趣味「人間観察」
今となっては昔の話です。
私が中学一年の頃だから、三十年くらい前のことになります。
丁度、稲刈りが始まる時期でした。
自転車登校は楽しかったです。辺り三百八十度、果てなく続く田んぼは黄金色に染め上がっていました。ペダルを漕いで、だだっ広い平野を駆け抜けていく疾走感といったら、たまらなかった。心地良かったです。
秋の、夕暮れ間際の羊雲が好きでした。車も人もいない通学路で、自転車から降りて、制服のまま寝そべって眺めていました。仰いだ夕焼け空は澄んでいて、冷たくも柔らかい風を起こし、稲穂の、秋の、懐かしい匂いが運ばれてきて、リリリ、鈴虫の声を聴きながら、私たちは同じものを見ていました。おんなじ空を、二人で、眺めていました。
バッタは嫌だったな。違和感を覚えて起き上がると、スカートに引っ付いていたりするんです。悲鳴をあげながら、必死にスカートをはたきましたよ。けれど全く意味がないのですから、嫌になります。バッタの足は意外に強靭ですよね。あと、自転車に乗っている時に誤って踏んでしまうとパリ、パリッなんて気味の悪い音を立てるんです。あれも嫌でした。
私なんて喧しい子どもでしたから、特にそういったものに驚いて、騒ぎちらかしていました。反対に、静代は、大声なんて出すような子じゃなかったけれど、この時ばかりは一緒になって騒いでいたっけ。
あの子、昆虫が嫌いだったから。バッタやカマキリ、コオロギなんかに出くわすと、飛び上がって悲鳴をあげていました。
……すみません、少し違います。
あの子は、昆虫が「苦手」なのです。
私にとっては、どちらも同じ意味の言葉なのですが、静代にとっては違いました。そういう訳で訂正させてください。
静代は、軽々しく「嫌い」とは口にしません。
「昆虫が苦手」だとは、ほかの子にも、もちろん私にも、よく公言していました。ほかにも「ピーマンやブロッコリーが苦手」、「運動が苦手」、「あの先生が苦手」という具合に、苦手なものは口にしても、嫌いなものは内に秘めているのです。私にさえ「嫌い」という単語を使ったことはありません。
けれど私は、静代が本当に嫌いだった二つを知っています。
本人に聞いたことではありません。ですが、私はちゃんと知っていました。知っていたんです。
静代が嫌いだったのは、金魚じゃないかなと思うのです。
あの子のお家の玄関先には金魚がいました。片腕を広げたくらいの水槽に数匹の丹頂が泳いでいるのです。
「見ているだけで吐きそうになる」
耳元でこっそり教えてくれました。嫌悪感や不快感がまざまざと表情に表れていたことを覚えています。
大人しくて優しい静代の、激しい拒絶に初めて出会ったので、衝撃的でした。でも驚いていない振りをして「私も」だと首肯したのです。
頭に赤い肉瘤を乗せ、まっしろな体色を持つ丹頂。尾鰭を靡かせて、優雅に水中をきっていました。
高尚な雰囲気を纏う姿は、とても美しかった。目を奪われます。「吐きそうに」なったことなんてありません。逆にそう思うことは罪な気さえしました。
ですが、自然と首肯していたのは、静代の気持ちに寄り添いたかったのでしょう。
静代は時折、とても哀しい顔をしました。田んぼと空の地平線を眺めて、ちょっと顎を下げて、唇を噛むのです。訳を詮索する勇気がわたしにはなかった。ただ寄り添うことしかできませんでした。
私は、静代の傍にいることで、いつか糾うようにその闇を知ることができると思っていました。だから、長い道のりでゆっくり歩幅を合わせて、いつかの日を待とうと思っていました。
待つことには慣れているんです。「嫌い」を知るのにも相当な時間が掛かりましたからね。
静代の哀しさに寄り添うことが、ほんのちょっとは救いになってほしいな、なんて考えながら、地平線をなぞっている細い指の先を私もなぞるように眺めていました。
まるで、それしかできない機械になってしまった静代の指を、しばらくして「えいっ」と掴むと、ぴたっと機械は止まり、普段の静代が起動するのでした。
「手、乾燥してる。」
「秋だからかねぇ」
空を切って、冷たくなった静代の指先が暖かくなるまで握っていました。私の暖かさを、移し替えるように。
すみません、話が逸れましたね。
今は、寄り添う、寄り添わない関係なく、私も単純に「吐きそうに」なるくらい金魚が嫌いですよ。静代の言葉が、痛いほどにわかります。それはもう、耐えられないくらいの気持ちが、あの頃の静代の中にもあったのでしょうか。
静代は私の幼馴染です。生まれてすぐに両親が離婚して越してきました。
私たちが住んでいたのは、平野のど真ん中にぽつりと潜んでいる小さな集落です。周りの地域から孤立していました。田んぼだけ、土地だけは広くて、バスも電車も通らない。同い年の他の子が遊ぶ公園までは自転車で1時間以上かかりました。
だから、遊び相手は専ら静代です。でも、飽きたことはありません。静代と一緒にいることが好きでした。
私は静代のことなら何でも知っているし、静代も私のことなら何でも知っていました。
静代とは親友でした。
「水槽」の中の親友でした。
「水槽」というのは、私たちを例えているのです。
静代も言っていました。
「ここから出ることなんて出来るのかな」
いつだったかは覚えていません。そのときに私が言ったんです。
「ここは水槽の中みたいだね」と。
「たしかに、水槽だ」
「ね」
「うん」
静代は、集落に閉じ込められているのだと本気で思っていました。現に、そう私に言ったこともあります。
とても息苦しそうに顔を歪めていました。その表情を隠すように、顔を背けます。
きっと静代は、この集落のことが「嫌い」でした。
どこか諦めるように、静代はまた、哀しい顔をしました。平野を通ってきた追い風が、その時も勢いよく通ります。この秋風に乗って、静代をどこかほかの町に飛び立たせてあげてほしいと思いました。諦めて、絶望しているこの子に、ほかの社会があることを伝えたかった。
でも、言葉では説明できるはずもない。
じゃあ、もし私が手を取ったら一緒に来てくれるだろうか。
私は、水槽に閉じこめられて、一生涯出て行けない金魚達に静代を重ねていました。金魚嫌いな静代には悪いですが、無意識のうちだったので、仕方がありません。
出ることなんてできるはずのない、水槽の中に生きる小さな命。
静代そのものでした。
そうです、その例えはぴったりだ。水槽の中に生きて、一縷の灯りを求めて彷徨っていました。
実のことを言えば私は、こんな田舎出て行ってやろうと思っていたんです。秘密ですよ?わたしにとっては容易なことでしたから。
けれど、静代がいるなら私もここで、一緒にいようと、泳ごうと思ったのです。
この狭い水槽の中で、一生泳いでいても良かった。
静代と一緒なら、それで……、なんとかなるとか考えて、子どもですね。一緒でも、どうにもならないことだってあるはずなのに、あのころは純粋で、まっすぐでした。
よく聞かれます。でも、本当に、本当に、喧嘩はなかったんですよ。
「喧嘩するほど仲がいい」なんてあるわけないです。私は静代のことが大好きでしたから、喧嘩なんてしたくありませんし、それはきっと静代もそうだったでしょう。
でも、静代が控えめな性格だから我慢していたのかな、なんて今になって思います。私は我儘だったかもしれない。
集落にいて楽しかった思い出ですか。やっぱりピアノを弾くことですかね。両親とも、ピアノを弾くことが趣味だったので、気づけば私も弾けるようになっていました。
一階の西側、広い縁側がある部屋に、楽譜用の本棚と一緒にアップライトピアノがあるのです。そこでよく弾いていました。
おおっぴらに障子を開けて、季節の息遣いに呼吸を合わせます。
秋だったので、有名な楽曲でドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』なんかを演奏すると、とても気持ちが良いんです。
外に広がる自然とおしゃべりしているようで、ついつい楽しくなってテンポが上がったりして。夢中で鍵盤の上を踊りました。
私が演奏している時には、必ずと言っていいほど静代が来ます。弾き始めた時はいなかったのに、不意に後ろを振り向けば静代がいるのです。
静代は静代で読書に夢中なのでした。私も声を掛けることなく、また弾き始めます。
夢中な時間の邪魔をしないことは、言葉にしたことはないけれど、お互いに理解していました。
だから、蜻蛉が部屋の中に何匹か入ってきても、今は気にしない。空が赤くなるまでずっとずっと、繰り返し、何度も何度も弾いていました。
静代なら、今もあの集落にいますよ。
いえ、違います。死んだんです。
自殺でした。十八歳の誕生日の前日に、首を吊って。
だから、あの集落にいるんです。お墓の中で眠っています。
静代は、最後まで水槽の中で死んでいきました。
まるであの時の丹頂のようでした。
はい、その丹頂です。玄関先の、水槽の。死にました。
あれは静代が栓を抜いた。静代が抜きました。どうしてだったっけ、なにか大切なことがあった。
あの……、金魚達も…、あれは……どうしたんでしたっけ。あの、あれ、なんです。大きな水槽に入っている、種類の様々な金魚たち……。
静代の家に、大きな水槽があるどんぞがあったのです。
どんぞとは方言でしたね。「蔵」のことです。
玄関先にあった水槽とは違います。全く違う。
静代のお家は、まるでお寺と勘違いしてしまうぐらい、広くて大きいお家でした。立派な門構えや庭、いくつもの広いお座敷。高そうな壺や、お人形、掛け軸もありました。だから、あれほど大きい水槽を持てる蔵があったのでしょうね。
集落の人たちからは「地主様」と呼ばれていた記憶があります。敬われているようでした。
初めてあの大きな、大きな水槽と出会ったときのことを、思い出しました。
あれはたしか、静代の家にお泊りをしていた時です。遊び疲れて眠って、その明け方にふいに目が覚めました。
トトトト、なにか音がしたのです。規則的な低い響きでした。まな板の上の人参を切っているときのような音が、ずーっと続いています。それほど大きな音ではなかったのですが、ぼんやりとその音を聞いているうちに、気になってしまいました。
部屋から出て、家の裏側に向けて縁側を進んでいきます。それもたしか秋のことで、朝寒に身を震わせながら、音の鳴る方へと引き寄せられました。
そこで、あの蔵を見つけたのです。
何度も見たことがありました。家の裏にいくつもあるうちの一つで、外観も他と変わらない。蔵の前を何度か通ったことがありましたが、特段気になるところはない、ありふれた蔵構えでした。
ただ、いつもと違ったのは蔵の戸が開いていたことです。太い木と丈夫そうな錠で硬く閉ざされているはずの戸が、半分、曝け出されていました。
どうやら、そこから音が漏れているようでした。
ここまできてしまえば、私の好奇心は止まれなくなってしまっていて、飛び石をひょいひょいっと裸足で渡っていきました。音はどんどん大きくなりました。扉の前まで来てしまうと、トトトトト、柔らかだったそれは、ドドドドド、まるで滝のようです。私は好奇心のままに、わくわくしながらちらりと覗きました。
出会いでした。
背筋が凍った出会いでした。
私は、飛び込んでくる光景が信じられなかった、目を見張りました。息を吸うのも忘れて、凍てつきました。
蔵の面積半分を使うほど広く、首を持ち上げるほどまで高い驚くべき大きさの水槽に、おどろおどろしい姿形をした、金魚の大群が蠢いていたのです。
出目金や琉金のような、お祭りで一度は目にしたことがあるようなものから、色鮮やかな蘭鋳や水泡眼まで。赤、黒、混ざったものから、たくさん。
おかしいのです。おかしい、異様だった。
どの金魚も、ひと一人……、私一人分の大きさがありました。
夥しい数の巨大な金魚の群れは妖しくも美しく泳いでいました。ぎょろりとこちらにあまたの目玉を向けます。
慄き、真の底から気持ち悪くなりました。
背筋がゾゾゾと震えあがります。
ドドドドド、けたたましい音の正体は、水槽の中に泡を吹き出すポンプの音でした。曝け出された二階を見上げれば、鋸やトンカチなど、物騒なものが掛けてありました。あそこから餌でもあげているのでしょうか。夢幻かと疑ってしまいましたが、あれは恐ろしい現実でした。
一匹だけ、丹頂がいました。
玄関先にいた丹頂がとても美しかったために興味を抱いていたというのもありますが、その丹頂は水槽の中でひときわ目立って見えました。釘付けになりました。
一匹だけで、水槽の金魚たちを纏め上げる長の貫禄さえあったように思えます。
玄関先の丹頂より、十数倍以上の大きさの丹頂でした。赤い肉瘤は目を隠さんとばかりに腫れあがって、鰭は骨董品のように繊細で、かつ巨大だった。
私は暫くして、この空間の異質さに耐えられなくなりました。逃げるように立ち去った。
でも、私は……。
静代の家に遊びに行くと、時折蔵の扉が開いていることに気付いて、秘密で何度も入ってしまいました。
不気味な金魚達に、無意識に魅せられていた。魅了されていたんです。
まるで、リストの……「ラ・カンパネラ」、ご存知ですか。
リストらしい、小さくて細い旋律がしとやかな楽曲です。当時、弾きたくて弾きたくて、たまらなかった。あの曲たちに魅せられて、家にある楽譜の中を探してようやく見つけ出したときは、満ち足りた気持ちになりました。
でも、練習することを許してもらえなかったんです。まだ手が小さいから、指を故障させてしまう可能性があるのだと、そう説かれました。でも、何度も練習しました。夢中で練習しました。だって弾きたかったんです。すぐにバレてしまったけれど……。
そのときに感じた、やってはいけないことをしている蜜の味……まるで毒のような味、あれと似ていました。
その毒を飲み込むことは、いつのまにか癖になってしまいました。もう、中毒でした。
あの金魚たちに、取り憑かれてしまった。
私の家族構成は祖父、父母です。
よくあるお屋敷でした。畳が敷き詰められていて、夏は障子、冬は襖で、部屋が仕切られています。
もちろん、ピアノも畳の上にありましたよ。畳とピアノ、一見共存しませんが、過ごす分には問題はないので。
静代のお家の家族は…えっと…、現在どうかわかりませんが、あの頃は曽祖父祖母、祖父母共に健在でした。静代の母親は、事故で死んだのだと聞きました。
静代の家族とはあまり話したことがありません。わたしは嫌いでした。
でも静代は好きみたいだから、私も嫌な顔できなかった。
どうしてでしょうか、不思議と糾弾したいような気持ちに襲われることがありました。必死に我慢しましたよ。静代は家族の言ったことに、嫌な顔せず従うんです。だから、やっぱり我慢するしか道はありませんでした。
嫌いだった理由ですか。
すいません、思い出せません。そういえば、別段怖かったわけでも厳しかったわけでもなかった。何か明確なことが、あったのでしょうが忘れてしまいました。
そうですね。
天秤にかけるならば、金魚のほうが圧倒的に嫌いです。
ちょっと違うな……。金魚は怖い。
数千時間、丁寧に、精巧に、精密に、彫って、削って、彩った彫刻に、命が宿っているようなものです。口、目、鼻、鰭、膨れた胴体、尾。それが口を開けたり閉めたりを繰り返して、目をこちらに向けてくる、鰭を靡かせ遊泳している……。
気分が悪くなります。
あぁ、いつのまに、これほどまで嫌いになっていたのでしょう。自分だけではわかりませんでした。
きっかけですか。きっかけ……。
満月、満月が出ていました。
青白い満月でした。その日、星空は見えなかったけれど、私は静代の家に行きました。
「明日も天体観測をしようね」
約束していたんです。
だから、真っ暗闇の夜の中、怖かったけれど満月の明かりだけを頼って静代のお家へ向かいました。
なぜか表の門が閉まっていたんです。裏に回りましたが、裏門も閉まっていました。
静代が何も言わずに約束を破るなんて、珍しいこともあるものだなと思いました。
仕方なく帰ろうとした時に、ばったり静代のお母さんと会ったのです。おばさんは、丁度裏門の鍵を開けるところだったらしく、声をかけてくれました。
約束をしていたのだと話をすると、おばさんは無表情になり、少し間が空きました。どうしたのかと聞くと、打って変わって愛想よくはにかまれ、「静代を呼んでくるからここで待っていてね」。
腕を痛いくらいに引っぱられて、知らない部屋に通されました。
普段は静代と似て、落ち着いた雰囲気を持って接してくれていましたが、今日はどこか強引で、目の焦点があっていないように思いました。いつもとはどこか違うおばさんに不信感を抱きつつも、私が気に留めることはありませんでした。
明かりもなく真っ暗で、日焼けた畳の香りが残る部屋でした。
静代の家には、これまで数え切れないほどに来ていましたが、暗いからでしょうか。どこか不安な気持ちに苛まれます。
私は暫く待っていました。ですが、一向に静代も来なければ、人の気配もありません。松虫のチンチロリンと鳴く歌声や、木のさざめきだけが聞こえました。
だんだんと不安な気持ちは募りました。「いいや!」、私は襖を開けてずんずん前へ向かって歩きました。おばさんには悪いですが、私が静代のところへ向かった方が早いし、なんといっても暗闇が怖かったのです。早足で進んでいきました。
すると、見覚えのある廊下に着いたのです。端の部屋の明かりが、漏れでていました。
ホッとしました。普段電気が付いている廊下も、部屋も、真っ暗でしたから、やっと明かりのある部屋を見つけて気を緩ませました。
部屋からは人の声や雑音が聞こえます。それは、静代の家族の声でした。静代のおじいさんの訛りの強いよく響く声はこちらまで届きました。近づくにつれて、ひいおばあさんの声もしました。
静代の声はしませんでした。けれど、きっといるだろうと思って、私は息を潜めます。
驚かせようと思ったのです。
約束を破ったんだから、ちょっと驚かせても怒らないだろう。
足音を立てずに襖の前まで来ました。驚く静代を想像して、ワクワクしながら、襖に手を掛けた時でした。
「御金魚様への生け贄は奈緒ちゃんしかいねろォ」
静代のひいおじいさんの言葉を、一文字違わず聞き取りました。
けれど、うまく理解することができませんでした。
「生け贄」なんて言葉は聞き間違えだ、と恐る恐る隙間から中を覗きました。でも、屏風に視界が遮られており、様子を伺うことはできませんでした。私は手を離して、ゆっくりと冷たい襖に耳を当てたのです。
「本当にいァんがナァ。」
「いーァンだ。それしかねェもの」
「ンだンだ。はやぐしねど、『御金魚様』がこえェゾ。」
「悲しいけどのォ、それしかネェのお。」
「じゃあ、ヤッパリ生け贄は奈緒ちゃんだァ」
このご時世に「生け贄」なんてあっていいものなのかと、私は聞こえる現実を受け入れることができなかった。
顰めてじっと話の続きを聞いてしまいました。
とても恐ろしい内容でした。
「御金魚様」への「周期」が回ってきた、集落の女を一人、「生け贄」にしないと「安寧はない」。
「安寧」の言葉の意味はわかりませんでしたが、私が「生け贄」にされて「御金魚様」というものに殺されるということは、わかりたくはないけれど、嫌になるほどわかります。
血の気が引きました。
同時に、瞬時に悟ったのです。
口の中にあの毒の味が広がりました。
その味に、今日は声を上げず身慄いしました。
「御金魚様」は、きっとあの不気味な金魚だと、美しくも悍ましい姿形は、人を食べたからこそのものなのだと、私は悟りました。
正体を知ってしまったのです。
あぁ、思い出してしまった。ぜんぶ、思い出してしまいました。私は、そうでした、そうだった。
当時、静代の家族のことを信用していました。嫌いじゃなかった。なのに、裏切られた、全て嘘だった。
頭を抱えました。頭が痛い。あの時も、今も、頭が痛かった。どうしようもなかったのです。
「逃げろ」「ここにいては危ない」、頭では命令しているのに、怖くて足が踏み出せず聞き耳をたてることしかできませんでした。
「でもいァんがぁ?静代じゃねぇぐで。」
「ま、ンだよなァ。だって、うちン血ィ引かねぇとだめだんろ?」
「一応なァ。でも、代わりの子でも大丈夫だァって。コレさ載ったっけぜェ」
「掟には逆らえねェ。仕方ねェよ」
「だってや、あの子もあの子だンだァ。御金魚様の生け贄になりたがっているもんのォ。」
「ンだンだ、御金魚様のどごさ挨拶に行ってだンよ」
「鍵開げておぐだけで入ってくンもんのォ」
「ンだンば、正解だ。あの子の願いだンだ」
罠だったのでした。私が「挨拶」していた、だから「生け贄になりたがっている」。彼らの罪悪感を打ち消す為の罠だった!
息が詰まりました。喉元から、首を絞められているようでした。
静代の代わりの生け贄が、私。
目を瞑りました。唇を血の味がするほど強く噛みます。
死にたくない。怖い。信じられない。
なぜ、どうして自分なのかと、恐怖と悲しみでおかしくなりそうでした。
でも、どうしても、静代にも死んでほしくはないのです。静代を憎むことは私にはできませんから。
死にたくはないけれど、死んでほしくはない。矛盾でした。でも、どうしても、静代にも死んでほしくない。我儘だって言われてもいい。私は、私は、どうすればよかったんでしょうか。
そのとき、カツン、物音がしたんです。私とは反対側の、廊下の奥から聞こえました。私は震えながら、でもしっかりとそちらを睥睨しました。けれど人影はありませんでした。
急く気持が高まりました。一刻も早く、ここから、この集落から、逃げ出さないといけない。そうでないと、本当に殺されてしまう。
では、一体どこに逃げればいいのでしょうか。
頭が真っ白になりました。
どこも思いつかないのです。
逃げ場所なんか、ないのです。
私は、思い知りました。思い知ったところで現実は何も変わりやしないけれど、身をもって思い知り、打ちのめされました。
私も集落に閉じ込められていたのです。
集落に閉じ込められて、生きていました。
ガラス壁に手を当てて、あぁ、ここは水槽の中だったのかと思い知りました。
いまさらです。全部が、おそかった。
静代は知っていたのでしょう。この閉塞感を、ずっとずっと、昔から感じていたのでしょう。
声を押し殺して泣きました。こぼれる涙を止めることができなかった。
そのせいで、私は気配に気づくことができませんでした。
「奈緒ちゃん」
咄嗟に声のした方を振り向くと、おばさんが立っていたのです。
青白い月の光に照らされていました。口裂け女のように吊り上った笑みを浮かべていました。音もなく、私の真後ろに立っていました。
腰が抜けて、私は動けなかった。
後ろに下がっても、がたがたと襖が揺れるだけでした。
手には漬物石のようなものを持っています。ふらふら覚束ない足取りで、焦点も合わない瞳がゆらゆらと私を捉えて、高く高く振りあげます。
逃げ場なんてないことは、もうわかっていました。
叫び声を上げたってだめでした。私はそれに頭を殴られて、意識を失いました。
意識が戻ったのは、それからどのくらい時間が経ってからでしょうか。
気付くと足も手も縄で縛られて、目も布で覆われていました。
けれど、おおよそ自分がどこにいるのか予想がつきます。
ドドドド、水中に空気を運ぶ大きなポンプの音がして、埃っぽい匂いに混じった生臭さは強烈に鼻につきました。
頭に強く衝撃をうけたためでしょう。ぼうっとしていました。恐怖を感じるよりも、まず意識を保つことに精一杯でした。まったく使い物にならない、朦朧とした意識であったと思います。
人の気配は感じられませんでした。助けを呼ぼうとしました。けれど、できなかった。喉がつっかえていてうまく声を出すことができなかったのです。「ア」だとか「ウ」だとか、断片的な単語さえも出てくることはありませんでした。
わたしには、なにをすることもできませんでした。
ただ、金魚に生け贄として殺されるのを待っているだけでした。
待つのは得意です。でも、この状況は本意ではありません。
靄がかった頭の中で、夢を見ます。夢というより期待と言ったほうが正しいでしょうか。静代が助けてくれる、そんな夢です。あるわけがない期待を積み上げました。そんな積み木は簡単に崩れ去ってしまうことも分かった上で、私は願いました。
静代と立場は逆でしたが、同じ気持ちをもっていたでしょうから、来ないことはわかっていました。
死にたくない、生きていたいと。
人間としての根本的な欲望ですから当たり前です。
ぎい、あの重い戸が開いて、たたたた、走ってきてくれる。柔く目を瞑って、そんな期待をしていました。
ハッとしました。
私が聞こえていたのは本物の足音でした。
近づいてきて、私の元で止まります。焦った覚束ない手つきで、私を縛っていた縄を解き始めました。
現実でした。
すぐに理解しました。
静代が助けに来てくれたのだと。
でも声が出ません。解けた手や足を動かすことすらままならなかった。
丁度、目の布を解いてくれた時です。
「静代!」
私は重い瞼をあげます。静代は振り返って、蔵の扉を開けた、静代のお母さんの方に顔を向けていました。
私は、まだぼやけた視界で周りを確かめます。蔵の二階にいました。水槽の淵が見えます。きっと静代が来なかったら、ここから投げ捨てられるように「生け贄」にされていたのでしょう。
金魚たちは人の争いを高みの見物でもするように大きく丸い目玉がギョロギョロと蠢き、目が合いました。
睨みつけました。
知る由も無い金魚は一瞥をして、艶やかに水中を潜っていきます。
「玄関先の水槽の栓を抜いたでしょう。動転して騒いでいるわ。なんであんなことを……」
おばさんは、急いで階段を上がり我が子の元に駆け寄ります。
「玄関の水槽」、浮かぶのは丹頂たちです。
「打ち上がって死んでいたわ。自分がなにをしたか、わかってるの。」
今、考え直せばわかります。そちらに気を引かせているうちに、私を逃がすためだったのでしょう。
でも、私は足も手も、声すら出せませんでした。視力は少しずつ戻ってきていますが、まだ時間がかかりそうです。
おばさんは解かれた私の縄や布に気づいて「やっぱり!」と甲高い声をあげました。
「この子を逃がそうとしていたのね。」
静代の両肩を荒々しく鷲掴み、揺らします。
「代わりに死ぬことになってもいいの!」
蔵の中に響き渡りました。気も狂わんばかりに説得する姿は異様と言えました。
けれど、私はその姿に重要な事を理解したのです。
この人は、おばさんは、静代を守りたいがために私を生け贄にしようとしているんだということを。
おばさんは、他の家族がのたまった「村の掟で仕様がないから」「御金魚様への生け贄になりたがっているから」私を生け贄にしたというより、「静代を助けるために」私を生け贄にしていました。だから性急に私を捕らえたのでしょう。まさに、我が子を守る、母親の姿だと思いました。
蔵の天井の下にある一窓は夕日か、朝日か。どちらかの赤を取り込んでいました。血飛沫に見えました。静代とおばさんの伸びた影が私の腹を貫いて、まるで体が千切れているように見えたのです。
もうだめだと、私は死ぬと覚悟しました。
どうせ私が逃げたところで何も変わりませんから。私のお家に帰ったって、どうせ嘘をつかれてまた連れ戻されるのだろうし、学校へ行ったって同じことです。
逃げ場所なんて、ないのですから。
私が死ぬか、静代が死ぬか。
「いやだ」
静代はぼそぼそと、そう吐き出しました。私は哀しくありませんでした。静代がその台詞を吐いたことが当たり前だと思ったからです。私が静代でも、同じように言うでしょう。
もう、眠ってしまおうと思いました。意識もまだ朦朧としていましたから、このまま眠ってしまえば、眠っているうちに生け贄にしてくれるでしょう。
「よかった。それじゃあ…」
嬉しそうです。安堵するおばさんの姿は、突っ張っていた糸が切れたように、柔らかい笑みを浮かべていました。
生きることを諦めた私は、ゆっくりと瞼を閉じました。
「私は奈緒と一緒に集落から出ていきます。もうここに閉じ込められて、食べられるのを待つのは嫌!」
塞ぎ込もうとしていた心身がぱつっと覚めました。
「静代」、声は出ることはありませんでした。無意識に口を動かしていました。
全身が震えてました。
これまでの嫌な震えではありません。
感嘆の震えでした。
その選択肢があったことに、また今更、気づかされました。
静代はどのくらいの期間と痛苦を経て、この答えを突き止めたのでしょう。
全てを投げてでも、私を選んでくれたのです。
静代は鋭く頬を叩かれました。
「この集落の人たちと、一番はあなたのためなのよ!」
やっと意識が戻り視力も回復しましたが、手足を動かそうと試みても、どうしても言うことを聞きません。二人は口論を続けました。
「違う、みんな自分勝手だ。『掟』って盾で殺した罪の意識をなくしたいだけ。どれもこれも「自分の集落の平和のため」なんて馬鹿みたい。そんなのわたしの望みじゃない」
「なんて恐ろしいことを言うの」
「わたしの望みは、奈緒と生きることだ!」
甲高い声とともに、また静代は叩かれました。威力に足がよろつき、横に倒れ込みます。刹那、おばさんは側にあった金槌を取り上げました。勢いをつけて、こちらにむかってきます。
静代は叫びました、私の名前を。
「奈緒」
最終手段、私を殺しにきていました。わたしの息の根を止めれば、静代も諦めてくれると思ったのでしょう。がたがたと奥歯が揺れました。もう二度と味わいたくない恐怖感でした。
「あなた」
おばさんと目があったのです。戸惑ったようでした。一瞬だけ、振り上げる手が止まったのです。わたしの意識が戻っていたことで良心が働いたのか、単に驚いたのかはわかりません。ピタリと止まった一瞬でした。
夢中で静代は、金槌を振り上げた母親を押し飛ばしたのです。
「あ、あっ」
おばさんはバランスを崩しました。偶然バランスを崩したために、ガクガクガク、壊れたロボットのように水槽の方を背に倒れていきました。予想外のことに、目が点になり口を開けているおばさんの背中は斜になって水槽に寄りかかりました。
水槽の淵に体重がかかってしまったのです。
「あ」
淵を軸に、回転しました。
頭の先から、逆さになって、水槽の中に落ちていったのです。
ドボン、と。
呑み込まれるような落下。
耳を劈くような音と共に、翠玉が飛び散ります。二階全体、私の頬も、その水滴で濡れます。
踠いていました。あのひとは、必死に水槽から出ようとしていました。
でも、金魚達が無慈悲に、どんどん、どんどん下に連れていきます。狂気的なほど美しい鱗が、尾鰭が、赤い陽に当たって艶やかにきらめいています。おばさんは必死で足をばたつかせて手で追い払い、上がろうとしていました。
抵抗した甲斐があって、水面まで浮かび上がり、腕を振って、抵抗しながら、水面から頭を覗かせました。
それで、あの、わたしたちは……。
丹頂。
あの、巨大な丹頂がその飛び出た頭を。
一口で食った様を、あの陰惨な捕食を、目撃したのです。
両の目が焼きつくくらいにしかと記憶に刻み込まれたのです。
真っ赤になっていく水槽を、巨大な金魚の群れを、あの丹頂を……、真っ黒な瞳孔は映しました。
戻った意識は遠くなりました。
静代は、腰の骨が抜けたように座り込んでいました。目を逸らさずに、いえ、きっと、逸らせずにいたのでしょう。
私は薄れゆく意識の中で手を伸ばしました。
静代の涙を拭わないといけないのです、絶対に、しなければなりませんでした。静代の哀しさの一番そばで寄り添うことが、私の役目です。いつだってそうです。私がついてるって、隣に行かないと。
手を伸ばしました。
でも、瞬きをするたびに視界はぼやけて、手は下がって、スゥーっと心臓が冷たくなるのです。
そのまま、意識を失いました。
次に起きた時は、あたたかい自室の布団の中でした。
目にひどいクマをつくった静代が布団のわきに座り、私の手を握ってくれていました。
冷たい、冷たい手でした。
私が目を開けたことにすぐさま気づき、飛びつくように抱きしめられました。私は酷く泣きたい気分でした。お互いが生きていることも全てが嘘の出来事であるようで、本当の出来事で、信じられないようで、真実でした。抱きしめられた体を、私も強く抱きしめ返しました。
そして、開口一番聞かれたのです。
「覚えてる?」って。
「覚えてないよ」
口に出したら、どうしてでしょうね。なぜか、本当に覚えていないような心持になりました。
嘘をついたのは、静代に記憶を蘇えさせるのが嫌だったからでした。
母親が食べられていく残酷な姿を、思い出させたくなかったのです。また、「覚えている」という言葉を吐いてしまうことで、自分の中で無意識にあの映像が再生されることを恐れたのでしょう。
頭が食われた時のあの胸のすきは、経験したことのない絶望と虚無感を孕んでいましたから。
だから、今だけは「覚えていない」といいました。いずれ来るであろう、本当のことがいえるようになった日に、訂正すればいいと思いました。
でも「覚えていない」と言ってしまった時に、私はすっかり記憶を抜き消してしまった。本当は、消えたわけではなかったのに。
あんな鮮烈な記憶を消すことなんて不可能だったのです。刻み込まれたそれを私はすっぽかして、忘れてしまっていただけでした。
ずっとずっと忘れていました。ほんとうに今の今まで忘れてしまっていました。
いえ、静代は恨んでいます。
私が「生け贄」として死んでいたなら、自分の母親を誤って殺してしまうなんて最悪のシチュエイションは起きえなかったでしょう。死んでもなお、縛り付けられることもなかったでしょう。
私が死んでいたら、静代が自殺まで追い込まれることもありませんでした。
私は間違ってしまった。
閉ざされた世界で生きていました。他とは孤立した、独自で蠢く社会、そのなかで。
全てを忘れていたわたしが思っていたことですが、静代にはそんな水槽のような場所から飛び出して欲しかった。もっともっと違う、ほかの世界があることを、静代に知って欲しかった。
見たくないものを見て、知りたくないことを知って、苦しんで溺れる静代を助けてあげたかった。
ますます縛り付ける要因を作ってしまっていたのは、私だったのですね。
恨まれて当然のことをしたのです。
静代の望みは私が助かってほしいということではなく私と一緒に生きることです。
ならば、静代がいるところに私も行かないといけないのは道理にかなっていませんか。
燈さんはそれを「静代の願いを無下にすることだ」とおっしゃいますが、わたしは静代の望みを叶えることだと思います。だってあの時、「わたしの望みは奈緒と生きることだ」と声を張り上げていましたから。
ああ、ほとほと自分に呆れます。この言葉を聞いた記憶だけはずっととっておきたかった。
「ねぇ、奈緒さん。」
はい。
「静代さんとあなたは、お互いに寄り添いあって、狭い狭い水槽の中、二人で手を取りあって生きていたのでしょう。
二人で美しい景色に共感して、言葉にせずともお互いを分かち合って、尊重し合っている。
並では創りあげることができない関係です。
静代さんはあなたを、恨んでいますか?
落ち着いて、もう一度、息を大きく吸って、考えてみて下さい。
危険をおかして、あなたを助けに来てくれたのは誰ですか。母親に逆らってまで、あなたが生きる事を一番に望んでいたのは誰ですか。静代さんが本当に恨んでいたのは、もっと根っこの部分ではないですか。
あなたのことを助けて、生きてほしいと願って、逃げることを企てた少女が、あなたを恨むはずがないのです。
恨んでいたのは残酷な掟だ。
あなたは「私が死ねばよかった」とおっしゃいました。それは、静代さんに生きてほしかったからです。深層心理の中であなたは、自分よりも静代さんを選んでいる。
二人の中には、何か特別なものがあったのですね。だからこそお互いを選んでしまうのでしょう。
静代さんは、あなたまで堕ちていくことを望んじゃいません。あなたに生きて欲しい、生き延びて欲しいと思っていますよ。」
燈さんは暖かい人ですね。静代と一緒にいた頃の暖かさを思い出してしまいます。
深呼吸をして、燈さんのお話を聞いていたら、落ち着いた気がします。
それから……すこしだけ、また思い出しました。「覚えていない」、その言葉で忘れてしまった後のことです。
静代はホッとしたように、はにかんだのです。
熱が戻っていった指先で、ぎゅっと私の手を握りしめました。
嬉しそうで、心底安心したような、優しい笑顔でした。
もしかしたら。
静代は残酷で哀しい真実を、私には背負ってほしくなかったのかもしれません。
たしかに、静代はそういう子でした。私を優先してしまうのです。
燈さんがおっしゃるような特別な出来事は私たちにはなかったように思います。ですが、静代は私によく言いました。
「奈緒のおかげで私がある」と。
「嘘だァ」なんて笑い飛ばしていました。そこを深く問うこともありませんでした。ですがあの言葉にはどこか深みがありました。
静代にとって、なにか特別だと思えた出来事があったのでしょうか。生憎、それに関しては思い出せる気もしません。とても昔から、そう言ってくれていたので。
私は静代の支えになっていれたのでしょうか。
そうなら、嬉しいです。そうあってほしいです。
燈さん。私が静代に死んでほしくなかったと思う気持ちくらい、静代も私に死んでほしくはないのでしょうか。
よかった。
それなら、よかった。
「催眠は終わりです。落ち着いて、ゆっくり息を吸ってください。まずは目が醒めるまで、ゆっくり寝ましょう。
空が明るくなった頃、あなたは目覚めます。
その頃にはきっとあなたはあの集落に閉じ込められてられてなんかいません。
あの集落はもうあなたの中にありません。
水槽なんてものも、もとからありません。
静代さんとあなたの周りにはガラス壁ではない、広大な自然がありました。何処まででも行くことができる自然がありました。
たしかにあの頃は逃げ場もなかったでしょう。しかし今は違います。
もうここは、あなたのいた集落ではないのですから。
静代さんの分まであなたは、人生を生き切ってくださいね。
おつかれさまでした。」
音をたてることなく、ひっそりと副業部屋の扉を閉じる。
螺旋階段を降りていくにつれて、濃くなる夜陰とコーヒーの香りにからめ取られていく。どこか非現実味を含んでいた空間から一変、現実世界に引き戻される。足を下ろした。一階は自分が経営するカフェだ。
おかしいな、と思った。夜陰が途切れたからだ。ちゃんとclosedの看板にしておいたはずなのに、一階には仄暗い明かりが付いていた。
ひとり、女性がカウンターに座っている。ウェーブがかった色素の薄い髪を耳にかけている。
彼女は黒い皮の手帳を熱心に眺めていた。僕の足音には気づいたようだが、こちらに見向きもしない。
「お疲れ様です」
「びっくりしたぁ。君が待っていてくれるなんて。一体どうしたの? 」
「燈さんのことを待ってた訳じゃありません。今日は……、あの子、いないんですね。」
ぷいっとそっぽを向いてしまった。
彼女はこのカフェの特別な常連客だ。だから、時折こんな時間でもカウンターの右端、いつもの席に座っていることがある。
もちろん態度に表れている通り、僕が目当てなわけではない。
ハーフ故の整った顔立ちの彼女は、目的のあの子の前だと、その顔面を十二分に発揮した、とっても可愛らしく明るい女の子に豹変するのだ。知ってもらおうと、笑ってもらおうとする姿は実に微笑ましい。
しかし今日はいないと知って、明らかに冷めた目線でカウンターのガラスに映るスターチスを眺めている。
申し訳なさそうに眉を下げた笑みを浮かべた。「ごめんね、僕だけで。」
「思ってないでしょう。ハァ、別にいいけど。」
手帳を投げ捨てるように机に置いた。ひどい扱いだ、僕の手帳なのだけれど。
彼女はカウンターから立ち上がった。僕しかいないとわかったから、さっさと帰るつもりなのだ。それを横目に、明日の開店の準備に取り掛かる。コーヒー豆の具合を確認しようと屈み込んだ。
「警察には行かないんですか」
彼女の突然の言葉に、ピタリと手は止まった。
「聞いてたんだ。」
「はい」
あっけらかんとしていて、悪びれもない。簡単に嘘をついて騙して貶めるくせ、変なところが正直な子だ。
「あの話を聞いて、君はどう思った?」
作業の手を休ませずに、まだカウンターにいるはずの彼女に投げかけた。コーヒーのこおばしい香りが心を落ち着かせる。妙に休まるこの心地は、どこかクラシックを聴いているときとよく似ている。
そうだな、掛けるならば「ラ・カンパネラ」。
ここで流れるBGMの一曲でもある。今日のお客さんには毒のような味を感じてしまう、あの曲だ。
「気持ち悪いなと」
「率直だね」
「金魚が人を食べたなんて聞いたら、普通はこう思いますよ。」
カウンターの椅子が軋んだ。彼女は椅子に座りなおし、手に持った一輪のスターチスを差し出してくる。
どうやら、一輪だけ枯れてしまっていたようだ。
花びらの方に手をのばして、するりと受け取った。
「僕、思うんだよ。」
萎れたスターチスをぽきりぽきりと折って、ゴミ箱に放り込んだ。
「あの人は『真実を知りたい』と言った。自分自身のために忘れている真実をだよ。思い出したら確実に心理的ストレスに苛まれる。なのに、どうして自ら、自分の首を締めるんだろう。どうして自ら傷つこうとするんだろうね。」
ハハ、と笑いかけたが、彼女はクスリともしない。それはそれは綺麗な顔が台無しになるくらい、嫌悪感剥き出しの表情をして、眉を顰めた。
だからこそ本音を言えてしまうことに、彼女は気づいているだろうか。
きっと、気づいていないだろうな。若いから、自分のことで手一杯だ。
「嫌悪感を剥き出しにしているのは所謂、同族嫌悪だよ」なんて本音は飲み込んで、続ける。
「潜むべき真実だってあっていいはずだよね。どんなにわだかまりを感じていても知らない方が平和でいられるなら、そのままでいれば良かったのに。可哀想なひとだ。」
「あくまでも他人事なんですね」
頬杖に頬肉を食い込ませている。呆れたような声と表情が戯けているように見えて、くすくす笑ってしまう。
「僕はね、誰かの人生に介入するつもりはないんだよ」
「とっくに介入しているじゃないですか」
「ふふ、そうだね。介入という言い方は違った。対象が選ぶ選択肢を狭めたくない、かな。」
「はあ」
「わかってないって顔だね」
「わかります。……つまり、警察には行かないってことですよね」
頷くと、「燈さんらしいですね」、理解はしていないが納得はしてくれた様子だった。
ふと、螺旋階段を上った副業部屋の方に目をやる。階段にある窓からは、夜空が見えた。
目を凝らす。丸い満月だ。
彼女が「真実」を知った日のような青白いものでない、黄色い満月だった。
陰惨な話だったと、思い返す。そりゃあ忘れていた方が生きるのが楽だ。
まさに、飛んで火に入る夏の虫。
この生業をしていて思うことだが、本当にどこまで行っても人間というのは、「真実」に固執し、尊重し、追い求める。いま目の前にある現実世界が平和で幸福ならばそれでいいはずなのに、自分から苦しい方へ流れていく必要がどこにあるのだろう。「真実」を求めるより「現実」を大切にするべきであろうに。
あなたの見る「現実」が惨酷な「真実」の上に成り立ったものであっても、その「真実」を知ろうとする必要なんてない。大切なのは、「現実」を生き切ることだ。
「あの人はこの出来事をいずれ思い出すよ。なんていったって暴露催眠は鍵だからね。眠っている状態ではあるけれど、口に出してしまった以上、自身の開かずの間を開いてしまう鍵だよ。開いてしまったら、次は簡単だ。きっかけさえあれば開く。」
真実の扉を開けてしまった時、彼女はどう生きるのだろう。どの生き方を選択するのだろう。死なれたら困るから、その選択肢は抹消したつもりだ。
あとは、どう動くのか観察するのみ。
親友が母親を金魚に食わせて自殺して、それを知った彼女は果たして、天国を拝めるのだろうか。
それとも生き地獄への直滑降?
どちらにしても価値がある。
「彼女がどう生きるか、楽しみだねぇ」
スターチスの花びらはゆらゆらと明かりに揺らいで映じる。
訝しげな目を向けて、彼女は風船に穴が空いたような、大きく長いため息をついた。
「燈さんって……、本当に人間ですか。」
「どうして?そうだよ。」
「介入するつもりはないとか言いながら、間接的に介入していることに気づいていますよね?ほぼ悪魔ですよ。」
きょとんとした。「悪魔だ」とは初めて言われた。人に好かれ、いつでも笑顔を振りまくカフェのオーナーとしての僕と、この生業をしている僕を知っているからこそ言えるのだろうこその彼女の言葉には重みがある。少しショックを受け、苦笑いをした。
「私生活にも謎が多いし。」
「そう?」
「ご飯とか食べますか。」
「食べるよ。見たことあるでしょう。」
「じゃあどうせすることなさそうですけど、休みの日は何をしているんですか。」
「ええ、いきなりどうしたの」
「趣味とかあるんですか?」
いきなりの質問責めにクスクスと笑う。「もちろん、あるけどさ」
僕は人の良さそうな微笑みを浮かべ、優しく、柔らかく、羽毛のような暖かさを孕ませて口にした。
「人間観察」