めざせ皇太子妃4
皇太子妃候補として城に上がるまでに与えられた猶予は10日間。その間に徹底的に王宮のマナーを叩き込まれつつ、私宛に届いた大量の手紙に返信しつつ、城に持って行く荷物を吟味して揃えなければならない。多忙極まりないはず、なのに。それなのに、なぜか毎日ソルトが私を訪ねてきては、彼のために多くの時間を割かなければならなかった。「毎日、毎日飽きもせず。ソルト殿は本当にお暇ですのね」庭園の丸テーブルに向かい合って座りつつ、紅茶を飲む。
エルナンドお兄様がいらっしゃれば、可愛い妹に付きまとう同年代の男など、ブリザードと共にとっとと屋敷の外に吹き飛ばしてしまうのですが、如何せん、ソルトはお兄様が仕事で城にいる昼間にやって来るのだ。「まぁな。今は王都学校は夏休みだから、暇っちゃ暇だな」言外に、あなたに付き合う暇はないから帰れ。と訴えるが、ソルトはそ知らぬ振りをしてもぐもぐとクッキーを頬張っている。諦めたようにため息をついて、膝の上で丸くなって眠る猫の背中を撫でた。
「お前、本当にその猫を飼ってんだな。変わり者のお前のことだから、『旨そうな肉』とか言って、食っちまうかと思ってたぞ」失礼極まりないソルトの言葉。猫を食べる。って、いったいどんな発想よ。まぁ、身を飾る毛皮のためか、食べるためか、いずれにしても本来ならばこの猫は殺されるはずだったのだけれど。「食べるわけないでしょ!それよりもソルト殿。『お前』と呼ぶのはやめてくださらない?わたくしにはアシュレイと言う名がございます」つんと澄ましてそう言うと、「はぁ?今、目の前にいるのはお前一人なんだから、『お前』でいいだろ?」ソルトは元々大きな目を見開いて真ん丸にした。
「わたしくは敬意をもってソルト殿と呼んでいるのです。アシュレイ殿とお呼びください」「ブッ!アシュレイ殿だって?俺たち従兄妹同士じゃないか?そんな余所余所しくしなくても…」「余所余所しいもなにも、わたくしたち、それほど仲良くありませんわよね」ソルトの言葉を遮ってきっぱりと言い放つと、ソルトががっくりと項垂れた。「そりゃそうだけど…」とかなんとかブツブツと呟きながら。
膝の上で寝ていた猫が目を覚まして、音もなく地面に飛び降りた。「みゃー」と耳に心地よい声で鳴く。「遊びたいのね、リン」そう問うと、また「みゃー」と鳴いた。落ち込んでいるソルトを無視して、椅子から立つと、庭園に植えてある植物から猫じゃらしに似た形の物を一本手折り、猫の前に屈みつつ、目の前で猫じゃらしもどきをふぁさふぁさと揺らした。ふわふわの茎の先を捕まえようと、猫が前足を伸ばす。「みゃー、みゃー」と嬉しそうに鳴きながら、猫じゃらしもどきを追いかける猫の姿が可愛すぎる。この子、私を悶え死にさせる気ですか?
「はぁー、リンちゃん萌え」
ソルトの存在を忘れて身悶えると、「『もえ』って何だ?」ソルトに冷静に突っ込まれた。しまった、私はいま、麗しの花アシュレイ・エル・ハートランドなのでした。ソフトパワーを売りにするどこかの国のヲタクとは違うのです。言動には重々気を付けなければ。気を取り直して、スカートの裾の乱れを直しつつ緩やかな笑みを浮かべた私に、「にしてもリンって何だ?リンクス(山猫)のリンか?安直すぎねーか?絶望的なほどセンスがねーな!」椅子に座ったまま足を組み、尊大に腕組みしながらソルトが言った。
前言撤回。ヲタク上等!この男、殴っていいですか?
麗しの花アシュレイの前でも揺るぎなく毒舌なソルトにイラッとしていると、「けどまぁ、お前ならランセルの伴侶となっても許してやる」ソルトはそう言うと、陰りのないお日様みたいに豪快な顔で笑った。前世では腹の探り合いなど必要なかった。現世では、いつも心とは裏腹に、感情を表に出さず、うっすらと笑みを浮かべていなければならない。揚げ足をとられないように、アシュレイとして恥じないように、言動には気を付けていた。けれど目の前の、3つ年上の従兄妹は、自分を偽ることなく、思ったままを口にし、思ったままに生きている。そんな姿が羨ましくて、眩しい。
「お?今俺に見惚れただろ?」意地悪くソルトが突っ込む。「そのようなことはございません。うぬぼれも甚だしいですわ、ソルト殿」図星を指されて照れ隠しにそっぽを向くと、大きな手がくしゃりと頭を撫でた。「親友のランセルだから譲るんだ。お前の相手はランセル以外は許さない。もしランセルがお前を選ばなかったら、俺のとこに来い。俺の嫁になれ。これは決定事項だ、忘れるなよ」いつもの乱暴なもの言い。けれどその声音は真剣で、彼の方を見ると、まっすぐ私を見つめるソルトの強い眼差しと目が合った。言動は乱暴だけど、端正な見た目のソルトの姿は、貴公子そのものでドキドキする。突然の告白に、戸惑いつつも、「嫌です」と断れないのは、きっとソルトがいつもと違うから。
頭を撫でる大きな手は乱暴ではなく、大切な宝物を壊さないように、愛しい人を愛でるように、とても優しい。ふわふわとした思考のまま、ボーッとソルトを見上げると、ソルトはそれはそれは蕩ける笑みを私に向けた。