もう悪女とは呼ばせない
日々、淑女となるために勉強し、我儘を言わず、怒らず、穏やかな日々を過ごす内に、屋敷内外のアシュレイに対する評価は180度変わった。甘えん坊でかんしゃく持ちの我儘姫から、知的で穏やかで有能な姫へと。正直なところ、前世年齢30女が一般的で常識的な言動をするだけで、非常識の塊だった子供から良い方向に評価を反転させるのは実に容易かった。そんなこんなで、気がつくとアシュレイは12才になっていた。
いつものごとくスポコン系フェルナルド先生の授業を終えて、汗だくの体を湯船に浸かって綺麗にした後、侍女たちが薔薇のエキスをふんだんに使った香油で私の体をマッサージする。腕や背中、腰。何よりも運動して張りに張った筋肉をほぐすために、念入りに脚をマッサージした。裸に薄布を一枚着ただけのあられもない状態で「あー、づがれだ(疲れた)!!」情けない声を出す。
「あらあら、お嬢様。随分とお疲れですこと」侍女頭のハスラが私のだらしない言動を朗らかに笑い飛ばす。「アシュレイ様、さすがにそれは…」真面目なトリッセが言外にたしなめる。「おっさんですか!」ナージャが突っ込む。前世の記憶を思い出し年。侍女達との関係はすこぶる良好だった。
「ちょっと、ナージャ!おっさんは無いでしょ?おっさんは!不敬罪でクビにするわよ!!」うつ伏せに寝っ転がったまま顔だけをクルンとナージャに向けると、「あらお嬢様。わたくしが居なくなっても宜しいのですか?わたくし以上にお嬢様のお口に合う焼き菓子と紅茶を用意できる人間が、この屋敷のどこに居るでしょう?」ふふんと勝ち誇ったように胸を張るナージャにあっさりと敗北する。「嘘よ。嘘です、ナージャさん。私が悪かったわ、絶対に辞めないで!」体を起こしてナージャに抱きつくと、ナージャが肩を揺らして笑った。ハスラは微笑ましそうに私たちを見守り、トリッセが呆れたように微かに肩を竦めた。
「アーシュ!」いつも優雅で余裕を忘れないエルナンドが、バタバタと足音を立てながら浴室に入ってきた。「エル?」様子の可怪しいエルナンドに、薄布一枚(しかも濡れた布がぺったりと肌に張り付いた状態)であるのを忘れて、無防備にもお尻をペタンと床につけたまま彼の方に振り向いてしまった。どこか憤ったような険しい表情をしていたエルナンドの目が、私をみた瞬間に固まり、そして顔を真っ赤にして目を泳がせた。「落ち着け。落ち着くんだ」エルナンドがスーハーと深呼吸しながら何やら自分に言い聞かせている。そして自分のマントを脱ぐと、私の体にかけてすっぽりと包んだ。
「いくらなんでも、この姿は刺激的すぎる。ハスラ、アーシュに大事な話があるから服を着せてくれ」エルナンドはそう言って、いそいそと浴室を出た。支度を済ませると、エルナンドが待つ部屋へと向かった。お兄様、あんなに慌ててどうしたのかしら?嫌な予感に背筋が寒くなる。明らかにエルナンドは不機嫌だった。不安を覚えたままエルナンドの部屋のドアをノックする。するとエルナンド付きの侍従であるザックがドアを開けてアシュレイを中に案内した。
「誰であろうとアーシュは渡さない!!」アシュレイの姿を見た瞬間、エルナンドが彼女を強く抱き締めた。エルナンドの腕がギリギリとアシュレイの体を締め付けて息が出来ない。「エル…いたい」痛みと酸欠で意識が飛びそうになりながらも、どうにかエルナンドに訴える。ハッと気が付いたようにエルナンドの腕がアシュレイから放れた後、「はぁー」と重い息を吐きながらエルナンドが椅子に座った。そして意味がわからず立ち尽くす私を見上げて告げた。「この後、父上から話があるだろうが、アーシュが皇太子の妃候補となった」突然のエルナンドの言葉に目を見開く。
小説の中では、アシュレイが皇太子の妃候補となるのは15才の時だった。わたしはまだ12才。予定より3年も早い。小説の中のアシュレイよりは優秀で、かなりの良い子に育っている自覚はある。けれど今後予定されている悪行の数々を免れる程に地盤固めは出来ていない。心身ともにわたしは未成熟だ。全身の血の気が引いていくのが分かった。真っ青になって小さく震える私を見て、何故かエルナンドは余裕を取り戻すと、わたしを抱き締めた。今度は優しく、包み込むよう。「嫌なら、嫌だと断るんだよ。わたしはいつだってアーシュの味方だからね」エルナンドの手が私の髪を撫でる。
そうだ…このまま皇太子妃にならなければ、ヤンデレ兄様エルナンドとの病みエンドになるかもしれない。いや、途中の諸々のストーリーをぶっ飛ばして、いきなりのヤンデレコースまっしぐらの可能性が高いのではないだろうか?それならば素直に皇太子妃に治まり、小説の中の自分のような我儘や贅沢をせず。自分に群がる男たちに色目を使わず。可もなく不可もない平凡な妃として一生を終えた方がいいのではないだろうか?そこまで思い至ったとき、自分の未来に一筋の光が見えた。
そうだ!平凡になろう!!