黄泉の泉
魔王領北部ガヴェリア山脈
世界一の標高を誇るこの山脈は、東西に長く連なり、山頂付近は雪に覆われている。
その山脈の西側、麓からある程度整備された山道を登り、更にある地点から西側に外れると、途中から石畳の道へと変わる。
その石畳を、死に別れた大切な人のことを思い浮かべながら、足元だけ見て百歩歩き、立ち止まってから顔を上げる。
すると景色は一変し、石畳は下る階段に形を変え、左右を見渡せば実をつけた桃の木が鬱蒼と立ち並び、その先を見ることは出来ない。
上を見れば青かった筈の空は、珊瑚と菖蒲を混ぜ合わせたような薄紫に変わっており、掴むことの出来ない蛍のような何かがゆっくりと飛んでいる。
そこから、後ろを振り返らずに目の前の階段を降りて行くと、空の同じ薄紫色をした水辺へとたどり着く。
『黄泉の泉』
死に別れた愛する人に、最後の言葉を伝えられる場所だと言われている。
レオンはその、石畳の始まる場所に立っていた。
【キタ】
【キタ】
【マオウ キタ】
【カエレ】
【ナニシニキタ】
周りの林のあちらこちらから、声が聞こえてくる。
【カエレ】
【オマエ カエレ】
【マオウ カエレ】
【アイスルモノ】
【オマエ アイスルモノ イナイ】
声の主は、黄泉の泉の入口を守る精霊達である。
精霊達はここに来る者の心を覗き、見定め、泉への道を開くのだ。
「お前たちの言う通り、この先に私の愛する者はいない。しかし、この先にいる者が愛した者達が、私の近くにいるのだ。」
【ウルサイ】
【カエレ】
【マオウ カエレ】
【イズミ ケガスナ】
精霊達は話を聞くことなく追い返そうとする。
「お前達は、現世の者のためにここにいるのではないのか。」
かつて、レオンはここに来たことがある。
大切な部下を失った時、レオンは死に目に会えなかったのだ。
その時は精霊達が出て来ることはなかった。
【ダマレ】
【ダマレ】
【カエレ】
【ウルサイ】【ウルサイ】【ウルサイ】
木々が騒めきだし木の葉が舞い、切り裂くような風が吹き出す。
兎にも角にも嫌われているようだ。
悪手ではあるが、精霊達を力尽くで従わせることも頭をよぎった。
その時、風がピタリと止まり、精霊達の声も突如として聞こえなくなった。
そして、いつからいたのか、目の前には狐の面を被り、正絹の白打掛を纏った女が立っていた。
「うちん子らが乱暴者ですいまへんなぁ……あんさんが来はった理由はわかっとります。」
面の奥から艶めいた声で女は話す。
聞きなれない発音だ。
初対面であるが、殺気や悪意は感じ取れない。
「私は随分とお前達に嫌われているようだな。」
「そんなことあらしまへん…あんさんは強すぎて、うちん子らじゃ連れて行けまへんからなぁ。」
「連れて行けないとは、泉へか?」
「へぇ。そのまま黄泉へ連れて行けしまへんからなぁ…上手くいかへんから、あんさんが好かんのどす。」
どうやら精霊達は、ここに来た者を黄泉へ連れて行くことがあるようだ。
「荒らされてしもたら、わっちも困ってしまいますさかい……こちらへ来とおくれやす。」
仮面の女はレオンへ背を向け歩きだした。
ついて行くと、前回は下を向いていて歩いていたため分からなかったが、朱色の門をくぐり、門を境に景色が変わった。
門から先は、恐らくもう魔王領であるガヴェリア山脈の一帯ではなく、現世と常世の狭間なのであろう。
先の方に薄紫の泉があり、泉の上に浮かぶように、一人のエルフが膝を抱えて座っていた。
「呼んでおいたさかい、話しとおくれやす。」
レオンは泉の淵まで進むと、声をかけた。
「あの子達の母親だな。」
エルフは顔を上げると、涙を浮かべ頷いた。
双子たちの日差しのようなオレンジ色の髪と、翡翠色の瞳は、母親譲りのようだ。
「あの子達が心配でそばにいたいのはわかるが、それによって苦しめているぞ。」
エルフはハッとした表情をしたあと、ボロボロと涙を零した。
「お前が死ぬ間際に残した魔力が、あの子達の魔力に干渉してしまっている。あの子達の白魔病がほぼ治ったから、今になってあのようなことが起きたのだろう。」
《治った…?》
エルフは驚いた顔でレオンを見た。
「ああ、治した。……そうか、見ているわけではないのだな。」
《そばにいてあげたいという思いしかありませんでした…あの子達を観るほどの魔力を残すほど、力も残っていませんでした。》
エルフは死の直前、我が子を案じ魔力を残した。
ただそばにいたいという思いで…
《最初からそう生まれてくれていたら、どんなによかったか……危険な目に合わせることもなかったのに。》
白魔病でさえなければ、こんなことなはならなかったであろう。
悔しくて堪らないはずだ。
「お前の現世に残った魔力は、今は時を止めているが。このままという訳にも行かぬ。お前はどうしたい。」
時を止め続けると、ひょんなことで時が動きだした時に、止まっていた間の矛盾を埋めるように急速に変化が起きる。
その変化が、どんなマイナスを生み出すかは予想がつかないのだ。
《……消してしまってください。あの子達を苦しめるのは本意ではありません。》
エルフは意を決したように、表情を固くした。
「いいのか?心配なのだろう。他の方法で、魔力を残すことも出来ると思うが。」
《……いいのです。母はあの子達を守れませんでした。ここに居られる時間も、そう長くありません。常世に行けば、あの子達を感じることはできなくなるでしょう。でも……今はあの子達には、貴方がいてくれる。ここまで来てくれるような貴方なら、必ずあの子達を、守ってくれます。》
エルフはぐいと涙を拭い、笑顔を浮かべた。
「そうか。なんとなく、そう言うと思っていた。替わりに、少しばかり協力して欲しいんだが…。」
レオンはメモリールーンを取り出して、二人の母の最後の言葉を残した。
《ありがとうございました。これで心置きなく、常世に旅立つことができます。》
涙はすっかり乾ききっている。
「最後に、お前の名を聞いても良いか?」
《エフィルノア。エルフの言葉で、春の太陽という意味です。》
名を聞き、レオンは驚いた。
「あの子達と本当に似ているのだな。二人の名はハルヒとヒナタだ。」
二人合わせて母の名を表したようだ。
《素敵な名をつけていただいて、ありがとうございます。……どうかあの子達をよろしくお願いします。》
エフィルノアは、最後にまた大粒の涙を流しながら、泉の向こうへと消えていった。
「…あんさんも、粋なことしはりますなぁ」
後ろから、狐面の女に声をかけられる。
「出口まで送りますさかい。また用事できはりましたら、直接わっちを呼んどおくれやす。」
「ああ、頼む。あまり来る機会がない方がいいのだがな。」
「えぇ。わっちの名はキリカ。あの山とこの泉を結ぶ、ただの狐どす。」




