第百二十四話 浄化された世界の為に
戦争。
それはオリヴィアである私にとって、歴史の中で起きてきた過去の出来事。
そして前世の私にとっては、海を越えた国々で起こっていた、ニュースの中でしか目にすることのない、はるか遠くの出来事だ。
多くの人が傷つき、亡くなる。大人も子どもも関係なく。穏やかな生活は問答無用で破壊され、蹂躙される。人の尊厳は消え、残るのは瓦礫と化した都市、荒れ果てた大地、そして悲しみと憎しみだけ。
昨日笑い合った大切な人が、次の日には事切れている。そんな恐ろしい世界が私たちを飲み込もうとしているのだ。
「大丈夫ですか、オリヴィア様」
支えてくれたヴィンセントの腕を押し返し、私はなんとか両足に力を入れて立った。
「私、戻らなきゃ……」
ノアの、父の、大切な人たちの所に。
大切な人たちを、守らなければ。
ふらつきながらも歩き出した私を、ヴィンセントが腕を掴んで止めた。
「いけません、オリヴィア様」
「離して、ヴィンセント卿。行かないと」
「承服しかねます。何の為にここまで来たのですか?」
何の為に。本当に、何の為だろう?
私は何の為にここにいるのだろう。セレナをさらわれ、ひとりだけで、何の為に古都に行こうとしているのだろう。
古都に私の大切なひとはいないのに。
皆、王都にいるのに。
「戦争が始まるのですよ!? 王都が、皆が大変なことに……」
ヴィンセントの腕を掴み返し、縋るように赤い瞳を見上げる。
「あなたもノア様が、ブレアム公爵が心配でしょう?」
私の問いかけに、ヴィンセントは一瞬目を細めたけれど、すぐに何も感じなかったような顔で首を振った。
「俺はオリヴィア様の専属騎士です。あなたの安全が何より優先されます」
「ヴィンセント卿!」
私の専属騎士は、私の身体は守っても、心を守ってはくれないのか。
こうなったら、と私はヴィンセントを突き飛ばし、シロを呼び出した。
光の粒子をまといながら宙に現れたシロは、私とヴィンセントの間に降り立つと、周囲を見回し首を傾げた。
『んん? これ、どういう状況~?』
「シロ、逃げるわよ!」
『んぇ⁉』
「オリヴィア様!」
「王都に戻るの!」
にらみ合う私とヴィンセントに挟まれ、シロが『え? え?』と戸惑っていると、
「戻るって、王都に?」
背後からそう声をかけられた。
いつもより少し低く、落ち着いたシリルの声だった。振り返ると、まるで動じていないような彼の瞳が、真っすぐに私を見ていた。
「シリル様……」
「戻ってオリヴィアに何が出来るの?」
それは問いかけるというより、諫めるような口調だった。
「戻ったところで、もし神子まで聖女のように捕まれば、王太子の足を引っ張ることになるんだよ?」
わかっている。そう言われたから私は仕方なく王都を出たのだ。
けれどハイドン軍が王都に押し寄せ、私が足を引っ張る以前の問題になってしまった。
「捕まらなければいいのでしょう⁉ 私にはシロがついています!」
「本当に? 神獣様がついていれば、君は無敵なの?」
痛いところを突かれ、押し黙るしかなかった。
私は無敵ではない。毒では死ななないというだけで、物理的ダメージは受けるし、私自身は非力だ。そしてシロは五大精霊と同等の力が使えるけれど、非常に燃費が悪く、すぐにへばる。
私もシロも、全然無敵ではない。
「何の為に王太子やアーヴァイン侯爵が君を王都から逃がしたのか、わからないわけじゃないでしょ?」
そんなことわかっている。ノアや父は、私を守ろうとしてくれたのだ。私が彼らを守りたいのと同じように思ってくれた。
私はただ、その気持ちを無下にすることが出来なかったからここにいる。
どうしたらいいのかわからずに俯くと、シリルの白い手に手を取られた。
「オリヴィアの気持ちはよくわかるよ。私だって王都の神官や民たちが心配だもの。自分だけ安全な場所にいるのはつらいよね」
先ほどまでの口調とは明らかに違う、優しく包み込むような声だった。
まるで誘われるように、身体の奥から涙が込み上げてくる。
「だからこそ、今は聖域に逃げるんだ。それが君の大切な人を守ることに繋がるんだよ」
本当にそうだろうか。
私が聖域に行くことで、ノアたちを守ることが本当に出来るのだろうか。
「王都は大丈夫さ。火竜が棲み処を移した場所だもの」
神のご加護があるはずだ。シリルはそう言ったけれど、そんなもの期待できないことは、私がいちばんよく知っている。
何せ痒い所に手が届かないことで(私から)定評のある創造神だ。システムの更新さえままならない神が、内戦程度で都を守ってくれるとはとても思えない。
本当に、私はこのまま古都に行ってしまっても良いのだろうか。後悔することになるのではないだろうか。
「それに……避けられない争いというものもある。王妃と王太子の対立は古都でも有名だ。遅かれ早かれ、いずれは起こっていたことだよ」
「だから仕方ないとでも言うのですか?」
他人事のように聞こえ、思わずシリルを睨みつけてしまう。
シリルは「そんな恐い顔しないでよ」とおどけて肩をすくめた。
「戦いによってしか出せない膿みというものがあるんだよ。歴史の中でも幾度となく繰り返され、その度に膿が出て、少しずつ浄化されてきた」
シリルの言いたいことはわかる。
膿にしか成りえないような、どうしようもない悪人は存在する。それくらい、私も知っているけれど――。
「人が人である限り、争いは必然なんだ。悲しいことにね」
「私は……必然だなんて思えません。争いなどないほうが絶対にいい。罪のない人が大勢亡くなるかもしれないのですよ」
「そうだね。だから私たちは、争いの先にある浄化された世界の為に、祈りを捧げるんだ」
それがお前の仕事だと、言われたような気がした。
聖域に行き、祈りを捧げる。神子としてそれは正しい行いなのだろう。
けれど私の心は、受け入れがたいと叫んでいた。
胡散臭く人を丸め込もうとする美少年が好きです。




