さよならワゾン
ティワンへ嫁ぐことが決まってから、私の生活は急変した。何人もの召使いがやってきて、私の身体を磨き上げた。ティワンへの旅路は短くない、今から飾っても向こうへ着く頃には髪も肌もボロボロになっているだろうに。それでも、出立の際に私の見栄えが悪いと、女王の威信に傷がつくのだろう。
アルエラ姉さまのことがあったせいか、私の周囲から男の姿が消えてなくなった。元々親しい男性がいたわけではないため、特に変化はないが、見える範囲からもいなくなったのは驚きだった。あと二つ夜を越せば、私はティワンへと贈られる。タカラガイと真珠とサンゴ、ワゾンの木、奴隷たち。私自身にはこれらほどの価値はないが、女王の娘であることに意味があるのだ。
外れを引かされたティワンの王に少しだけ同情する。こんな醜い娘でも国同士の結びつきのために側に置かなくちゃいけないなんて、ティワンの王から苦情が出るんじゃあるまいか。どうか不満があっても暴力は振るわないでほしい、酷い環境に置いて飢えさせないでほしい、それだけが先方に臨むすべてだった。
残る短い時間で、私はティワンに関する知識を頭に詰め込んだ。誰も別れの挨拶に来なかったから、勉強がはかどること! そもそも本当は私ではなくアルエラ姉さまが嫁ぐ予定だったのだ、宴の席も白々しいばかりだった。
そしてとうとう出立の日、私は輿に載せられ一ノ島を一周した後、船に積み込まれた。祝いの楽の音が美しく響き、民の歓声が波音を掻き消す。大勢の見送りの中に、一瞬、アルエラ姉さまとツェグの顔を見た気がした。
「さよなら、ワゾン。もう二度と戻らない」
私は誰にも聞こえないようにつぶやいた。さよなら、アルエラ姉さま、ツェグ。どうか幸せになってね。
船がまず辿りつくのは、ティワンの属州にある貧しい漁村だ。誰からも顧みられない土地で、ワゾンの者たちもここをただの船着き場としか思っていない。ここからは人足に担がせた輿でティワンの王宮まで移動することになる。松林から香る爽やかな匂いに鼻をうごめかし、今まで遠くにしか見てこなかった山々を眺めていると、ふと、重大な事実に気が付かされた。
波の音がしないのだ。
今まで当たり前すぎて考えもしなかったが、ここは大陸だ、海から離れれば音が聞こえなくなるのは必至。だが、私たち海の民にとって波音は肺に送り込む空気と同じようなもの。あって当然だったものがなくなったことに気づいたとき、奴隷たちは涙を流した。彼らもまた、私と同じく二度と祖国に戻れないのだ。
ティワンへの道程はだいたい十日と言われていた。だが、奴隷たちの歩みがのろく、またその不安が伝播したのか女官や人足たちの足取りも重くなっていく。輿入れまでの段取りを女王から任されていた宦官が顔を真っ赤にして奴隷を鞭打ったが効果はなかった。
「そこまでにしておいたら。奴隷の数が減ったら女王の威信に傷がつく。旅の途中で生命を落とすことはそこまで珍しくはないけど、貴方のせいで死んだら、誰かが必ず言いつけるだろうよ」
「サンタラ姫。ですが」
「遅れは必ずあるものだよ。それを見込んで旅程を立てているんじゃなかったの。到着が遅くなる分には問題ないけれど、辿りつかなかったとしたら大変だ。私は貴方のためにも言っているんだよ」
そこまで言ってようやく宦官は引き下がった。道程の半分も進めば、奴隷たちも自分の境遇がわかってくる。宦官が暴力を振るわなくなったおかげもあってか、そこからの歩みは順調だった。
ティワンの国土は広く、それに比べて人間の住んでいる場所は少ないという。私たちは海から川沿いに上ってきたが、それが広く豊かな河にぶつかって、初めてその意味がわかった。私たちの母なる海には及ばないが、それでもそこには何万という人間を養ってあまりある水があったのだ。
大河の両岸には大きな街があった。私はそこにティワンの王がいると思ったが、王はさらに上流の街にいるということだった。
「サンタラ姫、ここからは船で参ります」
「ティワンの王宮は近いのか」
「はい、もうすぐそこですよ。これなら日の高いうちに王宮へ入れますな。まずは旅の汚れを落とし、それから王へご挨拶に参りましょう」
「クォム・セイ王、か」
若きティワンの王、クォム・セイ。彼のことを私はよく知らない。齢は二十で、身の丈は六ゴア(※およそ180センチ)ほどとか。黒髪に少し変わった色の目をしていると聞く。まるでワゾンの王族のようだ。だからこそ、女王はティワンとの同盟に踏み切ったのかもしれない。
船を二つ使い、王宮へ向かう。途中、サグ河で漁をしている男女を見た。船の上から男が網を投げ、女は河に入り手伝っているようだった。ワゾンの民と同じくよく日に焼けた肌と髪をしていたが、ほんの少し色が薄かった。
「宦官ソ・ゴ、彼らは?」
「ああ、下級労働者でしょう。我らワゾンと同じく、ああやって漁をする者たちは貧しく、そしてたくさんいるのです」
「ティワンも、ワゾンとよく似ているんだな。でも、少し肌の色が薄い。漁村の者たちはもっと私たちに似ていた」
「えっ、あの者たちが? そんな、ご冗談を!」
「色の話をしていたのだがな。海から遠ざかるほど、色が薄くなるのかもしれない」
「さようですな。我らの美しい色には劣りますが」
宦官はそう言って笑った。
美しい色、か。私にはそもそもの美しさが足りないのだから、色だけ備えていても仕方がない。そう言うと、宦官は頭を振って嘲りを押し隠した笑みを浮かべた。卑しい男だ。
「ティワンには後宮があると聞きます。王はきっと様々な女を集めているのでしょう、サンタラ姫はそこを統べられる御方であって、美を競う花ではあらせられません」
「後宮……。そうか、そういえばあったな。守りのために王の女や子どもを集めておく施設のことだったか。でも、私は対等の立場で嫁ぐと聞いていたのに」
宦官は大げさな身振り手振りで頷く。
「いえいえ、女王が仰ったのは対等な取引でございます。一のものを差し出し、一のものを受け取る。我らがワゾンは尊い国ですが、ティワンはとにかく大きな国。我らに差し出す一のものを、ティワンはたくさん持っているというだけのことなのでしょう」
「なるほど。貴方の意見も一理あるな」
そう言いつつも私の心は萎んでいた。後宮にクォム・セイ王の妃たちが集められているなら、彼は私のことなど見向きもしないかもしれない。いや、最初だけは物珍しい貢ぎ物に手を付けるかもしれないが、きっとそのうち放っておかれることになるのだろう。
女王は私に、ここにいるだけでいいと言ったが、王に飽きられてしまったら、ワゾンへの便宜を図ってもらえなくなるかもしれない。それは困る!
どうにかして王の気を引きたいが、私のように醜い女では、果たして上手くいくかどうか。王宮を前にして、私の心は沈んでいた。