第五十話 第二王子の胸の内【番外編】
婚約式での彼女は美しかったが、それ以上に幸せそうだった。
ガラスの向こう、青い空を見て思うのはそんなことだ。婚約式の日が、澄み切った青空だったせいだろう。
「聞いているの、ギルバート」
ぼんやりしていると、向かいの席から「しっかりして頂戴」と叱責が飛んできた。温室の多種多様な花を背に、母がこちらを睨んでいる。
ギルバートの母、現王妃エレノアは、婚約式の日からずっと不機嫌だ。王太子ノアが着々と地位を固めていることに焦りを感じているのだろう。
「このまま何もせず見ているつもり?」
「……俺は俺のやるべきことをやるだけです」
「その通りよ。神子は完全に王太子のものになった。聖女だけはなんとしても王太子側に行かせてはいけないわ。あなたの仕事は、聖女をしっかりと自分のものにすることよ」
「母上……。神子や聖女をもの扱いするなど、神への冒涜ではありませんか」
「この私に天罰が下るとでも? 下るなら、とっくの昔に下っているわ! 私はね、ギルバート。あなたが次の国王になるまでは絶対に死にはしない」
早く第一王子を王太子の立場から引きずり降ろさなければ、と母は恐ろしいほど冷たい笑みを浮かべた。
ギルバートの異母兄ノアは、亡くなった前王妃の息子だ。前王妃を心から愛していたらしい国王は、当然ノアのことも寵愛し、国内の有力貴族の出であるエレノアが新しく王妃についても、ノアの立太子を変える意思は微塵も見せなかったという。
それも当然と言えば当然だった。なぜなら母は、国王である父に愛されてはいないのだから。
王宮内でも、前王妃が亡くなったのは現王妃のせいだと噂されているほどだ。父も母を疑っているだろう。その息子である自分をノアと同じように愛するなどできるはずもない。
もちろんノアが優秀であることは認める。幼い頃は、ノアばかりが恵まれているとふてくされていたギルバートだったが、ノアの力は努力の結果だと諭され甘えた考えを捨てることができた。
下手なおべっかを言わず慰めもせず、正面からギルバートに意見をしてくれたのは、ひとりの少女だった。
当時は野暮ったいメイドに変装し、ビビアンと名乗っていたが、その正体は貴族の令嬢。
本当の名は、オリヴィア・ベル・アーヴァイン。
第二騎士団団長を務めるアーヴァイン侯爵と、イグバーンの宝石と謳われた亡き前侯爵夫人の娘であるオリヴィアは、女神のごとき美しさを持つ。神獣を従える神子だということが発覚した彼女は、イグバーンで唯一無二の特別な令嬢だ。その貴重さは、聖女をも凌ぐ。なぜなら過去に何度も聖女は現れているが、神子という存在が確認されたのは歴史上はじめてのことだからだ。
そしてつい先日、ノアと婚約式を挙げたのが、その特別な令嬢オリヴィアだった。
「ギルバート。聖女を大切にするのよ」
「もちろん、婚約が成立すればの話で——」
「どんな手を使ってでも婚約は成立させるわ。あなたなしではいられなくなるくらい、たっぷりと愛し、甘やかし、あなたしかいないと思わせなさい。あなた以外に味方はいないとね」
「なぜそこまで……」
「もし神子に何かあったとき、聖女を横から攫われたら困るでしょう?」
まだ、神子に何かする気なのだろうか。
ギルバートにそう思わせるほど、王妃は冷酷な笑みを浮かべていた。
温室をあとにし、ギルバートは嫌な予感を振り払うように王宮の廊下を早足で進む。
実の母が恐ろしい。なぜあそこまで息子の王位継承に執着するのだろう。側妃から正妃の立場になったのに、なぜ満足できないのだろう。
異母兄である第一王子ノアは、理性的な男だ。彼がこのまま次の国王になったとしても、異母弟である自分やその母親を排除するということはまずないだろう。母が何もしなければ、ではあるが。
理知的であると同時に冷徹でもあるので、自分や周囲に危害を加える相手に容赦はしないのが異母兄だと思っている。
特に婚約者である神子、オリヴィア・ベル・アーヴァインに手を出すのは一番まずい。それは母もわかっているだろうに、なぜ……。
オリヴィアはギルバートの初恋だった。
いまでも淡い思いが胸に残っていることは否定できない。だが正式な婚約式が挙げられたいま、異母兄から婚約者を奪おうと考えるほど良識のない男ではないつもりだ。
胸の痛みはあるが、オリヴィアが幸せであるのなら耐えられる。
元より王族として生まれたからには、望み通りの婚姻を結べるとは考えていない。政治的に最善の令嬢をいずれ迎えることになる。いまのところその筆頭候補は、癒しの女神パナケイアと契約した聖女セレナだ。
平民の出ではあるが、伝説の聖女であれば出自など些細なことだ。ただ、聖女であるセレナを見るたび、似た立場である神子オリヴィアの顔が頭にちらついてしまう。
同時に、自分が先に出会っていれば——と思わずにはいられない。
この女々しい気持ちをいつまで引きずっていればいいのだろう。いずれきれいに消化し、純粋にセレナを思うことができるようになる日は来るのだろうか。
いや、来るのだろうか、ではない。そうなるよう努力するのが重要なのだ。
その為にも、いまはお互い気持ちはないが、聖女セレナを大切にしなければならない。出来ればセレナに自分を好きになってもらう努力もだ。
だが、ふと思う。それでいいのかと。
セレナを利用することになる、という罪悪感は、王族としての責任感の隣りにそっと芽吹いてしまった。そんな自分にうんざりする。
中途半端がいちばん失礼なことはわかっていた。だから申し訳なさは胸の奥底へと閉じこめて、ギルバートは王宮の一画に用意された聖女の部屋をノックした。
「あら。ギルバート殿下。ご機嫌よう」
いきなり出鼻をくじかれた。
聖女の部屋には先客がいた。先ほどギルバートの心を締め付けていた初恋の相手、神子オリヴィアだ。
どうやらセレナとお茶をしていたらしい。彼女の足元にはかなりふっくらとした白い神獣がいて、真っ黒なクッキーを夢中で貪っている。
「来ていたのか」
「お約束はしていなかったので、お邪魔なようでしたら帰りますが」
「いい。俺にもその……黒いやつをくれ」
「炭クッキーですか? ギルバート殿下の分はご用意できてなくて」
「だったらお前のを少しくれればいいだろ」
「いいわけがあるか」
突然背後から冷ややかな声がして、ギルバートは飛び上がった。
いつの間にか異母兄ノアが真後ろに立っていた。まるで気配を感じなかった、とギルバートはバクバクと跳ねる心臓の辺りを押さえながら後ずさりする。
「い、いたのか兄上」
「いちゃまずかったか?」
「そんなことは言ってないだろ……」
ノアは笑顔だが、目がまるで笑っていない。
ギルバートのオリヴィアへの淡い思いに気づいているようで、何かと間に割り込んでくる。ふたりの仲を引き裂こうとは思っていないのだが、あからさまに牽制されるのもおもしろくない。
当然のようにオリヴィアの隣りに腰かけるので、ギルバートは自然とセレナの隣りに座ることになる。腰を下ろした途端、ノアは「オリヴィアは僕に会いに来たんだ」と聞いてもいない主張を始めた。
「ここにはついでに寄っただけだよ。ねぇオリヴィア」
「え? いえ、ついでというか、セレナさまとは元々お茶を——」
「このクッキーも、僕に作ったもののあまりだ。そうだろう、オリヴィア?」
「……えーと」
あきらかにオリヴィアが困っている。というか引いている。
婚約者が大事なのはわかるが、あの冷静な兄がすごい執着だ、と感心していると、隣のセレナが不意に身を乗り出した。
「私もオリヴィアさまとは前々からお約束していたんですよ。ねぇオリヴィアさま?」
「……ほぅ? そうなのかオリヴィア?」
「え? それは、まあ、ええと」
まさかの聖女参戦に、ギルバートは一瞬気が遠くなった。
いったいこのふたりは何を競い合っているのか。板挟み状態のオリヴィアに、思わず同情してしまう。
「私たち、仲良しになったんです。私はオリヴィアさまの親衛隊ですし、それに神子と聖女のコンビですしね!」
「親衛隊なんてものの設立を許可した覚えはないけどね」
「王太子殿下の許可がなくても、オリヴィアさまご本人から許可をいただいて活動しておりますから」
「婚約者である僕が嫌だと言えば、オリヴィアもすぐに親衛隊を解散させるさ」
なんてくだらない主張のし合いだろうか。
ふと向かいのオリヴィアと目が合い、同時に苦笑した。いまお互いの気持ちが一致したのがわかり、少しくすぐったい気持ちになる。
「あっ。おふたりとも顔を見合わせて笑うなんて、怪しいですよ!」
「何? オリヴィア、ギルバートと何をしてるんだ」
浮気は許さないぞ、と本気の目をして言う異母兄に、オリヴィアが「さすがツヨビタンドウタンキョヒ……」とよくわからないことを呟いている。神子の特別な呪文か何かだろうか。
一気ににぎやかになった空間の中で、ギルバートはこれまで知らなかった穏やかな幸せというものを感じた。
この平和な時が、できるだけ長く続くことを願うのだった。
イケオジの次は当て馬キャラ視点かよー!
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