線などの幹線ルートでは、通常の旅客列車の運行本数が半減。
その代わりに、
・軍需列車
・資材列車
・復員列車
が昼夜問わず編成された。
戦略的には以下のような再編が進んだ。
・新潟~青森間の「日本海岸軍需回廊」が開通。
陸羽西線や羽越本線が補強。
重量貨物列車の通過に耐え得るよう橋梁補強が進んだ。
・東北地方から博多港への連絡を視野に入れた「列島縦貫線構想」が発表。
一部では臨時線敷設も行われた。
・民間の鉄道企業(南海電鉄・京成電鉄など)には貨物列車運行の補助命令が発出。
全国的に「鉄道総動員体制」が形成された。
この鉄道再編により、市街地と軍需企業との間を結ぶ工業用引き込み線の新設が相次ぎ、1944年中に完成した専用線の総延長は1,100kmを超えた。
11-2.鉄道車両と資材需要の高騰
軍需輸送の爆発的需要により、
・貨車
・機関車
・台車
・レール
といった鉄道用資材の需要が急騰した。
特に、以下の現象が顕著である。
・国鉄による貨車の新造計画が前倒しで実行。
1944年末までに、1万両以上の無蓋車・有蓋車が追加投入された。
・蒸気機関車製造の需要が拡大。
川崎車輛や汽車製造会社などに集中発注。
「C58型」や「D51型」の簡略仕様が量産化された。
・レール需要の急増に対応するため、八幡製鐵所や釜石製鐵所が夜間操業を拡大。
これにより製鋼労働者の賃金も急騰。
ある事例においては、1日10時間労働で日給80銭を突破する事例も報告された。
このような製造部門の動員は、都市部の熟練労働者だけでなく、地方からの季節労働者や復員兵の大事な再雇用先としても機能した。
11-3.港湾機能の強化と軍民転用
海上輸送の要として、日本各地の港湾も造反大陸日本軍への中継拠点として根本的な改修を迫られた。
特に、以下の港湾は重視された。
新潟港ー満洲方面への最重要積出港。
岸壁を延伸及び拡張8,000トンクラスの貨物船の同時接岸を可能にした。
小樽港・室蘭港ー北海道産石炭や鉄鉱石の積出拠点として、港湾荷役機械の電動化が急速に進んだ。
横浜港・神戸港ー連合国軍最高司令官総司令部による監視下での物資管理が実施。
港湾労働者の行動も逐一記録されるようになった。
これらの港湾改修には、帝国政府からの軍需予算だけでなく、連合国軍最高司令官総司令部からの技術支援及び資金援助も関与。
連合国側の思惑と日本の国内事情が複雑に交錯していた。
11-4.労働力の再配置と混成作業体制
鉄道・港湾のインフラ整備は大規模な労働力を必要とした。
しかし、熟練土木工や荷役人夫は不足しており、以下のような人員動員が行われた:
・大規模な復員兵の再雇用ー鉄道省と厚生省が共同で、復員軍人を港湾・鉄道の土木工事に割り当てる特別制度を創設。
・在日朝鮮人労働者の再動員ーある港湾地区では「準強制労働」とも呼ばれる形での雇用が続行された。
・女性労働者の港湾進出ー軽荷物や事務系作業に限定されるが、戦後初めて女性が正式に港湾業務へ進出した。
このような多様な労働層の融合は、インフラ整備の現場に独特の混成文化を創造。
各地で「食堂共同化」や「簡易宿泊所の整備」などが進められた。
11-5.連合国軍最高司令官総司令部の進駐と規制の狭間
もう戦争状態ではない日本にとって、連合国軍最高司令官総司令部の存在は「協力すべき支援者」であると同時に「物資及び情報の統制者」でもあった。
港湾においては、
・貨物積載リストの提出義務化
・港湾内での写真撮影の全面禁止
・連合国軍最高司令官総司令部経由の輸送物資優先命令
などが導入。
従来の商港運営からは大きく逸脱した。
その一方で、連合国側の技術者との交流を通じて、
・最新の荷役機械の導入
・鉄道運行ダイヤの合理化
など、日本列島のインフラ水準を戦前よりも向上させる側面もあった。
11-6.地域別の輸送動脈と分業構造
鉄道・港湾輸送の地域分担は、戦略的合理性に基づいて次のような構造を取った。
北海道ー資源(石炭・鉱石)輸出と軍用木材の積出港群
東北ー農産物・中間資材の中継と復員兵の集散拠点
中部・関東ー機械部品・薬品・火薬の主要集積地
関西・中国地方ー港湾と鉄道が交差する複合物流中枢。
神戸~姫路間に新設された「臨時軍需複線」は象徴的存在。
九州ー造船資材・労働力の移送起点。
門司港や博多港からの貨物移出量は、前年比270%を記録。
このように、単なるインフラの「延命」ではなかった。
戦争によってインフラ自体が戦略的機構へと変貌した様子が見て取れる。
12ー精密機械産業
この時の日本において、精密機械産業というのは、
・時計
・顕微鏡
・測定器
などの民生用高級製品を生産するためだけの産業ではなくなっていた。
造反大陸日本軍と帝国政府の軍需連携が深化するなかで、精密機械の需要は戦略的に急増。
その製造と開発の現場は「前線に最も近い後方」として注目された。
12-1.軍用機器としての多用途転換
平時には、大学の研究機関や病院、工場で用いられていた精密機器は、戦時体制下において次のような用途へと急速に転換されていた。
・光学照準装置(戦車砲・野砲・対空機関砲用)
・爆撃機及び戦闘機の高度・方位計測器
・魚雷及び潜水艦のジャイロコンパス系統
・軍需工場内での高精度寸法計測装置(マイクロメーター、光干渉計など)
このように、従来の「民需精密機器」はその精度を活かして、より致死的な機能を備える兵器システムの一部として組み込まれていった。
12-2.主力企業の動員と分業体制
精密機械産業の中枢には、戦前からの技術蓄積を持つ企業群が存在した。
代表的には以下が挙げられる。
日本光学工業株式会社(現・ニコン)ー光学系装置全般。
従来の双眼鏡・顕微鏡の製造ラインを、航空機用照準機に転換。
東京計器製作所ー船舶用羅針儀、測深機、魚群探知装置。
連合艦隊解体後も、連合国軍最高司令官総司令部向けに供給を継続。
シチズン時計・精工舎ー精密歯車・タイマー装置などを大量生産。
ストップウォッチが爆弾信管の一部に流用された。
リコー及びキャノンー測距機・カメラ系技術を転用した照準装置の開発に注力。
これらの企業は、連合国軍最高司令官総司令部の監視下に置かれながらも、連合国軍最高司令官総司令部からの潤沢な資金援助を受け、成長。
極東戦線の精密支援機材の多くを担うようになり、軍需目的での「平時企業の再配置」が徹底された。
12-3.技術者養成と工場規模の拡大
精密機械の製造には、
・高度な機械加工
・電気工学
・光学知識を備えた人材が必要であった。
このため、日本各地の工業高校・専門学校では以下のような教育再編が進められた。
・「計測機器技術士」課程の新設(特に東京・大阪・長野)
・軍需企業との連携による現場研修制度の創設
・女子学生の精密組立訓練の制度化ー指先の器用さを活かし、組立・検査工程に配置
また、既存工場の増設だけでなく、長野・山梨・福井などの田舎や山間部に新設工場が相次ぎ設けられた。
これにより、非常時の際のリスクを回避しつつ、地方都市での雇用創出にも寄与した。
12-4.部材・素材との連携と制限
高精度機器の製造には、同時に極めて高品質な素材が求められた。
主に以下のような物資が重点的に割り当てられた。
・特殊鋼(クロム鋼、モリブデン鋼)
・光学ガラス(島根・富山・千葉産の硝子工場による)
・潤滑油・絶縁体などの合成化学素材
とくに光学ガラスの確保は深刻な問題だった。
連合国軍最高司令官総司令部は日本国内の在庫を精査。
余りにも少なすぎた為か、アメリカ合衆国から相当数之光学ガラスを確保。
之を造反大陸日本軍への「対価供出」という名目での輸出を断行した。
これにより、国内需要は逼迫するこそはなく、民生用顕微鏡などの出荷は通常通りだった。
12-5.計測精度と信頼性の政治的意味
戦争を直接指揮せず後方支援基地としての立場の日本にとって、「測定器を提供する側」としての精密機械産業の信頼性は、国家の技術的信用そのものを意味していた。
実際、造反大陸日本軍が採用した日本製の距離計やジャイロは、欧州製のものに比して、耐久性・温度変化への耐性に大変優れており、
「火線の裏に立つ国として、測定器の誤差は即ち血の誤差である」
という言葉が軍内に流布したほどであった。
12-6.国際規格と接合の摩擦
日本は、連合国軍最高司令官総司令部主導で計測単位系や工業規格を国際基準に接合させる動きに晒された。
これにより、従来の「尺貫法ベース」の精密機器設計には混乱が生じた。
その為、急ピッチで、現場において以下のような対処が講じられた。
・国内向けと国外向けで、設計図を完全に分離
・部品ごとにメートル系・インチ系の変換マニュアルを作成
・工場の一部では「変換係」と呼ばれる専門職が編成。
図面と現物の照合を担当した。
こうした対応は、同時に日本の技術者が国際基準への対応力を養う機会ともなり、戦後技術立国としての土台形成に資する副産物ともなった。
13ー繊維・衣料産業
1944年の日本において、繊維・衣料産業は依然として経済全体の屋台骨の一角を成していた。
近代工業としての歴史が非常に長く、
・綿紡績
・絹織物
・毛織物
・麻布
などの多様な分野を抱えるこの産業は、軍需と民需双方の圧力を受けながら再編成を迫られていた。
太平洋戦争が「停戦」となったとはいえども、今度は、連合国軍最高司令官総司令部による統制経済のもと、繊維産業の存在は、単なる生活必需品の供給にとどまらなかった。
それは、
・民心安定
・物資供給
・外交交渉
にまで影響を及ぼす政治的要素を帯びていた。
13-1.綿・毛・絹:素材別の再配置と優先順位
綿繊維は、依然として衣料素材の中心であり、民間向けの下着や作業服に加え、造反大陸日本軍向けの軍服・衛生包帯などにも大量使用された。
毛織物は、高地戦仕様の外套及び軍帽用として重要視。
また、山岳部隊や航空部隊の冬季装備としての優先供給が制度化された。
絹織物は、
・パラシュート用生地
・照準器のファインメッシュ
などに転用。
衣料用途は、ごく限定的となった。
こうした再配置は、農村の養蚕業や在来織物業にも波及。
素材供給の制限と再分配が地域経済に混乱をもたらした。
13-2.生産拠点と地域構造の変容
日本国内では、以下のような地域が中心的な生産拠点として機能していた。
大阪・泉州地方ー紡績・染色・晒し工場が集中。
戦時統制下でも生産量を維持。
群馬・長野・山形県ー絹織物・紬・羽二重などの伝統技術が戦用特殊繊維に転化。
愛知県尾州・三河地方ー高級毛織物を生産。
軍高官用制服などの特殊需要に対応。
一方で、非常時に備えて、九州・四国の山間部にも工場が続々と設置。
製糸・織布の簡易設備が動員労働力を使って稼働した。
13-3.労働力:女子及び少年の大量動員と職能教育
急速に拡大する繊維産業では、以下のような労働力動員が行われた。
・高等女学校生徒の実習生化(特に織機・裁断工程に配属)
・未就学児童の“家庭内縫製”の推奨
・服装技術学校及び洋裁学院の軍需服縫製特科化
これにより、従来は民間高級品の担い手であった女学生や主婦層が、大量の軍用制服・包帯・寝具などを製造する工程に組み込まれていった。
13-4.物資配給制度と衣料統制令
連合国軍最高司令官総司令部の進駐後、日本国内の衣料品供給は厳格な管理下に置かれ、衣料切符制度による配給制が導入された。以下のような措置が取られている。
・一人当たり年2着分の制服型衣類の配給制限
・染色及び仕立て直しの制限(無駄な装飾や流行の廃止)
・再利用促進(襤褸からの織り直しと「もんぺ」への改縫など)
この体制下では「繕うことが美徳」とされ、衣料産業は、新規製造だけでなく修繕及び補修業者の育成にも力を入れるようになった。
13-5.軍需からの離脱と“平和衣料”の模索
停戦体制下、帝国政府は、連合国軍最高司令官総司令部の黙認のもとで「戦後型繊維産業」への転換を模索していた。
とりわけ、以下のような方向性が試行された。
・耐久型及び多用途型ユニフォームの開発
・“健康衣”の名目でのスポーツウェア型民需衣料の開発
・伝統繊維(絣・麻織)の復興による観光産業との連動
このような動きは、のちの「生活復興産業」へと発展。
繊維業界の発展戦略の基盤ともなった。
13-6.国際貿易と「対連邦輸出品」
繊維産業は、戦前からの日本にとっての輸出の柱であり、戦後もその地位は揺るがなかった。
特に、造反大陸日本軍向けには以下のような製品が重点的に輸出された。
・防寒型軍需インナー(満洲・シベリア向け)
・軍需医療用ガーゼ及び包帯類
・占領地向け“平民衣料”の一括供給(制服型シャツ・ズボン)
こうした輸出は、単なる物資供給ではなかった。
日本が「非戦国家」としての存在意義を示す外交的ジェスチャーであり、繊維産業は、国家外交の一翼を担う産業と位置づけられていた。
14ー陶磁器・耐熱材産業
14-1.日用品から軍需まで:製品構成の変遷
陶磁器産業は、長らく茶器並びに食器や美術工芸品といった日用品や装飾品の製造を中心としていた。
しかし、戦時期には以下のような多様な製品群が生産されるようになった。
・軍用陶製手榴弾外殻ー鉄資源の枯渇を背景に開発された。
・耐熱断熱ブロック・セラミック断熱材ー航空機エンジンや船舶ボイラー部の被覆に使用。
・無線機及び真空管の碍子部品ー高絶縁性を持つ陶磁素材が重用された。
・化学兵器容器ー有毒物質に耐える“緻密陶器”による内壁加工が試みられた。
このように、陶磁器産業は、高度な物理的・化学的耐性を要する製品へと分野を拡大。
独自の軍事技術の中核を担うまでに発展した。
14-2.地域別の産地特性と再編成
日本国内における主要産地もまた、用途に応じた分業体制をとるようになった。
岐阜県美濃地方(多治見・土岐市)ー日用陶器の中心であった。
しかし、〈昭和特需〉の間は軍需陶器へ全面転換。
特に碍子製造に強み。
佐賀県有田・伊万里ー古くからの磁器産地。
高硬度・高純度の磁器素材で軍用機部品に進出。
京都・清水焼地域ー美術陶器からの転用は難しかった。
しかし、一部は絶縁素材や病院器具へと用途変更。
愛知県常滑・瀬戸地域ー量産体制に優れている。
工業用タイルや内壁材として大量供給を行った。
これらの産地は、互いに協定を締結。
需給に応じた資源の分配や燃料炭の優先供給などを通じて、国策産業としての色合いを強めていった。
14-3.技術革新と耐熱・耐圧陶磁技術の進展
停戦を経てなお、陶磁器業界では以下のような技術開発が進行していた。
・高温焼成技術(酸化焔焼成・還元焔焼成)の標準化
・ファインセラミックス技術の萌芽:非常に細粒で均一な素材を精密焼成し、電気絶縁性や耐腐食性を向上。
・多孔質断熱体の開発:船舶や航空機の耐火・遮熱材として有用。後年の宇宙技術にも通じる源流。
これにより、日本の陶磁器はもはや“芸術品”に留まらず、“機能素材”としての性格を明確に帯び始めた。
14-4.労働力構造と熟練技能の継承
陶磁器製造は、依然として職人芸的技術に依存する部分が大きかった。
その為、労働力構成には以下のような特徴があった。
・熟練職人の特別待遇措置
・旧制中学校及び女学校との連携による技能継承教育
・連合国軍最高司令官総司令部下での窯業試験所の再開
これにより、窯元の家内工業的体制と、大規模国策工場とが同居する複雑な労働構造が形成された。
14-5.民生転用と輸出の再開
戦時中に軍需用途に特化した窯業製品は、停戦後には以下のような平和産業用途へと転用が試みられた。
・病院・学校用の衛生陶器
・住宅再建需要に伴う内壁材及び耐火煉瓦
・帝国政府の文化外交の一環としての輸出用美術陶器
特に、有田や京都清水では、連合国軍最高司令官総司令部向けの「輸出用食器・土産品」の生産が奨励。
戦時の名残を色濃く残す装飾技法が逆に高く評価される現象も生まれた。
14-6.陶磁産業と戦後日本のアイデンティティ
陶磁器は、技術製品であると同時に文化の器でもある。
そのため、陶磁器産業というのは、日本の「平和国家」としての象徴的役割も担うことになった。
・連合国軍最高司令官総司令部関係者への贈答用としての「平和の壺」や「復興の皿」など、平和モチーフをあしらった記念陶器の製作。
・海外博覧会への出品を通じた日本文化の“無害性”アピール。
・戦災地復興と連動した窯業町の自治再建と更なる拡大
このように、陶磁器・耐熱材産業は「物資の提供者」であると同時に、「象徴の製造者」としても国家の復興に深く関わったのである。
15-非鉄金属及びレアメタル産業
15-1.非鉄金属の定義と分類
この時代の日本では、鉄以外の有用な金属資源を「非鉄金属」と総称。
さらに、その中で希少性・戦略性が高い金属を「レアメタル」と区別していた。
以下のような分類がなされていた:
主要非鉄金属ー銅、亜鉛、鉛、アルミニウム、錫、ニッケル
レアメタル群ータングステン、モリブデン、コバルト、クロム、バナジウム、アンチモン、チタン、ゲルマニウム、インジウム
貴金属類ー金、銀、白金
これらの資源は、それぞれ異なる産業分野と深く結びついており、供給確保と加工技術の両輪によって成立する“金属主権”の象徴とみなされていた。
15-2.主要金属別の利用分野と産業連関
各金属の用途と、それに伴う産業関連は以下の通りである。
銅ー電線、発電機、変圧器などに不可欠。
帝国電力が中心となって開発及び製造。
電気及び通信施設の復旧・新設において重要。
アルミニウムー軽量で耐蝕性に優れるため、航空機部材、車両部品、建築材料へ。
東洋軽金属や住友アルミなどが中心となって開発及び製造。
ニッケル・クロム・モリブデンー耐熱合金の原料として航空機エンジン、戦車装甲部、軍需工具へ。
タングステン・バナジウムー切削工具・耐摩耗部品に用いられ、精密機械・鉱山機械製造に不可欠。
鉛・亜鉛ー蓄電池、弾薬被覆、腐食防止材、鋼板のメッキ処理等へ。
レアアース(希土類)元素ー照準器、磁性材料、光学機器へと限定的ながら導入が進む。
このように非鉄金属の供給体制は、日本の近代軍事力および高度工業生産の裏打ちであった。
15-4.資源供給体制と植民地・満蒙資源の重要性
非鉄金属の多くは、国内資源では賄いきれなかった。
その為、アメリカ合衆国への依存が顕著であった。
15-5.冶金技術と加工能力の進展
非鉄金属は、採掘後の精錬及び合金加工によって、初めて工業的価値を持つ。
その為、冶金技術の高度化が鍵であった。
湿式製錬・電解精錬の国産化ー亜鉛や銅の精錬において安定的品質を実現。
高温真空溶融装置の導入ーニッケル・チタン合金の製造に不可欠。
戦前から陸軍科学研究所が主導。
粉末冶金技術の萌芽ー微細金属粉末を圧縮焼結する手法。
精密部品や難加工材料に適用。
連合国軍最高司令官総司令部下の技術者保護と研究所再開ー日本金属学会や産業試験所が、連合国軍管理の下で再稼働。
研究成果の再統合が進む。
これにより、素材から部品への一貫した供給体制が確立。
15-5.企業構造と財閥の再編成
日本の非鉄金属産業は、いわゆる「鉱山・製錬・精密加工」の垂直統合型を基本としつつも、停戦以降は以下のような変化を遂げていた。
三井鉱山及び住友金属鉱山ー依然として君臨。
中小の加工業者ーGHQの奨励によって地域クラスター化。
合金加工・部品製造に特化している。
輸出志向企業の再育成ー銅線・錫合金・工具用バナジウム鋼など、復興支援の一環としてアメリカ合衆国向けの輸出を開始。
財閥解体の中で、一部企業は“名目独立”しつつ、依然として旧財閥の傘下として機能していた。
企業間競争よりも「国家計画下の分業と再編成」が優先されていたのが、当時の非鉄金属産業の特徴であった。
15-6.新用途と“非兵器化”の潮流
停戦後、軍需一辺倒だった非鉄金属の用途は、次第に民需へと転換されていく。
・家庭用電化製品の試作ー銅及びアルミ需要の回復
・医療器具や化学装置の耐蝕合金化ーモリブデン・ニッケルを含む合金が導入された。
光学機器や測定器用の微量金属需要ーゲルマニウム・インジウムなどの研究が進行。
連合国軍最高司令官総司令部主導で“非兵器的な戦略産業”として支援される。
このように、非鉄金属・レアメタル産業は、一時の軍需から脱却。
平和技術及び先端工学の原料供給源へと脱皮を遂げようとしていた。
16ー合成ゴム・化学素材産業:戦時体制から特需対応への構造転換
16-1.戦略素材としての化学素材産業の再評価
〈昭和特需〉により、合成素材分野は戦略物資としての重要性を再び高めた。
かつての連合国との全面戦争下において培われた技術基盤は、戦後の停戦体制下においても大健在。
むしろ造反大陸日本軍からの直接的な夥しい量の発注という形で、特需需要の波が産業界を席巻した。
特に、
・合成ゴム
・工業用樹脂、
・潤滑剤
などの分野では、設備を増設するも、既存設備を超過稼働させる事態が相次いだ。
16-2.合成ゴムの品種別需要の拡大
軍需輸送機材や野戦装備に不可欠なゴム素材は、戦時中から続く天然ゴム代替品としての地位を確立。
更に、〈昭和特需〉によって、その品種別生産体系は次のように再編及び拡張された。
・ブタジエン系合成ゴムー主に軍用トラックや戦車のタイヤ素材として使用。
摩耗耐性と柔軟性が大いに評価され、大量増産が指示された。
・スチレンブタジエンゴムーフレキシブルホースやガスケット及び履物など工兵装備や後方支援物資などに用いられた。
・クロロプレンゴム(ネオプレン)ー耐油及び耐熱性を生かすことにより、戦車用ベルトや航空機部材及び工業用ゴムシートへと展開。
これら合成ゴムの生産は、
・昭和電工
・鐘淵化学
・住友化学
などの大手企業や中小企業によって、全国7ヵ所の工場群にて担当。
月産量は前年比で2.8倍に達した。
16-3.化学素材の多様化と用途拡大
単なるゴム素材にとどまらず、以下のような化学素材が、新たに軍需及び工業需用として発注された。
フェノール樹脂ー機械部品・通信機材の絶縁部品用。
メラミン樹脂・尿素樹脂ー耐熱及び耐衝撃性を活かし、携行用食器・弾薬収納箱などに使用。
セルロイド・酢酸セルロースー視認性と軽量性を活かして、光学機器の一部部材に活用。
硝酸繊維素ー弾薬包材や火薬成分としても重要視された。
これにより、化学素材部門は単なる軍需補完部門から、多用途部品供給の中核へと進化を遂げた。
16-4.地域別の生産拠点と物流体制
合成素材の製造は、各地に形成された「化学工業コンビナート」に集中していた。
三重・四日市地区ー合成ゴムと潤滑油の生産で突出。
中京圏の機械工業との連携が強かった。
山口・下関地区ー石油化学原料の精製拠点。
GHQの監視下で稼働が継続。
大阪・堺・高石地区ー戦前からの化学産業集積地。
特に染料中間体や爆薬原料の転用技術が高評価。
これらの地域間は、鉄道輸送及び内航海運を併用した複合物流網によって連携。
造反大陸日本軍側の物流担当者がわざわざやって来て駐在し、管理するという「準軍需体制」が敷かれていた。
16-5.労働力動員と技能教育
熟練化学工員の多くは、既に軍需産業へと配置されていた。
しかし、〈昭和特需〉による新たな需要増に対応するため、再度の労働動員が実施された。
・学徒動員ー大学の理学部及び工学部系から、化学工場の研究室補助員として就労。
・主婦及び高齢者ー夜間交代勤務が制度化。
女性労働力比率は前年比で1.7倍に上昇。
帝国政府主導の「化学技術者育成講習会」が全国10都市で実施。
約3,200名が受講。
これにより、戦時に崩壊しかけていた技能継承の流れが再構築。
労働力の量的確保と質的改善が並行して進行した。
16-6.戦後体制への影響と連合国軍最高司令官総司令部の関与
連合国軍最高司令官総司令部の経済監察局は、これらの合成素材産業に対し、
「特需への依存を戦後技術開発へ転換すべきである」
「化学素材は平和利用への研究投資にシフトすべきである」
といった勧告を出していた。
実態としては、造反大陸日本軍との輸出契約による利益確保を黙認しているどころか推進。
結果として、合成ゴム及び高分子化学は、戦後の日本の化学大国化への礎となる技術資産をこの時期に蓄積したのである。
17ー木材・林業・紙パルプ原料産業
17-1.国家資源としての森林の再評価
木材資源は単なる建材や燃料という位置づけを超え、「戦略資源」としての再評価を受けた。
・鉄鋼やコンクリートに代わる代替建材
・紙パルプ用の繊維原料
・兵站用器材の材料
などの〈昭和特需〉による物資調達需要の急増が、林業にとって数十年来にない活況をもたらした。
森林資源の再統制政策により、帝国政府は、全国約1,000万ヘクタールの公有林に対して伐採割当を設定。
帝国陸軍の伐採隊の技術者が民間林業会社へ転籍することで、民間主導の資源動員体制が実現された。
これにより、戦中に荒廃した森林管理体制は、戦後停戦下において**「復興と軍需の両立」**を目的とする新たな局面に入った。
17-2.建築用材・造船材としての需要再燃
都市建設産業と連動するかたちで、製材業・合板工場の操業率は急上昇した。
以下のような分野で木材需要が急増した。
復興住宅建設用の角材・板材ー杉・桧・松を中心に、京都・高山・日田などの老舗林業地が大量供給。
木製建築構造材(合掌・トラス・床根太)ーコンクリート不足を補うため、再び木構造が都市部で採用された。
小型舟艇・港湾用艀の船体部材ー特に沿岸部における軍需物流の短距離輸送に、再び木製艦艇の建造が進んだ。
こうした動きにより、戦時中に落ち込んでいた製材・乾燥加工業が復興。
労働力も地方に再配置される契機となった。
17-3.製紙用パルプ材の確保と供給網
紙の原料となるパルプ材についても、〈昭和特需〉の影響は大きかった。
新聞用紙・包装紙・軍用マニュアルなどの多岐にわたる膨大な需要を支えるため、広葉樹林・針葉樹林の計画伐採が進行した。
針葉樹ー白色度が高く、主に高品質印刷紙用パルプに加工。
広葉樹ー繊維が短く、板紙やクラフト紙などの梱包材向けに使用。
北海道・東北・北陸を中心に製紙会社専属の伐採団が常駐。
一定量の搬出を義務付けられた。
ただし、その後の植林も必ず義務付けられた。
これにより、製紙原料の自給体制というのは復興を支える持続可能なら産業基盤として確立されていった。
17.4 林業機械とインフラの整備
森林の奥深くまで入り込み、大量の木材を安定して伐採及び搬出するには、
・インフラの整備
・機械化
が不可欠であった。
また、
・架線式集材装置
・ウインチシステム
の導入が進められ、重労働の軽減と生産性向上に寄与。
森林鉄道の延伸及び再稼働が実施。
その軌道数は1943年末の178路線から、1944年末には236路線へと拡大。
雨天でも稼働できるよう、木製の仮設索道や鉄骨吊橋が導入。
こうして、山奥から港湾までの物流網が整備された。
このように、林業は単なる素材供給ではなく、地域インフラ整備と機械技術の導入を伴う複合的産業として再生した。
17-5.地域別林業構造と就業人口の推移
地域別の林業構造もこの時期に変化し、再配置が進んだ。
そして、以下のような特色が見られた。
北海道(道東・道北)ー広葉樹伐採の主力地。
女性作業員や高齢労働者の就業率が高かった。
東北(岩手・秋田)ー森林鉄道と河川搬出の併用により、大規模供給地として重要度を増した。
中国地方(広島・島根)ー山間部の奥地開発が進み、昭和林業会社などの準公企業が進出。
九州(宮崎・熊本)、温暖な気候を活かしたスギの育成と、高速成長種の集約伐採が進行。
林業への就業人口は、戦時ピークの45万人から一時25万人まで減少していた。
しかし、1944年末には37万人にまで回復。
これ以降、地方経済の復興にもつながった。
17-6.国産化繊維原料としての木材の再活用
木材は単なる紙や建材としてだけでなく、化学繊維の原料としても再評価された。
レーヨン用のセルロース原料として、特に白樺や広葉樹の溶解パルプ化が進行。
酢酸セルロース製造用チップの需要が拡大。
光学機器産業との連携が深まった。
連合国軍最高司令官総司令部は、これらの化学パルプ化動向に注目。
合成繊維産業と林業の連携を推奨する報告書を提出した。
このように、木材は「燃料・建材・製紙・化繊」の各用途で再定義。
日本の産業全体の素材基盤を支える多面性資源として位置づけられたのである。
18-時計・計器・光学機器産業
18-1.精密機器産業の戦略的位置付け
1944年の〈昭和特需〉に沸く日本において、時計・計器・光学機器産業は、単なる民需製品の生産部門にとどまらなかった。
その産業は、航空・航海・通信・測量・医学といった先端分野の技術的中核を担う国家的に極めて重要な産業分野であった。
特に、停戦後、連合国軍最高司令官総司令部が科学技術の非軍事転用を主導するなかで、本産業は「知的労働集約型の象徴産業」として再定義。
民生技術及び基礎工業の再建における中核的位置を占めた。
18-2.時計産業の多用途化と復興過程
時計産業は、戦中の軍需時計の生産から、停戦後は以下のような民生転換を遂げた。
・全国津々浦々の懐中時計・置時計・柱時計の大量復旧
・鉄道及び通信施設向けの業務用時計装置の抜本的整備
・連合国軍最高司令官総司令部占領下での製品供出命令
こうした動きは、精密加工技術の雇用維持及び技能継承にもつながり、零細工場の統合と再稼働を促進する要因となった。
18-3.精密計器の民間転用と新需要
航空と海洋関連の軍用計器として発展した各種精密計器は、戦後の民需転換により、以下のような産業用途と社会基盤の領域で再利用及び再設計された。
圧力計・温度計・湿度計・高度計などの汎用化ー気象観測、農業、鉱山管理、都市ガス配管などへの利用。
電気計器(電圧・電流・抵抗計)ー発電所・変電所の管理、電鉄車両の安全運用に不可欠な装備として導入。
交通機関向け速度計・制動装置監視計器ーとくに国鉄の復旧と並行して、鉄道車両の計装化が進められた。
これにより、従来は軍専用であった高度な制御及び測定技術が、広範な産業インフラの基盤整備を支える技術資産として定着していった。
18-4.光学機器産業の存続と革新
光学機器分野は、戦中に飛躍的な発展を遂げた。
しかし、停戦と同時に軍用用途(照準器・距離測定装置・潜望鏡等)の需要が縮小
だが、以下の分野において、旧軍用光学技術の民用化が急速に進んだ。
写真機・映写機・顕微鏡の復活ー特に教育機関や医療機関での需要が高く、コニカ、オリンパス、ニコンなどが製品化に注力。
望遠鏡・双眼鏡の再販ー天文趣味や野鳥観察の普及により、かつての軍用品が生活文化に転化。
精密研磨技術の継承ーレンズ研磨・プリズム接合・光軸調整といった職人技術が、機器の信頼性を支えた。
加えて、連合国軍最高司令官総司令部は本産業を「支援必要重大産業」の対象へと組み込んだ。
そして、適度な競争体制のもとでの技術育成を認可した。
これにより、光学機器産業は戦後早期から「世界水準への挑戦」を掲げる先進分野となっていく。
18-5.精密部品産業との連携と下請け体制の再整備
時計・計器・光学機器の製造には、高精度の歯車・軸受・バネ・ねじ・軸材などの部品産業との密接な連携が不可欠であった。
東大阪・川口・諏訪などの地場工業地帯では、熟練工による手作業加工と半自動旋盤・圧造機械の導入が進行。
全国の軍需工場の小型機械を転用。
この時に、部品加工工場に転生した例も多い。
また、精密バネ(ゼンマイ)・ミニチュアベアリングなどの特殊部材の国産化が推進。
輸入依存脱却が図られた。
このような下請け体制の再整備は、分業構造の確立とコスト削減のみならず、品質均一化につながり、日本的精密機器生産体制の雛形となった。
18-6.科学技術と教育制度との連関
精密機器産業の持続的発展には、理工系人材の育成と研究機関の支援が不可欠であった。
これに対応し、帝国政府と連合国軍最高司令官総司令部は、以下のような施策を講じた。
・旧制高等工業学校及び帝国大学工学部での精密工学・光学講座の再整備。
・文部省技術研究奨励金制度の再開により、若手技術者の研究活動を支援。
・連合国軍最高司令官総司令部が設立した産業科学審議会による光学分野への報告書提出
これらが、この産業の更なる成長対してのポジティブな動因となった。
この結果、1940年代後半の日本において、精密機器技術は「平和利用された軍事技術」の象徴として、社会的な価値を高めていくこととなる。
19ー鉱山機械・建設機械産業
19-1.戦後情勢における産業の位置づけと課題
1944年の停戦までの日本の鉱山機械及び建設機械産業は、戦時下の需要に支えられつつも資材不足や労働力不足によって、生産が制約されていた。
しかし、停戦を迎えると、戦争に伴う軍需需要は消失したものの、
・国内インフラの復旧
・都市再建
・産業復興
において不可欠な産業として、国家戦略の要として再評価された。
連合国軍最高司令官総司令部進駐下での民需優先政策と資源確保の必要性が産業再編に拍車をかけた。
19-2.鉱山機械産業の実態と再編動向
鉱山機械は、主に石炭・鉄鉱石・非鉄金属鉱山向けの掘削機械、搬送装置、選鉱機械が中心であった。
特に、石炭鉱山向けの掘削機械は、東北・北海道の主要鉱山地帯で不可欠な装備であった。
そして、戦中の軍需優先からの脱却により、製造現場は部品調達の多様化を余儀なくされた。
だが、資材供給の制約は依然として深刻であった。
そして、帝国政府は、アメリカ合衆国からの輸入や国内資源の積極的利用を指導。
リサイクル材や中古部品の再活用が促進された。
技術面では、掘削機械の耐久性と安全性向上を狙い、油圧式・電動式の機械化が着実に進められた。
併せて、鉱山作業員の安全対策機器(通気装置、防塵機器)も製品ラインに加えられた。
これにより、鉱山機械産業は、単なる機械製造業に留まらず、労働環境改善にも貢献する複合産業としての地位を確立していった。
19-3.建設機械産業の需要急増と技術革新
・都市及び農村復興のための道路整備
・ダム建設
・港湾拡充
などが国家的に推進された。
この事から、建設機械の需要は戦後急激に増加した。
・重機
・土木機械
・コンクリートミキサー
など、各種の機械製造が工場で活況を呈した。
また、
・ブルドーザー
・ショベルカー
・クレーン
などの大型機械は、連合国軍最高司令官総司令部の指導と資金援助の下で導入が進んだ。
国産機械は、戦前の基礎技術を活かしながらも、欧米機械との競合に対応するため、耐久性と操作性の向上に力点を置いた設計改良が重ねられた。
一方で、小型建設機械や補助機械の分野では、農村部のインフラ整備を支えるための低コスト化と簡易操作性が求められた。
このように、建設機械産業は多様な用途と規模に対応した製品群の開発を推進。
国内の復興の基盤を支えた。
19-4.産業構造の特徴と地域分布
鉱山機械・建設機械産業は、地域特性と連動した製造拠点を形成した。
関東・関西圏を中心とした大都市圏には大規模工場が集中。
高度技術の研究開発や大型機械の組立を担った。
東北・北海道地域は鉱山機械の需要が集中。
ここには、地元密着型の中小企業が多く、現地密着の保守及び修理体制も発展した。
中部地方では鋳造・鍛造をはじめとする素材加工産業が鉱山機械・建設機械産業を支え、連携が進んだ。
これにより、地域間の産業連携と物流ネットワークが形成。
機械の効率的生産と供給を可能にした。
19-5.労働力確保と技術者育成
戦後の労働市場は混乱期であった。
だが、鉱山機械・建設機械産業は、新たな人材育成に注力した。
戦争中に蓄積された熟練工の技術継承のほか、産業高校や工業専門学校での技術教育が活発化した。
更に、連合国軍最高司令官総司令部は、インフラ復興に不可欠な分野として、技術研修プログラムや国際的技術交流の推進を支援した。
新技術導入のための実験工場や試作部門も整備。
技術革新と品質管理体制の強化が図られた。
これにより、産業全体の技術水準が向上し、次世代に向けた基盤が確立された。
19-6.国際競争力と輸出戦略
鉱山機械・建設機械産業は、国内復興を優先しつつも、将来的な国際市場参入を見据えていた。
欧米メーカーが、ほぼほぼ既に市場を独占している中で、国産機械の差別化は、価格競争力とメンテナンス性に重点が置かれた。
輸出政策の策定と外貨獲得の必要性から、帝国政府は海外展開の試験的支援を開始。
東南アジアや台湾、朝鮮半島向けの販売ルートが模索された。
技術ライセンスの取得や外国技術者の招聘も行われ、国内技術の底上げと国際標準の獲得に取り組んだ。
これにより、鉱山機械・建設機械産業は、この時以降の日本の重工業発展の礎を築く段階に入っていった。
ここからは、あまり〈兵士と銃後の民ら〉という関係に直結しない業種も見ていこう。
金融業(銀行・保険会社)
東亞連邦とソビエト連邦の間で勃発した全面戦争は、ユーラシア大陸東部において急激な政治的地殻変動を引き起こした。
この事は、戦略物資の集積拠点にして後方物流中継基地である日本列島の金融業界に対して、今までで前例のない「貨幣の奔流」をもたらした。
当時の帝国国内の銀行、信用組合、農業金融団体、保険会社、郵便貯金など、あらゆる形態の金融機関がこの激動の中で、大規模な機能再編を実施。
その一方で、潤沢な軍需資金の受け皿として、従来の信用制度を大きく逸脱した「特需対応金融機構」へと変容していく。
都市銀行を中心とする大手金融機関の
・三井銀行
・第一銀行
・三菱銀行
・住友銀行
などは、東亞連邦から流入する外貨建ての戦時契約資金並びに帝国政府を通じて支払われる特需費用の管理口座としての役割を担い始めた。
これにより、月間の流動資金の取扱高は1943年平均比で実に2.7倍に到達。
一部の銀行では、従来の貨幣取引量の限界を超えて、資金洗浄の高速化を目的とした内部決済機構の再構築が余儀なくされた。
また、戦時物資生産に関与する中小企業や下請け工場への与信枠が急拡大。
従来においては、審査に数週間を要していた運転資金融資が、最短1日で承認される体制が整えられた。
融資拡大例
・1944年9月、川崎の精密部品メーカー「神南製工」は、三菱銀行から一括で150万円の設備資金融資を受けた(従来の同規模企業の上限は40万円)。
・東北の農業協同組合には「兵站食糧供給機関」としての役割が期待され、秋田県の由利郡信用組合では、農繁期に1万件を超える短期農業融資を実施した。
これらの動きは、単に金融量の拡大にとどまらなかった。
各銀行が、内部に「軍需対応課」「特需事業部」などを新設。
金融業が事実上の戦時後方機関として機能することを意味していた。
戦時国策としての資金動員は、都市銀行や財閥系金融機関だけでなかった。
それは、国民全体を対象とした金融制度にも及んだ。
とりわけ、庶民が主に利用していた「郵便貯金」と、民間保険会社・相互保険組合が保持する「保険準備資金」は、戦争資金として再編成された国家財政の根幹となった。
そして、同年9月から始まった「戦時郵貯増強令」により、全国の郵便局では国民一人あたり月額10円以上の定額貯金を奨励する運動が展開。
実際に、同年10月末時点で郵便貯金残高は前年同期比でおよそ1.6倍となった。
保険業界でも、生命保険会社による契約者への返戻金支払いを一部延期する制度が導入。
その分の資金が戦争債引受に転用された。
・日本生命
・第一生命
・明治生命
などの大手5社のうち3社が、東亞連邦発行の「大陸特需債券」に対し、総額2,300万円以上の引受を実施した。
郵便貯金・保険動員の実例
・和歌山県におけるある町村では、住民の90%以上が戦時定額貯金に協力。
・大同生命保険では、社内の全資産のうち15%が軍事債券に転用。
資金回収は、東亞連邦の軍事部門からの配当収入に依存する形となった。
日本各地の中小商業者、農業者、職人層が利用していた信用組合、あるいは農林中央金庫や各県の農業信用基金などの地域金融機関もまた、国家総動員体制の金融的基盤として再編された。
地域の食糧供給や労働者向け生活必需品の生産を担う事業者に対する融資は「戦略産業補助金制度」と連動。
ほぼ無審査の形で提供されることが常態化した。
また、農林中央金庫は東北・北陸地方の寒冷地帯に対して、戦時備蓄米の供出を条件とした長期融資枠を拡大。
その年間貸付総額は1943年の1.9倍を記録した。
信用機構の補完例:
・長野県諏訪郡の製糸業者連合は、地域信用組合と連携して約700万円の資金を調達。
・北海道空知地方では、炭鉱労働者向けの生活金融として、個人向けの短期貸付制度が導入され、約3万人が利用した。
資本市場(証券取引・債券・株式)
当時の帝国資本市場は、表面的には「静寂」を保っていたかに見えた。
しかし、その内実は、
・東ソ戦争の特需資金を背景とする軍需産業株の異常高騰
・公的資金による国債・戦時債券の大量引受
・国家主導の証券市場統制
によって、極めて人工的かつ歪な「全体戦争型金融構造」へと変貌していた。
この年は、株式市場・債券市場の両方において、近代資本主義的原理がほぼ全面的に凍結。
国家と産業界が一体化した統制経済下における“資本の再編”が強行された年でもある。
東京株式取引所・大阪取引所を中心とする主要証券市場は、1943年末から事実上「軍需株市場」へと変貌していた。
しかし、戦線拡大に伴う物資需要と人的供給の集中によって、特定銘柄の株価が異常上昇。
とりわけ、重工業・輸送・電機・製鉄に関わる企業の株価は、国家予算の裏付けと東亞連邦からの確定受注に支えられて、実態経済を遥かに超えた水準で売買が成立していた。
この時期の代表的な前年度との株価上昇銘柄を以下に示す。
日本製鋼所:4.2倍
川崎重工業:3.8倍
三菱電機:3.3倍
国際汽船:5.1倍
日本信号:6.0倍(特需による軍用鉄道信号装置の大規模受注)
また、こうした企業の多くが三井・三菱・住友といった財閥グループ傘下にあった。
その為、財閥株全体が「戦時ブルーチップ」として再評価。
全国の中堅資産家層による投機的買いが殺到した。
日々の出来高も過去最高水準に達し、東京取引所では平均出来高が前年の3倍以上に達している。
一方で、繊維・小売・娯楽産業など非戦略業種の株式は冷え込み、事実上の「無価値化」が進行した。
これは、戦時国家における資本の選別的集中(=軍需への偏向)を如実に示す現象であった。
修正カイロ宣言受諾前の国家予算に占める戦費支出の割合は、実に75%以上に達していた。
これを支える最大の資金調達手段は「戦時国債」および「戦時特需債券」と呼ばれる特殊債。
国民はこれを強制・半強制的に購入させられる構図に置かれていた。
戦時国債ー日本政府が発行する正規の公債。
利回りは名目2.5〜3.0%だが、戦争終結まで償還が凍結される規定が付帯。
特需債券ー東亞連邦からの発注に伴い、日本政府を通じて軍需企業に資金を供給するための準政府債。
実質的には裏付け付きの政府信用。
1944年10月には「第十一次戦時国債」が発行され、主に以下の機関が引き受けを担った。
日本銀行(直接引受)
郵便貯金特別勘定
保険会社(日本生命、第一生命、大日本産業保険連合)
銀行連盟(日本勧業銀行、特殊銀行連合)
これにより、短期間で2億8000万円以上の資金が調達。
うち約40%が直ちに軍需産業向けの発注支払に充てられた。
債券市場は事実上の“調達機関”と化した。
そして、流通市場は存在せず、すべてが発行時点で完売。
償還まで保有される運命にあった。
そして、「証券取引動員令」に基づき、全国の証券会社に対して、
・軍需産業株の優先販売
・戦時国債の引受支援
・非戦略株の勧誘禁止
などが命じられた。
これにより、大手業者は実質的に“政府販売代理機関”へと転じ、純民間的な投資仲介業務は凍結された。
また、証券会社内には「戦時金融課」などの部署が新設。
帝国陸海軍からの派遣軍属が顧問として常駐。
・配当水準
・発行価格
・売出時期
これら全てが事前承認が義務化された。
事実上、株式とは「自由に売買できる私企業の所有権」ではなく、戦時国家が定める経済兵站の一部として位置づけられていた。
証券会社の役割変化例:
・野村證券:年間営業の約70%が「軍需株・債券の指定販売」に限定された。
・大和證券:地方の中小企業への戦時債引受を奨励する「国策投資勧誘部」が設置。
ま、一通りは解説したな。
これで終了する。
分かってくれたと思いたい。
同日ーこの報に対し、帝国政府と西欧諸国は大きな衝撃を受けた。
ヨーロッパ戦線や内政に集中していたら、日本の隣に1000万の軍と420万5000平方キロメートルもの土地面積を誇るという余りにも巨大にして強力な造反大陸日本軍領地が気づいたら誕生していたからだった。
また、帝国政府に至っては、このニュースを驚きと恐怖を持って受け止めた。
そして、これらの強大な戦力と国土の力が、列島日本に向かないようなんとか努力をしなければいけないという状況に陥った。
名実ともに、孤戦を強いられたのだった。
何故なら、アメリカやイギリスをはじめとした連合国軍は、既にノルマンディー半島周辺で膠着しているヨーロッパ戦線の方に。文字通りの全軍を挙げて攻略しているためである。
しかし、結論から言ってしまおう。
無理だ。
なぜなら、仮に列島日本がこの問題から逃げようとする。
そうすれば、造反大陸日本軍は列島日本に対して、持てる国力を全て使い果たしたとしても、なお絶対に逃さないよう執着する。
こうなることは、目に見えてわかっている。
なので、どう考えても「無視による時過的解決」は絶対に無理であった。
しかし、この事態を受け、アメリカやイギリスなどの連合国もいくらヨーロッパ戦線に力を注いでいるとはいえ、大いなる危機感を覚えた。
1944年11月5日ー連合国の巨頭らは、修正カイロ宣言を、政策面においてだけ反故にすることを決定した。
その主な理由とは、
「いちいち、修正カイロ宣言の内容と改革の内容を照らし合わせながら、改革を実行するのは、もう面倒臭いったらありゃしないし、嫌だから。(現代語訳)」
とのことであるから。
そして、連合国は、連合国軍最高司令官総司令部へと命令を伝達した。
同日ー連合国からの命令を受けた連合国軍最高司令官総司令部は、日本を完全に踏み躙るかのような、厳格かつ猛烈で冷酷かつ非情かつ急進的なのだが、将来に渡って有用的で抜本的な改革を、連合国軍最高司令官総司令部の圧倒的権力をもって、日本を、これまでの専政国家から民主主義の強国にする為に実行した。
話のついでだから、日本における連合国の戦後改革の一覧を解説しよう。
じゃあ、今から解説する。
また、その都度成果を書き記す。
〜連合国による戦後改革〜
(1946年終わりまでに)
・国名変更
1945年5月3日ー国名を、「大日本帝国」から「日本国」に変更した。
・皇室財産の大幅没収
皇室財産の85%を没収した。
・農地改革
全ての地主から農地・林野を全没収し、小作人に分け隔てなく分配した。
それにより、小作農・小作林であった彼らの経済基盤は大幅に向上され、終戦直後の食糧難の解消・都市部の焼け跡の農地状態の解消にも大きく繋がった。
農地改革の対象は、零細な農家・林家にまで範囲が拡大されていたため、完全平等な政策であったために大変喜ばれることとなった。
また、土地を得た農業従事者・林業従事者は厳格保守政権の強固な支持層となった。
・皇室制度
「主権天皇制」から「象徴天皇制」として変更がなされた。
ただし、その地位の存廃については、帝国政府の意見を取り入れたことにより、
「政府・国民が決めることではなく、護持をしなければいけない。」
との文言が付された。
さらには、
「廃止に関する議論や主張には、極刑を含む刑罰や罰金を科さなければいけない。」
との文言も付されることとなった。
これにより、実質上、皇族や皇室の地位は永久不変とされた。
・財閥解体
三井・三菱・安田・住友を始めとする全ての財閥は解体がなされた。
これにより、新興企業が全分野に参入しやすくなり、高度経済成長の大きな足掛かりの役割を果たした。
ただし、反共の観点から、財閥と比較すると相対的に影響力・経済力が小さくなる「グループ」としての結集は認められ、世界においても、その影響力は小さい代わりに一定のブランドを誇ることとなった。
・連合国基地の建設
日本の国土面積のうち1%を提供することが基地用土地の確保のために義務化された。
後に、全ての基地が「在日米軍基地」となる。
・政治犯の釈放
この前段階として、「治安維持法」が正式に撤廃された。
そして、無政府主義者以外の、全員釈放を実行した。
共産党も、「合法政党」として歩みを進める事となった。
ただし、上記と同時期に「破壊活動防止法」が制定。
共産党による暴力革命は禁止され、一発でも行うと〈非合法政党〉とされてしまう運びとなった。
・国政の民主化
政府に対して議会が強い権限を持つ、「三権分立」が確立された。
議会は、内閣に対して「不信任」を提出することが認められることとなり、戦前の過ちを繰り返さないことを目標とされた。
・教育の民主化
政府が、教育に関わることを禁止する「教育関連法」が施行された。
教育関係者は「公務員」として、その地位と俸給を手に入れることは認められた。
しかし、共産主義・ファシズム的教育は禁止とされた。
1945年3月ー学校教育法が施行された。
複線教育は、即時に廃止された。
各都道府県に新制大学が創設されるなど、教育の一般化が行われた。
・新憲法制定
欽定憲法であった「大日本帝国憲法」から、民定憲法である「日本国憲法」に名称変更と内容改訂がなされた。
・国家総動員体制の解除
1944年10月12日ー「国家総動員法解除ニ関スル特別措置法」が施行され、7年近く続いた「国家総力戦」の終焉となった。
・12年間の義務教育の導入
小学校並びに中学校は、アメリカの6・3制を参考に導入された。
高校の義務教育化は、日本が世界初であった。
・女性参政権の導入
女性にも参政権が認められるようになり、真の意味で1人の「女性」として独立を果たすことを意味した。
初の女性議員が、32名誕生した。
・結党の自由化
日本共産党や帝国第一党(1944年11月ー解散)などの極左や極右政党も「合法政党」として活動することが認可されている。
また、さらには「日本社会党」などの新党も結成された。
・大政翼賛会の存続
名称を「大政翼賛会」から「大政翼賛党」に変更。
これ以降も名称を変更しながらも、現在(2025年)まで続いており、結果として超長期に渡り政権を担っている厳格な保守政党(現在の与党)となった。
・統帥権の削除
即座に行われ、文民統制思想醸成の第一歩となった。
・旧宮家の存続
11宮家が残置され、磐石な皇統形成に繋がった。
・総合国防軍の創設
最大兵力は、陸軍100万人・海軍75万人・空軍50万人までとされた。
国防大臣は、文官が務める「文民統制」となった。
また、上記に伴い、陸海軍省は廃止された。
・軍事思想の改訂
「征攻主義」から「積極防衛」の転換
・産業解体の禁止
産業解体は、SCAPIN-1により「徹底禁止」されることとなった。
ソ連のいない会談において、矢継ぎ早にこのことに関する決議をとった。
中華民国には、10年間の期間において、日本からの民間物資・軍需物資の無償提供によって、理解を得られて事なきを得た。
イギリス・オランダにも、5年間の期間において、日本からの民間物資・軍需物資の無償提供によって、理解を得られて事なきを得た。
また、アチソン国務長官が、
「日本とドイツを、反共の確固たる砦として活用する。そのためには、膨大な経済投資とそれを下支えする国民への膨大な直接的支援が必要である!」
と演説中に発言したことにより、日本国に対する連合国主導の資金及び物資投資では、半年間で約2億ドルの投資が行われた。
また、国民への直接的投資には
食糧ー半年間で5億トンもの食糧が支給
インフラー半年間で1000台のバス・二百輌の鉄道車両が支給
衣類ー6000万着が支給
資金ー300億円(当時の日本円価格)が全日本国民に分配する形で直接支給された
・労働運動
労働運動並びに労働組合の結成が自由に認められた。
・連合国軍将兵の不道徳行為の一切禁止令
1944年6月30日ー連合国軍最高司令官総司令部からの「SCAPIN-2」により、
「今後一切にわたって、不道徳的行為並びに犯罪行為をした連合国軍将兵には、「死刑」並びに「無期懲役」を宣告する事を是通達する。」
との条文が全国へと布告された。
また、続けて発出された「SCAPIN-3」により、
「不道徳的行為並びに犯罪行為をした連合国軍将兵の隠蔽を防ぐために、日本国民への「連合国軍将兵による不道徳的行為及び犯罪行為告発所」を、日本政府及び連合国軍最高司令官総司令部からの経費を用いて、全国に2万4500所を建設する」
との条文が全国へと通達された。
そのため、連合国軍最高司令官総司令部統治下の日本国での連合国軍将兵の犯罪件数は、8年間もの間で119件と激減し、治安が安定する事となった。
・飲食営業緊急措置令
1944年8月5日ー日本政府は、食糧事情の改善を目的に飲食営業緊急措置令を発布した。
以降、戦時中に制度化されていた外食券食堂、旅館、喫茶店、握り寿司の加工業に切り替えた寿司屋を除き、飲食業界は食糧事情の改善により同政令が廃止される1945年(昭和24年)4月末まで事実上営業が不可能になった。
当初は、1944年12月31日までの予定であったが、延期された。
・武装解除
造反した軍部隊以外は、全て武装解除を行った。
しかし、造反した軍部隊が殆どであった。
その為、武装解除の効果は限定的だった。
戦車並びに艦船などは、造反大陸日本軍に持って行かれるか総合国防軍所属になるかのどっちかだった。
・英語及び日本語の公用語化
1944年8月30日ー「英語と日本語の公用語化に関する法律」の制定により、この時に、英語と日本語の2か国語を日本国の公用語とすることとなった。
日本の公用語は、大日本帝国の時であっても今まで制定されてこなかった。
ここに来て、初めて公用語が制定されたことは、大きな一歩であった。
・領土の明確化
日本の領土は、次のように明確化された。
(この地図上では、わかりやすくするために、アメリカ合衆国軍主体である連合国軍最高司令官総司令部を〈ア軍〉と便宜上呼称することとした。)
九州・四国・本州・北海道と瀬戸内海地域にある島々以外は、全てが連合国軍最高司令官総司令部の軍政支配下に編入されることとなった。
担当地域を紹介しよう。
連合国軍最高司令官総司令部占領統治下(α)ー礼文島・利尻島・奥尻島・大島・小島群島・飛島群島・栗島・佐渡島・舳倉島・隠岐諸島・竹島・見島・沖ノ島・小呂島・壱岐諸島・対馬諸島・五島列島・平戸諸島・崎戸町江島・黒島・大立島・伊島・幸ノ小島・下枯木島・男女群島
連合国軍最高司令官総司令部占領統治下(Δ)ー南西諸島全域・宇治群島・草垣群島・上三島・甑島列島
連合国軍最高司令官総司令部占領統治下(β)ー伊豆諸島・小笠原諸島・南鳥島・沖ノ鳥島
連合国軍最高司令官総司令部占領統治下(θ)ー千島列島全域
(上記の中の()は、仮称である。本来の名称は、4つのどの地域も「連合国軍最高司令官総司令部占領統治下」だけである。)
この通りである。
・極東国際軍事裁判
1944年11月12日ー極東国際軍事裁判は、市ヶ谷の陸軍士官学校にて開催された。
その前に、一つ伝えておく。
現実世界のA級戦犯のうち、次に指名された者以外は、依然として、以前の活動を精力的に行っているので、その点については、現実世界とは違うとご了承いただきたい。
では、この結果を、お知らせしたいと思う。
ー死刑ー
近衛文麿
大島浩
白鳥敏夫
富永恭次
大西瀧治郎
石川信吾
寺内寿一
花谷正
的場末勇
森国造
立花芳雄
杉山元
辻政信
ー無期懲役刑ー
牟田口廉也
瀬島龍三
ー懲役刑ー
荒木貞夫
嶋田繋太郎
真崎甚三郎
石原莞爾
橋本欣五郎
この通りである。
死刑執行は、12月24日に行われる予定であった。
しかし、
近衛文麿
寺内寿一
石川信吾
石原莞爾
嶋田繁太郎
荒木貞夫
大西瀧治郎
杉山元
大島浩
白鳥敏恵
これらの10人に関しては、以下の通りになった。
1944年11月25日ーこれらの10人に関しては、造反大陸日本軍の秘匿部隊によって救出され、造反大陸日本軍統治領に匿われた。
1944年11月27日ー連合国は、上記の行動に関し、造反大陸日本軍に対して強く非難を行い、早期返還と謝罪を強く要求した。
1944年11月29日ー造反大陸日本軍は、これを拒否した。
そして、早期返還を諦めた連合国は、腹いせに死刑執行を繰り上げた。
1944年12月8日ー残留A級戦犯の死刑を執行した。
また、A級戦犯のうち、
辻政信
瀬島龍三
この2人に関しては、先の事件の時に射殺されてしまった。
ちなみに、現実世界のA級戦犯のうち、
日本側
東條英機
東郷茂徳
賀屋興宣
広田弘毅
平沼騏一郎
木戸幸一
梅津美治郎
重光葵
笹川良一
牟田口廉也(巣鴨プリズン)
橋本欣五郎(巣鴨プリズン)
造反側
岸信介
小泉親彦
橋田邦彦
鈴木貞一
岩村通世
嶋田繋太郎
井野碩哉
村田省蔵
寺島健
上田良武
土肥原賢二
阿部信行
安倍源基
小磯国昭
松岡洋右
松井石根
南次郎
本庄繁
鹿子木員信
久原房之助
葛生能久
畑俊六
星野直樹
大川周明
佐藤賢了
鮎川義介
天羽英二
安藤紀三郎
青木一男
有馬頼寧
藤原銀次郎
古野伊之助
郷古潔
後藤文夫
秦彦三郎
本多熊太郎
井田磐楠
池田成彬
池崎忠孝
石田乙五郎
石原広一郎
上砂勝七
河辺正三
菊池武夫
木下栄市
小林順一郎
小林躋造
児玉誉士夫
松阪広政
水野錬太郎
長友次男
中島知久平
中村明人
梨本宮守正王
西尾寿造
納見敏郎
岡部長景
大倉邦彦
大野広一
太田耕造
太田正孝
桜井兵五郎
下村宏
進藤一馬
塩野季彦
四王天延孝
正力松太郎
多田駿
高橋三吉
高地茂都
谷正之
徳富猪一郎
豊田副武
津田信吾
後宮淳
横山雄偉
大島浩
近衛文麿
酒井忠正
大河内正敏
緒方竹虎
大達茂雄
伍堂卓雄
須磨弥吉郎
永野修身
岡敬純
長谷川清
板垣征四郎
木村兵太郎
武藤章
日本側の人たちは、アメリカ軍(GHQ)との密接協力により、起訴の動きは全くと言っていいほど見られなかったため、と残置された。
(ただし、牟田口廉也・橋本欣五郎は除く)
造反側の人たちは、アメリカ軍(GHQ)により、起訴の動きがあった。
そのため、造反軍による庇護と支援を受けながら、造反側に合流して、造反側についた。
・治安制度
これまで、日本全土の警察機能を一手に握ってきていた内務省警務局を解体し、国家公安委員会・警察庁・各都道府県警を創設した。
特別高等警察(特高)は、大きく意外ではあったが残置されることとなった。
例え、元経験者が殆どいなかったとしても。
・超大規模戦災復興計画
1944年9月1日ー帝国政府は、戦災復興計画基本方針を閣議決定した。
日本政府・戦災復興院・経済安定本部の相互協力により、行われている。
この計画は、画期的かつ水準の高いものである。
戦前より、都市部を中心に進んできていた車社会の到来を予想した上で、主要幹線道路の幅員は、大都市では50メートル以上・中小都市でも36メートル以上とした。
さらに、必要な場合には緑地帯と防火帯を兼ねた100メートル幅での道路建設を促した。
電線は地下埋設とした。
また、都市公園の拡充を考え、緑地面積の目標を市街地面積の10%以上としていた。
戦災都市として指定されたのは、全国の115都市であった。
「復興事業は、その費用の9割を国庫補助する。」
との極めて積極的な財政措置が取られた。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)も、この計画を大いに歓迎。
潤沢な資金支援や技術支援などを行った。
1944年10月1日ー戦災復興計画が始動した。
〜これにて、日本における連合国の戦後改革の一覧の解説を終わる〜
一連の上記の戦後改革政策により、1944年7月15日から僅か半年間で、今まで時代遅れで閉鎖的だった制度は一新された。
そして、新たな先進的で革新的な制度へと変化した。
大日本帝国の名称も、新憲法施行の1945年5月3日から「日本国」と名称変更された。
それによって、国家・国民も一新された日本国・日本国民としての、真の「新しい時代」を迎える事ができた。
また、新憲法である「日本国憲法」に関しては、
1944年11月3日ー公布
1945年5月3日ー憲法施行
とすることを決定した。
1944年〜1945年12月ー東亞連邦は、「移民大歓迎政策」を実行。
ちなみにとして言っておきたい。
この世界は、ゲルハルト・シュトーレンドルフ(Gerhardt Schtöllendolf )という著名な学者によって、ある本が1885年に出版されることになった。
それは、
「多くの子どもを産むことは、数多くの国家的又は民族的利益を齎す事を証明する為の本
(Ein Buch, um zu beweisen, dass die Geburt vieler Kinder zu vielen nationalen oder nationalen Interessen führen wird.)」
という本であった。
この本は売れに売れまくることになり、大ベストセラーどころか〈ヨーロッパ中の一大社会現象〉になるほどにまで大流行した。
実際、〈人々に一番読まれた書物〉というランキングでは、カール・マルクスの「資本論」と「新約聖書」を圧倒的にねじ伏せての堂々たる一位だ。
それくらい読まれた為、それに大いに影響を受けたヨーロッパ諸国が強力な人口増産計画を50年以上にわたって続けてきたという歴史的背景がある。
なので、民族間に多少の差は見られるのであるが、全体的にヨーロッパの人口がかなり多い。
だから、その点は「現実と違う」と留意してもらいたいと切に願うところである。
それでは、話を戻そう。
いや、もう少し追加で話そうと思う。
一応ではあるが、この世界のヨーロッパの背景も説明しようと思う。
この世界のナチスドイツは、ユダヤ人を虐殺することはしなかった。
しかし、ナチス・ドイツは、人々の中の反ユダヤ主義的感情を現実の世界以上に苛烈に煽った。
そして、都合の良いプロパガンダの対象として、ユダヤ人を猛烈なる批判や非難の矢面に立たせた。
そのせいで、ユダヤ人の名誉や立場は無くなってしまった。
また、現地の人々から白い目で見られることや暴行が以前にも増して多くなった。
1940年6月ー独ソ戦を事実より1年早くなし崩し的に始めてしまった。
そのため、プロパガンダとして批判及び非難する以上のことはできなくなった。
そのおかげで、戦前のユダヤ人人口が完全に丸々残存した。
1944年中ーそこへと造反大陸日本軍統治領が、ユダヤ人の移民歓迎及び特別な優遇政策を強力に行なった。
そのため、殆どのヨーロッパのユダヤ人の人々が、造反大陸日本軍が急いで製造した物資輸送船や特別列車にのり込み、造反大陸日本軍統治領に流れこむということになったのだ。
では、本当に話を戻そうではないか。
その結果として、
・モンゴル人の50万もの移民
・ヨーロッパのユダヤ人約1050万人もの移民
・独ソ戦の戦災から免れるための中東欧からの3280万人もの移民
・それとは別に、戦争捕虜や移民状態となったドイツ人・イタリア人等の元枢軸国の国民も総勢1240万人
・民間並びに国策募集により募った上記の地域以外のヨーロッパ人2200万人受け入れ。
これが意味する事といえば、ヨーロッパ・アジア系などを中心として、超大規模に移民を受け入れることになったということ。
しかし、漢人に至っては930万人と少なかった。
その理由は、自分たちが漢人を受け入れなくても、彼らは十分に農業生産力豊かな中国の恩恵を受けてたし、飢餓も少なかったためであった。
また、中華民国との間に厄介ごとを抱え込みたくなかったからだと言われている。
ただ、黒人は誰一人として移民を受け入れなかった。
このことから、当時の日本人の黒人に対する猛烈な差別意識が見て取れるだろう。
同時期に、ソビエト連邦や北アメリカから6500万人が流入した。
また、後述の新聞記事によって、さらに、1億8000万人もの移民が造反大陸日本軍統治領内に流れ込んだ。
ちなみに述べておく。
この世界の共産党は、大粛清を行わなかった。
その、1952年時のソ連邦の人口は、現実世界よりも大分多く約5億3500万人である。
この、二つの出来事によって、造反大陸日本軍占領地は、
1億2000万人
+1億8000万人
+6500万人
で、合計3億6500万人(1945年12月当時)を受け入れた。
しかし、彼らの領土(造反大陸日本軍占領地)の恐ろしいところは、河北平原や東北平原の豊かな穀物生産を背景として、突如3億6500万人という膨大な人口を抱え込んだとしても、餓死者を出すようなことは一度もなかったという事であろう。
ただ、いくら豊かな満州や華北・外満州などの良い土地を持つ造反大陸日本軍でも、
「3億6500万人を養え。」
というのはだいぶん難しい問題であった。
それにより、この事態を重く見た造反大陸日本軍政府によって急遽実施された
・新規農地開拓
・既存農地拡大政策
上記の二つの政策が1956年に一応終了するまでの期間の間は、配給制によって食料事情をコントロールしなければいけなくなった。
まぁ、こうは書いているが、穏やかな波のように徐々に徐々に到来した為、食料面は厳しいが経済面や行政面においては比較的厳しくはなかったのである。
そして、ヨーロッパ系移民を、3億2370万人も迎え入れた。
それにより、東アジアに位置する、残党日本軍が統治する白人(ヨーロッパ人)及び日本人が、大多数を占める多民族国家という奇特なユニーク国家になってしまった。
そして、その後の東亞連邦政府による、移民に対して徹底した、
・日本語教育
・日本人化教育
・皇室崇拝教育
・国家に対しての愛国教育
これらは苛烈を極めた。
(ここでいう国家は、東亞連邦と日本国の事を指している。)
それらの諸政策により、移民してきた3億2270万人のヨーロッパ人と980万人の漢蒙人はそれぞれわずか1年後には、共通言語である日本語を、完璧に読み書き話せるレベルまで上達した。
また、日本文化と自国文化のどちらも深く愛し、日々は、自分や家族を大切にしながらも、いざ国家社会の非常時となったら、新たな祖国である東亞連邦を守るというところはもちろんであるが、
「未だマッカーサーと連合国の支配下にあり、脅かされている日本と天皇陛下を守護するために命をかける!」
と、心と口を揃えて言うというところまでに一気に心の深いところまで、根深く、根強く浸透した。
その日本人らしさは、列島の純正日本人たちと比較しても遥かに甚だ強いものであった。
これから分かることは、2年程度の一瞬のうちにして、移民の人たちは強烈で狂信的な愛国者にして、皇室崇拝者となったという事である。
1945年12月15日ー造反大陸日本軍は、初めての人口調査を行った。
それによると、統治下人口は、
+満州地域の住民ー5500万人
+蒙古聯合自治政府地域の住民ー1050万人
+朝鮮半島地域の住民ー2600万人
+外満州地域ー150万人
+華北地域ー6330万人
+島嶼部ー720万人
+造反大陸日本軍ー1000万人
+自然増加ー2150万
+社会増加ー3億6500万人
の5億6000万人となった。
ここで、注意して欲しい。
新生児2150万は、一年半の間に生まれた新生児の数である。
だから、1年間で生まれた人数ではない。
この1944年からの3250万人にも及ぶ、大規模移民を日本政府は引き止めようとした。
連合国軍最高司令官総司令部が止めようとしなくてもだ。
なぜなら、3250万人全員が移民として、造反大陸日本軍統治領に行ってしまうと、国威の大幅低下と海外から見られるためである。
日本軍人50万人は、日本国の人口統計にこの時だけはなぜかふくまれていない。
その為、正確に申し上げるならば、7200万人から4000万人となる。
しかし、有効な手立てを打つことはできずに、対策も肝心の海軍が全て造反してしまって存在しないために、机上の空論で終わることとなった。
また、この当時は、
本土四島
瀬戸内海の島嶼
以外の領域は、アメリカ軍占領統治下である。
その為、この時の統計には含まれない。
1944年9月6日ーこの事は、重大な危機感を彼らに今更覚えさせた。
彼らとは、連合国軍最高司令官総司令部のことである。
彼らは、帝国政府に度重なる厳重指示命令を行なった末に、強力な人口増加政策を開始することを命じた。
この政策は次のような条文が課せられた。
・1組の夫婦は1組の夫婦につき最低でも3人のこどもを出産すべし。
・1人の子供を産むにつれ、(現代のお金に換算して)年100万円を支給する。
・人口増加に伴う幼稚園&保育園の大幅増設や旧尋常小改め小中学校の大幅増設
これらの政策を施行。
その効果は、施行後2年目にして現れることとなる。
1944年10月18日ー造反大陸日本軍が日本国政府に対し、
「徹底抗戦」
「打倒鬼畜米英」
といまだに叫んでいる。
未だ幼稚で、現実を直視できない造反大陸日本軍将校の中でも、
「日本本土へと侵攻し、再統一すべきだ」
と盛んに主張し、独断で部隊を釜山付近に展開する将校が多数見られた。
隣の列島日本からすれば、
・1000万の軍
・420万5000平方キロメートルの広大な大地を統治
・1億7350万人の国民(自称&当時&軍1000万を含む)
を、保有している東アジアにおける強大国家である。
物理的には、絶対勝てないとわかっていた。
そのため、昭和天皇による2度目の玉音放送を企画した。
精神的に、造反大陸日本軍を攻撃しようと画策。
また、1946年1月1日までのしばらくの間は、
内政は連合国軍政府
外政は日本国政府
と役割を別々にして国家運営をすると言う奇特な構図となった。
では、ここら辺で終わっておくか。
長々と話してしまったけれどもだ。
とりあえず、わかっておいてもらいたい。
1944年12月24日午後10時ー造反大陸日本軍に対して、玉音放送をする旨を通達。
同時に、玉音放送「大海に隔分けられし臣民に告ぐ」の録音が成功。
1944年12月25日午前6時ー新京・奉天やその他の多数の都市に設置されていたスピーカーによって、造反大陸日本軍占領地域に、重大放送がなされた。
これまた、南方造反軍に対しても別事に玉音を録音及び放送をした。
以下は、本文である。
帝國本土ヨリ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ノ百戰錬磨ノ陸海將兵ヨ 朕ノ億兆ノ赤子タル臣民ヨ。
爾等 日々如何ニシテ常業ヲ営ミ 艱難辛苦ヲ忍ビテ來タリシカ。
帝國ヨリ中原ニ渡リシ臣民將兵ノ輩ヨ 萬死ノ憂苦ニ堪ヘ 塗炭ノ苦悶ヲ嘗メタルハ疑ヒナキ所ナリ。
思フニ 爾等ノ國ヲ慕フ誠心至誠ノ情念ハ 誠ニ尊ク貴キモノナリ。
然ルヲ 朕 深ク思慮ヲ盡サズ 臣民ヲ戰禍ノ苦悶ヨリ一刻モ速カニ救ハント欲シ 遂ニ修正カイロ宣言受諾ノ旨ヲ通告セシメタルコト 是偏ニ朕ノ不德ニ基ク所ナリ。
爾等臣民 自ラノ父母ヲ喪ヒ 共ニ志ヲ立テシ學友ヲ失ヒ 然レドモ一途ニ朕ノ名譽ヲ護ラント奮戰シ 亦タ皇祖皇宗ノ威光ヲ汚サジト命ヲ擲チタルハ 真ニ千載不滅ノ忠誠ト謂フベシ。
然ルニ 朕 忠義厚キ臣民ヲ思フ余リ 却ツテ其ノ信ヲ裏切ルガ如キ所行ヲ致スニ至リシハ 何ヲ以テ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝シ得ムヤ。
朕 戰陣ニ殞命シタル者ノ英靈ニ 職域ニ殉ゼシ御靈ニ 非命ニ殞チタル聖靈ニ 亦タ國家ノ安寧ヲ祈リ奉公セシ臣民ノ赤誠ニ 何ヲ以テ報ヒ得ムヤ。
是 實ニ朕ノ不德ノ致ス所ニシテ 深ク深ク陳謝ノ誠ヲ捧クルモノナリ。
當面 帝國ト大陸トノ間ニ渦巻ク懸念 是皆 帝國ノ最髙責任者タル朕ノ負フ責ニ外ナラス。
依リテ 朕ノ股肱タル東條ヲ始メ 老臣等ハ ソノ咎ヲ免レル
此ノ理 爾臣民能ク諒解セヨ。
彼ノ股肱ノ老臣等 國體護持ト臣民ノ苦患トヲ慮リ 而モ尚交戰ヲ續クルハ 國家全體ニ重大ナル災厄ヲ齎スベキヲ憂ヒ 愼重ニ謀議ヲ盡シ 遂ニ修正カイロ宣言ノ受諾ヲ決スルニ至レリ。
若シ猶ホ 是ニテ爾等ノ憤激ヲ鎭メ得ザルナラバ 朕 自ラ新京ニ赴キ如何ナル処分モ甘受スル所ヲ 茲ニ公然ト宣ス。
然レドモ 爾等ハ朕ノ赤子ニシテ 朕ガ心ヲ盡ク信任スル忠良ナル臣民ナリ。
故ニ宜シク 擧國一體トナリ 同胞ノ情ヲ以テ相親シミ 子孫ニ相傳ヘ 志ヲ堅クシ 神州不滅ノ信念ヲ貫キ 任重ク道遠キヲ思ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾注シ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ堅持シ 以テ國體ノ精華ヲ顯揚シ 世界ノ進運ニ後レザラムコトヲ期スベシ。
爾臣民、其レ克ク朕ガ衷情ヲ體セヨ。
〜放送が終了する〜
この放送を傾聴した造反大陸日本軍の将兵は、天皇の何よりも厳しい覚悟を感じ取った。
また、その裏にある、自分たちや海を超えた列島に籠る卑劣な軟弱者たちでさえ、全て包み込むその愛情の深さに感激。
新京では、その放送を聞いた巡回中の日本から亡命した憲兵や軍の将兵は感激した。
声を聞くや否やピーンと背筋を伸ばし、目線を下へ向けて傾聴。
次第に土下座や敬礼姿勢をしながら、愛の深さを実感して顔を涙で覆った。
しかし、それは天皇に対してであった。
天皇が言われた内容に関しては、その文言を、畏れ多くも天皇にこのような文言を言わせた帝国政府に対してのさらなる強い不満と殺意を覚えるほどの憎しみや恨みを生じさせた。
なぜなら、あの受諾を決めたのは、東條英機や重光葵などの政府中枢部や残存大本営上層部であると、造反軍全体が考えていた。
それなのに、その責任を全て天皇に回帰させ、天皇に謝罪させだからだった。
また、全くの被害妄想であるのだが、造反軍大陸日本には、帝国政府や軍上層部が、
「自分たちも悪いがあの時その場にいた陛下も悪い、なんなら陛下が全て悪い」
「殺すなら陛下をまずは殺せ」
と暗に言っているように感じられた。
このことが、さらに造反軍が厄介になる一因だった。
ここで、事実として言っておく。
一番陛下や国体のことを考えていたのは東條や米内などの政府中枢部である。
天皇自身も戦争を早く終わらせたいと常々思っていた。
東條たちは、その天皇の心情と現状を鑑みて、一番理性的でまともな選択肢を取ったに過ぎなかった。
また、日本列島の人々からすれば、造反大陸日本軍こそが天皇の気持ちや私たちの気持ちを無碍にする逆賊であるとの認識だった。
また、現実をまともに直視できず、私たちや天皇のご心労を只々ふやす国賊で厄介者という印象を、帝国国民は持っているのである。
しかし、さらなる不満を口になどしてしまったら、さらに苛烈な措置や最悪には軍隊を動かされる可能性が、かなりの確率であった。
そのため、迂闊でも口に出して言えなかった。
また、本当にその思いを「直接的行動」として出してしまった場合には、
造反大陸日本軍隷下特務軍
造反大陸日本軍憲兵隊
造反大陸日本軍付属特別高等警察
造反大陸日本軍付属中央情報調査局
旧帝国陸軍防疫給水部(731部隊)
などの秘密部隊などを用いて、
拉致
拷問
強要
烙印
人体実験
などをされてしまう可能性が非常に高くあった。
再び生きて帰れる保証はなく、殆ど死んで帰ってくると思われていた。
そして、造反大陸日本軍は、実際においても、非常に残酷な特殊部隊や秘密部隊はもちろんだが、綱紀粛正部隊を20ほど保有していた。
つまり、それほど造反大陸日本軍は、日本列島や日本政府にさながら異様で病気のように執着していたことだ。
また、この玉音放送時の将兵や憲兵の様子についてよくわかるものがある。
1944年12月28日ーイギリスの報道機関が身分を隠し秘密取材を敢行。
ドイツ人男性とロシア人少女たちに取材をした。
その時の話によるとマリアと名乗る9歳のあるロシア人少女は次のように語った。
マリア「私の憲兵さんは、身長は185くらいかな。
私は、167cmで結構私成長が早いんだけどね。
それで19歳って言ってたかな?
んで、私のパパとママは超大金持ちで私の家は超大きいの。
で、憲兵さんはそのわたしの家の隣のあぱーとていう所に住んでいる冗談が全く通じなくて厳しい人なのね。」
イギリス記者「なるほど。」
マリア「なんだけど、憲兵さんは、私が暇そうにしている時とかは、いつも私を家に招き入れて遊んでくれたりとかジョークを言っても「コラっ」て笑って優しく怒ってくれたりしてくれるの。
それでね、その時の私は、まだハルピンから新京にきて右も左もわからなかった。
だから、そのせいで馴染めなくて悩んでいる時とか
「私、人見知りだからあんまり声かけにくいくて友達があんまりできないのっ」
って相談した時も優しく
「君は可愛いからすぐ友達ができるよ」
「勇気を持って声をかけに行くことも大切だ。」
って優しく的確な助言をしてくれたの。」
イギリス記者「うん。」
マリア「それで、その通りにやったらお友達ができるようになったの。
クラスというか学校全体の〈お姫様〉みたいな存在になっちゃって、他の日本人やドイツ人の男の子から告白されるくらいモテるようになったの。
だからね、憲兵さんのお陰で、わたしの人生は救われたの。
憲兵さんのお陰で、つまらない生活からと180度転換してとても楽しいものになったの。
だから、私も自然と「あ〜この人と絶対結婚したいな〜」って思うくらい好きになってるの。」
イギリス記者「だいぶん、お熱が入ってるね。」
マリア「それで、その日も、どちらの家からもすぐ近くにある憲兵所にね、憲兵さんは立っていたの。
そして、いつも仕事中は厳しい顔をしてジョークひとつ通じない憲兵さんを、私がまたいつものジョークで揶揄っている時にね。
あの放送が、街のスピーカーから流れ出したのよ。
それでいて、あれは、確か朝6時くらいだったかな?
それであの放送が流れ出して、男の人の声が聞こえた途端よ。
今まで見たことないような凛としたというか忠誠の眼差しで、南東の方に体を向け、ひたすら体を45°にピシッと傾けたまま、真剣に聞いていたわ。」
イギリス記者「日本軍人の忠誠心の高さは、天皇に対する忠誠心と一体であるのは有名だからね。〉
マリア「私はへ、今まで見たことない雰囲気を醸し出している憲兵さんの邪魔をしちゃいけないと感じたの。
だから、一緒にあの放送を聴いていた。
今の私からしたら、いつも話たり聞いたりしている日本語ではなかったのよ。
荘厳で古めかしく何を言っているかわからなかった。
けれども、憲兵さんの顔をじっと見ていると、彼の顔から涙が溢れ出していたのよ。
私は、憲兵さんをただ必死に慰めていたわ。
そして放送が終わると否や、憲兵さんは、ピシッと敬礼を10秒ぐらいかしらね。
南東の方向に顔を向けてじっとしていたわ。
こんなの唖然よ!
私は、彼のこんな一面を見たことがなかったから驚いた。
だけど、なんか少しだけだけどカッコよかったわ。
そして、憲兵さんになんで南東の方を向いてお辞儀しているの?
どういう事を放送で言っていたの?
どうしてあなたは泣いているの?
なぜ、あなたは少しだけ怖い顔をしていたの?
と興奮していたからロシア語も混じりながら聞いたわ。」
イギリス記者「そうしたら、どうだった?」
マリア「そしたら憲兵さんは、
「西の日本列島におわす僕らの皇帝陛下が僕たちのことを労い、心配してくれて、しかも陛下が責任を感じる必要はないのに申し訳ないと仰ってくれたのだ。
さらには、私はどうなってもいいから日本国民や日本国に危害を加えないでくれとも仰ってくれたのだ。
僕がお辞儀をしていたのは、命をかけて守るべき主君に敬愛の念を抱いていたからなんだよ。」
と答えてくれたわ。」
イギリス記者「ふんふん」
マリア「あと、いつもは「俺」とか「〜しろ」とかの厳しい口調だったけど、この時はとても紳士的ですごくときめいてしまったわ。
そして、なんで怖い目をしていたの?と聞いたら、
「君に答える必要はない」
と低い声と人を殺したかのような目で言われてしまったわ。
本当に怖かった!
でも、何とか勇気を振り絞って、
「頼むわ!どうか教えて!マリア気になって仕方がないの」
と言ったら、
「ひどい言葉を途中で使うかもしれないけど許してくれ」
と言ってその理由を話し始めたわ!」
イギリス記者「なるほど。」
マリア「そして、その理由を聞いたら、さっきの偉い人の下で、本当の意味で国を率いているトージョーっていう酷いやつがいてね。
憲兵さんたちがフィリピンと呼ばれる島で必死に頑張っているのに、勝手に「日本は負けました。」ていうカイロ宣言というものに判を押したらしいの。
しかも、そのトージョーって奴は、
「もう終わったから、日本へとすぐ帰れ」
って冷たい言い方で何もくれずに言われたんですって。
それを聞いた憲兵さんたちは、
「絶対、負けを認めない。」
って烈火の如く思ったらしいの。
更に、憲兵さんたちは。
「絶対トージョーを殺して、日本を世界に冠たる国に導く」
ってサタンになるぐらい気持ちで怒ったから、日本に戻らずこの土地に来たんですって。」
イギリス記者「.........」
マリア「なんてひどい話なのって思ってしまったわ。
これを聞いた時も私の心の中も憎しみと〈トージョーを殺したい!〉っていう気持ちで支配されたし、この気持ちは今もこれからもずっと変わらないわ。
連合国っていうのは、私の周りの女の子たちも、とっても憎んで、忌んで、恨んでる。
よく、その連合国がした悪いことを聞いたわ。
そして、絶対にわたしは日本の政府とその背後にいる連合国の悪魔の奴らを皆殺しにして、もう一回日本を勝利に導かないとって思ったわ!
そして、日本と天皇陛下を憲兵さんと一緒に救ってみたいわね。
あわよくば、憲兵さんと結婚したいわ。」
イギリス記者「なるほど」
マリア「これがマリアが話せる全部のことかな。
記者さん長い話聞いてくれてありがとね。
私はまた憲兵さんの元で遊んだりしてくるから!
バイバーイね!」
とのことらしい。
あ、ちなみに「憲兵さん」の本名は佐々木敏孝って言って、イケメンとのこと。
とまあ、めちゃくちゃ怖い話だ。
このイギリスの記者は取材を申し込んだ際に
マリア「おにいさん、どこの国の人?
ここの国の人じゃないよね。
もしかしてイギリス人やアメリカ人じゃないよね?
そうだというなら、にほんと憲兵さんのために今すぐここで殺しちゃうよ。
改めて聞くよ?
おにいさんはどっちの国の人間?
今すぐここで答えて、答えないのなら...」
と言われ慌てたふためいたという。
このイギリス記者曰く
「この僕に詰め寄った時の彼女の顔は、本当に目に光がなくて人殺しの目だった。
しかも、とても愛憎を具現化したかのような顔をしていたの。
そして、そのとてつもない日本とその憲兵さんへの愛と執着、またアメリカや我々に対する途方も無い殺意を感じた。
これは、とても9歳のブロンドの可愛い少女がしていい顔ではなかった。」
と同僚などに語っていた記録が例の報道機関の内部資料保管室にきっちりと残っている。
当然のことだが、この420万5000平方キロメートルの土地では、反連合国と反共産主義感情が嵐の如く猛威を振るっている。
そして、その反連合国と反共産主義感情の根城或いは中心源となっていることは、連合国側もわかっていた。
だからこそ、インドの会社でインド人と身分を偽っていたのがこの報道機関にとって幸いしたと言える。
もしイギリス人と言っていたら、この記者はマリアという少女にすぐ殺されただろう。
また、ある元ナチス親衛隊大尉で元戦争捕虜のドイツ人にも話を聞いたという。
それによると
旧親衛隊大尉「急にjapanの兵士が皆行動を停止し、日本の皇帝がいる方向へ向かって、ドイツ人の私から見ても立派できちんとしたお辞儀をしていた。
その規律の高さは目を見張るものがあり、それを見た時、私は、昔、父や近所のおじさんがヴィルヘルム陛下の名を聞くたびにピーンと背筋を伸ばしていたのを思い出した。」
イギリス記者「ほう。」
旧親衛隊大尉「その瞬間「あゝなるほど」と納得したものだ。
そして、その日本の皇帝も耳にタコができるほど、他のドイツ人から聞かされたよ。
彼らは皆興奮していて口節に「仕えるべき君主がただ1人現れた」とか「唯一の救世主が現れた」と言っていたね。」
イギリス記者「それは、君の部隊の「忠誠こそ我が名誉」の精神に反するのではないか。」
旧親衛隊大尉「今のヒトラーに、その言葉や精神を向けるのは似合わない。
今のドイツ人は、ヒトラーの無責任な戦略や戦線の設定で苦渋を舐める状況にあるからな。
しかも、今のヒトラーは、自分の責任を、
「ドイツ国民は私の期待を裏切った。」
と言って、ドイツ国民へと卑怯な責任転嫁しているからな。
「指導者原理に基づき、最終的な全ての責任は私が取る」
のあの良い文言はどこいっちまったんだ。」
イギリス記者「ほう。」
旧親衛隊大尉「まぁ私もヒトラーに絶望して、ここに来た身だ。
徹底的な日本化政策と日本語教育のおかげで、日本の皇帝を命をかけて守護し、命をかけて二枚舌野郎とカエル野郎を殺しまくれるような精神力にまでなったけどな、」
イギリス記者「それは言い過ぎでは無いのか。」
旧親衛隊大尉「あぁ、確かに言い過ぎだ。
しかし、今もイギリスやフランスの魔の手に対抗するため、ここの日本軍は尽力されている。
日本の皇帝も、イギリスやアメリカのクズどもに反抗して下さっているからな。
俺としても嬉しい話だ。」
イギリス記者「よほど、ここが気に入ったのですね。」
旧親衛隊大尉「あぁ、しかも、ここの日本軍は、我らドイツや盟友であるイタリアの捕虜のみならず、さらに、ヴィシーフランスやルーマニアとかさ、ドイツとかイタリアみたいな主要枢軸国以外の枢軸国の捕虜も全て受け入れてるんだろ?
しかも、良い所はそれだけじゃないんだぜ。
治安も良い。
国民皆保険も整備されている。
医療もばっちし受けれる。
とても綺麗なお嫁さんも選び放題。
しかも、たくさんの仕事や豊富な資源があって国土も広い。
経済も順次発展している。
将来の国を支える子供もたくさん生まれている。
しかもいざという時の保護制度も十二分に整っている。
これほど、地上の楽園な国が他にあるのか?」
イギリス記者「.........」
旧親衛隊大尉「今じゃヨーロッパ中の国民たちや枢軸国の国民に、枢軸国から中立国の軍隊の上から一兵卒に至るまで、さらに、全ての戦争捕虜やソ連人にまで、〈夢の国-マンチュリア〉として伝わっているらしいぜ。
多分、ドイツと連合国との戦争が終わった頃には、今、ここは「1億2000万人の移民を強制的或いは自由意志に基づいて集める」ことを計画し、順次実行に移していると思う。
だが、俺は、1億2000万人に追加で、6000万から8000万人くらいは、ヨーロッパやコーカサス・北欧・ロシアとかから来ると思うぜ。」
イギリス記者「なるほど。」
旧親衛隊大尉「さらには、ここの軍もこの場所と日本を守るという、とてつもなく〈怖いな〉とすら感じるぐらいの気概と忠誠心を日々見せている。
本当に最高の国だ。
あ、いや国じゃなかったな。
本当に最高な場所だな。」
イギリス人記者「ユダヤ人も多くおられるが、ユダヤ人迫害をしていたあなたたちにとってはどう思うのか、お聞かせ願えますか?」
旧親衛隊大尉「うん、ユダヤ人?
あゝあの迫害をされていた可哀想な人たちか。
俺はなんも関わっていないが、今でも強烈な追い出しや迫害政策に遭っているのは確かだ。
でも、確かヨーロッパ中のユダヤ人が1000万人くらいもう続々と来てるんだろ?
ここに。
まぁ仲良くやっていきたいところだ。」
イギリス記者「なるほど。」
旧親衛隊大尉「ところで君、さっきからのドイツ語のアクセントを見るに、どこかイギリス系の生まれのような気がするのだが、どこの野郎だ?
もし、イギリスやフランス人、アメリカ人なら...わかるよな」
この記者も、とても大変だと思う。
なぜなら、他のロシア人幼女に話しかけても
「連合国の人ならころしちゃうかもね。
おにいさんはどこの国の人?」
と聞かれる。
他の元ドイツ国防軍中将だったという人に話を聞いても
「君は、イギリス人か?
または、アメリカ人か?
(WaltherP39に手をかけながら)」
というように、すぐイギリス英語のアクセントを見せるだけで、殺そうとかかってくる。
この記者は気も休まらないと思う。
何しろ、この国に来てから半年も経てば、今まで何も連合国に何も思わないどころか、仲良くやっていた人でも気づけば、熱烈で狂信的な反連合国ま反共産主義思想の持ち主になっているというのだ。
それほどにまで、この420万5000平方キロメートルに及ぶ広大な大地を保有する1000万の造反大陸日本軍は、強烈という言葉では表せられない狂信的な、
洗脳
日本化政策
日本語教育
反連合国
反共産主義教育
皇室崇拝教育
を行っているということになる。
だからこそ、この造反大陸日本軍統治領に居住している1億7350万人を越える老若男女の殆ど全ての人が、熱烈で狂信的な、
日本の愛国者
皇室崇拝者
であり、苛烈で激烈で狂信的な、
反連合国
反共産主義の信奉者である
と結論づけることができるのだ。
しかし、この新聞報道により、造反大陸日本軍は世界から大きな注目を得られた。
更に、この報道を見た戦災区域(西中東欧)やその他の地域からの人々は、
「自由の中での不秩序よりも秩序の中の不自由」
を取ることを選択し、満州などの造反軍領地に転入した。
その人数(1億2000万人の移民とは別)は、1億8000万人に及ぶという。
12月31日ー最後の引揚船が、福岡県博多港に到着した。
良い機会だから、この1年間での在外邦人(民間人)の行き先を見てみよう。
造反軍側
満州在留日本人ー3944万人
+朝鮮在留日本人ー1324万人
+台湾・中国(満州以外)在留日本人ー3210万人
+内蒙古在留日本人ー856万人
+樺太在留日本人ー572万人
+千島在留日本人ー98万人
日本側
+台湾在留日本人ー20万人
+東南アジア在留日本人ー12万人
+太平洋諸島在留日本人ー10万人
+千島在留日本人ー8万人
つまり、
造反軍側ー1億人
日本側ー50万人
となるわけである。
お読みいただき、ありがとうございました。