仮ヶ音ミドリコの物語ったこと(3)②
始発電車は夜走る。
駅を出ると、3つの幹線道路が交わる交差点にかさねが立っていました。
「それ、うちの制服」
「はは、一応籍をおいてあるんだ。つまりボクたちはふたりとも、まだ女子高生」
「卒業式はなくなっちゃったしね……」
暗がりのなか車線の真ん中に立つわたしたちの近くを、空車のタクシーが走り抜けていきます。
「道の交叉するところ。そこは東西の文化圏で霊の現れる場所とされた……精霊、幽霊、そして悪霊たちのね」
「それを眺めるかさねは神さまみたい」
「なるほど、冥界の女神だ」
羽ばたきがして、そばに一羽のカラスが舞い降りる。アスファルトを叩く爪が鳴る。
その艶のある黒い羽根を見ながら、わたしは久しぶりにかさねのとりとめのない連想に耳を傾けていました。
「三叉路に立ち、天と地と冥府を睥睨する月の女神。あるいは過去・現在・未来を見透す三重形態……そのギリシャの女神はね、後代の神秘学と結びつくと3つの顔を持つようになるんだ。ああでも、ボクたちは四番目の領域を見る四重形態でなきゃいけない。それは女神というより天使の形態なんだ」
「その形態がつまり……かさねのゲームでいう霊獣躰――」
「そうだね。西洋で獣といえば天使と真逆の存在になっちゃうけど、東洋でそれは救い手にもなるのさ。龍畜の身といってね……虐げられたもの、居場所のないもの、つまり人間ではいられなかったものを救う存在は獣のすがたで現れるんだ」
「あ、だからケモミミなんだ……」
「あはは、ボクもつけてくればよかったかな。リコの方が似合うと思うけどね」
3年ぶりに物理現実で話すかさねは、なんだか明るかった。
わたしにしてもそうで、憑きものが落ちたようでした。
「世界が変わっちゃったからかな……」
東の空が白み、色彩のない世界に静かな街が浮かび上がる。
そこからあらゆる可能性を見透せる気がしました。
なにも変わらない光景――。
でも、その後ろで起こっていることが現実を変えてしまう。
もちろん、あの日から光景そのものが決定的に変わってしまった場所もある。
けれど、わたしはそれを映像で知る。
空っぽになったコンビニの棚から感じ取る。
テレビのL字画面が、差し替えられたCMの歌が、なにかが起こっていることを伝える。
「はじめてインターネットに触れた年にね、あれがあったんだ。ニューヨーク……ワールドトレードセンターの崩落。よく意味がわからなかったんだけど……ただ大人たちが騒いでるなって……でも今回のことでちょっとわかった。まるで別の現実に紛れ込んじゃった気がする……日常はほとんど変わってないのに」
「うん……。ボクにはね、起こりうるすべてのことが……すべての戦争と災害、すべての出逢いと物語が、ボクたちを取り巻いているように思える。それが生じるかどうかと関係なく……」
わたしはかさねの手を握る。
3月も半ばを過ぎて、けれどまだ寒々しい空気がその手を氷のように冷やしていました。
手をつないで、わたしたちは夜明けの都市を歩く。
「それで……完成したの。再現性のある方法ってのは」
「ああ……そんなものはなかったよ……」
かさねが照れたように笑う。
懐かしいあの涼しげな表情――だけどどこか、これまでより温かで、かわいらしい。
「デカルトというひとは、世界を理解するにはその要素を細かく分ければいいと考えた。彼にとって世界はレゴブロックの箱庭だったのかもね。でもボクは模型を眺めたいんじゃない。箱庭の外側へ行かなきゃいけない。そのためには再現性だとか客観性だとか、そんな考えは邪魔だった。世界を観察するボクも世界の一部なんだし……ボクらを取り巻いている生まれることのない幻たちをも認識しなきゃいけなかった。そこですべては一度だけ起こる。好き、という衝動によって。それをリコ、キミに教わったんだよ」
「え……そ、そう」
「ゲームを楽しんでくれたようでよかった。この1ヶ月のキミのプレイデータはとても参考になる」
「あ、そっちね……」
「完成までもう少し……きっとね。それに……」
かさねがわたしを見る。
その焦点がわたしの瞳に定められて痛いくらい。
「聞こえたよ、リコの声。ゲームを通じて、ボクたちは会話している」
わたしの眼は、なめらかに動くかさねの唇を見つめていました。
「信じていいんだ、心象現実のボクらを。それが仮定された世界であっても、ボクとキミが認識すればそれは現実なんだから」
◆ ◆ ◆
かさねからメールのあったあの夜、わたしはそのサイトを訪れました。
かさねのネットゲームのβ版。
シンプルな英字表記で“Dark Side of the Moon”とありました。
オープニングはあの動画。狐耳の少女が手を差し出している。
その鋭い視線がわたしを貫く。
〈そなたらすべての抱える夢、生まれることのなかったすべての世界はここに在る。
さあ、そなたの心臓を捧げるのじゃ。
されば導いてやろう、ほんとうの現実にの……〉
Dark Side of the Moonは、無限の広がりをもつ学園世界。
人形に宿る魂となって、わたしはその薄暗がりの迷宮を探訪する。
ルールも知らないまま、暗闇に巣くう異形の存在たちと対話し、理解不能の現象を前に立ち尽くす。
わたしの人形は何度も死に、そのたびにわたしはやり直しました。
“リコ”という人形としての死と、再生。
何度目かの生を得るとき、わたしは人形を“とこやみ”と名づけました。
その名が――もう何年も思い出すことのなかった名前がなぜ浮かんだのかはわかりません。
わたしは“とこやみ”として生まれ直したのです。
やがて“化野”に、“迎火”に――はるかむかしにわたしだった無数のわたしたちになって、人形は学園を彷徨いました。
そこは懐かしい、どうして忘れていたのか不思議なほどに馴染みある世界でした。
〈そうだよ。誰も消えることはないんだ〉
誰かの声が聞こえました。
そのときようやく、わたしは鬼火のようなアイコンの表示に気づいたのです。
人形ではどうにもならない限界を超える力を憑依させること。
学園内でそれとなくほのめかされていたヒントをもとに、わたしは霊獣躰を降ろす。
〈みんなここにいる。あらゆる人格ははじめからずっとここにいるんだ〉
霊獣躰――。
粗いドットで描かれたその姿はおそらくオープニング動画の子をかたどったもので、獣の耳を生やした制服姿の少女として表示されていました。
そしてそれは、小学5年生の夏休みの夜にわたしに宿った精霊――月光に照らされて廊下に立っていた少女のように見えました。
――それは、わたしのなかにいるかさねの姿。
〈そう、ボクたちはいつも一緒にいたんだ〉
霊獣躰の名前が求められました。
わたしは、みあらか、と入力しました。
それは“神や高貴なもの――上位世界の存在がすまう宮殿”という意味のことば。
目に見えない無数のわたしが、その構造から現れる。
〈さあ、キミの見ている世界をボクにも見せて――〉
みあらかの微笑が見える。
その耳は、生まれたときからずっとクラマ山にいる孤独な獣の耳でした。
牙を剥き出し、うなり声をあげる獣を、その鼻先から耳の後ろまでそっとなでる。
寂しさ――。
なぜ誰もいないのだろう、その苛立ちはもういらない。
わたしは、わたしたちだから。
この世にわたしはたったひとり――その奇妙な意識を、捨てること。それは眩暈のするほど素晴らしい体験でした。
◆ ◆ ◆