どうして俺では駄目なんですか?
「それでなあ、前に話してた店がな、改築が終わるんだ」
休憩あがり、ディナータイムの仕込みが待っていると思っていたが、予想を外してオーナーシェフの斉藤に呼ばれた。斉藤は大柄で気の良い人なのだが、声が大きい。通りのいい声が狭い休憩室に響き渡る。
和正はどうして自分が呼び出されているのか分からず、ただ静かに斉藤の話を聞く。
「改築が終わったら新しいのを雇って……ただ教育するには社員の手が足りない」
「そうですね、結構きつきつですよね今でも」
「ああ……それでだ、阿部さん。今度の店、そうだなひとまず契約になるが……」
斉藤はにっこりと笑った。
「うちでちょっと本格的に働いてみないか」
「え……」
晴天の霹靂というべき言葉だった。
斉藤は実力でものごとを見る人だった。確かに和正は準備や段取り作業が得意で
少し動きがおぼつかない社員に対してサポートもしていた。
その動きを見ていた成果……と呼ぶべきモノなのだろう。しかし……
「その俺の本業は……声優で……」
何故、本当の職業のはずなのに
生活のための金稼ぎのはずにすぎないことで、こんなに動揺するのだろう。
契約社員になれば、就労は今みたいにフリーな感じにはならなくなる。
レッスンだって、オーディションだって……付き合いの飲み会にだって
今までだって、四苦八苦しながらやっていたことが、全て終わってしまう。
だから本業のために、こんなこと、困ってしまって
すぐに断るべきなのだ。でも上手く言葉が続けられない。
ふと、最後にやった舞台って……何年前だっけと思いだした。
レッスンや飲み会が多くて、オーディションも書類で落ちてばかりで……。
いわゆる表舞台に出たのは、二年前。
小劇場でやった、端役だった。
けして端役であることは悪くない、可愛い後輩も出来た。
でも……そこから次につながらなかった。
斉藤は和正の肩を軽く叩いた。
「まあ、改築まではもう少しだが時間はある、阿部さんだって大事なことはあるだろう。よく考えればいい」
斉藤は大型犬が笑ったような愛嬌のある笑みを浮かべた。
「だが、私は来てくれたら嬉しいよ。君は覚えが良いし、育て甲斐がありそうだ」
優しい言葉と裏側に感じる期待。
斉藤さんは和正の夢や本業を知っている。それでも発せられた言葉の意味を考えると
和正はやりきれないような、悔しいのか哀しいのか分からない感情に襲われた。
だけどそれだからといって、その善意、実力を認めてくれたことに何かが言えるわけじゃないだろう。
「そうですね……考えさせてください」
和正は歯を食いしばって、感情を隠すような笑みを浮かべた。
和正はバイトでレストランに勤めていた。
バイトは忙しく、でも給料は良かった。
何より時間の融通が聞いた。
和正がキッチン側で、朝の仕事も率先して行ったということもあるだろう
そういや、声出せてないな。
和正はハンバークが焼けるのを見ながら、ふと気がついた。
キッチンだとしゃべりはそこまで多くない。むしろ不要なしゃべりはマスクをしてても衛生面で悪い。
さらに順調に進んでいると、声を出すことのほうが少ない気がする。
自分の持ち場をちゃんとやる、そのことが大事になるんだから。
……この間、オーディションの書類審査がなんとか通って
和正は何人もの声優達がいるオーディション会場へと向かった。
必死にオーディションはやったし、静かな緊張に満ちた会場の空気感に胃がやられそうだった。
でも何より会場にいて思ったことは、自分より若い声優が多いことだった。
自分の時ですら若手で役をもらったことのない声優は多かった。
でもそれはずっと増えていて、どんどんとライバルが増えていくことに
和正はゾッとするような思いを覚えた。
結局、和正は役をとれなかった。
和正が挑戦した役は、別の誰かが持って行った。
仕事が終わり、店の裏側で缶コーヒーを飲んでいた。
休憩室で飲んでも良かったのだが、外の空気が吸いたかった。
スマホを弄って和正がやっているのは、同期で事務所に入れた声優の
ウィキペディアのチェックだった。
こんなこと、趣味が悪いと思ったが、一度始めてしまうと止められなくなってしまった。
役がとれていると胸がカッとあつくなるし、そうでないと謎の優越感を覚えてしまう。
あまりに努力しても、自分がどうにもならないことに対しての苛立ちなのかもしれない。
飲み会だって金額的に馬鹿にならないし……レッスン代となるともっとかかる。
自分のための余暇なんて、もう何年とってないのだろう。
声優で食べていくためにはどうにもならないのだ。
「くそっ……」
和正は投げやり気味にゴミ箱へ、缶を投げ捨てた。
そうして腐りそうになる自分をどうにかとどめる。
仕事が終わり、駅まで、仕事仲間と帰ることになった。
その中に女の子が二人居て、アニメ好きだという二人はキャイキャイと楽しそうにしゃべっていた。
「阿部さん、阿部さん。今度始まる(季節は始まっていく)ってアニメ知ってます?」
二人のうちの長髪の女の子が和正に声をかける。
その言葉に和正は頷いた、確か随分前に挑戦して落ちたオーディションだった。
幕末の志士を主人公にした青春バトルアニメ……という触れ込みで。
若い子を中心に人気だという漫画原作のアニメだった。
主人公の年がそれなりに更けていたので、主役に挑戦したが
書類で落とされてしまった。
「主役の声優さん、実は私全然知らなくて……。阿部さん知ってます?」
「どんな名前かな、その人」
「えっと、穂積祐太朗って人で……」
「え? 穂積? 穂積君なの???」
思わずスマホを取り出す。
ネット上では公式発表とともに、主役の声優の顔写真が出ていた。
それは和正の知っている、穂積祐太朗の顔だった。
二年前一緒の舞台にあがって、同じ飯を食べたような仲だった。
そういえばここ半年、会うことが出来てなかったと思っていたら
いつのまに……。
「阿部さん……ど、どうしたんです? 何かあったんですか?」
女の子が動揺した顔で自分を見つめていた。
「いや、何でもない……何でもないよ……」
「そう、ですか……すごい怖い顔してて、何事かと」
「ああ、いや何でもないさって、そろそろ駅だね」
「は、はい……」
女の子は小さく頷く。動揺を何とか堪えてる様子だった。
それに取りなすことが、和正は出来なかった……。
和正は仕事仲間と駅で別れた。
皆が見えなくなった瞬間、虚脱症状が起きた。
嫉妬が全身を駆け巡り、後輩が人気アニメの主役になったことへの賞賛より
むなしさと自分へのふがいなさで頭が真っ白になった。
彼は二年前に出会ったとき、まだ二十だった。
今だって二十二で、もしこのアニメが成功したら、さらなるステップアップになるだろう。
自分は二十七になっても、まだ何者にもなれていないというのに。
声優と自分で冠しているだけの、裸の王様だというのに。
……和正は電車に乗った。
家に帰らなかった、何故か山に向かう最終列車へと乗り換えていた。
ああ、本当に嫌だ。
こんなイマから、逃げたい……と。
現実から逃げ出した。