学校へ行こう。 第三十三話 魔王陛下は宿題を後回しにする派である。
帰路についたのは、だいぶ日が傾いた時分だった。
釣りをして、昼食を食べて、昼寝して、それから水遊びをして。自然の中で目一杯身体を動かして心地よい疲労感を抱えた俺たちは、夢見心地で侯爵邸へと戻る。
眠そうなアレクシスを気遣うユディットは普段より柔らかい表情をしているし、心なしかシエルの奴まで随分と穏やかな顔をしている…ように見えた。
斜陽が背中から俺たちの影を長くして、それを踏んづけながら歩く。少しだけ冷たくなった風が吹き抜けて、火照った頬に心地いい。
せっかちな月はもう自己主張を始めていて、その傍らには遠慮がちな一番星が瞬いていた。
…なんかいいな、こういうの。
こういう、何でもない一日。楽しかった、というそれ以外には何の意味もない時間。
誰かの危機を救ったわけでも、世界を守ったわけでも、誰かの悪事を阻んだわけでもない、何の目的もない無為な時間。
こうしなきゃ、っていう枷から解き放たれて、心がふわっと柔らかくなる感じ。
たったこれだけのことでも、この世界を守れて本当に良かったと思う。
「なぁ、明日は何する?」
「もう、ユウトったら。いくら連休だからって、毎日遊ぶつもり?」
ありゃ、ユディットに呆れられてしまった。けど、彼女だってまんざらじゃないんだろ。呆れてるけど、責めてる感じはしない。
「え、だって連休だろ?遊ばなきゃ勿体ないじゃん」
「………お前にそういう概念があったとはな」
ちょっとシエル煩い。ここで「魔王のくせに」とか言い出さないだけ褒めてやるが、遊びの重要性が分からない堅物英雄様は黙ってなさい。
「そうねぇ……連れて行きたいところはまだまだあるけど、先に課題を済ませた方がいいんじゃないかしら」
「………あー…そっか…」
どうやらユディットも、シエルほどじゃないけど真面目なようだ。あれだろ、夏休みの宿題は七月中に終わらせるタイプだろ。
俺みたいな、八月最後の三日間で必死になるタイプとは正反対だ。
…いや、俺だって宿題を早めに済ませるメリットは十分に理解してるんだよ?絶対に、先に終わらせてその後で心置きなく遊ぶ方が楽しいに決まってる。
けど、面倒事を後回しにしないっていうのが結構大変なんだよね、それが出来てりゃ、テスト前の一夜漬けなんて必要なくなるっての。
ありがたいのは、ここにいるのは自分一人ではないということ。一緒にいる二名が、先に課題を終わらせる派であること。
自分一人じゃ楽な方へ流されてしまいがちになる俺も、軌道修正してくれる仲間がいれば一緒に頑張ることが出来る。
「それじゃ、明日一日は課題の日、かぁ」
休み明けに試験が予定されているので、課題はそれなりの量だ。まともに頑張ったら、一日じゃ終わらなさそう。
…けど、せっかくの貴重な連休、一日以上をそれに費やすのなんて俺の美意識が許さない(多分美意識ってこういうときに使う言葉じゃない)。
「あ、そうだ。どうせなら手分けしてやろーぜ」
「手分け?」
「……?」
俺のナイスな提案に、ユディットもシエルも何を言われてるのか分からないみたいにポカンと首を傾げた。
…あれちょっと待って。宿題を科目別に分担するとか、こっちの世界にはそういう裏技はなかったりする?
……いや、だからといって推奨される手法ではないんだが。
「えっと、ちょうど三科目だったよな。ユディットはこの中でどれが一番得意だったりする?」
「え……?どれがって…………語学、かしら」
学院から俺たちに提示された課題は、語学、数学、社会学の三科目。俺たち三人に対し三科目とはお誂え向きと言うしかなかろう。
「オーケー。んじゃ、ユディットは語学ね。シエルお前は?社会学と数学、どっちが好き?」
地球と違ってバビロンショックを経験していないこっちの世界は、三界全て言語を共有している。
が、時代によって筆記法が違ったりして(古文みたいな?)、その影響なのか今でも堅苦しい公的記録とかは口語とはかなり違った形で記される。
なので、未来のリーダー候補たちは将来どこの王宮役所に勤めても大丈夫なように、公文書読解・筆記は必須項目なのだ。
ユディットは語学を選択したので、次はシエルに選ばせてやる。最初をユディットにしたのは、勿論のことながらレディーファーストである。
「学問を好き嫌いで捉えたことはない」
「あー……そう。だったら…より簡単だと思うのは?」
「…………レポートよりは、単純計算の方が苦労はない」
「なら、お前は数学な」
中央教導学院の学問レベルは(エリート校だけあって)最高峰なのだが、それでも中学以降の数学が専門家レベルとされるこの世界のこと。俺たちが教わる数学は簡単な単純計算ばっかりで、実を言うと今回の課題も小学校算数レベルだったりする。
二桁の足し算引き算と、後は確か一桁同士の掛け算(要するに九九)まで。
シエルの奴は堅苦しいオツムの持ち主で柔軟な思考って苦手っぽいから、ひたすら計算を解く方が性に合ってるんだろう。
チートポジションのシエルではあるが、勉学に関してはそこまでチート臭がしないってのは可愛げがあるよな。
「で、社会学のレポートは俺が担当するから、それでいいよな?」
社会学は与えられた幾つかの主題の中から一つを選んでレポートを書くのが課題。ある意味、一番楽で一番大変なタイプだ。
俺は昔っから屁理屈こねくり回すのが得意だったので、レポートに苦を感じたことはない。
「え…それでいいって…………まさかユウト、課題を見せ合うってこと?」
ユディットが心底驚いたように目を丸くした。
「え、うん……そうだけど」
「しかしそれは不正だ」
シエルまで、俺を糾弾するかのように睨み付けてくる。
全く、二人ともお堅いんだから。
「いいじゃんか、普段真面目に授業受けてるんだから、たまには要領よくやろうぜ?これも一つの知恵だって」
俺としてはごくごく当たり前の提案(だって中学高校でずっとそうしてたんだもん)だったのだが、ユディット・シエル両名にとっては初めて聞く悪魔の囁きだったようだ。
他の誰でもないこの俺がそんなズルを言い出したことに、ユディットは聞いてはいけないことを聞いてしまった…みたいに狼狽えた。シエルは、これだから魔王は…という内心がありありと表情に浮かんでいる。
「でも……課題って、生徒の勉学向上のために課されたものでしょう?全て自分の力でやり遂げなければ、意味がないんじゃない?」
「そもそもが、連休明けのテスト対策としての課題だろうが。それをサボって困ることになるのは自分自身だぞ」
……んもー。学生のくせに教師みたいなこと言っちゃって。そんな理想論、十年早いよ。適度なズルってのも、今のうちに習得しておいた方がいい学生の必須スキルだよ?
「そんなこと言ってもさ、真面目に全部自分でやってたら、一日二日じゃ足りないじゃん。それともこの後の休みの大半が課題で終わってもいいのか?」
実を言うと、俺とシエルの侯爵邸滞在は日数が決まってるわけじゃない。そこは貴族のおおらかさで、まぁまぁゆっくりしていって下さい…的なアバウトな感じ。
とは言え、いくらなんでも二週間まるまるお世話になるわけにはいかないだろう。流石にそこまで厚かましくはないよ、俺。
…少しくらい魔界の様子を見に行きたいってのもあるけど……
「それにさ、テスト対策って言ったって、課題やんなきゃテスト受かれないくらい授業についていけてないわけじゃないだろ、二人とも」
ユディットは学問でも優秀だし、シエルだってクラス平均くらいには達してる。課題なんてあってもなくてもテストには影響ない。
どうせ宿題なんて、休み中暇を持て余した学生が良からぬ遊びに嵌まったりしないようにするための枷みたいなものなんだし。
「けど…ユウトあなた、レポートを担当するって、あれは一人ずつ先生に提出するのでしょう?同じ内容じゃあまりにも…」
「あ、大丈夫。ちゃんと三つ、別々の主題で仕上げるから」
「…………!?」
気楽に言った俺に、ユディットの表情が僅かに変化した。シエルも、驚きつつ少しだけ心揺らいでいるのが分かる。
……フッフッフ。やはりそうか。今までの学校生活から何となく感じていたことではあるが、そして二人が社会学を避けたことから、予想したことでもあるが。
やっぱり、このお年頃の子供たちにとって長文レポートってのはハードルが高いのだ。
まぁ実際、これは個々人による差が大きいんだけどね。俺も生前、読書感想文で四苦八苦しているクラスメイトたちを多く見てきた。高校最初のは途中退場のために未経験だったけど、自分が通ってた中学校は現代文の先生がやたらと厳しくて、原稿用紙(四百字詰めのやつ)八枚以上は書かなくちゃいけなかった。しかも、あらすじは不可。それまで延々とあらすじを書いて最後の最後に「…だから○○(主人公)は凄いと思います」で締めるという荒業に頼ってきていた連中は非常に苦戦していた。
自分の好きなことならどれだけでも語れるだろう。が、興味もへったくれもない他人の人生について長々と語るほどに、若者たちは節操なしではない。
しかもこの世界、あんまり社会学は発展してない。未だ感覚が中世封建社会だから仕方ないかもしれないが、マルクスもウェーバーもマクロもミクロも根付いていない。せいぜい、君主は民衆に対しどうあるべきか、だとか民衆の国への献身とはどうあるべきか、だとか、表層的な理想論。
まぁ社会学をどんどん追及していくと王政も揺らぎかねないし宗教の権威も危ぶまれる(学派によっては)から、今はそれでも仕方ない。
俺だって、神(魔王)は一つの概念でありシステムである、だなんて言われたら困っちゃうよ。そんな記号的なものに自分を押し込めないでほしい。
…ということで、若者たちは社会に関して語る機会を多く持ち得ないし、興味を抱く機会も持ち得ない。そのため、いきなり社会学だなんて大風呂敷広げられても、困惑してしまうのだ。
確か…社会学レポートの主題として与えられてるのが、「自分の祖国の統治機構」と、「民衆の政治参加について」と、「聖教会と国家の在り方」と、「国家と君主の関係性」と、「福祉と還元」と……そんなところか。
ちょいちょい際どいテーマもあったりするけど(聖教会と国家とか、論じて大丈夫?)、大体が漠然としていて解釈次第ではどうとでも取れる題材だ。そこまで根拠がなくてもなんとなーく、「自分はこう思う」的なところを書いてマスを埋めればどうにかなる。
社会学なんて間口が広すぎる上に深すぎる学問は、このくらい適当な感じで付き合うのが丁度いい。本気でやり始めたら、一生を費やすことになりかねない。
こういう、「適当にそれっぽい言葉を並べる」のは真面目な人ほど苦手なものである。でもって、ユディットもシエルも揃って真面目さん。二人してこの課題を重荷に感じていることは想像に難くない。
「ねぇ先生。先生はどう思いますか?」
俺は、ギネヴィア先生に水を向けてみた。
何となくだが、彼女は俺に賛成してくれるような気がしたのだ。
「…もう、ユウトったら。要領がいいんですね」
予想どおり、先生は呆れつつも俺のことは否定しなかった。
これがヴァネッサ先生あたりだと、ズルなんて提案することさえ出来ない堅物っぷりなんだけど、ギネヴィア先生はすごく柔軟な思考の持ち主だ。ズルの弊害はもとより、その利点だってちゃーんと分かってる。
「けど、要領というものは案外大切ですよ。どれだけ才能があって努力を積み重ねても、要領が悪ければそれらを結果に結びつけることは出来ませんから」
問題は、その要領をズルで養おうという不届きな魂胆なわけだが、そこはそれ、ほら、ちょっとくらいは規律から外れてみるってのも人生経験じゃん?
「ズルは確かに良くないことではありますが……良くないと分かっているものとどのように付き合うのか、どの程度付き合うのか、それらを学ぶのは重要ですね。勿論、その結果が自己責任である、ということも含めて」
……う、最後に手厳しい。
けど、尊敬するギネヴィア先生が反対していない(賛成、というほどでもないが)ことでユディットは折れた。正しくは、自分の中の「面倒くささ」に負けた。
シエルは……もともと学校での勉強なんてどうでもいい立場であるからして、本音はどうでもよさそう。
「それなら……互いに協力するのもいいかもしれないわね?」
おお、宿題の見せあいっこを「協力」と表現することにより後ろめたさを払拭させる狙いですか。ユディットもなかなか、分かってるじゃないか。
「んじゃ、決まり!とりあえず明日一日頑張って、進捗具合でそのあとのことは考えようぜ」
「……私、ユウトはもっと真面目な生徒かと思ってた………」
あ、ユディットが呆れてる。そりゃそうか。なんか知らんけど俺、学院内ではやけに買い被られてるからな。俺のことなんて何も知らないくせに文武両道品行方正とか、一体どんなフィルター掛けてるんだって話。
「アハハ、俺、こんなもんだよ。失望した?」
「ううん、そんなことはないわ。前はもっと…近寄りがたいと思ってたから」
「へー、それじゃ、今はそうでもないってこと?そりゃ嬉しいな」
そう、俺が気にしてるのはこの「近寄りがたさ」ってやつだ。
せっかく普通の学校生活を楽しみたくて、クラスメイトたちと交流を深めたくても、ほとんどの生徒がそのせいで俺と距離を置こうとする。ユディットが最初のうち、俺のことを「公子」って呼んでたのもそれだ。
けど、少なくともユディットとはこの連休のおかげで打ち解けることが出来た。班員だけでなく、彼女も俺と気安く接しているところを見れば、他のクラスメイトたちも意識を変えてくれるかもしれない。
……うん、これってけっこう幸先いいんじゃなかろうか。




