第八十九話 勇者は魔王を知っている。
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「アルシー、アルシー!アルセリア!!」
ベアトリクスの声に、アルセリアはようやく目を開けた。
目の前には、心配そうに自分を覗き込む幼馴染二人の顔が。
「……大丈夫ですか、アルシー?」
ベアトリクスの手から、癒しの光が自分へ注がれる。完全とは言えないまでも、満身創痍だった体の痛みが、徐々に和らいでいった。
「うん…ありがと」
薄ぼんやりとした頭で考える。
ここは、どこだったか。自分は、何をしていたのか。
そして思い出す。
そう、ここは魔王城、玉座の間。自分たちは魔王討伐のため、幾多の試練を乗り越えてここまで辿り着いたのだ。
「どうした?もう少しは楽しませてもらえると思ったのだがな」
嘲笑混じりの声に顔を上げる。そこには、宿敵の姿が。
泰然と座し、眼下の自分たちを睥睨している。
隠しようもない愉悦を蒼銀の瞳にたたえ、怖気のするほど整った顔に、嗜虐的な微笑を浮かべて。
「……舐めないでもらえるかしら…って、これ、さっきも言ったわよね」
強がりで自分を鼓舞し、アルセリアは傷ついた身体で立ち上がった。
気を失っていた一瞬、夢を見ていたような気がする。
とても長くて、馬鹿げていて、楽しくて、幸せで……そして、哀しい夢。
いつまでも余韻に浸っていたいと思うような、甘く温かな夢を。
その残滓を振り払うように、アルセリアは強く首を振った。
自分は勇者。今ここで“魔王”を打ち滅ぼさなければ、世界は今度こそ闇に包まれることになる。
そんなことはさせない。
絶対に、させるわけにはいかない。
何故ならば、自分は勇者なのだから。
勇者の使命は、魔王を斃すことなのだから。
大切な友人。ありふれた日常。ほんの一瞬すれ違っただけの他人。自分を支えてくれる師。助けてくれた恩人。会ったことも、言葉を交わしたことさえない人々。
どこにでもある、当たり前の光景。繰り返される世界の営み。
それらを守るために、自分はここに立っている。
「さあ、第…何ラウンドだったかしら?再トライといきますか!」
それらを守るために、自分は剣を振るうのだ。
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「アルシー、アルシー!アルセリア!!」
突然倒れこんだアルセリアに呼びかけるベアトリクス。
だが、彼女は目を覚まさない。
「案ずるな。勇者は今、己の内で試練に耐えている。肉体は、眠っているだけの状態よ」
竜の説明に、胸を撫でおろすベアトリクスとヒルダ。
しかし、
「…とは言え、もし勇者が試練に耐えられなかった場合、その魂は永遠に失われることとなる」
その残酷な言葉に、二人は声を失った。
……なるほど。アルセリアは今、精神世界で戦っている。相手は、強大な敵なのか、理不尽な状況なのか、或いは、自分自身なのか。
「アルシーは、アルセリアは、勝てるのでしょうか…?」
「それをワタシに問うても詮無きこと。問われるは、勇者の覚悟。真の覚悟がなくば、その資格は剥奪される。あの娘は己が絶望に焼き尽くされ、貴様らの元へ帰ることはない」
……覚悟。
なーんだ、だったら大丈夫だ。
あいつは、もうきっちり覚悟を決めている。こんな試練、ちゃちゃっと済ませてぱぱっと帰ってくるだろう。
「大丈夫だよ、ベアトリクス、ヒルダ。こと覚悟に関しては、あいつの右に出る者はそうそういないからな」
単細胞なだけあって、思い込んだらとことん一途なんだよ、ウチの勇者は。
俺の太鼓判に、安堵の表情を浮かべる二人。
だが…
「……なんだよ、何か言いたいことでも?」
竜が、何か言いたげな表情で俺を見ていた。
「いや…言いたいことならば幾らでも思い付くが……随分と勇者を信用しているようだな」
「ま、腐れ縁だし。あいつの覚悟は、もう見せてもらってるしな」
そもそも、覚悟がなければ魔王戦などという死地に飛び込むことなんて、出来ないだろ。
「ふむ……それは、どうであろうな」
……意味ありげな言い方をするじゃないか。どういう意味だ?
「貴様の言う覚悟と、ワタシが、否、“試練”が望む覚悟とが、一致しているとは限らぬぞ?」
「……何が言いたい?」
勇者の覚悟なんて、世界のために身命を賭して魔王と戦い、それを打ち滅ぼすための覚悟だろう。それ以外に、何があると言うんだ?
「……どうも、貴様はワタシが思い描いていた魔王とは少々異なるらしいな。まるで、人の子のようではないか。面白い、実に面白い」
竜は、俺の言葉には答えず、一人(一頭?)で面白がっている。
「…リュートさん……」
めずらしく、ベアトリクスが気弱な表情を見せている。ヒルダも、不安そうだ。自分たちの手の届かないところでアルセリアが一人戦っていると思うと、気が気ではないのだろう。
「心配するなって。こいつの図太さはお前らが一番よく分かってるだろ?今は、信じて帰りを待っていてやれば、それでいいんだよ」
大丈夫。心配ない。
俺は、自分の中に残る一抹の不安を押し込めるように、そう断言してみせた。
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「…くっ………」
アルセリアは、片膝を付いた。剣で支えなければ、倒れていただろう。
あれから、どれだけの時間を戦い続けたのか。既に、時間の感覚は失われている。
ちらり、と二人の仲間を見る。ベアトリクスは、守りと癒しの法術を連発し、かなり疲弊している。ヒルデガルダも同様だ。あと何回術式を発動出来るのか。
「…………この程度、か。つまらんな。いい加減飽きてきたぞ」
それはそうだろうな、魔王の言葉に、心中で頷くアルセリア。悔しいことに、戦い始めてから数刻の間、自分たちの攻撃はまるで相手に届いていない。
無意識に発動するという影の刃に戦闘を任せきりで、魔王自身は何もせずに座しているだけ。
そんなの、飽きて当然だ。
強大な敵だということは分かっていた。
だが、相手がまだ何もしていない時点…文字どおり、指一本も動かしていない状況…で、ここまで圧倒的な力の差を見せつけられるとは、思っていなかった。
どうする。どうすればいい?
自分の持つ攻撃手段は、全て試し、そして全て防がれた。ヒルダの攻撃術式も、ベアトリクスの持つ限られた、しかし極めて高出力の攻撃用法術も。
満身創痍、疲弊困憊の自分たちに対し、魔王は全くのノーダメージ。
ここで魔王が攻勢に出れば、一瞬で全てが終わらされてしまう。
それが分かっていたからこそ。
「まあよい。そろそろ終わらせてもらおうか」
そう言って魔王が初めて玉座から立ち上がったとき、アルセリアの心を占めたのは、純粋な恐怖。
死の恐怖…ではない。もう、そういうレベルの話ではないのだ。
言うなれば、なんて存在に手を出してしまったのか…という、悔恨にも似た絶望。
だから、魔王が自分に向かって手を掲げても、アルセリアは動けなかった。
躱せない。躱しても無駄だ。逃げても同じ。防ぐ?どうやって?どんな攻撃が来るのかも分からないのに。
魔王が自分を殺すことを意図した以上、それはもう確定事項だ。
目の前にいる冷酷な支配者は、確実に自分の命を奪う術を、その力を持っている。
それは、生物としての本能なのか、勇者としての感覚なのか。
羽虫のように叩き潰される光景を思い浮かべ、彼女は唇を噛んだ。
己の、死の瞬間を待った。
「さらばだ、勇者よ」
冷たい死刑宣告。
だが、魔王がそう言った瞬間。ベアトリクスが、アルセリアを背にして立ちはだかった。
「ビビ……!」
止める間も、余計なことをするなと言う間もなかった。
ただ、それを見た魔王が、愉快そうに唇を歪めたことだけは分かった。
そして。
言葉もなく倒れたベアトリクスを、慌てて抱き起す。
「ビビ!ビビ!?」
何度呼びかけても、どれだけ揺すっても、瞼を開けない。ぴくりともしない。その表情は、眠っているかのように穏やかで。
そして、二度と目覚めることはない。
既に、絶命していた。
「うそ……でしょ…?…ビビ………ねぇ…うそだよね?ねぇってば!」
「良き友を持ったようだな、力無き勇者よ」
声を震わせるアルセリアを面白がるように声をかける魔王。奴にとっては親友を失った彼女の悲しみも、ちょっとした娯楽に過ぎないということ。
「だが…いかんせん、貴様らは無能過ぎるな」
魔王の声が遠くで聞こえる。だが、アルセリアは答えることが出来ない。
「ビビ…やだ……こんなの、やだよぉ………」
幼子のように泣きじゃくる勇者の姿に、魔王はわざとらしく溜息をついてみせた。
「この程度か。興ざめだな」
言葉が終わった直後、魔王の体は紅蓮の炎に包まれた。
最後の魔力を振り絞り、ヒルダが攻撃術式を発動させたのだ。
「……なにやらの一つ覚えと言うが」
炎の中から、魔王の声がする。灼熱の炎も、その身体になんら傷を与えることは出来ていない。
「ならばもう少し極めてみようとはしなかったのか」
炎が消え、呆れ顔の魔王の姿が再び現れる。
「ゴメ………アルシー……」
力尽き、膝を付くヒルダ。
その姿に、魔王は残忍な笑みを浮かべると、
「顕現せよ、其は裂き喰らうもの也」
理に、そう命じた。
その瞬間、ヒルダの足元の影が醜悪に歪み…
おぞましい影の顎が形成される。
「ヒルダ!!」
それが何なのか理解する前に、アルセリアはヒルダへ手を伸ばす。
しかし……
手が届く前に、顎はヒルダの小さな身体に食らいついた。
その肉を、骨を、魂を、噛み砕き飲み込んだ。
アルセリアの、目の前で。
「あ……あ…あぁ………」
麻痺した喉から、声が漏れる。悲鳴さえ、上げることが出来ない。
「我に刃を向けた代償だ。そやつらの魂は、破砕され星へと還った。……貴様も、同じ道を辿ることになる」
魔王の言葉は、届いているようで届いていない。
アルセリアは、最早“勇者”ではなかった。
ただの、一人の少女。肉親同然の親友を目の前で失い、己が無力に絶望と恐怖を抱きながら、ひたすら怯えるちっぽけな人間。
…こんなことって。こんなことってあるのだろうか。
こんな…理不尽すぎる。
こんなことなら、自分たちが今まで築き上げてきた努力も友情も信頼も、希望も決死の覚悟も、何の意味もなかったということじゃないか。
自分が“勇者”として生きてきた今までの時間は、まるで無駄だったということじゃないか。
こんなことが、あってたまるか。
こんなこと……あるはずがない。
そうだ、あるはずがない。
アルセリアは、弾かれたように顔を上げた。
目の前の、冷酷で残忍な魔王を見据える。
「……どうした、小娘?」
ベアトリクスとヒルダの死を楽しんでいる様子の、魔王を見据える。
「貴方は……誰?」
意識するともなく、問いが口から零れ出ていた。
こんなこと、あるはずがない。
彼が、ベアトリクスとヒルダを傷付けるなんて。
その死を、娯楽程度に思っているなんて。
だって彼は。
ベアトリクスには頭が上がらなくていつも玩具にされていて、
ヒルダのことは見てるこっちが馬鹿らしくなるくらい溺愛してベタベタに甘やかして。
彼が…魔王リュートが、こんなことをするはず…ないじゃないか。
「誰…だと?今さら妙なことを聞くのだな。我は魔王。“魔王ヴェルギリウス=イーディア”。創世神と対を成す存在」
「……違う」
魔王の自己紹介を、きっぱりと否定する勇者。
「……なんだと?」
「私は、私の知ってる魔王は、そんなじゃない」
ゆっくりと、立ち上がる。まっすぐに、敵を見据えながら。
「貴様の知る魔王……?」
「私はね、アンタなんかよりずっと強い魔王を知っている!」
そう、こんな、力だけの魔王なんかではなく。
「その魔王はね、強くて、口うるさくて、お節介で、ヘタレで、シスコンで…優しい、馬鹿な奴。………ただ強いだけのアンタなんて、あいつに比べたらとんだ雑魚よ!!」
誇らしげに、高々と宣言し、勇者は駆ける。
聖剣を携えて。
羽のように軽く、光のように速く。
彼女の中の、悪しき王を打ち滅ぼさんと。
「だから、返しなさい!ビビを、ヒルダを………あの魔王を………!」
ありったけの力と、気合と、根性と、想いを込めて。
「……返しなさい!!」
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「な……なんだよ、もう。吃驚するじゃねーか」
目の前には、ぽかんとした表情のリュート。
「へ?あ…あれ?」
アルセリアは、自分がリュートの腕を掴んでいることに気付く。
その手に握られているのは、薄焼き卵に包んだライスボール。
「あれ?あれれれ?……魔王は?」
「おう、魔王だけど」
混乱するアルセリアを見る魔王の表情は、呆れ顔ながらも優し気だ。
「……お前、大丈夫か?その分だと、試練はうまくクリアしたみたいだけど………」
「え?試練?クリア?」
「目ぇ覚ますなり、「返せ」はないだろ。どんだけ食い意地張ってるんだよ」
返せ…だなんて、言っただろうか。
いや……言ったのかもしれない………。
「お前さぁ、まさか試練の真っ最中まで、食い物のことばっか考えてたんじゃないだろうな」
「ば…バッカじゃないの?そんなわけないじゃない!」
ようやく我に返り、リュートから手を離したアルセリアの目の前に、お皿が突き出された。
上に乗っているのは、二種類のおにぎりと、卵焼き。
「慌てるなって。ほら、お前の分もちゃんとあるから」
「あ…ありがと」
お皿を受け取ると、おにぎりを頬張る。
「……美味しい」
ぼそっと呟いたきり黙り込んだアルセリアを見て、リュートが怪訝そうな顔をする。
「大丈夫か?寝ぼけてる?」
「寝ぼけてないわよ。失礼ね!」
「ならいいけど……。で、どんな試練だったんだ?」
問われて、アルセリアは思い出す。
思い出しはしたが……
「……内緒」
言えるわけがなかった。
「あ?なんだよ、減るもんじゃなし」
「ううううるさいわね!減るのよ!なんか分かんないけど色々と!」
誤魔化すように、勢いよくおにぎりの最後の一口を放り込んだ。
「はい、お茶をどうぞ」
ベアトリクスが、お茶の入ったコップを手渡してくれる。
いつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべて。
「アルシー、このお肉おいしい」
ヒルダは、ミートボールがお気に召したようだ。口いっぱいに頬張っている。
いつものように、リュートの膝の上に座って。
「おい、アルセリア。お前、肉と炭水化物ばっかりじゃなくて、少しは野菜も食え」
ヒルダを膝に乗せたまま、リュートは器用に弁当箱から、アスパラベーコンと野菜炒めをアルセリアの皿に取り分ける。
いつもどおりの、お節介。
「…アルシー?どうしましたか?」
安堵のせいか、思わずにんまりしてしまったアルセリアを見て、ベアトリクスが首を傾げる。
ヒルダは、ミートボールが口のなかに入っているのに、次のおにぎりに手を伸ばして。
リュートは、そんなヒルダの口元についたトマトソースを拭いてやっている。
「んーん、なんでもない。………ねえリュート。野菜はいいから、そっちの唐揚げちょうだい」
「別にいいけど、野菜も食べろって」
忠告を無視して、アルセリアは唐揚げをお皿に乗るだけ乗せた。
リュートは、そんな彼女を見て、もう何を言っても無駄だと諦めたようだ。
…これが、自分の日常。そして、自分の非日常。
これを守るために、自分は戦おう。道標があれば、きっと迷うことも間違うこともない。
アルセリアは、今のこの光景を、決して忘れることのないよう心に刻み付けておくことを誓った。
それこそが、“神託の勇者アルセリア=セルデン”の勇者道なのだから。
なにげに、物語の終わり(薄ぼんやりとしか考えてません)に向けての、重要な意味合いを持つ話なのかなー…と、他人事のように考えてます。




