女王アティカの娘
アルエラ姉さまが嫁ぎ先のティワン王国へ出発する日が近づいていて、島中がソワソワ浮足立っていた。十の島が集まってできた群島国家のワゾンが、大陸にある国と同盟を組むのは初めてのことで、これが上手く行けば私たちは安定して鉄を輸入できるようになる。
女王アティカは誰よりもこの縁組を望んでいた。アルエラ姉さまがお嫁に行ったら、結婚していない娘は私と五歳の妹だけになる。でも、きっと私は結婚できないだろう。処女のまま、次の女王になるスオ姉さまのキャオマ(※政務の補佐をする王族の女性)として一生を終えるんだ。
祝の席を彩る楽の音を練習しているのが、風に乗って聞こえてくる。チリ、チリと鈴の音が、波の間に響いている。私はため息をつきながら、浜辺で一人落ちていく夕日を眺めていた。
「サンタラ。サンタラ!」
「ツェグ?」
殺した声に振り向くと、私の名を呼んでいたのはツェグだった。引き締まった長身に、女のように整った小さな顔が乗っている。素潜りの腕前はソコソコだが、歌が上手くて見目麗しいツェグはこの一ノ島で一番、女の目を集める若い独身男だ。十の島ぜんぶでだってツェグが一番だと私は思っている。
「どうしたの? 険しい顔をして」
「サンタラ、女王が呼んでる。今すぐに来いって」
「わかった。何があったんだろう」
ツェグの顔は険しかった。女王の機嫌が悪いんだろう。今度はいったい何に怒っているんだか。私は宮殿へ急いだ。『女王の間』に近づくと、ピシリと激しい鞭の音がして、女の苦悶の声が漏れ聞こえた。女王が誰かを折檻しているんだ。そっと布の向こう側を覗くと、男二人に両脇から抱えられたアルエラ姉さまが全裸で鞭打たれていた。
「アルエラ姉さま! 女王、どうしてこんなことを!」
「来たか、サンタラ。よく見ておいで、今この時からこの女は奴隷になるんだ。それも最下級のな。見つけた者の機嫌次第で殺されたって文句は言えない残飯漁りになるか、はぐれものになるか。まぁ、一年待たずに死ぬだろう」
女王は篝火へ近づくと、そこに不自然に刺さっていた棒を引き抜いた。それは真っ赤に焼けた、鉄のコテだった。
「女王!」
「お許しを、女王! あああっ!」
私の呼びかけは何の制止にもならなかった。アルエラ姉さまの肩にコテが押し付けられ、ジュッという嫌な音と悲痛な叫び声が、遅れて肉の焦げる匂いが漂った。
「どうしてです、女王。姉さまはもうすぐ輿入れだったのに」
アルエラ姉さまのすすり泣く声に耳を覆いたくなるが、女王の前でそんなことはできない。だが、言わずにはいられなかった。責めずにはいられなかった。女王は自身の悲願を台無しにしたのだ、アルエラ姉さまを奴隷に落とす必要はなかった、こんな理不尽はありえない。でも、女王の声は落ち着いていた。
「そうだ、もうすぐ輿入れだ。だと言うのに、この女は孕んでいる」
「え……?」
「相手の男の名を言えば、奴隷落ちだけは許してやるというのに口を割らなんだ。サンタラ、お前は知っているか?」
ツェグだ。そう直感した。姉さまはあのツェグに抱かれたのだ。暗闇でまぐわう二人の姿が目に浮かぶようだ。嫉妬で目の前が真っ暗になり、耳鳴りがし、口の中が干上がった。ああ、言ってしまいたい!
アルエラ姉さまが懇願するように私を見ている。相手がツェグだとわかれば、女王はツェグを生きたまま八つ裂きにして魚の餌にしてしまうだろう。
「どうした、サンタラ」
「いえ、私にもわかりません」
「そうか。ともかくこれではティワンへ花嫁を贈ることができない。今回の同盟には必要不可欠だというのに!」
「ああっ!」
女王はまたしても鞭を振るい、乳房を打たれた姉さまは仰け反って痙攣した。
「今から毎日男たちにボロボロになるまで犯させ、腰に鞭を打ってやろう。それでも月満ちて赤子が生まれたら、刻んで魚の餌にする」
「お許し下さい、女王! 私はどうなってもいい、赤子に罪はありません! 貴女の血を引く子ですよ!?」
「だから何だ。役立たずの駒はいらぬ」
「そんな!」
アルエラ姉さまはポロポロと涙を流して泣いた。こんなになってもなお、姉さまは美しい。スラリと細いのに出るところは出ていて、豊かな黒髪の艶も良く、長い睫毛にすっと伸びた高い鼻。爪の先まで姉さまは美しい。私と違って。
「サンタラ、お前がアルエラの代わりだ、ティワンへ行け」
「えっ」
私は咄嗟に言葉が出なかった。結婚なんて、私には一生縁がないと思っていたのに。女王は私に嫁に行けと言う。
「でも女王、私は、美しくないですし、教育もロクに受けていません。私に勤まるはずありませ……」
「煩い」
「うっ!」
女王の鞭が私の腰を打った。服の上からで弱い手だったからさほど痛みはないが、それでも息が詰まった。
「キアラは幼すぎる、お前しかいない。……お前は処女であろうな?」
「ひっ! は、はい、私は純潔です!」
女王の放つ重圧に、私は舌をもつれさせそうになりながら答えた。忘れがたい過去の痛みが蘇り、身体が震える。
「そうだな、美しくもないお前にそんな相手はいないか」
ズキリと、今度は胸が痛んだ。そうだ、私は醜い。鼻は低いし、唇は大きくて分厚すぎる。スラリともしていない。だから、私には許嫁もなく縁談も来ない。キャオマになるしかない女なんだ。
俯く私に女王は重ねて言った。
「それでも調べねばならぬ。後で医者をやる」
「はい……」
「安心しろ、ティワンはお前に何の役割も求めない。ただそこにあればいい。お前はワゾンとティワンを結ぶ贈り物なのだ」
「はい」
女王はふむ、と間を置いて、意外な言葉を私にかけた。
「サンタラ。お前に一つ褒美をやろう。何か望みを言え、できるだけ叶えてやろう」
女王がこんな風に何かをくれるなんて、あまりないことだ。私は視線を定位置である女王のつま先からずらしてアルエラ姉さまを見た。姉さまも、縋るように私を見ていた。
アルエラ姉さまは、いつでも私に優しかった。からかいの対象を私から逸してくれたり、誕生日には忘れずに小さな贈り物やお祝いの言葉をくれた。それを欠かさずにいてくれたのはアルエラ姉さまだけだった。新しい女王には姉さまがなってくれたらと願ったこともあったくらいだ。
「私は……」
でも、その裏でやっぱりアルエラ姉さまも私を馬鹿にしていた。可哀想にって、下に見ていたんだと思う。誰からも顧みられない醜い妹。だから優しくしてあげないとって。
「私の願いは女王、アルエラ姉さまのことを忘れてください」
「……何?」
「女王の娘にアルエラはいなかった。そういうことにしてください」
アルエラ姉さまは私を睨みつけてきた。私に見捨てられたと思ったに違いない。私としてもこれは賭けだった、頭の良い女王なら、わかってくれるはず……!
「面白いな。お前、願いは本当にそれでいいのか」
「はい」
「いいだろう。おい、焼印を潰すコテを用意しろ」
女王の命令に召使いが一人走っていった。
アルエラ姉さまが女王の娘でないのなら、女王の面目を潰した罪は消えてなくなる。お腹の子もその父親も、女王の権威を傷つけない。姉さまはもう二度と女王の庇護を受けられない代わりに、女王に支配されることもなくなるのだ。
アルエラ姉さまは混乱したような顔でへたり込んでいる。私は女王に頭を下げて、『女王の間』を後にした。