氷を欲しがる子供(前編)
雨音が仕事の先輩である花芽に、最初に教えられたことは、宿の在り方だった。
「ここ月風庵に来る客は、宿と繋がりを持った客なのさ」
「宿と繋がりって?」
「そうだな、多かれ少なかれ、ここに来る客には何かがある。悩み疲れ存在が朽ちていくような、まぁ色々なんだけどな。それを宿が察知して繋がり、招かれるんだ」
「は、はあ」
「だから、気を抜いてはいけないよ。ここに来るということの哀しみを、私らはよくよく覚えてないといけない」
風呂場の掃除はとにかく大変だ。カビを生やさないように、洗い場を丹念にブラシで洗う。今日は当番の関係で、花芽は檜風呂の掃除。雨音は洗い場を掃除していた。動きやすいように長い黒髪を一つに高くまとめ上げる。いわゆるポニーテールなのだが、いかんせん雨音の髪の毛はとにかく長い。一生懸命掃除すれば掃除するほど、横にゆらゆら揺れる。花芽はそれを見て小さく吹き出した。首に巻いたタオルを使って額を拭きながら、声をかける。
「そろそろ、管理も大変じゃないか、その髪。切ったほうが、風呂掃除とかトイレ掃除とか、水回り掃除の時苦労しないと思うけどな」
「気に入ってるのよ! それに髪をを切ったら、またこれだけ伸ばすのが大変になっちゃう」
「長くても短くても、雨音は美人じゃん、問題ないよ。それに髪の毛が長くて多いと、おはぎと同居してる部屋の掃除がますます大変になるぞ」
「それは……」
黒猫のおはぎと宿の寮で暮らしている雨音は眉間にしわを寄せる。だけど自分の好みと実情に心の内はせめぎ合うが、やがて変な鳴き声をあげた。
「もう、このままでいいんです! それよりも花芽さんは掃除が終わったんですか!」
「乾いた布で風呂桶は拭き終わったぞ。あとは換気すれば完璧だ」
「早い」
雨音は感心したように頷いてしまう。自分も終わりかけではあるが、花芽より進んでいるかと言えば頭を傾げてしまうくらいだ。
「雨音はどうなんだ。まだ泡が残っているところも見えるが……」
「だ、大丈夫よ。すぐに終わらせてみせるからっ」
声色で、自分の動揺を見えているのだろう。実際仕事に慣れていることもあって状況もよく見えているはずだ。それでも小馬鹿にした態度を見せず、花芽は小さな体を伸ばしながら「そうか」と呟いた。
風呂掃除が終わったら自分たち用の風呂で汗を流した。疲労は湯に入ったせいだろう。すぅとひいていくような感覚も覚えたが、代わりに水分を欲していた。冷えた水、もしくは……。
「氷! 氷が舐めたくなるっ」
「雨音、アイスとか、かき氷っぽいアイスとか、そういうんじゃなくて、氷が良いのか」
「そうなのー。うちの綺麗でおいしい水でつくられた、ひゃっこいこおりぃ……最高……」
「とても人に見せられん顔をしてるな……」
吸うタイプのチョコアイスをちゅうちゅうと吸っていた花芽だったが、急に声を上げた。
「ラジオが始まってしまう」
「花芽さんはラジオが好きねぇ。急にそわそわしはじめるんだもの」
「ここはネット環境がすこぶる悪いし、携帯電話もつながらないことも多いんだから、頼れる情報源を見逃すわけにはいかんだろ」
「はいはーい。いってらっしゃいー。良い声にほだされて、また寝落ちしちゃ駄目ですからねぇ花芽さん」
花芽は雨音の言葉に珍しくきゅっと目を瞑った。頬がうっすら赤くなる。
それから自分の状態をごまかすように、言葉を吐いた。
「うるさいな、そんなことにはならんからな!」
どすどす……という足音を立てそうな勢いで廊下へつながる戸を開け、花芽は寮へと向かっていく。
先輩の様子にくすっとしつつ、雨音は氷を口に含み、凉を楽しんでいた。
氷はあと三つ、さすがに無味が気になってきたので何か糖蜜でもかけようかと思っていると、後ろから声をかけられた。
「その氷、ちょうだい!」
「へっ」
今日のお客? いやまったく見覚えのない、痩せた子供がいた。ココは従業員用の風呂場の側だ。客、もとい客の縁者としても近寄ることはないはずなのだが……頭を傾げる雨音に対して子供は再び言った。
「その氷、ちょうだい!」
子供はいつのまにか雨音の側、氷の入った器を覗き込んでいる。子供の速い動きに瞼をぱちぱちと開けたり閉じたりしていたが、子供の氷を欲しがる様子に、小さく苦笑した。
「しょうがないわね、はい、どうぞ」
匙で掬った溶けかけ丸くなり始めた氷。それを子供の口にひょいと滑らすように入れる。子供はニコニコとしながら氷を舐めた。そしてこんな言葉を吐いた。
「重畳……重畳……」
「え?」
聞き慣れない、むしろ聞き覚えのない言葉。しかしその言葉を子供は使いこなしていた。それくらい違和感を覚えさせない言葉遣いだった。そういえば子供は麻の藍色の浴衣を来ていた。しかし月風庵は夏はともかくとして、それ以外の季節は綿の浴衣をつかっているはずだが……。
「君はどこの子なの? お客様についてきたりしたの?」
子供はきょとんとして、目を丸くした。質問の意図が分からないと言った様子だ。雨音は言葉を重ねた。
「じゃあ、君はどこから来たの?」
子供は困ったように眉をひそめたが、やがて部屋の奥に扉がある休憩室を指差した。布団や休憩用のテーブル、キッチンまでついているので、雨音や花芽にとって居心地の良い部屋だ。しかしそこに普段従業員以外出入りすることはない。
「あそこって……面白いことを言うのね」
「あそこのずっと奥」
「あそこの、奥?」
建物としてはあの休憩室より奥はないはずだ。外は笹だらけ、もしくは枯れ枝が転がる寂れた光景が広がっている。しかし子供の言葉に嘘を感じない。むしろどこか真実味があり、そして寂しげな様子すらある。
「君は……」
そう言いかけた時、がらりと廊下をつなぐ戸が開いた。
「いかん……くしを忘れた」
「花芽さん!」
「どうした、そんな顔をして……」
豆鉄砲でもくらった鳩みたいだぞと言われ、よほど間抜けな顔をしていたのかと思う。雨音は苦笑いしつつ、花芽に声をかける。
「ちょっと驚いただけよ。そういえば花芽さん、お客さんが入られてしまったようなの」
「入られた?」
「ええ」
「月風庵とここをつなぐ扉はいつも鍵をかけているんだがなぁ」
花芽は不思議そうに頭を傾げる。たしかにそれは知っている。しかし実際子供が入り込めているのだから、こちらに月風庵から来ることが出来たのだろう。
「そう、この子がそうなの」
「ほう」
雨音が子供が見えやすいように、半歩横にずれた。子供は花芽が来た途端、さっと雨音の後ろに隠れてしまったのだ。恥ずかしがり屋なのかもしれない。
花芽は子供のいる位置にじっと視線を送ったが、腕を組んで苦笑いをした。
「そこにだれもおらんぞ」
「え?」
ちらりと目の端には子供が見えている。飴のように氷を舐め続けている。しかし花芽が、自分をからかったり、ましてや嘘をつく必要性がない。雨音は胸の内にひやりとしたものをおしつけられたような気分になった。雨音は頬を強ばらせながら、もう一度尋ねた。
「本当に、見えない?」
花芽は即答した。
「ああ、見えないぞ」
雨音は一体自分は何を見たのだろうと思う。花芽に視線をむけていたが、ゆっくりと子供のいるはずの位置に視線を向けた。
「え」
子供はいなかった。音もなく気配もなく、さらりと消えてしまっていた。もし何かを思いだしていなくなったとしても、月風庵につながる入り口は一つ。風呂場にむかったとしても、雨音達の視界に入るはずなのに。どうして何も見えなかったのか。
雨音はわけが分からず、ごくりと息を飲んだ。
「なんでいないの?」
雨音は尻餅をついた。溶けかけた氷が、器の中でからりと揺れる。
花芽は慌てて、雨音に近寄る。
「どうしたどうした、顔が真っ青だぞ!」
雨音はなんとも言えない、ただ背筋がぞわぞわとする事態に、頭を横に振ることしか出来なかった。
子供の声だけリフレインする。
「重畳……重畳……」