引退宣言
「セドリックはいるか」
塵一つない艶やかな黒曜石の床の大広間
その最奥に位置する、ブラックダイヤモンドとケルベロスの毛皮で設えた玉座に座り、男は白銀の長い髪を気怠げに搔きあげながら呟く。
「ここに」
目の前の空間が僅かに揺らぎ、直後に現れたのは立膝をつく初老の紳士であった。
「顔を上げろ」
そう言われて男ははゆっくりと顔を上げる。
「後はお前達に任せる」
セドリックと呼ばれた男は、一瞬眉根を寄せ、すぐに表情を元へ戻した。
きっと主人にはバレているだろうが、彼は平静を装う仮面の奥でとてつもなく困惑していた。
永きに渡り支えてきた主人の、その言葉の意図が読めなかったからだ。
言葉自体に驚いた訳ではない。
事実、同じ言葉はこれまでに何度も聞いてきたのだ。
三千年前、各地で暴れる魔族を統一した時
五百年前、天上の天使達と戦争になった時
百年前、魔物の大繁殖の濡れ衣で勇者が攻めてきた時
他にも、様々な場面で「後はお前達に任せる」と言われた。
《魔王リオン》
名実ともに世界で最強と言われたこの男は、「後はお前達に任せる」と言う時には既に事の9割は済ませていて、それからやることと言えば本当に後始末程度のものだった。
圧倒的な力を見せつけられた魔族たちはよく言うことを聞き、統一するのは容易であった。
地に堕とされた天使たちには、天上へ帰る道を教えるだけでよかった。
若くしてまんまと国に祭り上げられた無知な勇者には、魔物の繁殖の原理と、勇者の活動により生まれたカネと貴族の生臭い関係について教育した。
しかし今回、目の前には魔王ひとり。
ここ最近は特に何か事件のようなものもなく、穏やかな日々が続いていたのだ。
主人が何を求めているのか、セドリックには検討もつかない。
「セドリック、気にするな。」
魔王は心を読んだかのように、目の前に跪く男に言葉を投げる。
「ここ最近ずっと世界は平和ではないか。特に何かをやれと言ってる訳ではない。それを維持すればよいだけだ。」
主人に気を使わせてしまったことに少々落ち込みながらも、気を取り直し「畏まりました。」と答える。
維持をするのはこのセドリックにとって大して難しいことではない。
セドリック本人が優秀であるからこそ魔王の専属執事のようなことをやれているし、優秀な仲間と部下達もいる。
しかし気になるのは任された後だ。
任せた後の主人はこれからどうするのか。
セドリックの返事を聞いて魔王は満足げに頷きながら言葉を続けた。
「では、本日をもって私は魔王を引退する」