学校へ行こう。 第四十五話 実は魔王陛下の寝坊が全ての始まりだった。
目を覚ましたとき、全てはもう終わった後だった。
完成された世界。完成された理。回り出した歯車と輪廻。
そこに、俺の居場所はなかった。俺が関与する余地は、どこにも残されていなかった。
創世神は、自分だけで全て進めてしまった。
俺と創世神だけの場所は、彼女と俺以外の場所に変わってしまった。
寝坊した俺が悪いとだけ言い残し、彼女はもうすっかり世界の虜になってしまった。
俺だけを見ていた目は、俺だけに触れていた手は、俺だけに掛けられていた声は、もう俺の方を向いていない。
彼女は俺に背を向けて、彼女の世界と楽しそうに戯れるばかり。
俺には彼女しかいないのに、彼女は俺以外を両手いっぱいに抱えて、夢中になっている。
……嫌だ。そんなの狡い。そんなの酷い。
俺にも、少しくらい残しておいてくれたってよかったじゃないか。俺も、仲間に入れてくれればよかったじゃないか。
確かに、世界に興味を持たなかったのは俺だけど、だからといってこんなのは……あんまりだ。
だから俺は、俺の方から、彼女に別れを告げた。
これ以上、俺を見てくれない彼女を見ているのは耐えられなかったから。返事をしてくれない彼女に語りかけるのは辛かったから。
振り払われるのが分かっていて手を伸ばすことは、怖かったから。
別れを告げたのだけど、世界に夢中になっている彼女に俺の声は届いていないみたいだった。返事がなかったのは、きっとそのせいだろう。
最後に彼女の声を聞きたかったという未練を、いっそ聞かなくてよかったという奇妙な安堵に無理矢理置き換えて、俺は彼女の手の届かないところへ行った。
創世神の手の届かないところ。彼女の目の届かないところ。彼女の声の届かないところ。彼女に忘れられた…見捨てられた世界の端っこ。
彼女の姿を見なくても済む場所へ。
それが、魔王と魔界との始まりだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
泣きじゃくる魔王を前に、グィネヴィアもシエルもユディットも、ただ唖然としていた。
魔王とは、人知を超えた存在。残忍で冷酷で、逆らう者には一切の容赦を与えない、無慈悲な暴君。その認識と、目の前の少年の姿が、どうしても結び付かなかった。
その中でも、一番戸惑いが大きかったのはシエルだった。
またもや魔王が何かを企んでいるのか…と思いたかったのだが、企みにしてはあまりにも無様で滑稽な様に、疑わしいところが見当たらない。
一方で、魔王がまるで人間のように感情を露わにして涙を流すという、前代未聞の事態も俄かには受け容れ難かった。
魔王が人の心を解するのであれば、何故自分の戦友たちを殺したのか。大した理由も必要もないのに、気まぐれ程度の軽い気持ちで、多くの命を弄んだのか。
戦友たちの死は、何だったのか。
理解し難い矛盾は、彼の怒りをさらに増幅させる。今さら人間らしい感情に目覚めたところで、償いにもなりはしない…と。
しかし追い打ちをかけるように魔王へ鋭い言葉を投げかけようとしたところで、シエルは息を呑んだ。
何故ならば、グィネヴィアが躊躇いもなく前へ飛び出し……魔王を強く抱きしめたからだった。
「…………先生…」
「あなたはずっと、ずっと淋しかったのですね」
シエルもユディットも何も言えない中、ぽつりと漏らした魔王に語りかけるグィネヴィアの声は、今まさに自分を殺そうとしている者へ向ける声ではなかった。
寄る辺の無い幼子を慰めるかのような、穏やかで優しい声。
「だけどユウト、あなたの淋しさは、あなた自身が作り出したものでもあるのですよ」
「………俺?」
「そう。だってあなたなら、きっと望むように行動できたはず」
諭す言葉も、静かだった。
「世界の始まりから、その後もずっと。なのにそれをしなかったのは、自分で背を向けてしまったからでしょう?」
自分ではなく世界に夢中になってしまった創世神を見たくなくて、背を向けた。
自分が彼女の唯一の存在でなくなってしまったことを認めたくなくて、目を逸らした。
拒まれる前に、拒まれることが怖くて離れていった。
きちんと向かい合っていれば。歩み寄ってさえいれば。恐れず手を伸ばしていたなら。
そうすれば、失わずに済んだのかもしれない。或いは、新たな何かを手に入れられたのかもしれない。
少なくとも、現在のように何もしなかったことへの後悔が孤独に絡みついて自分を苦しめることはなかっただろう。
「尤も…そのおかげで私たち魔族は繁栄できたわけですが」
そこで少々バツの悪そうなグィネヴィア。彼女自身、自分たち魔族が魔王あっての存在だと理解しているのだ。
その魔王に対する反逆は、結局のところ自分たちに対する否定にも繋がる。
亜種懐古派の頭の固い長老たちはその事実と簡単な理屈を受け容れようとはせず、グィネヴィアは彼らを止めることが出来なかった。
それが彼女の自覚する罪であり、それを償うためならば何に対しても恐怖はない。喜んで首を差し出す…とまではいかないが、抗ったところで無駄だという諦念は彼女の中から恐怖の感情と生への希求を奪い去っていた。
ただ、目の前の打ちひしがれている少年をそのまま見捨てることは出来なかった。彼女はそういう性質である。
かつて、ユディットにもそうしたように。
「今からだって、遅くはありません。あなたはあなたの望むように、やりたいことをすればいい。何が自分を本当の意味で救うのか、きちんと見極めて選ぶのですよ」
「……選ぶ…よく、分かりません……」
魔王はグィネヴィアに身体を預けたまま、自信なさげに俯いた。グィネヴィアは、少し呆れたように苦笑して。
「そんなことないでしょう?選んだからこそ、あなたはここにいるのではないのですか」
「…………」
「ユウトという名を得て、学校に通い始めたのはどうしてですか?クラスメイトたちと交流を深めて、こうしてここを訪れたのは何の為?」
「……それは」
「学校での勉強も、訓練も、交流も、魔王であるあなたにとって必要かそうでないかと言えば、不要なもののはず。なら、必要に駆られてそうしたわけではないのですよね」
「だってそれは……そうしたかったから…」
そうしたかったから。そこに、それ以外の理由も必要性もない。ただの気まぐれ、ほんの思い付き。けれども、魔王にとっては決して軽んじることのできない選択。
一時的な娯楽のつもりで始めたはずなのに、頑ななまでに拘ってしまった居場所。
「その気になれば、魔王として命令して同じような空間を作り上げることだって出来たのに、あなたは魔王の名を使うことを拒んだ。わざわざ架空の名前を、架空の人間を作り上げてまでそうしたかった。そこまでする理由というのは、あなたにとってはとても大切なものだったんじゃありませんか?」
魔王ではなく、英雄でもなく。
肩書も職責も地位も権限もないまっさらな状態。
そうしたのは、魔王や英雄では得られないものが欲しかったから。
「あなたの孤独を癒すのは、あなた自身の心次第です。どんなに周りに人がいても、どんなに畏敬や崇拝を得ていても、あなたが自分から手を伸ばさなければそれらはただの背景、ただの雑音に過ぎない」
逆に、自分から望んで手に入れたものであれば、それがたとえどんなちっぽけなものだとしても大きな意味を持つ。
「それらを踏まえて、どうすれば自分が一番望む結果になるのかをしっかり考えなさい。魔王である前に、あなたはあなたなのですから」
そこまで言って、ユウトの背中をポンポンと優しく叩いて、グィネヴィアは言葉を切った。体を離して、片手はユウトの肩に置いたまま、軽く微笑む。
判断を、決断を委ねられたユウトはしばらく黙ってグィネヴィアの顔を見つめていた。




