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煌めく光を追って


「あなたを買うわ!」


 とある森の奥、ブロンドの髪を肩でなびかせ、青い瞳を輝かせ、華麗なドレスに身を包んだ()()が腰に手をあてながら高らかに言い放つ。


 その少女の正面では、腰までかかる長い黒髪の間から銀色の煌めきを散らす美しい羽を伸ばした()()が切り株を椅子の替わりにして座りながら、黒い瞳を細めながら大きなため息を吐く。


「はぁ?ボクを買うって?」

「ええ!あなたを買いたいの!」


 精霊のあからさまな態度を意に介さないように、再び自身の目的を告げる。まるで、断られるとは思ってもいないようだ。


「この羽が見えないのかい?ボクは精霊だよ。そんなボクがこの森を離れて君の屋敷に行くとでも?」

「だから、あなたを買うと言ったの!安心して。資金は充分にあるし、衣食住、このすべてにおいて不自由はさせないから!」


 精霊は顎に手をあて、考える振りをする。数秒、黙り込んでから口を開く。


「なるほど、良い待遇だね」

「そうでしょう!そうでしょう!」

「けど、それを了承するには一つ条件がある」

「何かしら?可能な限りは叶えるわ」

「衣食住の内、住に関してはこの森を指定する。それだけだ」


 地面を指差しながら、無理だろう、とでも言うような悪戯な表情で精霊は微笑む。それはそうだ、元より少女は精霊を屋敷に迎えるためにこの交渉をしているのだから。


「じゃあ、ごめんなさい。住に関しては諦めて!他のことなら好きなようにしていいから」


 精霊はまた、ため息を吐く。初対面の相手に、この数分で二度もため息が漏れた。このまま会話を続ければ、一体あと何度ため息が出ることやら。


「ボクの意図を理解できなかったみたいだね。遠回しにこの森から出る気はない。君の屋敷に行く気はないって言ったんだ」

「面倒な人ね。わざわざ遠回しに言うなんて。はっきり言いなさいよ」

「なっ!?」


 精霊は思わず目を見開く。この世界で精霊といえば高貴な存在だ。そんな精霊に対して「あなたを買うわ!」という度し難い発言を聞き流したというのに、加えて面倒と言うとは。これには長命な精霊も驚きだ。


「面倒…だと?やんわりと断ってやったボクの気遣いを無下にする気か!というか、ボクは人ではなく()()だ!」

「そんな気遣いをするくらいなら大人しく私に買われなさいよ!長生きでも森に籠ってるから世間知らずなのね!」

「一度ならず二度もボクを愚弄するか…!もういい、君とはもう話さない。さっさと帰ってくれ」


 鬱陶しがるように手を払う。体ごと少女とは反対を向いて、これ以上の会話の拒絶を示している。


「勝手に終わらせないで!私はまだ───」

「いいや、終わりだ」


 少女の顔の前を精霊の手が横切る。その手からはキラキラと銀色の輝きが舞い、その輝きは少女の前でより一層光を強くする。


「──話が……えっ?」


 続けて言った言葉は少女の他には誰にも届かなかった。先ほどまで目の前にいたはずの精霊は姿を消し、少女は一人、森に立ち尽くしていた。


「なぁー!いなくなったー!」


 少女は緑生い茂る地面を蹴って、森の奥へと再び進む。しかし、木々の間を通り抜けた先は屋敷が見える森の入口だった。


「ぬあぁーー!!惑わされたぁーー!!」


 精霊の惑わしにより、強制退出。その日は取り付く島もなく、少女の完敗だった。


 ……


「あなたを買いたいの!衣食、何一つ不自由のない暮らしを約束するわ!」


 惑わされ、追い返されても、次の日には何食わぬ顔でやって来る。そして、こうして変わらず屋敷に招こうとする。


「肝心なことが一つ抜けているようだけど?住はどうした」

「屋敷、または私と同じ住居でなければ認めないわ!」

「横柄だね」


 両者ともに、昨日と変わらず向かい合っている。少女の服装は変わっているが、その態度、その口調、その要求、ほとんど変わっていない。腰に手をあてて、ふんぞり返っているのも同じだ。


 そして、精霊の方も昨日と変わらず、椅子替わりの切り株に座って、美しいその髪、その羽、その佇まい、全てを備えている。


「まったく、何が不満だと言うの?屋敷に来れば、好きな服、好きな食事、好きな物が手に入るというのに」

「その中にこの森は入っていないようだからね。ボクは精霊なんだ、元来、森で生きる種族。人間社会で生きていけるわけもないし、そんな気もない」


 魅力的な提案、のつもりの少女だが精霊には全く響かない。どんな高価な服より、食事より、品物より、精霊は森を選ぶ。


「それと、もうこの森には来ないほうがいい」

「いいえ、来るわ!」

「…精霊の加護があるとはいえ、この森にも魔物が生息している。君みたいなひ弱な人間が一人では、いつか危険な目に遭うだろう」

「それでも、来るわ!」

「来なくていい」


 精霊が手をかざす。キラキラと輝く銀色が少女の目の前で煌めく。これは昨日と同じ、少女が精霊と別れる直前にあったものだ。


「待っ───」


 また、一瞬にして目の前の景色がわずかに変わる。辺り一帯が木々に囲まれている所為で分かりにくいが──


「──て……また惑わされたぁーー!!」


 再びの来訪も歓迎などされず、会話もそこそこに森の入口へと帰された。


 ……


 どれだけ惑わされようとも、少女が諦めることはない。何度も、何度も、何度でも精霊のいる森へと足を運び、頼んでは断られ、交渉すれど断られる。


 飽きることなどなく、呆れられようとも森に入り、精霊の元へとやって来る。そして決まって最初にこう言うのだ、「あなたを買いたいの!」と。


 毎日、森へ向かい精霊と会い、話し、追い返される。そんな日々は続き、早いもので七日が経っていた。


 ……


「懲りずに今日も来たのかい」

「ええ!今日こそあなたを買うわ!」


 いつも通りに堂々とした態度だが、精霊は違和感を感じていた。空を見上げると、この七日の内では最も遅い時間にこの森に、精霊の元にやって来ていた。日の位置がずいぶんと低い。これではすぐに森の中は暗くなり、魔物がうろつくことだろう。


「今日は随分と遅い時間だね」

「ええ、まぁ。これでも私は暇を持て余しているわけではないの」


 よく見てみると、少女のドレスの裾が土で少し汚れている。急いできたのか、頬にもうっすらと汗が滲んでいる。


「それならここに来るのを止めればいい。そうすれば、自ずと時間ができる。森に来なければ、焦ってうろうろと彷徨うこともない」

「あなた、私の居場所が分かっているの?」

「森に入ろうなんていう奇異な人間を見ているだけだよ」

「心配しているのぉ~~?」


 何を思ったのか、まるで見当違いなことを言い始める少女に精霊はため息が出そうになる。もう数えるのも面倒になって久しい。


 だが、そんな精霊とは対照的に少女の口角がじわじわと上がっている。


「森が暗くなる前に帰れ。魔物と闘えない人間は特に」

「まだ全然話してな───」


 もう何度も見た光景。かざされた手から落ちる銀色。刹那の内に変わる景色。また、精霊の惑わしで森の入口へと帰った。


「──い…っていうのに、もぉーー!!」


 いくら地団太を踏もうとも、精霊は応えず、履いている靴が、着ているドレスが汚れるだけ。


 ……


「今日こそはあなたを買うわ!」

「はぁ…君も飽きないね。ここまで拒んでいるのに諦めないとは」


 日が沈み、また昇れば、こうして少女はやって来る。どんな態度をとられようとも、素っ気なく追い返されようとも。


「そんなに嫌ならいつもみたいに、私がここに来ないように惑わせればいいじゃない。そうすれば私は諦めるかもしれないわ」

「ボクを君と同じだと思わないでほしい。そんなことはとっくの前からしている。しているが、それでも君はここに辿り着く。一体、どういう訳なんだか」


 やれやれと精霊が肩を竦める。どうやら、惑わしても惑わしても、少女はそれを搔い潜るらしい。そして、決まって精霊の元へとやって来る。


「そう、私はあなたの惑わしが効かないのね。……へぇ~?」


 新しい事実を聞いて、少女の口はニヤニヤと端が上がる。それを見て、精霊は手を広げる。


「効いていないわけじゃない。いつもボクが惑わして送り返しているだろう」

「あー!まだ待って!ちょっと待って!今日は良いものを持ってきたの!」

「良いもの?」


 煌めいていた銀色が弱まり、消えていく。どうやら、少女の言葉に興味を引かれたらしい。


「そう!お菓子を持ってきてみたの。残念ながら、お茶はないけれど」


 そう言って取り出した袋を広げて、その中身を見せる。中にあるのは、丸い形をしたほんのり甘い焼き菓子。菓子の中では定番で人気のものだ。


「焼き菓子…ねぇ」

「食べてみて、おいしいから。それに、これからは屋敷の料理を食べることになるから、慣れておいてもいいと思うの」

「いや、そもそも精霊は人間のような食事は必要としない。というか、ボクが君の屋敷に行く前提で話をしないでほしいね」

「まぁまぁ、必要ないってだけで食べられないわけではないでしょう?私も食べるから」


 広げた袋から焼き菓子を一つつまみ、口へと運ぶ。それをおいしそうに咀嚼し、また勧めてくる。


「はぁ…食べたら潔く帰るんだね」

「ええ、全部食べたら帰るわ」


 珍しくお互いの要求を口論もせずに受け入れた。


 二つ目の焼き菓子を咀嚼しながら、精霊が問いかける。


「君はどうして、執拗にボクを買いたがる?精霊が珍しいとはいえ、探せば他にもいるだろう。ボクでなければ、君についていくものはいると思うけど」


 問いを投げ掛けられた少女の口には、焼き菓子が詰め込まれていて上手く話せず、もごもごしている。静止するように手を挙げながら、急いで咀嚼して飲み込む。咳払いを一つして話し始める。


「他の誰かではダメなのよ。あなたでなければ」

「どうして?ボクは特別な精霊でもない、至って普通の精霊だ。ボクである意味が分からないね」

「そもそも、私はあなたが精霊だから買いたいわけではないの。その様子だと覚えていないようだけど、私は昔にあなたと会ったことがあるわ」

「ボクと君が?」


 またしても新事実。精霊からしてみれば、全く覚えがない。あの日、突然森に入って来て、不躾な要求をした時が初対面だとばかり思っていた。だが、どうやら違うようだ。少女が嘘を言っている感じもない。


「ええ。私がまだ小さい頃、この森で迷子になったことがあったわ。今とは違って小さいから冷静な判断が出来ず、森中をさ迷い歩いた。そうやって何時間も歩いていれば当然、辺りは暗くなる。そうなれば、出てくるのは───」

「魔物」

「そう。私は数匹の魔物に目を付けられた。恐怖で震えて、逃げ出すことも、声を上げることも出来ずに、へたり込んでいた。そんな私の前に現れたのが、あなただった」


 ()()()()()()


 感謝するかのように、羨むかのように、感情に浸り、今までに見せたことのない大人びた可憐な表情をする。


 人間との関わりが少なかったとはいえ、長く生きてきた精霊ですら、その笑みに言葉が続かない。初めて見るその感情に、精霊はただただ目を奪われた。


「その後、あなたは魔物を一掃して姿を消した。私は追いかけようと木々の間を走ったけれど、辿り着いたのは森の入口だったわ。今思えば、あれはあなたに惑わされたのでしょうね」

「……そうか。だとしても、そこまでボクに固執する君は恐ろしいね」

「それほどまでに衝撃的な出会いだったということよ。あなたは忘れたみたいだけれど」

「まぁ、思い出話を聞かされたところでボクは変わらない。それと、もう日が落ちる。そろそろ帰る時間だね」

「そう、残念。もう少し思い出話がしたかったわ」


 もう幾度となく見たいつもの最後。少女の前に銀色が散りばめられる。その輝きの隙間から、朧気に微笑みが見えた気がした。


 ……


 その日、少女は多忙を極めていた。家柄の良いお嬢様というのは、往々にして忙しいものだ。そして、既に日課のようになっているとはいえ、見るからに日が傾いてから森に入るべきではなかった。


 背の高い木に囲まれた森の中では、草原よりも早く辺りは暗くなる。そんな森の中、それも暗がりでは、道が分からなくなるのは必至。


 少女は二度目の迷子となった。


「うぅ…どうしよう…どっちに進めばいいのやら。明かりになるものも持っていないし…」


 既に視界はないに等しい。月明りがあるものの、それは高い木々に阻まれて、時折にしか届かない。


 その時、少女の後ろで物音が聞こえる。草木をかき分ける音、何かが近づいている。


 光はなく、闇一色の森に現れるとすれば、考えられるものは二つしかない。


 怪しく光る双眸が闇の中に浮かぶ。そしてそれは、一つや二つでない。無数の怪光が、次々に現れる。


「魔物…」


 その数は十を超えている。これだけの魔物の相手は、戦い慣れている者でも難しいだろう。戦いを知らず、その術すら持たない少女では何もすることはできない。


「いや…来ないで…!」


 魔物の唸り声が耳に届く。視界いっぱいにいる魔物の声に少女の足は竦んでしまう。また声を上げられない、また逃げ出せない、また───


 魔物の一匹が少女に目掛けて、飛び掛かる。その鋭い牙を開き、嚙みつかんとする。何もできない少女は目を瞑るしかない。数瞬の後に来る痛みを押し殺せるように。


 だが、そんな痛みはいつまで経っても訪れない。そんな恐怖と疑問を抱きながら、ゆっくりと目を開く。


 開かれた少女の視界に飛び込んできたのは、一本の剣だった。その剣は、いつか見たものと、最近よく見るものと、よく似た銀色の輝きを放っていた。


 宙に浮かぶ銀色を散らす剣には、先ほどまで少女に襲い掛かろうとしていた魔物が突き刺さっている。それでも、魔物たちは後ろに退くことはせず、再び飛びつく。


「まだ、やるのかい」

「!!」


 状況を理解できないでいる少女の後ろから声が聞こえる。その声に反射的に振り返ると、今度はさっきまで向いていた方で強烈な光が甲高い音と共に放たれる。


 もう一度振り向いた時には、そこには何もいなかった。十を超える魔物も、その肉片すら残ってはいなかった。


 ──助けられた。あの時と同じ。訳の分からないまま命の危険を感じて、刹那の内に助けられる。ただ、唯一違うのは、まだ残っている。どこかに消えたりしていない。


「助けるのは、これで二度目…かな?」

「どう…して…」

「それはこっちが聞きたいね。どうして、こんな時間に森に入った?魔物の危険は知っていただろう?ボクも教えたというのに」

「ごめんなさい。その、今日はあなたに会ってなかったから…」

「はぁ…じゃあ、もう会ったから帰ろうか」

「待って!まだ…」


 少女は精霊の手を押さえる。まだ話していないことがある、まだ伝えていないことがある。それなのに、今別れては伝える機会を逃してしまう。


「なぜ、ボクの腕を掴むんだ?そんなことしてないで、早く立って」

「え…?」


 少女は困惑する。てっきり、いつものように惑わされて、追い返されるものと思っていたから。だが、よく見てみると、精霊の手には一切の輝きがない。つまり、惑わす気などなかったということだ。


「何を呆けている。屋敷の近くまで送ると言っているんだ。それとも、腰が抜けて立てなくなったかい?」

「ば、バカにしないで!このくらい…なんとも……」


 そう強がっても、感じた恐怖がすぐに消えるわけでもない。命の危険ともなれば尚更だ。


「そんなに怖いなら、手でも繋ごうか?それで気が紛れるなら、だけど」

「………えぇ、お願いするわ」


 力なく上げられた左手が、そっと握られる。瞬間、少女の口元が少し綻ぶ。


 ……


「ありがとう、助けてくれて」


 繋いだ手から伝わる体温に、自然と感謝が溢れる。機会を逃すと思っていたその言葉は、そんなことを考える余地もなく、容易く、されど確かに紡がれた。


「やけに素直だね。全く君らしくもない」

「本当に感謝しているからよ、今も、あの時も」


 繋いでいる手に、ほんの少し力が入る。それが、感謝からなのか、安堵からなのか、はたまた恐怖からなのかは精霊には分からない。


 僅かに漏れる月明りに照らされながら、二人は歩く。気のせいか、先ほどまでよりもその光は強く見える。それは隣に精霊がいるからか、それとも恐怖が薄れたからか。少女には分からない。


「ねぇ、どうして私を助けてくれたの?あなたにとって、私は助ける価値があったの?」

「さぁね、君の価値はボクの主観では判断できない。だけど、理由なら言える」

「…どうして?」

「誰かと話す時間っていうのが、意外にも悪くない。そう思ってね」

「…でも、それなら私でなくとも、あなたと話したいと思う人はいると思うけれど」


 その言葉に少女の感情は複雑になる。自分と話すことを嫌っていないことを喜ぶべきなのか、自分という個人には触れないことを悲しむべきなのか、それとも、精霊が前向きになったことを祝うべきなのか。どの感情をとればいいのか、少女には判断できない。できないから、答えを求めて聞いてしまう。


「そうかもね。でも、他の誰かではダメなんだ。君でなければ」

「え…?どうして…?私は特別な人間ではないわ。多少、家は裕福だけれど、貴族でもなければ、王族でもない。人と話すのに、私である意味が分からないわ」


 少女は戸惑う。その戸惑いから、なぜか自身を否定する言葉ばかりが口を突いて出る。


「はぁ…まったく。ボクは君が人間だから助けたわけじゃない。この森には他に生物らしい生物はいない。いるのは魔物くらいだ。だから仕方ない、誰かと話したい場合、君と話すしかない。だから、君を助けた。あぁ、仕方ない。こればっかりはボクにはどうすることも出来ないからね」


 ()()()()()


 仕方ない、仕方ないと言うその横顔は、口ぶりとは裏腹にどこか嬉しそうに見えた。そんな初めて見る表情に、少女はただただ魅入ることしかできなかった。


 二人、並んで歩く。既に、少女から恐怖は消え、寒さも消えているが、それでも手を離そうとはしない。それがどちらの意思なのか、それともお互いにそう思っているのか。


 そんな何にも代えがたい時間も、歩いているのだから終わりを迎える。立ち並ぶ木々の間から、遠くに明かりが見える。屋敷の明かりだ。


「もう大丈夫だね。この距離なら一人で帰れるだろう」


 精霊の掴む手が緩み、離れかける。が、少女がもう一度強く握る。


「待って!あ、あなたにお礼がしたいの。だから…その…屋敷でおもてなしを…したいのだけど」

「必要ない」

「っ!!でも…!」

「また、来てくれればいい」


 少女の左手を、今度は両手で包み込む。そして、もう一度、優しい微笑みが少女にだけ向けられる。


「絶対に、絶対にまた行くわ!明日よ!明日、あなたのいる森に…」

「ああ、いつもの場所で待っている。ほら、迎えが来ている。今日はもう帰るといい」


 屋敷の方を見ると、誰かは分からないものの何人かが、少女の方へと走ってきている。


「あ、ありがと…う?…あれ?」


 今一度の感謝を伝えようと、振り返った森には誰もいなかった。握られていた手も、いつの間にか解けていた。


 だけど、恐怖は感じない。まだ、この手には握られていた温もりが残っているから。


 ……


「こんにちわ」

「ああ、懲りずに今日も来たのかい」

「ええ、私の最大の楽しみですもの」


 少女が迷子になった日から、数日。あの次の日からも、少女は欠かさず森へ入り、精霊との会話を楽しんでいる。


「ねぇ、やっぱり不公平だと思うわ」

「何が?」


 少女の持ってきた焼き菓子を頬張りながら、精霊は続きを促す。


「私ばっかりが森に来ているじゃない。たまには、あなたが私の屋敷に来てくれてもいいと思うの」

「君の屋敷に行ったら、何をされるか分からないからね。もしかすると、檻に入れられるかもしれない」

「そんなことするわけないでしょう!仮にも命の恩人にそんな無礼な真似はしないわ!」

「ボクを買うと言っていたあの宣言は無礼じゃないと?」

「それとこれとは別よ。えぇ、別なの」

「都合のいいことで」


 精霊は呆れながら、もう一つ焼き菓子を口に運ぶ。


「でもまぁ、考えておくよ。例えば、君が忙しくて昼の内に来れなかったら、夜にでもボクが君の方へと行こう」

「本当に!?約束よ!絶対の絶対よ!」

「ああ。だけど、屋敷に招きたいからとわざと来ないのは無しだ。そんなことをしても、ボクは分かるからね」

「嘘なんて吐かないわ!でも、その時が来たら───」




「──私はあなたを買うわ!」




 今日も森には楽し気な話し声と笑い声が木霊する。その声を聴き、緑は祝福するように揺れ、より鮮やかに色彩を放つ。


 少女と精霊、この二つの声はいつまでも森で、時には別の場所で響き続けた。


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