ホタルイカ
大陸を満たしたコーヒーの香りが去ると、殺し合いに拍車がかかって、子どもたちは死んでいった。海のそばにいるのはイヴ一人だけだった。今や南米大陸の東海岸全てが彼女のプライベート・ビーチとなったのだ。
アーサー・ウィンリッジのリゾートのなかで唯一建物の態をなしているのはコンシェルジュの家だけだった。オランダ・コロニアル様式の家は家具を残して思い出だけが流砂に吸い込まれた空虚であった。客がやってくるはずのないリゾートで、図る予定のない便宜だけが虚しくたたずむ家を、イヴはクラウディオを待つ住居とした。今やイヴはクラウディオが海を目指していると確信していた。それは海の持つ神秘の深さとは関係がなかった。イヴが海にいるというその事実一つがクラウディオを海へと駆り立てているのだ。そして、少女が少年と再会するとき、どこまでも青い海がふたりの背後を飾ることが海の義務だと思ったからだ。
「さあ、よく見てみなさい」パランテロ先生が手のひらで指し示した。「きみは世界でもっとも大きなゴミ箱の前に立っている。そのゴミ箱は鏡でできていて、ゴミを捨てるときのわたしたちの顔を映している。昔、新聞で読んだのだが、コーヒー豆が値崩れを起こしそうになると、ブラジル政府は価格統制の一環としてコーヒー豆を海にまいて捨てたそうだ。暗い海底でコーヒーの種が光を待っている。芽吹くために。モーゼのような男が海を割ってくれるのを待っている。わたしたちが海に棄てたもの、全てが光を待っているのだ。正義、子どもたち、節度、他者への同情、愛。全てが光を待っているのだよ」
イヴは海を見た。積乱雲が安楽椅子のように傾き、荒天で水平線の彼方をかき混ぜながら、南へ滑っていた。空に雲はそれしかなかった。雲は内部から湧きだす形で位置を変えながら前進し、古い雲は後ろに下がり、海面すれすれに押しやられて青くぼやけた影となって薄れていった。雲が遠ざかるにつれて青い影は這い上がり、雲の塔を覆いつくし、忘却めいた消滅の悲しさをよぎらせて、大気に溶けた。落日が叢林に沈み、空は薔薇色に燃え上がった。天球には純粋な灰のような星がかかり、既に黒ずんだ海にはパランテロ先生が言った通り、星の影が映る。その光が海の底まで届くかどうか、イヴには分からなかった。
それにどんな意味があるのか分からないまま、イヴはガスマスクのなかの小型エアタンクを作動させると、夜の海にゆっくり身を浸し、体をひねって海中に潜った。吐き出した息が泡となり、海面を貫いて差し込んだ月の光のなかで銀色に輝いた。水を蹴って潜るに連れて、光が細り、やがて消え、イヴは完全な暗闇に閉じ込められた。冷たい水のなかで上下左右の感覚を失った。自分が空を見上げているのか、海底を見下ろしているのか分からなくなった。体はゆりかごのようにゆったり揺れ、マスクのなかに酸素の薄さを感じ始めた。ふと気を失ったクラウディオと唇を重ねたことを思いだした。そして、エアの残量がなくなると、イヴはマスクを外して捨てた。そして、人差し指を自分の口に当てた。まるで葬儀場での静粛を願うように。薄れ始めた意識のなかでイヴは闇のなかにぽつんと青い光を見た。そして、一つの光から神経の電荷のように何かが波のように伝わって、何万という青い光が現れた。光は群れて渦を巻いた。イヴはその渦に巻き込まれ、気づくと、青い光の群れは静止した星空に変わっていた。
仰向けになって海面に浮いていたイヴは大きく息を吸い込み、意識をはっきりさせた。海面では徐々に彼女を中心にして何万という青い光が現れて、公転する惑星のようにまわっていた。それは空の星が消えてしまうくらい明るく、恐らく上空から見れば、粒子物理学の教科書みたいな直径数キロに及ぶ光の回転を見ることができただろう。イヴが光の一つをすくい取ると、小さなイカがその透明な体に二列に並んだ発光器を光らせた。そのとき、沖合から小さなマグロの群れが現れた。最初、ほんの数十センチ足らずのマグロの群れはホタルイカの群れの外周をまわりながら、群れからはぐれたイカを捕食していた。マグロは大胆になり、自分たちの群れをもっと内側へと斬り込ませた。襲われたイカたちはパニックに陥って強く光り、なすすべもなく食べられていった。だが、他のイカたちは慌てることはなかった。イカのほうがずっと数が多かったからだ。ホタルイカは海の上に広大な光の国をつくっていたのだ。だが、モンゴルのハンたちのように貪欲なマグロたちは捕食をやめず、ついにとうとうホタルイカの群れを完全に包囲してしまった。ここにきて、ホタルイカは重大な危機を認識したが、彼らはひたすら光り続けた。それ以外に知っていることがなかったのだ。ホタルイカたちはいつかマグロも腹を満たし、去っていくと思っていたが、マグロは去るどころか数を増やし、食べられたホタルイカは海中に光の余韻を残して消え去り、光の輪はどんどん縮んでいった。イヴの目の前で最後の一匹が食べられたとき、海はまた黒く沈み込んだが、空に星が再び現れることはなかった。東の海から日が昇り、星を消滅の檻に閉じ込めたまま、空の闇が払われたからだ。
こうして空と海の光をめぐる寓話は幕を閉じた。




