断固拒否させていただきます!
夏の照りつける日差しが眩しい午後、ここのところずっと忙しくしていらっしゃった旦那さまが、久し振りに、本当に久し振りに帰宅した。およそ一年振りの帰宅だった。
ただいま、も言わず、おかえり、も言わせてもらえず。帰宅した旦那さまは出迎えたわたくしの顔を見た途端、平身低頭した。
「離婚してください……!」
血を吐くような声は切迫しており、わたくしはとっさに声が出なかった。返事をしないわたくしに、旦那さまはさらに重ねる。
「お願いします! 離婚してください!」
「まあまあ、大変。旦那さまったらどうされたの?」
「エリス、そうのんびり構えないでくれ。ぼくは真剣だ」
「それは十分伝わっておりますわ。でもどうして? わたくし、何か嫌われるようなことをしてしまったかしら?」
上向いた旦那さまの顔が泣き出す寸前のようにくしゃりと歪んだ。
「違うんだ、エリス。ぼくが全部、悪いんだ」
子どもができた、と。
「すまない、すまないエリス」
わたくしが言葉を理解するより先に、旦那さまは謝罪を始めてしまった。おかげでまた返事をし損ねた。
「許してくれとは言わない。どんな責めも受ける」
「旦那さま、待ってください。もう少しゆっくり、お話してください。わたくしびっくりしてしまって、そうすぐにはあれこれ決められませんわ」
感情も追いつかず、ずっと微笑んだままのわたくしを見て旦那さまはいよいよ泣きそうだ。これではわたくしが旦那さまをいじめているみたい。
旦那さまを出迎えるために浮かべた笑みは、あまりに急すぎる展開に置いてきぼりを食らって、引っ込むタイミングも驚愕と交代するタイミングも逃したまま、わたくしの顔に乗りっぱなしになっている。
「……と、取引先の伯爵家のご令嬢が、ぼくのことを好いてくれた。親愛ではなく、情愛を。ぼくにはあなたがいるから、距離を置いてうまくやっていたんだ……うまくやっているつもりだったんだが」
商売が成功したお祝いだと、ちょっとしたパーティに招かれた。のらりくらりとご令嬢は躱したものの、男同士の酒の付き合いは断れず。あれよあれよと飲まされ、限界を超えてもなお飲まされ。気づけば朝で、寝ていたのは見知らぬ部屋のベッドで、隣には件のご令嬢が、揃って裸でいたのだという。何が起きたのか思い出せなかった旦那さまは、ただ困惑するしかなかったとのこと。
……それって、とっても計画的。
「ご令嬢が言うにはぼくからだと……そんなはずないって思ったんだけど」
仕事であれば露知らず、普段の旦那さまはとても気が弱い。強くも撥ね除けられず、記憶もないのでは証明もできず。何とかしようと奔走し、事実を知ろうとじたばたし、けれど状況は好転しない。そうこうしているうちにご令嬢が子を授かったと言い出したのだという。ご両親もそういうことならと、現在の妻とは離婚して責任を取れと大騒ぎになったらしい。……伯爵夫婦は堅実な性格だったと記憶しているけれど、愛娘の懐妊に冷静さを失ってしまったのでしょうか。
「事実にせよ虚偽にせよ、あなたに申し訳なくて。だから……離婚してください」
せっかく上げてくれた顔がまた伏せられる。
「旦那さま……アダムさま、わたくしのこと、お嫌い?」
「まさか! それだけは絶対にありえない!」
「でしたら、なぜそんなに強引なの? ゆっくり時間をかければ、件のご令嬢が勝手にボロを出してくれるかもしれません」
離婚しようにも、わたくしが説得に応じてくれない。未練がましく泣きついてきて、まだ時間がかかる。わたくしの両親がとても怒っていて、理解を得るのにてこずっている。
理由なんてなんでもいい。この際だ、わたくしのことを目一杯、面倒くさい女に仕立てることだって構わない。どんな手段を使っても時間を稼ぐ。そうすれば、もし子を授かっていないのであれば、その嘘は時間が解き明かしてくれる。本当に子を授かっていたとすれば、出産を控えた娘の元へ来ない男を許す親はいないだろう。向こうの両親が怒って、勝手に旦那さまを拒絶してくれるかもしれない。
「強引にわたくしを説き伏せてでも、離婚したい理由がおありなの?」
「違う、違うんだエリス。あなたのことは大好きなんだ。けれどエリス、あなたはぼくにはもったいない」
涙が一筋、旦那さまの頬を滑り落ちて行った。
「ぼ、ぼくはもう一年も家に帰っていない。君からの手紙にだって半分も返事を書いていない」
「はい、お仕事がお忙しいのだと理解しております。たまのお手紙は待っていた時間分、喜びが増します」
早くにお父さまを亡くされた旦那さまは、若い頃から家を守るために一生懸命だった。おしゃべりも人と接することも、稼業は旦那さまの苦手なことばかりを要求するものなのに、決して逃げ出さなかった。弱音はたくさん聞かせてくれたけれど、やめたいと言ったことは一度もない。泣きながら努力を積んで、仕事の場面ではまるで別人のように立てる人になった。そういう頑張り屋さんなところを、好きになった。
「……あ、あなたの誕生日もすっぽかした」
「はい、丁寧な謝罪のお手紙と抱えきれないほどの花束が届きました。わたくしの好きな花がたくさん包まれていて、とても嬉しかったですわ」
たくさん書いてあった『ごめんね』が全部、お祝いしたかったと悔やむ気持ちを訴えてきた。同じだけ綴られた『おめでとう』だけで、わたくしは笑顔になれた。
「あなたとは一緒に過ごせないのに、別の場所で違う女性と一緒に過ごすことだってある」
「はい、お仕事の関係上お断りできない付き合いがあると納得しております。そういう時は必ずお手紙で知らせてくださるから、心配しておりません」
たくさん、たくさん謝って、同じだけわたくしの好きなところを書いてくれる。旦那さまが自分のどんなところを好いてくれているのか知れる、わたくしにとっては嬉しいことがいっぱいのお手紙だ。
「……今回は知らせなかった」
「帰ってきてくださいました」
それがなにより、一番嬉しい。
「エリス……」
遂に旦那さまの涙腺が決壊した。ボロボロこぼれる大粒の涙が、瞬く間に床を濡らす。
「あらあら、泣き虫ですわね」
わたくしは気が長いほうだ。のんびりした性格で、話をするのがあまり得意ではない旦那さまの言葉もいつまでだって待っていられる。社交の場ではぼんやりしていると叱られることもあるけれど、大抵のことは、まあいいか、で済ませてしまえるくらい、のんびりゆったり構えて日々を過ごしている。だから待つのは苦ではない。何より待ち人はいつだって大好きな旦那さまだ。待っている時間さえ、愛おしい。
「ぼ、ぼくは仕事でいつも国中を飛び回ってるから、あなたとの子どもだって……」
「子どもなら養子という手段もありますわ」
旦那さまと育てる子なら、実子でも養子でも変わらない。
「エリス、やっぱりあなたはぼくにはもったいないよ」
「あらあら困った旦那さま。そんなに泣いたら枯れてしまいますわね」
急いで水を持ってこさせる。
「さあ、まずは水を飲んで落ち着いてくださいな。それからゆっくり、今後のお話をしましょう」
あっという間にコップの中身を干して、旦那さまはようやく立ち上がってくれた。
後ろに控えたメイドたちがホッとしたように息を吐く気配を感じ、ここが玄関先であったことを思い出す。帰宅早々、離婚だと土下座する主人に驚いたのは、わたくしだけではなかったらしい。
「すまない、エリス」
「離婚のお話なら、わたくしもう忘れました」
「……ありがとう」
にっこり笑んで旦那さまの手を引く。
寝室まで移動して、お茶とお菓子を用意させ、二人で向かい合って座る。
「えーと、伯爵家のご令嬢でしたっけ?」
「あ、うん。どうしよう?」
情けない顔をする旦那さまの口の中にチョコレートを放り込む。
「我が家にお招きしましょうか?」
「……は?」
「旦那さまに恋慕するなんて、わたくしたち気が合うかもしれませんわ」
旦那さまの好きなところ、素敵なところを言い合いっこするのはとても楽しそう、と。笑んだわたくしを見て旦那さまが青褪める。
「え、エリス? やっぱり怒っているのかい?」
「いいえ」
旦那さまに対してはこれっぽっちも。
「件のご令嬢とはきちんとお話をする必要があるかな、と思っただけですわ」
我が家は爵位こそ持たないけれど、ジェントリとして社交界でもそれなりの地位を築いている。粗末な扱いは気分が悪いし、軽んじられては今後の仕事に支障をきたす。それに、いくら伯爵家のご令嬢といえども、妻のある人に悪戯するのはよろしくない。
仮にお嬢様が本当に子を授かっていた場合、わたくしは大マヌケということになるけれど、その時はしかたない。自分を憐れんで泣きましょう。
「お仕事中の旦那さましかご存じないのなら、普段の旦那さまを知っていただくのもいいかもしれません」
「エリス、普段のぼくはそんなに情けないかな……」
「そんなところも大好きですわ」
「ありがとう。でも否定してほしかったんだよ、ぼくは」
お仕事中の旦那さまは、誰もが見惚れる凛々しさがある。けれど普段の旦那さまにそんな素振りはない。落差でがっかりする女性は多いから、彼女も同じように離れてくれるかもしれないという魂胆だ。
「でも、そうだね。ぼくでは彼女も、彼女の両親もうまく振り払えないだろうし。社交界で変な噂が立つ前に、何とかしたい」
エリス、と名を呼ぶ旦那さまの眉尻が下がる。
「情けないぼくを、どうか助けてくれないか?」
「もちろんですわ」
ゆっくり時間をかけましょう。大抵の問題は、時間が解決してくれるものです。結末がどうであれ、時間は平等に流れますから。
◇
リリン・エバンス伯爵令嬢。
くりくりとした栗色の艶やかな髪と、愛らしいお顔立ちはなるほど確かに、どなたからも愛される容姿でいらっしゃる。豊かな胸は、旦那さま好み。
「お招きいただき、ありがとうございます。お世話になりますね」
「ようこそお越しくださいました。どうぞごゆるりと、おくつろぎくださいませ」
なんて、にこやかに挨拶は交わしたものの、わたくしを見る目はまったく笑っていない。早くも喧嘩腰とは、せっかちさんらしい。
「まずは寝室へご案内いたしますわ。必要なものがあればご用意いたしますので、ご確認くださいませ」
お医者さまはお抱えの方がいらっしゃるということだったけれど、侍女を連れてきているわけでもなく、荷物も極端に少ない。我が家にお任せいただけるという理解で、よろしいのかしらと少し心配になる。
「アダムさまはどこ?」
丁寧な口調はあっという間に剥がれ落ちてしまった。本当に、なんてせっかちさんでしょう。それに、他人の旦那を名前で呼ぶなんて。少なくともまだ、アダムさまはわたくしの旦那さまだ。
「書斎で仕事中ですわ。夕食には参加されますので、ご安心くださいませ」
「出迎えてくださらないの?」
「申し訳ございません。旦那さまにとって大切なお仕事です。時には妻より、優先されます」
「まあ、妻より? アダムさまったら冷たいのね。それとも、」
不意に、リリンさまが口角を吊り上げた。その目には、明らかな嘲りの色がある。
「構わないほど、あなたが軽いのかしら」
わたくしという存在が、旦那さまにとって、仕事より劣る存在という認識。後回しにしても構わないほど、旦那さまの中で軽い。
おそらくはそういう意図のある言葉なのでしょう。
まあ、わたくしに敵愾心を抱いていらっしゃるということはわかった。
「旦那さまの重荷になっていないのなら、わたくしとしても安堵するところですわ」
気にするほどの発言じゃない。
「さ、寝室はこちらですわ」
背を向ける一瞬、リリンさまの表情がひどく歪んでしまった気がしたけれど、きっと気のせいでしょう。
◇
夕食の時間になると、アダムさまも部屋から出てきた。三人で食卓を囲む。
「アダムさまったら、わたし部屋で一人ぼっちだったの。寂しかったわ」
「も、申し訳ありません。あの、仕事が残っていたものですから」
リリンさまは食欲も旺盛で、特に障りのある食事もなさそうだ。一応、メニューには配慮をお願いしているけれど、なんだかお酒を出しても飲んでしまいそう。
「食事の後は? 赤ちゃんのことを相談したいの。部屋に来てくれるでしょう?」
「い、いえ……まだ仕事が……」
「赤ちゃんがいるのよ? 仕事は後でもできるじゃない」
それでは旦那さまの眠る時間がなくなってしまう。
今日のポトフ、とっても美味しいわ。柔らかく煮た、とは聞いてきたけれど、口の中でホロホロ崩れる鶏肉は癖になってしまいそう。ブロッコリーなんて、口に含んだら溶けるよう。どうしましょう、おかわりしてしまいたい。
「アダムさまったら、ひどいわ!」
リリンさまの大きな声に、ハッとして旦那さまを見る。泣きそうな顔で体ごと後ろに引いて、わたくしに向かって必死に目配せしていた。
対してリリンさまは憤怒の形相で旦那さまに迫っていた。そんなに身を乗り出したら、お腹を圧迫してしまう。
「エバンスさま、本日はお疲れでしょう? お話であれば明日にでも、ゆっくりされるとよろしいですわ。旦那さまは明日、お休みですもの」
キッとわたくしを睨んだリリンさまはしかし、お休み、の部分で怒気をわずかにゆるめた。
「エバンスさまがいらっしゃるから、旦那さま無理をしてお仕事を詰めていらっしゃいますのよ。ですから今夜はどうか、大目に見て差し上げてくださいませ」
ぱっと表情を切り替えて、リリンさまは嬉しそうに笑んだ。
「アダムさまったら、早く言ってくれればいいのに」
「も、申し訳ありません」
「では明日。楽しみにしてるわね」
その後はすっかりご機嫌で、リリンさまは和やかに食事を終えさっさと部屋へ引っ込んだ。眠ってしまったことを確認して、わたくしは夫婦の寝室へ。もちろん、旦那さまも同じ部屋で眠る。
「エリスったら、ポトフに夢中なんだものな」
開口一番、アダムさまは不満顔だ。
「だって、とっても美味しかったんですもの」
「確かに、すごく美味しかった。今度からポトフはあれくらい煮てもらおう」
笑い合いながらベッドに入る。
「あのお嬢さま、寝室のこと何も言わなかった?」
「はい、何も。アダムさまは書斎でお仕事だと思ったのかもしれませんわ」
「君とそう歳の変わらないはずなのに、幼子のようだ……」
アダムさまの溜め息が重い。本当に参ってしまっているようだ。
計画的にアダムさまを巻き込んだ、とするとあまりに詰めが甘い。あまりに稚拙だ。一体、どういうつもりでいるのやら。
それとも本当に、わたくしの隣で眉を下げる旦那さまが、酔いを利用され種をまいたのか。
「彼女のご実家の方は何と?」
「返事はまだだよ。賢明な方々だから、冷静になってくれると良いんだけど」
リリンさまを預かるに際して、日々の様子はすべて報告する約束をしている。旦那さまは手紙に嘘は書かない。誠実さこそ、旦那さまの掲げる美徳だ。
「明日、どうしようか」
「ご自由に」
「エリスゥ……」
なんて情けない声を出すのでしょう。
「わたくし達はただ、時間を過ぎるのを待つだけでよいのですわ。のんびり、ゆっくり参りましょう」
お医者さまは定期的に我が家を訪れ、彼女を診ることになる。結果を聞く権利は当然、アダムさまにもある。結果次第ではわたくしも覚悟を決めることにはなるでしょうけれど、それはその時に考えればよろしい。
彼女のお腹の中身がどうであれ、時間が全てを明らかにしてくれる。焦ることなんて、何一つもない。
ただし、本当に芽吹いていたとしても、わたくしにも妻として譲れないものはある。真偽が明らかになるその瞬間まで、アダムさまに愛されている、などという蜜を、リリンさまに味わっていただくつもりは、ない。アダムさまの心がいまだわたくしに寄り添っているのなら、最後の一滴まで、それはわたくしのもの。
「そうは言っても、気が滅入るよ」
「では、外出でもなさったら? アダムさまのお仕事は急な対応も日常茶飯事。休日の約束がなくなることも、覚えていただかなくては。アダムさまの妻になりたがっている女性なのですものね」
「……エリス、本当に怒ってないんだよね?」
「ええ、もちろん。大好きですわ、アダムさま」
「ぼくもだよ」
わたくしは気が長い方だ。のんびりした性格で、社交の場ではぼんやりしていると叱られることもあるけれど。愛する夫を寝取られて、まあいいか、で済ませてあげるほど優しい性格はしていない。人並みの独占欲も、誰かを憎いと思う心だってあるのだから。
◇
リリンさまの怒号が邸内を駆け巡る。
「どうしてよ! アダムさまはどこ!」
アダムさまが休日も仕事に出かけてしまったことが、どうやら相当、頭に来てしまったらしい。朝、お部屋まで伝えに行ってからずっと、怒鳴り通しだ。ちなみに、本当に仕事が入ってしまってのお出かけだ。天の助けだ、とアダムさまはスキップしながら出かけてしまった。
わたくしも楽しみにしていたお休みなのに、アダムさまったら忘れてしまったみたい。今晩、少しだけ拗ねてもよろしいかしら。
「しかたありませんわ。お仕事ですもの」
「今日は休みのはずでしょう!」
「エバンスさま、そう大きな声を出されては、お腹の子に障りますわ」
どうか落ち着いて、と言う私の声は聞こえなかったのか、リリンさまの声はますます大きくなる。
「仕事とわたしと、どっちが大事なの!? 信じられない!」
この方は一体、何を言っているのでしょう。
仕事は大切に決まっている。食べていかなくてはいけないのだから。生きるために必要な仕事と、心を豊かにする愛は、比べるものではない。
「お休みはまたありますわ。今日は読書でもして、ゆっくり過ごされてはいかがですか?」
「わたしはアダムさまといたくて来たのよ! 読書するためじゃないわ!」
「困りましたわね」
身重の女性をむやみに外へ連れ出すわけにもいかないし。読書がお嫌なら、そうねえ。
「では、刺繍でもなさいますか?」
「刺繍は苦手なの!」
「わたくしでよければ、お教えいたしますわ」
「嫌よ! どうしてあなたに教わらなくちゃいけないの!」
本当に、どうしましょう。お医者さまはリリンさまに気を静めるお薬とか、処方してくださっていないかしら。このまま怒鳴り続けるのは、本当にお腹の子に悪いと思うのだけれど、わたくしでは余計に怒らせてしまう。
「大体、最初からおかしいのよ!」
キッと、リリンさまがわたくしを睨む。
「わたし、アダムさまとの間に赤ん坊を授かったわ」
「はい、存じております」
ですから、もう少し気を落ち着かれた方がいい、と何度も説明している。そんなに大きな声を出しては、赤ん坊がお腹の中でびっくりして泣いてしまうわ。
「知ってるならどうして身を引かないのよ!」
赤ん坊の前に、わたくしがびっくりしてしまった。
「アダムさまは、わたくしの旦那さまですわ」
正妻はわたくしの方なのだから、身を引く、という言葉を使うのは変ではないでしょうか。どうしましょう、手元に辞書がないわ。わたくしの記憶違いだったら恥ずかしい。
「夫がよその女と不貞を働いたのに、どうして平然と夫婦してんのよ! 怒りなさいよ!」
ご自分で浮気だと宣言するなんて、意外と冷静な方なのかしら。筋が通っているとは、とても言えないけれど、思わず感心してしまう。
「アダムさまは、酔っていてあまり覚えていらっしゃらないようですわ」
「関係ないでしょ? 子どもがいるんだから」
そう言われても、今から怒っても遅いでしょう。わたくし、最初にお話を聞いた時に怒り損ねてしまったもの。腹が立たなかったのだから、怒れない。
「どれだけぼんやりしてるのよ、あなた。夫が浮気してたのよ?」
「浮気は男の甲斐性、という言葉もありますわ」
決して同意はしないけれど、社交界では浮気を武勇伝のように語る方もたくさんいる。わたくしは旦那さまを想って待つのが好きだからよそ見はしない、それだけだ。浮気しかすることがない、という女の持て余す退屈を、完全に否定するほど忙しい日々を過ごしているわけでもない。
「わたしは愛した方にはわたしだけを見てほしいのよ!」
「まあ! 気が合いますわね」
「っ……だから! わたしはアダムさまをあなたと共有するつもりはないのよ!」
「ますます気が合いますわね。わたくしも、同じ気持ちですわ」
初めて、リリンさまが怯んだように見えた。
「あなた、わたしと競うつもり? こちらには赤ん坊がいるのよ」
競う、だなんて、物騒な言い方だ。アダムさまは物ではないのだから、競った結果の賞品のような扱いは失礼でしょう。それに、競う必要なんてない。
「先程も申し上げましたけれど、アダムさまはわたくしの旦那さまですわ」
正妻はわたくしだ。競うまでもなく、アダムさまは既にわたくしの夫。わたくしは既に、アダムさまに選ばれている。
「こ、子どもはどうするのよ」
「どうぞ、産んでくださいませ。子どもに罪はありませんもの」
そんな、子どもの命を危ぶむように怯えなくてもよろしいのに。健やかな子が生まれてくれれば、なによりでしょう。
「出産まで、エバンスさまは我が家できちんとお預かりいたしますわ。安心してください」
「それがそもそもおかしいでしょ? 浮気相手を歓迎するって、あなた変よ」
わたくしは別に、リリンさまを歓迎はしていないけれど、失礼になるので口を噤んだ。
「わたしは、あなたが諦めたんだと思って来たのに。どうしてへらへら笑ってられるの」
「諦めることなんて、何もありませんもの」
リリンさまの双眸に殺意にも似た激情が宿った。
「父親のいない子にするつもり!?」
「父親はアダムさまなのでしょう?」
「そうじゃなくて、子どもと父親を引き離すつもりなのかって聞いてるのよ!」
引き離す、という言葉を理解するのに、少し時間がかかってしまった。まるで最初から一緒にいたような物言いを、うまく飲み込めなかった。
「ええと……エバンスさまが出産されたら、我が家で養子として迎え入れればよろしい、ということでしょうか?」
「はあ!? そんなわけないでしょ! 何を言ってるのよ!」
どうしましょう、本当にわからない。意地悪で言っているのではなく、本当に理解できない。
「だって、わたくしの夫はアダムさまで、その子の父親もアダムさまですわよね? 引き離さず一緒に暮らす、ということなら、我が家の養子にする他に方法がありまして?」
「だから! アダムさまがわたしと結婚するのよ!」
「それでは重婚になってしまいます」
「何であなたがいつまでも妻なのよ! あなたが離婚して、わたしと再婚するの!」
ぜえぜえ、と肩で息をしながら、リリンさまは信じられないものを見るような目でわたくしを見る。
驚いてしまった。まさかそういうお話だとは思わなかった。
「ようやく理解したのね」
リリンさまが鼻で笑う。
「子どもがいるのだから、父親をあなたが譲りなさい。当然でしょう?」
勝ち誇った笑みが向けられてもなお、わたくしは混乱が解れず困っている。
リリンさまの言う当然がまるで理解できない。先程、わたくしの夫を物のように言っていたけれど、人の物を盗ったらそれこそ当然、ごめんなさいと謝罪すべきでしょうに。こんな簡単なことも知らない女性が母親で、子どもはどうなってしまうのでしょう。いえ、それよりも。どうしてわたくしが譲るのでしょう。決めるのはわたくしでも、ましてやリリンさまでもない。
互いにアダムさまを独占したい、と願っているのだから、選ぶのはアダムさまのはずだ。愛を貫きわたくしと夫婦を続けるのか、不貞を恥じて子どもへの責任を果たすのか。あるのはその二択で、わたくし達が争うことに意味なんてない。それに、子どもが本当に宿っているのか、わたくし達はそこから疑っている。
結論を出すには、まだ早すぎるでしょう。
「アダムさまがお帰りになったら、話をしましょう」
どうしても、今すぐに結論が欲しいとおっしゃるのならせめて。
「そうね、いいわよ。そうしましょう」
アダムさまの愛の在り処だけでも、先に。
そっと吐き出した溜め息を最後に、久し振りの沈黙が流れる。不意に、破るようにノックが響いた。
「終わったかな?」
アダムさまだった。
「ごめんなさい、お出迎えもせずに……わたくしったら」
「いやいや。何だか白熱していたし、ぼくも予想外に早く仕事が終わったからね。気にしないで、エリス」
一体いつお戻りになったのでしょう。待っていたような雰囲気でしたけれど、アダムさまに聞かせるには、あまり気持ちのいい話ではなかっただけに気まずい。
「ごめんね、話は聞こえてしまった。先に謝るよ」
なぜか、リリンさまの顔から血の気が引いている。貧血でしょうか。でしたら、すぐにお医者さまを呼ばなくちゃ。
人を呼びに行こうと踏み出したわたくしを、アダムさまがそっと押し止める。
「大丈夫。大丈夫だから」
力強く頷くアダムさまの表情は、わたくしの知らない気配をしていた。
「リリンさま、もうじき伯爵が迎えに来てくれますから、支度してください」
「え……どうして、」
「出産までお預かりする、という約束だ。出産しないのであれば、我が家に用はないでしょう?」
リリンさまの顔が、真っ白になった。
「出先でたまたま、夫人にお会いしまして話を聞きました。可哀想に真っ青になっておられましたよ。出血されたそうですね。あなたの侍女が隠している物を見てしまったようで、夫人が大変に心配なさっていたので、あなたの主治医のところへ付き添いましたよ」
「ぁ……」
「罪悪感を抱く程度の良心は残っていたようで、医者は泣いていましたよ。もちろん、真実を知った夫人も」
伯爵も、とアダムさまが告げた途端、リリンさまは顔を覆ってしまった。
「侍女も偽装を手伝ったと吐いたそうで。美貌と宝石だけでは、人の口を塞ぐには足りなかったようですね」
アダムさまが一歩、リリンさまへ近づく。
「ぼくが愛しているのは妻だけだ。これまでも、これからも」
膝をついて、そっと顔を覆う手を退ける。アダムさまの纏う空気が一変した。ひぃっとリリンさまの表情が恐怖で歪む。わたくしからは、アダムさまがどんな表情をしているのかわからない。
「償えとは言わない。詫びも要らない。ただ、二度はない」
地を割るような憤怒の声は、実際に熱を持っているように空気を焼いた。
「生きてぼくの家から出て行けることに、感謝することだ」
初めて見る、アダムさまの怒りは、リリンさまから泣く力すら奪った。蒼白の顔が声も出せず何度も頷く。
ふらふらと立ち上がって部屋を出て行こうとするリリンさまは手ぶらだ。思わず声をかける。
「荷物を、……伯爵はまだ時間がかかるでしょうし、荷造り、お手伝いしますわ」
それとも、何か温かい飲み物でもお出しした方がよろしいかしら。あのままでは、帰る前に倒れてしまう。
おろおろするわたくしを振り返ったリリンさまの目に、じわり、と涙が滲んだ。
「あ、あのエバンスさま、お茶――」
「~~っっっっ断固拒否させていただきます!」
バタンッ! と閉じられた扉の向こう、荒々しい足音を立てて彼女は去った。
静かになった部屋の中、旦那さまがそろそろと口を開く。
「エリスあなた……やっぱり、のんびり屋さんというのは嘘だろう?」
「まあ、何のお話でしょう」
「だって、あの状況でお茶って……ふふ、」
「倒れてしまいそうでしたもの」
彼女が噓を吐いていたことに怒るとか、そんな感情を置き去りにして心配が先に立つほど、弱々しい姿だった。
「でも、彼女との会話は、のんびり屋さんらしくなかったけどなあ」
「わたくしさっぱりわかりませんわ」
賢い猫は鼠を捕らえる瞬間まで爪を隠しているもの。みゃあみゃあ鳴くばかりの猫に、獲物を横取りされたりしません。
「……恐ろしい奥さんだ」
「嫌いになりまして?」
「まさか!」
大仰な仕草で両手を広げた旦那さまに、力強く抱きしめられた。
「ぼくの知らないエリスがまだいただなんて、これは大いなる喜びだよ!」
ぎゅう、と抱きしめる腕から、触れあった肌から熱が伝わって、わたくしは遅ればせながら顔が熱くなる。やっぱりわたくしは、のんびり屋さんのようですわ。
「旦那さま、アダムさま……」
「ありがとう、エリス。愛しているよ、さすがはぼくの奥さんだ」
旦那さまったらなんて熱烈なのでしょう。わたくし、くらくらしてしまう。
「ごめん、二度と君にこんなつらい思いをさせないから。ぼくは君だけを愛しているよ。ありがとう、エリス」
何度も、何度も重ねられるごめんと愛してる。
わたくしは一つも返事をできないまま、頭から湯気を出していることしかできない。ああ、アダムさま。わたくしの愛する旦那さま。
どうか、愛は小出しでお願いします。たまのお帰りは寂しいけれど、毎日がこんな風ではわたくし、身がもちませんわ。いつかきっと、熱で顔から火が出てしまう。
「愛してるよ、エリス」
「ひ、ひゃい……」
どうかもう、勘弁してください。