ティワンの首
大陸の覇者ティワンは最初から強大だったわけではない。恵み豊かなサグ河を基に栄えた大小の国々が団結してティワンになったのだ。多くの戦を乗り越え今やティワンの国土は大陸随一であり、その広大な土地からは絹や貴金属、宝石などが産出され、まさに向かうところ敵なしである。
それらすべての贅を集めた場所がティワンの首、アテアンの都だ。サグ河左岸のテンピ、右岸のトウ、どちらに王を置いても争いになることから、サグ河の上流に作られた都だ。ここには王宮と後宮、軍部、そして役人たちの宿舎しかないという。このアテアン自体が許された者しか入れないある種の要塞と言えた。
石畳が敷かれたアテアンの都は広く、そして長い長い階段の果て、雲を頂くほどの高さにあると思われた。輿に揺られて階段を上っていくと鮮やかな赤い建物が見えてきた。
「あれは?」
「ようやく宮殿が見えてきましたな。あれは木材を赤く塗っておるのですよ。そして建物の上にあるのは、土を練って焼き固めた、瓦というものです」
「ワゾンの宮殿とこんなにも違うなんて。ティワンに吹く風はそんなにも強いのだろうか」
「さぁ? 私にはわかりかねますな」
宦官はさして興味がなさそうで素っ気なかった。ひときわ華美な建物に通され、まずは湯殿へ案内された。そこで旅の衣装を脱ぎ、湯帷子に袖を通して、連れてきた女官の半数とともに移動する。浴場の扉の先には驚くべきことに、部屋いっぱい見渡すほどに湯が張ってあった。
「まるで池だ」
ワゾンでは水はとても貴重なもので、王族であってもこんな贅沢はできない。女官たちも驚き、興奮しながらヒソヒソ声で何事かお喋りしていた。
「サンタラ姫様、まずは御身体を湯で流し、清めましょう。その後、御身体が温まりましたら垢すりをいたしましょう」
「うん、任せる」
湯船にはたくさんの花びらが浮かんでいて、芳しい匂いを漂わせていた。女官たちは嬉しそうに湯に浸かり、私に色々と話しかけてくる。身体を洗い、髪を洗い、すべてが終わった頃にはクタクタに疲れていた。だが、ここからが本番だ。
化粧を施し、ワゾンの伝統衣装を身に着けた私はようやくティワンの王クォム・セイへと対面することが叶ったのだった。
「大陸の覇者ティワンの王へ、海洋の支配者ワゾンより姫サンタラがご挨拶したいと仰せです」
宦官の言葉に、クォム・セイ王の臣下の者が代わりに答える。
「海洋の支配者ワゾンの愛し姫へ、大陸の覇者ティワンより大王クォム・セイが心より歓迎の意を表すると仰せです」
私と王の顔合わせは屋外で行われた。庭園という、敷地の中に自然の景色を閉じ込めたのだという場所で。山があり池があり川があり、しかし木はまばらで見通しの良いこの小さな自然が、ティワンの国土には多くあるのだろうか。私たちワゾンの島は木々に覆われている。そして中でもチバの木がなくては生きていけない。この庭園にチバの木はなかった。
長い挨拶が終わり、私の前から女官たちが引いていく。同様にクォム・セイ王の前からも臣下が引いていく。残ったのは美しい絹の着物を幾重にも羽織った、黒髪の若い男だった。凛々しい眉の下の目は端がピッと釣り上がり、大きめの鼻は高く筋が通っている。ひと目見ただけで胸が高鳴った。
「もう良い、下がれ。我は姫と二人で話がしたい」
声も素敵だと思った。彼がこれから私の夫になる男性なのだ。結婚相手が好もしい人で嬉しく思う反面、本来なら彼の隣に立っていたのはアルエラ姉さまだったのだと気づいて胸が苦しくなった。
「サンタラ姫、愛らしい方だな。どうか政略結婚であるからと身構えず、自由にしてほしい。我はこの婚姻を大変喜ばしく思っている。姫とワゾンの女王にも同様に感じてもらえるよう手を尽くそう」
クォム・セイ王の言葉は、ここで言うべきという型通りの挨拶だったが、なぜか温かみを感じられる気がした。
「クォム・セイ王のご厚意に感謝いたします。ティワンとの良き関係を築けますよう私も尽力いたします」
私もまた型通りの挨拶を返す。少し堅苦しかっただろうか。それに、形式的なだけで温かみに欠けていたかもしれない。心臓がバクバクする……、言葉を発する前にもう少し考えれば良かった。いつもいつも、終わってから悔いるのだ、私は。
「顔色が良くないな。長旅だったろう、あまり疲れさせてはいけないな、そろそろ部屋へ送ろう」
「……ありがとうございます。しかし、王にそのようなこと、お気持ちだけで充分に嬉しく存じます」
「そうか。そなたがそう言うなら……! 動くな、サンタラ」
「えっ」
クォム・セイ王が私の方へずいっと一歩踏み出して来た。私は驚き身を縮こまらせ、それでも言葉通り動くことはしなかった。まさか打たれるのか、そう思うと心が冷えた。だが、次の瞬間、私の背後で男の苦悶の声がした。
「ぐあっ、くそ……!」
「一応聞こうか、何が目的だ?」
振り向くと、そこには膝をつく小さな刃物を持った男と、血に染めた白刃を手に提げたクォム・セイ王の姿があった。
「おのれ、偽王め! あがっ!」
クォム・セイ王は無言で刺客の首を刎ね飛ばした。ぽぉんと飛んだ頭が地面に硬い音を立てて落ち、遅れて真っ赤な血が噴き上がり、ビシャリビシャリと音を立てた。
「ふむ、少し散ったか。やれやれ、また怒られるな」
「あ……の……」
「ああ、すまない、サンタラ姫。あまり見て面白いものではないゆえ、あちらから帰ろう。気に留めるほどのものではないよ」
「いえ、その」
クォム・セイ王はにこやかに言い、抜き身の剣身から血を振り払うと懐から取り出した布で拭き取り、鞘に戻した。
「サンタラ姫は落ち着かれているな」
クォム・セイ王はそう言うが、私は驚いている。ただ、訳もわからぬ間に男が現れ、男が死んで、何もできなかった。何が起こっていたのか、わからないだけだ。
「偽王、とは……」
「心配はいらない。我が父が存命なまま王位を継いだので、権力が衰えた将が刺客を送ってくるのだ」
「誰の手のものか、聞かなくて良いのですか」
「ああ、我は誰の名を聞かされようともそれを信じたりはしない。今日は狙いが我なのかサンタラ姫なのかわからなかった故、口を利くのを許したが、特に意味はなかった」
あっさりと王は言う。遅れて臣下の者たちが駆けつけてきた。
「遅いぞ」
「申し訳ありませぬ、王!」
挨拶のときに王の側にいた男が指示を出しているのを背に、私たちは歩きだした。いや、王に連れて行かれている、と言うのが正しいか。
「寒いのか? 震えているな」
「……少し」
「これを着ているがいい」
クォム・セイ王は自分の着ていた一番上の若草色の着物を脱いで、私の肩にかけてくれた。
「そんな、王の着物を……」
「こんなものしかなくてすまないな。後で捨ててくれ」
ハッとして袖を見ると、それは血で濡れて光っていた。
「贈り物として持たせた絹織物は気に入ってもらえただろうか?」
「はい。とても美しく、女王も深く感じ入っておられました」
「それは良かった。内祝いの品には絹織物だけでなく、この剣も持たせてある。どちらも手を入れなければすぐに悪くなり朽ちてしまうものだ。我らの絆も、同様に」
「はい、我が王」
「いずれはセイと呼んでほしい。そなたが早くこの宮に慣れてくれると嬉しい」
私は、頷くことしかできなかった。