学校へ行こう。 第四十話 魔王陛下、悪趣味呼ばわりされる。
「…………?」
自身の飛び散る血しぶきの向こう側にケイガンの普段どおりの笑みを見て、ギネヴィアは状況を理解出来ないままその場に崩れ落ちた。
「…先生!!」
「………!」
ユディットが叫び、シエルもまた予想していなかった事態に目を見開く。
ギネヴィアの返り血を浴びて、ケイガンは満足げだった。
「先生……先生!」
ユディットは、ケイガンを怖れることも忘れてギネヴィアに駆け寄り、抱き起こす。流れ続ける赤い液体に息を呑み、ほとんど錯乱状態で傷口に手を押し当てた。
「なんで……なんで」
ギネヴィアの傷は深く大きく、ユディットの指の間からなおも止めどなく流血は続く。これが廉族であったなら、間違いなく即死であろうと思われるほどの傷だった。
「ケ……ガン…………ど…し…」
「これは、どういうことだ?」
途切れ途切れのギネヴィアの言葉を補うように、シエルがケイガンに問いかけた。問いかけつつも、彼にはその狙いが何となくではあったが見当がついていた。
「言ったろ?茶番は終いにするって」
ケイガンは、悪びれずに上機嫌なまま。ギネヴィアを見下ろす視線は、シエルを見るそれとほとんど変わらなかった。
「……あ、何?事情が知りたい?…ったく、仕方ねーなぁ。お前ら全員、冥途の土産に教えてやるからありがたく思えよ?」
そして、シエルたちにとって全くありがたくもない話を披露し始める。
「あのな、自分たちだけの楽園だなんて夢みてーな世迷い事、本気にしてたのはこの女くらいなんだぜ?」
シエルに向けた言葉ではあったが、それを聞いた瞬間にギネヴィアは衝撃に打たれて目を見開いた。その目に浮かぶ絶望を見て、ケイガンは堪らなくなったように笑い出した。
「楽園?新しい世界?んなもん俺らに作れるはずねーだろうが。もし仮に作れたとしてもな、神ですら一苦労な世界の管理なんかを、誰がするってんだよ。それに、あの狭量で独占欲の塊で極悪な魔王がそれを見逃すと思うか?」
「それに関しては…全面的に同意だな」
「だろ?新しい時空界が出来たって、どうせ奴の掌の上だ。だったら、そんな無駄なことしてねーで、飢喰迷宮の集めた力を手前のモンにした方が、建設的だろ?そうすりゃ俺は、最強の存在だ!他に何も怖れる必要のない、魔族を超えた存在になれる!!」
敵ではあるが、ケイガンの理屈はシエルが聞いても合理的な判断に思えた。
新たな場を創造するのではなく、それに値するだけの力を全て自分のものにすることが出来れば、彼は種の限界を超えて頂点に昇り詰めることになるだろう。
ただし一つだけ、その計画には穴がある。
他に何も怖れる必要のない最強の存在……そのフレーズには、実は大前提が隠されている。有頂天になっているケイガンはおそらく気付いていないであろう大前提。
それは、神を除き、という条件。
あれらは、全く別格の存在なのだ。強い弱いという基準で図るべきではない何か。新しい時空界どころか、それに加えて天界地上界魔界霊界全て併せたとしても、気まぐれで滅ぼしたり作り変えたり出来るような、規格外の、人知の及ばない何か。
…とは思ったが、別にケイガンにわざわざ警告してやる義理もないので、シエルは黙っていた。
問題は、彼の計画の成否ではない。そんなものは、間違いなく失敗に終わる。彼が気付いていないだけで、それは既に確定した事項に等しい。
現在の問題は、ここでケイガンを止められるかどうか。
彼の最終的な目標が未達でも、それまでの過程で多くの命が奪われる…迷宮に喰われることになるのは、看過出来ない。天地大戦の英雄エルゼイ=ラングストンではなくとも、シエル=ラングレーとしても、彼は自分と自分の生きる場所を守らなくてはならない。
ここで未だに魔王が姿を現さないことが、シエルには不気味に思えた。
迷宮程度の空間ならば、真っ当な手段でなくとも強引に出てくることは容易いはず。それなのに、呑み込まれてからそれなりの時間が経過した今もなお、魔王はここにいない。
――――様子見、ということかもしれない。
シエルは危惧する。
新たな時空界の誕生、或いは新たな超魔族の誕生など、魔王にとって些末事に過ぎない。そうなってからでも、奴は何の害も受けないし対処にも造作ない。
であれば、高みの見物と洒落込んでいるのではないか。
理由など、分かり切っている……ほんの気まぐれか、退屈凌ぎ。或いは、興味本位。
シエルがそう考える根拠は、かつての経験にある。二千年前、天地大戦の最中での記憶。先だっての聖戦など随分と可愛げのあるものにしか見えないくらいの、恐怖と絶望と混沌の時代。
あの頃の魔王は、基本的に直接戦に関わることがほとんどなかった。魔王にとっての敵は創世神だけで、それ以外の全てはどうでもいいものだった。
だがそんな魔王も、時折思い出したように戦場に現れては、暇つぶしに意味の無い干渉をすることがあった。
勝敗などが気になっていたはずはない。その干渉で被害を受けたのはこちら側の陣営だけではなかったのだから。
ただおそらく……何やら賑やかで面白そうだから、ちょっと様子を見に来た…程度のこと。そしてその「ちょっとの様子見」のせいで、多くの戦場が消滅した。多くの命が消滅した。
エルゼイ=ラングストンの戦友も、そのせいで命を落とした……そして、彼自身も、また。
放置しても何ら問題ないことであれば、どうなるか様子を見てみよう。それからちょっかいをかけてみよう。
そんな子供じみた残酷な思い付きで、魔王が多くの命を贄とするのは今に始まったことではない。
となれば、魔王が動くのは飢喰迷宮が真の意味で完成した後だ。
方法は分からないが、ケイガンは何らかの手段で迷宮が喰らった餌を自分の方で吸収できるに違いない。
そうして幾千幾万の人々が犠牲になり、勝ち誇ったケイガンが更に手を広げようとしたところで、その自信と確信を嘲笑いながら軽く蹴散らしに来るのだろう。シエルの知る魔王は、そういった悪趣味の持ち主だ。
祈りも、切望も、努力も、矜持も、覚悟も。多くの生命たちが生き延びるために必死で運命に抗う様も。
魔王にとっては滑稽な喜劇のようなもので、散々見物した挙句に一番いいところで何もかも全てを台無しにするのだ。
必死に抗った結果が無残に散っていくことに絶望する生命たちを、そうして嘲笑うのだ。
それが、魔王の暇つぶし。それが、魔王ヴェルギリウス=イーディア。
それが…シエル=ラングレーの、エルゼイ=ラングストンの、敵。
それだけは、絶対に防がなければならなかった。絶対に、防ぎたかった。
ケイガンの手によって大勢が犠牲になるという事実そのものよりも、それを魔王が薄ら笑いを浮かべながら見物しているという想像の方が、シエルには耐えがたかった。
シエルが妨げたいのは、ケイガンの野望というよりも寧ろ、魔王の悪趣味の方だった。
「最強……そんな力…手に入れて、一体……何になる、と……」
ユディットの腕の中で、ギネヴィアが身じろぎした。
先程よりも、幾分か声に力が戻ってきている。左の肩口から袈裟懸けに走る斬線は痛々しいが、魔族の頑健さには脱帽だ。
とは言え、ケイガンと戦えるような状態ではないだろう。ケイガンもそれが分かっているからか、蔑む表情は変わらない。
「何に、だと?何にでもなるじゃねーか。最強になりゃ、誰にも媚び諂う必要なんざなくなる!誰も俺に歯向かわなくなる!他の連中が、俺のために全てを捧げるようになる!俺の意志で、何だって叶えられるようになる!それがどんなに凄いことか、テメーには分からないのかよ!?」
「そのために……そんな、ことの…ために………同胞の宿願を、利用…したと……」
「だーかーらぁ。んな夢物語を本気にしてたのはテメーくらいだって言ったろ?他の連中は、テメー以下だな。もうほとんど、諦めてやがった。中には、魔王に恭順を示して赦しを乞うべきだって阿呆なことを抜かす奴もいたっけ。ずっとここに張り付いてたテメーは知らなかったろうけどよ」
ケイガンの嘲りの中に、僅かに苛立ちが混ざったことにシエルは気付いた。
「…なるほど。で、貴様は不甲斐ない同胞にしびれを切らし、自分が最強の存在となることを選んだというわけか。そうすることで同胞を守る……いや、違うな。それならば、彼女を殺める必要はない」
「そのとおりよ。現実を見ねぇで理想論ばっかり語るコイツも、現実に打ちのめされてそれを打破しようとしねぇ他の連中も、実に下らねぇ。実現可能な方法で、願望を叶えるために出来ることをする。俺は、そうすることを選んだ。その結果手に入る全ては、俺の所有物さ」
ケイガンの計画は浅はかなものではあったが、同時にシエルは彼のそんな愚直さが羨ましいと思った。
彼の言う、実現可能な方法で願望を叶えるために出来ることをする…という選択は、今まで幾度も生を繰り返しながらシエルも求めてきたものだった。求めてきて、実行出来なかったことだった。
言い訳ならばいくらでも出来る。良心や、倫理。魔王とのどうしようもない力の差。シエルには、ケイガンのように大勢の命を犠牲にして力を得るという選択肢は考えられなかったし…考えたとしても到底実行出来なかっただろうし、地上界の人々を守るという己の責務に反している選択肢は取りようがなかった。
仮にその道を選んだとしても、それで魔王を滅ぼすことは出来ないと分かっていた。
ケイガンがこんなことをしているのは、彼にシエルのような良心の枷がなかったから。魔王の存在を見誤っているから。
決して真似はしたくないと思うが、それでも、そんな愚かさが羨ましいと思った。
何も知らずに、何も顧みずに、全てを己の望みのために費やすことが許されるのなら。
もし本当にそれを実現できるのであれば、ケイガンの「全ては俺の所有物」という言葉も、あながち否定はしきれない。
しかしここで大人しく、彼の計画の礎となるわけにはいかない。ケイガンは間違いなく、シエルもユディットもギネヴィアも、殺す気でいる…或いは、飢喰迷宮の餌にするつもりでいる。
「…ま、というわけよ。俺は俺の望みを果たすために、ここでテメーらを迷宮に喰わせて、それからこの国の連中全員も喰わせて、他の地域にも進出する。いずれは地上界の生命体を全部食らい尽くすのが目的だ」
ケイガンの目は、冷めやらぬ興奮に酔いしれている者のそれではない。目的のためにがむしゃらに突き進む者の目。どこまでも利己的で、どこまでも貪欲な目。
「けどな、別に抵抗するなとは言わねぇよ。大人しく迷宮に喰われた方が楽に逝けるとは思うけどな、抗うか諦めるかは、テメーらが好きに選べばいい」
聞こえのいいようなことを言っているが、彼がシエルたちを殺すつもりでいることには変わりない。慈悲の欠片も無い残忍な笑みが、それを示している。
「なら、オレは選ばせてもらう」
シエルはそう言うと、剣を構えた。それを見たケイガンの笑みが、一層深くなる。
「そうこないとねぇ。雑魚がもがく姿ってのも、いいもんだよな」
ケイガンはシエルを敵だと認識しているが、その実力は見誤っている。どことなくゆったりとした動きは、シエルの攻撃を誘うかのようだった。
「来いよ、小僧」
「そうさせてもらうぞ、魔族」
シエルも、その挑発を敢えて拒まず、大地を強く蹴った。




