甘い誘惑
後宮で犠牲になった人々のための碑があると聞き、私はリュウと一緒にそこに手を合わせた。
「サンタラ姫様の思いやり深い御心に、無念を抱えて死んでいった者たちの霊も慰められるでしょう」
「そうだといいな」
王宮の隅にひっそりとあった石碑は、そこに降りた年月を感じさせながらも清潔で、絶え間なく人の手が入れられていた。彼らは忘れられてなどいないのだ。
「サンタラ姫ではないか。驚いたな、なぜこの場所に?」
「陛下」
「寂しいことを言ってくれるな。我はそなたの夫となる男だぞ、サンタラ姫」
クォム・セイ王はそう言ってニッと笑った。伴の者を二人だけ連れただけの警備の薄さだが、クォム・セイ王自身が昨日披露してくれたように剣の達人であるので、あえてそうしているのかもしれない。
「クォム・セイ王……。お顔を見られて嬉しいです」
「我もだ。どこぞへ散歩か? 構ってやれぬが自由にしてくれ。では、またな」
颯爽と去っていくかに思えた王は、はたと立ち止まって私を振り返った。
「夜は顔を見に行きたい。良いか?」
「お待ち申し上げております……」
「うむ、楽しみにしておこう」
着物の裾をサッと捌いて、今度こそ王は立ち去った。堂々とした歩みは大きく、あっという間に遠ざかっていく。
私の顔が見たいなどと、そんな言葉は形式的なものにすぎない。私の部屋への訪問もそうだ。そうに、違いないのに……なぜこんなにも心の臓がうるさいのだろう。頬をくすぐる風が心地よく感じるほど、顔が火照ったように熱くなってしまうのだろう。
「リュウ、どうしよう、どうすれば良い?」
「もしどうしてもお断りしたいということであれば、お手紙を代筆いたしますが」
「そうではない! 意地の悪いことを言わないでくれ……。王がいらっしゃるのに、どんな準備をしたら良いのか、どんな物を好んで食されるのか、何もわからないんだ。リュウ、どうか助けてほしい。私は、失敗するわけにはいかないんだ……!」
リュウは静かに微笑むと、しっかり頷いて私を安心させてくれた。
「お任せください。わたくし共が必ず、王のお気に召す席を設けます。姫様のお好みも教えていただけますか? お部屋で寛ぎながらお話することにいたしましょう」
「ありがとう。よろしく頼む」
私はここに来てようやく、頼りにしても良いと思える人物に出会った。昼食を摂りながら王の訪問に備えた打ち合わせをし、その後は自由な時間を得た。
「勉強すべきことがまだまだあると思うのだが」
「妃の持つべき教養は、一昼一夜で身につくものではございません。今日はすでに歴史のお勉強をお済ませになりましたし、昼食の席での作法も学んでいただきました。都の中はもう安全でございますから、散策などされてはいかかでしょうか」
つい昨日の刺客騒動を思い出し、不安がこみ上げてくる。だが、リュウたちは本心から安全だと思っているのか、落ち着いた様子だ。
「では、少しだけ出かけてくる」
「二人つけましょう。貴女たち、行きなさい。姫様、この者たちはお邪魔にならない位置におりますので、お好きにご散策くださいませ。ただ、桃園には立ち入られませぬよう、お約束くださいませんでしょうか、あちらは足元が危うく案内できる者もおりません」
「わかった」
リュウたち女官に見送られ、私は王宮の本殿を離れた。私は役人たちの仕事の邪魔をしないよう、端の方、端の方へと歩いていった。木々に惹きつけられていたとも言える。端の方は都を囲む白い塗り壁があり、外の木々が少し離れた場所で青々と茂っている。
遠くには割ったような肌の岩山が見え、水の流れる音、名も知らぬ鳥の声が耳に流れ込んでくる。ふと、壁が途切れたと思ったら、そこには槍を何本も立てたような形の、骨だけの門扉があった。
門の中は桃の木がたくさん植えられており、土壁もこの桃園をぐるりと囲むように、ここだけ突き出ているのだ。
入らないと約束したが、中からは風に乗って甘い匂いが漂ってくる。入らないよう注意された場所だったが、一度食べた桃の実の蕩けるような甘さと瑞々しさを思い出すと、食べたいと思う気持ちが湧き上がってくる。
もしもここへ入ったことがわかったら、リュウは私を叱るだろうか。それとも愛想を尽かすだろうか。私は心の中で桃とリュウを天秤にかけ、やはりリュウの方が大事だと思った。仕方がない、桃は諦めよう。
そう思い、引き返そうとした時、ふと上を見ると、桃園からはみ出すように伸びた枝の先に、桃の実が一つ生っていた。あれなら、桃園に入らずとも手に入れられるんじゃないだろうか?
「ひ、姫様! おやめください!」
「誰か、誰か姫様を止めて!」
私が青銅の門扉に足をかけ外壁へ登ると、後ろからついてきていた女官たちが悲鳴を上げる。そういえば、今は一人ではなかったんだっけ。
「大丈夫だから、騒がないで。誰も呼ばなくていいから」
「危ない! 姫様、動かないでくださいませ!」
「どうした、何があった」
「陛下! サンタラ姫様が……!」
駆けつけてきた人影の中に、クォム・セイ王の姿もあった。壁の上に立ち、桃に手を伸ばす私を見て目を丸くしている。
「サンタラ! こっちへ!」
誰よりも先に伸ばされる手。どうしてあの御方はそこまでしてくださるのだろう。大陸の覇国の王であられるのに。いくら同盟相手国の王女と言っても、わざわざ自らが怪我をする可能性があるものを、危険を押してまで助けようとしなくてもいいのに。
それが王の気質なのか、それとも……。いや、期待なんてしてはいけない。甘い言葉に耳目を塞がれてはダメだ。彼に恋なんてしない。心なんて、裏切られるだけなのだから。