『門』について
序.『門』について
『門』についてはいろいろな本に書かれているし、門をめぐる戦争もまたいろいろな本に書かれている。だが、本当に『門』について知っている人はほとんどいないので、『門』がなんであるのか、実際のところよく分からない。ちゃんと物質として存在していたのか、それとも精神に働きかける抽象的存在なのかと意見が分かれるし、その議論は延々と続けられているが、出口は見つかりそうもなく、学者やジャーナリストたちは途方に暮れている。ある狂信家は『門』そのものが重要なのではなく、『門』をめぐって起こった出来事に神の御業が隠されていると言った。あながち、はずれでもないのかもしれない。
ただ、パナマ運河の南岸からマゼラン海峡まで、いわゆるラテンアメリカは『門』が完成する(あるいは完成したと思われる)前から破綻していた。滅亡していたと言ってもいいだろう。政治システムが行き詰まり、経済は崩壊し、人々は虐殺された。生き残った人々は難民という無気力な洪水となって他の大陸へ流れ込んだ。国家は消えてなくなり、小さな組織が乱立し、戦いのほとんどは近接武器(原始的なものから最新の秘密兵器まで)、あるいは超能力でもって行われていた。実際、交戦団体も超能力者も聖人の数ほどいたのだ。そうした交戦団体たちは同盟するという考えをさっぱり存在持たず、ただひたすらに殺し合った。それもこれも『門』を独占するためだったのだが、殺し合う本人たちは『門』がなんであるのか知らないのだから、噴飯ものであった。
『門』をめぐる戦争は実質的に二年足らずで終了した。一人の少年と一人の少女を除き、戦闘員が全滅したのだ。だが、最後には奇跡が起きた。生き残った二人はそれぞれ別の組織に属していた。つまり、『門』をめぐる戦争はクラウディオ・レイとイヴ・カシワ、この二人のあいだで取り交わされた和平プロセスがきっかけになって終了したことになる。これは意外だった。『門』をめぐる戦争が行われていたあいだ、世界じゅうの人々はその戦争が飢えた犬が自分の腹からはみ出した臓物を食らおうとするようにして、終わると信じていたからだ。聖書原理主義者たちはしきりに残念がった。もし、クラウディオの名前がアダムなら、『門』をめぐる戦争はこれ以上にない再生世界の寓話になったのだから。