氷を欲しがる子供(後編)
「ん……うん……」
ゆっくりと瞼を開ける。光のまぶしさに瞬きをして、何故自分が寝ているのか、と思っていたら声をかけられた。
「ああ、起きたか……急に倒れ込むから驚いたぞ」
「倒れ込んだ……?」
「日頃の疲れもあったんだろうが、様子がおかしかったからここに連れてきたんだ。すぐ側だしな」
「う、うん」
少し高い位置にある座敷、そこにしかれた布団。
脇にはテーブルと椅子が配置されている。すぐ見えるとこにあるキッチンで湯を沸かしたのか、花芽が急須でお茶をいれていた。
「まあ、落ち着かせて話を聴こうと思ったら、ばたんきゅう」
「それは申し訳ないです」
「まあ、いいんだよ。起きて、気分も悪くなさそうだから」
「そうですねぇ」
温かい布団になごりおしさを感じつつも雨音は布団を出た。テーブルに用意されたお茶に手を伸ばす。花芽はそれを眺めつつ、雨音の顔を見た。
「で、雨音。君は何を見たんだい?」
花芽は月風庵の先輩だ。月風庵で起きることにおいて、誰よりも知識を持っている。
雨音は風呂上がりにあった子供のこと。氷を欲しがり、重畳……という言葉を呟いたこと。休憩室の奥の場所から来たと話したこと。そしてその姿を花芽には見えなかったことを伝えた。花芽は静かに話を聴いていたが、やがてふむと言葉をこぼしながら顎に手をやった。
「少なくとも、人間じゃないと思う」
「オバケとかですか」
「ここは元寺社の跡地だ……そんなあっさり変なモノが来られても困る」
「確かに……え、寺社の跡地?」
「そうだよ、寺は町の方へ移転したけどな。廃仏毀釈という仏教の寺をぶっ潰せみたいな運動があったんだよ。すごい昔だがな、それで神社と分離したらしい」
「でも、ここ宿屋ですよね……今」
花芽は頷いた。
「そうだよ、人間ってのはまぁ自分の都合しか考えてなかったんだよな」
「……神社は廃れてしまったのですか」
「まあ、戦争の空襲被害もあったとも言うし、相当ぼろぼろだったんだろうな。安く買いたたかれていたけど、その土地を月風庵の主人が買い取ったんだ」
「はあ」
「……ただ、人間じゃなかったとしても、月風庵は迷い人を招く宿だ。その子供も迷っているのかもしれないな」
「迷ってる……」
「かわいそうだなと思うけどな」
雨音は湯飲みをテーブルに置いた。
「……私、ちょっと外出てきます」
「え? 夜だぞ!」
「分かってます!」
懐中電灯を片手に雨音は外を出る。厚手の防寒着を羽織っていたが、頬がかちこちに固まってしまうのではないかと思うくらいに外気が冷たく感じる。懐中電灯も掴む手の先は、感覚が失ってしまいそうだ。長い髪の毛はまとめていたが、無作法に伸びた木の枝にひっかかり、その度に雨音は声を上げる。それでも雨音は足を止めなかった。自分を驚かせた存在だ、不気味だったと切り捨てて、気にする必要はないのかもしれない。迷っていたとしても、相手側は何に迷っているのか分かってないのかもしれない。それでも雨音を動かすのは、迷う誰かを見放せない。放っておけない一心だった。それはかつて雨音が、迷い苦しんでいたという経験があることに、深く絡んでいた。雨音は心の中で呟く。
だって嫌じゃない。苦しんでも伝えられず、そもそも人に気づかれないなんて。
私は嫌だったよ。本当に嫌だったよ。
どうして皆目をそらすのだろうと思うくらいに。悲しくてしょうがなかった。
だから私の
この声が届くのなら。
この手が届くなら。
全力をつくしたいよ!
雨音は荒く息をつく。暗闇の中、頼れるのは懐中電灯だけ。
幾千の星は真白な光を輝かせて、月は通常通りに夜空を歩いて行く。
あまりに美しい夜空が故に何も助けてくれないと分かる山中孤独な晩だった。
けれど雨音は屈せず、そしてそれを見つけた。
ほとんど壊れた、一枚の鏡を。
「唐露木命」
次の日も子供はやって来て、氷をせがんだ。しかし雨音はすぐに与えず、ほこりのついていた子供を風呂に入れさせ、髪の毛も洗い、綺麗な着物を着せた。子供はなすがままにされていた。喜びを戸惑いも何もない、まるで人形のような顔だった。
雨音は宿の一室に子供を連れて行くと、馳走の前に座らせる。子供は表情を変えなかった。
雨音は言った。
「お客様は、唐露木命ですね……」
するとだ、それまでなんの感情の色もみせなかった子供の表情が一変した。まるで何かを思い出したかのように、カッと目を見開かせる。
子供は雨音をじっと見た。その名前をずっと言われたかったと言わんばかりの顔だった。
「あなたは、私を知っているのですか?」
雨音はこくりと頷いた。そして砕け、かけらしか残らなかった「銅鏡」を見せる。
子供、いや唐露木命はそっとかけらに手を伸ばした。愛おしげに撫でた。
「これはあなたを宿した鏡ですね……文献によれば銅鏡をよりしろにされていたと聞いています」
雨音は続けて言葉を紡いだ。
「お客様は唐露木命、ここにあった唐露木神社の神様でした」
「そうですね……私の本体は割れ、記憶が曖昧ですが……そうだったことでしょう」
唐露木命は小首を傾げた。
「しかし、何故私の正体を……」
雨音は柔く微笑んだ。努力が少し報われたことを感じて、心がじんわりと熱くなる。
「言っていることが古い言葉でしたし、示された場所で見つけた鏡が決定打したけど、何よりのヒントは、氷でした」
「氷?」
「現代なら氷なんて簡単に手に入りますけど、昔は冬とて氷を口にすることは、雪国でないかぎり大変でしょう。ここは雪がふりませんからね。なら、氷を持ってこさせられる存在だったと考えるのが自然です」
「カンがとてもいいですね」
「いいえ、氷が欲しいというヒントがあったからです……私は文献で調べました。そしてここの山にあった神社に氷が奉納されていたことを知ったんです」
唐露木命はふっと目を細める。割れた自分に残る、かすかな記憶をたぐり寄せる。
夏、暑い時期。祭りがあった。様々なお供えのものの中に、氷があった。
遠い氷室から、一番早い飛脚の力を借りてほんの少しだけ持ってこれるのだという。本来は時の権力者に渡されるモノが、ツテがあるとは言え、奉納されることは、どれだけ信心を集めている寺社なのか。そう噂されるくらいだった。でも唐露木命は氷を口に含むことが好きではあったけれど。一番好きだったのは……。
「氷が大好きでしたよ、だってそれを舐めるときは、必ず人の笑顔が見られたものです」
氷が奉納された時は、かならず祭りだった。夏の暗闇を赤い炎がかっと照らす。寺の仏とともにまつりあげられた自分の周りは、人がとにかく多かった。賑わっていた。それは唐露木命の時間感覚ではついこの間のことだが、もはやその姿はどこにもない。
「けれどもう氷を舐めて見た、人々の笑顔はどこにもないのですね……」
頬にぽたりと一筋、涙が流れた。
「唐露木命、ここは月風庵。悩み疲れ迷う存在が、心を休める場なのですよ」
雨音は器に入った氷を差し出した、ふわりと笑った。
「どうか、お話し下さいませ……私はあなたのお話を」
「とても聞きたいの」
からりと、氷が、器の中で音を立てて転がった。