小説の中のわたしの恋
長雨が止み、ランセル殿下はソルトとタッド、近衛兵を連れて、南の国境地帯へと向かった。当初の目的である貿易品を輸送するために開通予定の道路の下見をすると共に、豪雨で被害があった地域の慰労のためだ。
私はリンとザックと共に、未だ眠り続けるエルナンドお兄様が目覚めるのを、この小屋で待っていた。傷は完全に塞がり、失った血も元に戻った。それなのにエルナンドお兄様は一向に目覚める気配がない。
今、リンとザックは食料を調達するために外に出ている。部屋の中には私とエルナンドお兄様の2人きりだ。ベッドの側の椅子に腰掛けたまま、眠り続けるエルナンドお兄様の横顔を見つめる。苦しげに顔を歪めた拍子に、閉じたままの瞼が震えた。苦しげな表情も、やつれた頬も、乱れて額にかかる髪の毛も、エルナンドの美しさを損なうことはない。寧ろ儚げな面差しは、凶器的な美しさを醸し出す。
前世で小説の愛読者だった私は、エルナンドがアシュレイを監禁した際、この兄妹の禁断の恋は、エルナンドの一方的な片想いだと信じていた。美しくも我儘なアシュレイに恋をしたヤンデレな兄と、無理矢理監禁されて絶望する妹。
けど、この小屋で2人きりの時間を過ごしている内に、小説の中のアシュレイの気持ちを理解できるようになった。
稀有な美しさも、圧倒的な富と権力も、女たちの羨望と男たちの愛も。どれだけ手に入れても渇れた砂漠の如く、次々と欲しがるアシュレイ。彼女がいつまでも満たされなかったのは、最も欲しいものが手に入らなかったから。
欲しいもの。それは生まれた瞬間から側に居続けた、美貌の兄エルナンド。まるでひとつの魂が、何かの間違いで2つに別れてしまったかのように引かれ合い、求め合う2人。けれど兄妹であるがゆえに、結ばれることは叶わない。アシュレイは兄の気を引くように、我儘を言い、問題を起こし、無理難題を突きつける。わたくしから目を放すことは許さない。わたくしから心が離れることは許さない。わたくしのことだけを考え続けて。そう訴えるように。
エルナンドはアシュレイの願いを受け止めるように、彼女の望みを叶え続けた。ランセル殿下が崩御し、ソルトも処刑されて、エルナンドに囚われたアシュレイ。
『やめて、エル』
何度も、叫んだ。
『許して、エル』
エルナンドに組み敷かれながら、何度も訴えた。
『止めて』は『もっと』
『許して』は『放さないで』
それが彼女の本音だったんだろう。もし本気でエルナンドから逃げたければ、彼女の気性を考えれば、どんな手段を使ってでも逃げ出しただろう。当時、ハートランド家は衰退していて、従者という従者は殆ど屋敷におらず、逃げようと思えば、いくらでも逃げ道はあったはずだ。
職人が魂を込めて彫った彫刻のように美しい兄の、形のよい額に手を伸ばす。じっとりと汗ばむ兄の額に張り付く前髪を指で払う。
「ん…」
閉じたままの瞼が震える。微かに口を開けて漏れる声に、心の奥底から声が聞こえた。私ではない、もうひとりのわたしの声。心の声を言葉にのせる。
「エル、起きて。わたくしを置いて逝くなんて許さないわ」
「ア…シュ」
エルナンドの指先がピクリと動く。
「エル、わたくしを見て」
エルナンドの手を握ると、確かな温もりと共にエルナンドが握り返した。額に口づけ、閉じたままの瞼に口づける。そして…
「愛しているわ、エル」
エルナンドの唇に口づけた。柔らかい温もりが唇に触れる。溢れる想いは、小説の中のアシュレイの恋。決して許されない禁断の愛。
「エル。貴方から与えられるものならば、痛みや苦しみすら、幸せだったわ。でもね、いまの貴方を見ていて思うの。やっぱりエルには、幸せになってもらいたいって」
私ではない、もうひとりのわたしがエルナンドに告げる。
「だからわたくしは、もう、永遠に眠るわ。この娘の中で」
もう一度、エルナンドにキスをする。
「さよなら、エル」
彼女の意識が消えると同時に、エルナンドが目を覚ました。




