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コンシェルジュの趣味と嗜好

 赤いモロッコ革の帳簿を見つけたので、イヴは家にあるものの目録をつくってみることにした。テレビが三台。清潔なシーツが百二十枚。瓶に詰められたキュウリのピクルスと真空パックの生ニシンが食糧庫にそれぞれ箱三つ。スモーク・サーモンの真空パックが箱四つ。ピンク色のイルカの浮き輪。白と赤のオーソドックスな浮き輪。様々な煙草が合計五百カートン。まだ焙煎していないアラビカ種のコーヒー豆が二十キロ。高級コールガール・サービスの電話番号を書いたメモが一枚。高性能ディスプレイを埋め込んだエセ暖炉。秘密の金庫からマリファナ十キロとコカイン二キロ。九ミリ・オートマティックと弾薬一箱。タックス・ヘイヴンに関する書類が一束。これらはここに住むはずだったコンシェルジュのためというよりは客のわがままを叶えるための物だった。コンシェルジュの性格を知る材料は書斎にあった。読書をしないイヴには何のことかさっぱり分からなかったが、それでも他にすることもないのでリスト化することにした。ハリー・マッケルホーン著の『ミキシング・カクテルのABC』。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』。ジョン・リードの『世界をゆるがした十日間』。ヘンドリック・パーマーの『エスペラント語作文のための類義語集』。ユーグ・パナシェ『ジャズ評論』のフランス語版。オーウェル『カタロニア讃歌』。科学雑誌の付録『PCR法の応用技術』。『世界の民謡・ウクライナとグルジア』。『ネルソン・マンデラ伝』。レイチェル・カーソン『沈黙の春』。夏目漱石『夢十夜』。ロシア語学習用に英語併記されたチェーホフの『熊』。『アラブ飲酒詩全集・第二巻』。『パンセ』の抜粋文庫版。デジタル・バーバリズムに関するパンフレット。チベット仏教の入門書。ジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』……。コンシェルジュは乱読家で目についたものを片っ端から読んだらしい。ボール紙みたいなカバーのほうが分厚いくらいの安っぽくて恐ろしく短いポルノ小説もあった。どの本も書き込みがされていたが、それは文字ではなく記号の羅列だった。意味を解くことはできないが、辛抱強く眺めると、ある種の法則に従って、記号が用いられていることがわかる。コンシェルジュはここで新しい言語をつくっていたのだ。

 イヴは想像した。客のやってくることのないこのリゾート地で、コンシェルジュが一人、夜の波の音をききながら、緑のシェード付きのランプの下でいくつものノートに記号をかきつけ、関連をもたせ、自分だけの言語を創造し、それに打ち込んで寝ることも忘れていた。朝日に色づいた雲の数を数え、それを言語体系に組み込むために砂浜を散策しながら考え、思いついたことを片っ端から書きつけていた。こうして世界一美しい牢獄に囚われたことを忘却し、現代社会の構成員らしからぬ無限に思える時間をたった一人が読み、発音し、綴る言語のために費やしていった。それは世界の再定義だった。海の色を表すだけでも三十通りの言葉をつくることができるし、空の暮れる静けさのためにとっておきの韻を使うこともできる。

 イヴはそれ以来、この個人言語の解読を始めた。それを始めようと思ったイヴの脳裏には今やイヴの記憶のなかにだけ存在する海に渦巻く広大な光の輪があった。この言語もイヴが解明しなければ、あのホタルイカたちのように失われてしまうのだ。

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