婚約者になりました4
「フェルナルド先生、わたくし、もう…ダメです」
心臓がばくばくと脈打ち、汗が滴る。どれ程続けたことだろう?足腰がふらふらで、立つのも辛い。ぼんやりとした視界に映るフェルナルド先生に、もう許してと訴える。
「随分とぐっしょりですねアシュレイ様。ですが、まだです。まだ終わりではありません。私を信じて従ってください。最後まで共に上り詰めましょう、アシュレイ様!」
じっとりと汗ばんだ先生が、熱い眼差しで振り返る。
「はい、先生。わたくし頑張ります!」
素直に頷くわたしの後ろから、「ふふふ」と軽やかな笑い声がした。
「早朝トレーニングで熱くなるのは分かりますが、言葉遣いには気を付けましょうね、フェルナルド。聞くものが聞けば誤解されますよ」
誤解とは、どう言うことでしょう?私達はただ、城の裏山の細道を、頂上めがけてひたすら登っているだけなのですが?
わたしの後ろから、汗ひとつ流すことなくついて来ているハースアリア先生が、声とは裏腹の鋭い視線で、フェルナルド先生をギロッと睨んだ。
「アシュレイ様にあらぬ噂が流れては大事ですよ、フェルナルド!」
山道にピタリと立ち止まり、何やら考えていたフェルナルド先生は、思い当たることがあるのか「しまったー!」と言いながら、頭を抱えて慌てている。
「あ、いや、そう言うわけではないのです、アシュレイ様!信じてくれ、ハースアリア!」
「何度言えばわかるのです。本当にフェルナルドは昔から熱中すると回りが見えなくなるのだから。貴方はそれで良いですけど、巻き添えを食らう側の気持ちもお考えください。先日も、貴方にウエストを細くするダイエット運動を教えてもらっていただけなのに、わたくしと貴方がいかがわしい行為をしていた。などと不愉快な噂が流れたのですよ!」
立ちつくすフェルナルド先生にハースアリア先生はつかつかと詰めより、今までの我慢を吐露するように、くどくどと説教を始めた。
「ごめんよ、アリア」
「情けない声を出さないでちょうだい。もう知らないんだから!」
2人の様子は、恋人同士が痴話喧嘩しているようにしか見えない。
「大体、この前だって、出るとこは出たまま、痩せるべき所は細く。ボン、キュ、ボンのプロポーションになりたいと言う婦人に、手取り足取り、節操なくダイエット法を伝授して、不貞疑惑が掛けられて大騒ぎしたじゃない。あの時のことを忘れたとは言わせないわよ?」
まだまだ続くハースアリア先生のお説教に。猫の姿で山登りについてきていたリンが、少年の姿になって、私の隣にやって来た。
「あの人達、付き合ってんの?」
呆れたような声。
「付き合ってないと思う。たぶん、まだ」
ハースアリア先生はフェルナルド先生のことが好きだと思うけど、魔法オタク、筋肉オタクのフェルナルド先生が、ハースアリア先生のことをどう思っているかは分からない。
「バカらし。行こ、アシュレイ」
リンが伸ばした手を掴む。2年前とほぼ変わらない姿のリンとの身長差は開いていて、まるで私が小さな子のお世話をしているように見える。
スキップするみたいに跳び跳ねながら、私と手を繋いで歩くリン。耳がピンと立っているのは喜んでいる証拠だろう。草木の香りが心地いい。可愛らしいリンの姿に、さっきまでの疲れが吹き飛ぶ。
「ねぇ、アシュレイ」
「なに?」
「キルに聞いたんだけど、キルのお父さんは獣人だけど、お母さんは人間なんだって」
にこにこと、私を見上げるリン。
「そうなんだ。だから獣人にしては珍しく金髪なんだね」
「そうだよ。獣人と人間は結婚できるんだよ。だからね、アシュレイ」
行く道を塞ぐように、リンが目の前に立つ。ジャリっと足元で小石が鳴る。
「僕もアシュレイのお婿さんになりたい!」
無邪気なリンに、胸がほんわかと暖かくなる。
「うーん。わたくしは殿下の婚約者だから、リンをお婿さんにすることはできないかな」
やんわりと断ると、みるみる表情が曇り、耳がしゅんと垂れてしまった。目がうるうると潤んでいて、いまにも泣き出しそう。そんな姿も最高に可愛いリンに、内心悶え苦しむ。
(かわ!萌えかわゆよ!リンちゃん)
興奮してにやけそうになる顔の筋肉を引き締めて、リンに告げる。
「お婿さんは無理だけど、ずっとリンがわたくしの側にいてくれたら嬉しいな」
子供の口約束みたいな他愛ない言葉。その言葉をリンは、大切な宝物みたいに抱き締めた。
リンのあまりの可愛らしさに、わたしは失念していた。獣人は人間より遥かに成長が遅く、遥かに長生きな生き物だと言うことを。そして目の前の10才くらいに見えるリンが、100才はゆうに越えているということを知らなかった。
約束は違えることなく、リンはアシュレイの側を離れない。アシュレイがリンを拒まない限り、アシュレイを守り続ける。




