互いの気持ち
人気のない都の中を駆け抜け、このティワンの首に入るときにくぐった門のところまで来てしまっていた。長く続く石段、下へ続くその果ては大いなるサグ河。その大河を船に揺られれば、行き着く先は私の故郷だ。
帰れない……。
真っ先にそう思った。もうあそこは私を受け入れてはくれないだろう。ワゾンのための道具として送り出されたものを役目を果たせず戻っては、女王の顔に泥を塗るようなものだ。
女王の加護を失い、はぐれものになるくらいなら、ワゾンへ帰らずともいいとさえ思った。だが、それならどこへ行けるというのか。いっそ身投げしてしまえたらと、急な石段を恨めしく見下ろした。
「サンタラ!」
セイ王の声に私は振り返った。息を切らし、真剣な顔をしたセイ王は、私に手を差し伸べて言った。
「行かないでくれ、サンタラ。何がそなたを失望させたのか、我にはわからぬ。だが、話してくれればそれを取り除けるやもしれぬ。だから……戻ってきてくれまいか」
「王……」
「そこは危険だ、せめてもっとこちらで、平坦な場所で話をしよう」
激しい風が吹き、私の衣服の袖を翻らせた。煽られて倒れたらこの石段を転がり落ち、頭を打ち付け死ぬだろう。だが、どこにも行く宛のない私の向かうべき場所はもう、そこしか残っていないのかもしれない。
「サンタラ……!」
「ご安心ください、王。私はもうワゾンへは帰れない身です、同盟は必ず成し遂げます、ご心配なさらないでくださいませ」
そう、せめて婚儀は成功させないといけない。貢物は貢物らしく、ただ束の間、主を楽しませればそれでいい。いずれ見向きもされなくなればその時こそ、私の役目が終わるのだろう。
「そのような顔をするな……。どうすればそなたの心を晴らせるのだ?」
セイ王が私の手を取り、引き寄せた。彼の腕の中に収まりぎゅっと抱きしめられると、その温かさと力強さに涙が出そうになる。取りすがってしまいそうになる……!
「元々、ここへ嫁いでくるのは、私ではなかったのです」
絞り出すように、振り払うように、私は秘密を打ち明けた。或いは、これは暗黙の了解だったのかもしれない。だが、私たちの間ではまだ取り沙汰されていない問題だった。
「知っている」
「ああ……!」
セイ王の低い声に、私は耐えきれなかった熱い息を吐き出した。
「私は姉の身代わりとしてここへ来ました。政治の道具として、ここへ来たのです! 私の役目はワゾンの益になるよう、貴方を誘導することだった、それなのに、私の立場ではそれが、できない……! 私も、私の生むであろう子も、ワゾンの為にならないのなら、ここに私の役目などあるものでしょうか!? 私に価値など、あるものでしょうか……」
まるで高波が押し寄せるように、口から言葉が飛び出した。ああ、後はもう引くだけ。砂地を抉って攫っていくだけ。私たちの関係はこれで終わりだ。もう彼は優しく笑いかけてもくれないだろう。
「セイ王、どうか。捨て置いてください。私のことなど」
「なぜ、そのように言う?」
「私に呆れておいででしょう。ただでさえ、見目も良くない娘が、ティワンを裏から操ろうなどと、こんな風に大それたことを考えていたなんて。これでも貴方様に好かれるよう、勉強もして、努力はしてきたつもりなのです」
「何をそんな、我はそなたに呆れてなどいない。見目が良くないなどと思ったこともない! むしろ我は……!」
両肩に手が置かれたかと思うと、セイ王の身体が離れた。つい頭を上げれば、そこには少し怒ったような顔をした年齢相応の青年がいた。
「王……?」
「我ら王族の結婚に政治的な要素は付き物だ、何も卑屈になることはない、己の国の益を考えて何が悪いのだ。急な代役で知らない土地に連れてこられ、それでもそなたはよく頑張っていたではないか。うら若き乙女が、たった一人で!」
本心からの言葉に聞こえるのは、私がそうであってほしいと望んでいるせいだろうか。セイ王の情熱的な視線に貫かれ、私の頬に火照ったような熱が上る。
「そなたの見目が悪いなどと、誰がそんなことを思うものか。むしろ我は一目見たあの時から、そなたの美しさに心奪われ、そなたの姿が目に入る度に喜びを感じていたというのに! 国のための結婚ゆえ相手には何の期待もしていなかったが、そなたは神が我に与えてくれた運命なのだと、そう思ったのだ、サンタラ姫」
「お、お戯れを……」
「からかってなどいない、本当のことだ」
どこまでも真っ直ぐなセイ王の心が視線に乗る。私の秘めていた恥ずかしい部分を暴いてしまいそうで、私は思わず手で唇を隠していた。
「わ、私は! 私は醜い……。性根がすべて身に出ているのだと、女王には言われます……。他の者も、言葉にはしないものの目が語っております、私は醜い、と」
「我はそう思わぬ。大きな目も、それを縁取る睫毛も、小さく主張しない鼻も、その花のような唇も……」
「い、嫌……! 見ないで、ください……。この唇こそ、私の一番嫌いな、醜さの象徴なのに……!」
うつむく私の頬に、そっと手が添えられた。
「サンタラ、そなたは美しい。我がどれほど、そなたの唇に触れたいと願ったことか」
「セイ王……」
王は無理矢理ではなくゆっくりと、私の顔を上向かせた。
「賢いそなたが、そのように自身を醜いと頑なに確信しているからには、相応の理由があるのだろう。……我がどんなに言葉を尽くしても、その裏を考えて素直に信じられぬ気持ちもわかる」
心臓が大きく跳ねた。先ほどまでの動悸とはまた違う、どちらかといえば罪悪感を伴うような。
「だが、一つ考えてみてほしい。そなたの故郷とこことは文化に大きな違いがある。ならば、そなたを美しいと感じる我の心もまた、ワゾンとは違うのだと捉えてはもらえまいか」
「文化……」
「すべては見方一つと言える。王の一存でティワンの政は動かせぬ。だが、それは言い換えれば、結婚してすぐに我が死んだとしても同盟は揺るがぬということ。ワゾンの女王は我と取引をしたのではなく、ティワンと手を取り合ったのだ」
もしもセイ王が死んだら……。宦官も同じことを言っていた。私、ワゾンの姫はティワンの王に嫁ぐのだから、それが誰でも構わない、と。
私が夫に望むのはセイ王だけ。だからそれ以外の可能性など頭の中から追い出していた。そのせいで気づかなかったのかもしれない。私の頭は固すぎるのだ。
「そなたは王妃として政治に参加はできぬがその代わり、我の寵愛を失っても、男児を儲けることがかなわずとも、そなたの生活は変わらぬ」
「たとえ貴方が、明日死んでも?」
「そうだ。この世は何が起こるかわからぬ。そして、わからぬからこそ懸命に生きるのだ。決して後悔せぬように」
見上げると、私を見つめる黒い目と視線がぶつかった。肩に置かれる手の重みと温かさ。互いの衣服に焚き染めた香がそっとふくよかな薫りを上らせながら混じり合い、二人だけの香りになる。
ああ、もう認めざるを得ない。私は彼に恋をしている。彼にすべてを捧げたい。そして私を支えてほしい。
アルエラ姉さまの気持ちが初めてわかった気がする。
「サンタラ、そなたのすべてがほしい。だがそれはまたの機会にしよう。今はまだ、少しだけ早い」
ハッと周囲を見ると、リュウを始めとする女官たちや、セイ王の護衛たちが勢揃いで私たちを見ていたのだった。