番外編 世話焼き魔王の妹、ちょっと世界を救ってきます。その10
「猊下、よろしいでしょうか」
執務中のグリードの下を、一人の神官が訪れた。その無表情の下に隠された緊迫に気付き、グリードは執務室内にいた他の部下たちを下がらせる。
その神官は、グリードの子飼いの中でも特に重要機密を扱わせている者だった。
「カルヴァリオ=クーガンが姿を消しました」
だからその報告も、機密度・重要度・緊急度共に高いものだった。
報告を受けたグリードは顔を顰める。よりによってこのタイミングで。厄介な神託が下されたことと、無関係には思えなかった。
「監視班の目を完全に盗んだことを考えると、何らかの隠蔽術式を用いたのでしょう。現在、総力を挙げて行方を追っております」
「エシェル派の様子は?」
グリードが口にしたのは、ルーディア聖教の一派の呼び名である。
聖央教会やエスティント教会、トルディス修道会とは比べ物にならない小さな集団、しかしその主義主張は黙認するには危険過ぎる、聖教会きっての原理派集団。
近年はかなり大人しくなってきていたので、融和路線を取り始めていたのが仇となったか。
「今のところ、変化はありません。まだ情報が届いていないのか、或いは我々の目を欺くためなのかは不明ですが」
「そうか……カルヴァリオの行方に関しては、別に捜索部隊を派遣しよう。彼らと並行し捜索を進め、エシェル派の監視にも全力で取り掛かるように」
グリードは、自身の私設部隊でありルーディア聖教会一の最凶異端審問部隊、“七翼の騎士”を動員することにした。その時点で、彼がこのことをどれだけ重要視しているかが分かる。
いくつかの指示を与えてから部下を下がらせて、グリードは悩まし気に椅子の背もたれに深く体重を預けた。
こういうときに役に立ちそうな彼のお気に入りは、未だ連絡が取れない。神託のこともあるから彼をおおっぴらに動かすことはしたくないが、せめて自分の目の届くところにいてほしいというのが本音である。
本来ならば、グリードが彼を思うように動かすなど到底ありえない所業であるはずなのだが、グリードはその類の常識やら建前やら自分に都合の良くないことは無視する性質だった。
しばらくそうしてから、グリードは呼び鈴を鳴らす。
すかさず現れた神官…こちらはごく普通の神官である…に、聖央教会の姫巫女の様子を尋ねた。
「姫巫女マナファリアだが、何か変わった様子はなかったかね?」
その姫巫女は、今回の神託を受けた者ではない。が、おそらく誰よりも魔王に近しい創世神の姫巫女(意味不明な字面だ)である彼女が、今回の件について何も感じ取っていないはずもない。
時折、姫巫女云々は関係なく奇妙な直感を見せることのあるマナファリアは、グリードをしても御しきれない厄介な面を持っていた。
「姫巫女マナファリアは昨日タレイラにお戻りになりましたが…」
「………なんだって?」
てっきりグリードの命令で姫巫女がタレイラに向かったのだとばかり思っていた神官は、グリードのその反応に戸惑う。
姫巫女が、上の指示なしに自発的な行動を見せることは皆無であり、そしてマナファリアの場合は彼女に指示できるのは教皇かグリードくらいである。
……というのが、ほとんどの聖教徒における常識。彼も同じように、まさか姫巫女マナファリアがグリードの言葉を完全無視して姫巫女辞めると言い出したり撤回したり魔王のストーカーと化していることなど、当然のことながら想像すら出来ない。
なお、マナファリアが常在するのは聖央教会トップのグリードが治めるタレイラである。なので彼女がタレイラに戻ったこと自体は不思議でも何でもないのだが、魔王のこと以外では他の姫巫女と同じように自発的には動かないマナファリアが勝手に動いたことに、グリードは嫌な予感を覚えた。
「…すぐに呼び戻せ」
「………は?」
「聞こえなかったか?すぐに姫巫女マナファリアをルシア・デ・アルシェに呼び戻せと言ったのだ」
「か、かしこまりました!」
グリードの怒りに触れたと勘違いした神官は(正しくは怒りではなくて焦りなのだが)、慌てて部屋を飛び出していった。
足音が遠ざかるのを聞きながら、グリードは特大の溜息を一つ。
まだ、何も問題は起きていない。
監視させていたエシェル派指導者カルヴァリオ=クーガンは、要注意人物ではあるが今のところ特に罪を犯したわけではない。
看過できない例の神託も、その解釈すら未だに定まっていない。なお、教皇や他の枢機卿たちも戸惑っていた。天魔会談以前であれば、魔王を滅ぼす一手が見付かった、と歓喜していたであろうが、現状は違う。天界と魔界の間に相互不可侵条約が締結され、少なくとも公式には魔界は地上界の敵ではなくなった。そんな矢先に降って湧いた神託に、地上界としてどう出ればいいのか結論が出ないのだ。
リュート=サクラーヴァがどこをフラフラしているのかは知らないが、彼が本気でフラフラしようと思えばグリードにそれを止める術も力もありはしない。
だから出来ることも限られているし、もしかしたら杞憂に終わるのかもしれない。が、今まで様々な戦場、様々な権謀術数をくぐり抜けてきたグリードの経験からすると、希望的観測は八割方裏切られるものだ。
何もなければそれに越したことはない。逆に、事が起こってからでは遅すぎる。特に例の神託の件に関しては、下手をすると世界の存亡に関わりかねない。
いくら地上界最大の宗教とは言っても、一信徒に過ぎない自分がなぜいつもいつも世界の命運を背負わされているのか少しばかり理不尽に思いつつ、グリードはそれも自分の運命かと諦めがちに結論づけ、最悪の事態に備えることにしたのだった。
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「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん、なんだ悠香?」
「なんかすっごく忙しないよね。あっち行ったりこっち行ったり」
「え……そうかな?気のせいだろ、“門”でパパっと移動するからそういう風に感じるんだって」
悠香の鋭いツッコミに、思わず狼狽えそうになりつつもなんとか恍ける俺。悠香はそんなものかと思ってくれたみたいだけど、事実、忙しない。
何故かと言うと、本当なら二、三日は滞在したいと思っていた天界の湖水地方を一泊で切り上げて、俺が悠香を連れてやって来たのは地上界、タレイラ。
だってさ、あれ以上ミシェイラと悠香をセットにしとくと何かヤバい気がしたんだもん。
なお、行き先はタレイラにするかルシア・デ・アルシェにするか、ちょっと迷った。迷った上で、神託の勇者一行がエファントスから向かった先はルシア・デ・アルシェだと王女から聞いていたので、俺は自分の行き先をタレイラにした。
あの連中は、ミシェイラ以上に悠香と逢わせるのが危険な気がしたのだ。
さて、ここからどうしようかな。ほんとは新築我が家に招待できれば良かったんだけど、まだ建築中なので仕方ない。
とりあえず宿を確保して……けどいつぞやの高級ホテルはやめておこう。悠香には最上級の待遇を提供したいが、あそこはあいつらの定宿だからな。万が一にも、万が一のことがあるかもしれない。
そう言えば、俺も案外タレイラのことは知らなかったりする。直属の上司のお膝元だし我が家(建築中)にも近いしアルセリアたちにとってはルシア・デ・アルシェに並ぶホームだったりするけど、じっくり観光したのなんて初めてグリードと逢った日くらいじゃなかったっけ。しかも半日程度。
ラディ先輩に連れられてあちこち飲みに行ったりもしたけど、観光って感じじゃなかった(しかも飲み屋ばっかり)。
ここは新鮮な気持ちで、悠香と一緒に観光を楽しむことにしよう。
それじゃ、まずは………何処に行こうか。俺が知ってる場所って、グリードの屋敷と大教会と遊撃士組合支部と迎賓館くらいで、後は特に目的もなく街をブラブラしてただけだから、悠香に喜んでもらえそうなところって思いつかない。
…ということで、俺はとりあえず観光案内所的なところへ行くことにした。
この世界では、地球ほどに観光産業が活発なわけではない。アレブラ聖骸地やサン・エイルヴ並みに貴族から庶民まで誰もが訪れる(或いは訪れたいと思う)観光地ってのは少なくて、ここにビジネスチャンスがあると思ったりもするのだがそれは多分魔王の仕事ではなくて、せっかくの街並みや風景も宝の持ち腐れってところが多い。
タレイラにしても、交通の要所だし商人やら旅人やら聖職者やらが多く行き交うので宿泊施設は多いのだが、こう、何と言うか、良くも悪くも観光客に対するホスピタリティには欠ける。
観光客に媚びを売っていない、という点では高評価なのだけど、観光地として誇りを持つのと観光産業に対して無頓着なのとは違う。
……そのうち、グリードに提案してみようかな。あいつのことだから、自分の利になることは前例がなくても導入するに違いない。
と、いうわけでタレイラにはいかにもって感じの観光案内所はないのだが、役所の片隅に都市案内みたいな部署がある。どちらかと言えば、観光客よりも新しい住人向けの都市紹介パンフレットみたいなものをそこでもらい、いよいよ観光スタートである。
最初に訪れたのは、商業区のメインストリート。大通りの両側に良さげな店が立ち並んでいて、女の子ならウィンドウショッピングだけでも楽しいかも。
けど俺がここに来たのは、もう少し悠香の身の回りのものを揃えたかったから。
何しろ今の悠香ってば、自分の服はこっち来るときに着ていた制服だけだし、鞄も靴も学校指定のもの。服だけじゃなくって色々揃えてやりたいと思うのは、兄としては至極当然のことだ。
あと、ギーヴレイの揃えてくれた平民風ファッションも似合ってて可愛いんだけど、これはどちらかと言えば旅人寄りのデザインで、どうせならもっとフェミニンなのも欲しい。
「わー、お兄ちゃん、このお店可愛い!」
早速悠香はお気に入りの店を見付けたっぽい。外からショーケースを覗き込んで目をキラキラさせている姿も微笑ましいなー。
「外から見るだけじゃなくて、中に入ればいいだろ」
悠香の手を取って店内に入ろうとしたら、何故か悠香は少し躊躇った。
「……?どうした、見ないのか?」
「だって……なんかこのお店、高そうなんだもん」
悠香ってば、なんて奥ゆかしいんだ。俺の懐具合を心配してくれてるのか?
けど、心配ご無用なんだな。グリードはあれで、金銭面ではかなり太っ腹な上司なもんで七翼の給料ってけっこう良かったりする。しかも、勇者一行といるときにかかった費用は全部経費で落ちるし。
さらに言うと、魔王たるこの俺が金銭に不自由するはずがないだろう。もっと正確に言うと、ギーヴレイが俺にそんな恥をかかせるはずがないだろう。
最初にタレイラを訪れたときの教訓で、しっかりと路銀は確保済みなのだ。
「そんなこと気にしてたのか。大丈夫だから、好きなの選んでおいで」
「う……うん」
俺の自信満々な態度に安心したのか、悠香は最初はおずおずと、その後は夢中になって店内を回り始めた。
そこは服ではなくて鞄や靴、時計などの雑貨を取り扱う店で、一点ものと思われる商品が整然とならべられている。
モチーフは、自然…花とか動物とか。悠香は昔から、モノグラム系よりもボタニカル柄を好んでいた。けどそのうち、高校生や大学生になったらヴィ〇ンとか〇ーチとか欲しがるようになるのかなー…って俺はそのとき傍にいてやれないけど。
……ん、悠香が鞄の棚の前でさっきからずーっと止まってる。何か欲しいもの見つかったかな。
「何見てるんだ?」
横から覗いてみたら、肩掛け鞄の棚だった。愛らしいデザインの鞄がいくつか並んでいて、悠香の目はそのうちの一つに釘付けになっていた。
ファーで出来た、赤い鞄だった……ん?なんか耳っぽいのが付いて…あ、しっぽも。これ、猫…かな。
ともすればぬいぐるみのようにも見えてしまう猫モチーフなのに、シックな赤がそれを防いでいる。眼の部分には天然石が嵌め込んであって、こういうデザインに付き物の安っぽさは皆無だ。
こういうフワフワに弱い女の子って、可愛いよねー。
「これ、欲しいのか?」
「……ん、ちょっと。でも、なんか値札が……」
悠香は俺に、その鞄の値札を見せる。
「こっちの貨幣価値って知らないんだけど、ゼロが沢山ついてるから、高いのかなって……」
んもーーーー、悠香ってば遠慮する姿も可愛い!
そんなこと気にする必要ないんだぞ、俺は悠香が欲しがるなら国一つだって手に入れてやるからな!
「別に高くないぞ、これ」
「え……そうなの?」
実際には、地上界の中産階級の平均月収を越えちゃうくらいのお値段である。多分、本物の毛皮なんだろう。手触りがすっごくいいし、縫製も丁寧だ。
「お客様、何かお探しですか?」
俺と悠香がその鞄を見ていることに気付いた店員が、すかさず近付いてきた。高級店の店員さんだからかあまりグイグイくる感じじゃないのが好印象。
「あ、これ…なんですけど」
悠香が鞄を指すと、店員は心得顔で頷いた。
「お目が高くていらっしゃいますね。こちらは、非常に珍しいレッドグリフォンの毛皮で作られた一点ものでございます」
「…レッドグリフォン!?」
これには、俺がビックリ。
だって、グリフォンの中でもレッドグリフォンってすっげーレアモンスターじゃないか。純粋な強さでは通常のグリフォンの方が高いんだけど、炎熱耐性と機動力はレッドの方がずっと高い。と言うか、こいつの炎熱耐性は全魔獣中最強クラスだったりする。
へー、ほー、初めて見たー。この毛皮が、どんな炎も通さないやつなのかー。めちゃフワフワなんだけど、耐性って見た目によらないんだなー。
「レッドグリフォンの毛皮は丈夫さだけでなく美しさにも定評がありまして、市場にも滅多に出回らない希少品です。したがってお値段もそれなりにいたしますが、品質はそれ以上のものを保証いたします」
お値段もそれなり、のところで店員さんは俺たちの格好にさっと目を通した。
俺も悠香も、ギーヴレイが用意してくれた平民風ファッション。実を言うとけっこう上質のものだったりするんだけど、見た目的には普通の旅人って感じである。店員さんは、俺たちの支払い能力を心配してるのか。
「じゃあ、これ貰います。すぐに使うんで、包装は結構です」
「か、かしこまりました」
「お兄ちゃん、いいの?」
迷うことなく即決した俺に、店員さんも悠香も驚いた。が、俺の大切な妹にあげるもので、俺が値段を気にするはずがない。
「…うん、似合うなー」
現金一括で鞄をゲットした俺は、それを装備した悠香を見て満足しきり。材質が魔獣の毛皮なせいか、或いは悠香の服装が旅人風と言ってもフェミニンな感じなせいか、活動的な服にも合っている。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
悠香の満面の笑顔が、眩しかった。もう、誕生日もクリスマスもその他の記念日も、悠香にプレゼントなんてできないと思ってたから、感慨もひとしおだ。
「それじゃ、次は何処に行く?服か、靴か……」
「ええ、これ買ってもらったから充分だよ」
悠香は遠慮するが、俺としてはまだまだ買い足りない。別に悠香は旅人でも遊撃士でもないのだから、もう少し都会風の、お嬢様ファッションとかさせてみたい。
「もう少し、この辺りをぶらついてみるか。良さげな店があったら…」
「あら、リュートじゃない」
店を出て歩き始めた俺の背後から、不意に声がかけられた。その声にイヤーな予感がして恐る恐る振り返ると……
「勇者さまは一緒じゃないのね……あら、その子は?」
げげ。イライザじゃないか。世界中諜報活動で忙しく飛び回ってるはずの彼女が、なんでタレイラにいるんだよもう!
「あー……えっと、俺の妹で、悠香っていうんだけどさ…」
「まぁ、妹さんがいたの?初耳なんだけど」
言いながら、いつもの感じで俺に身を寄せてくるイライザ。だが、今はやめてほしい。
「……お兄ちゃん…その人……?」
ああ、ほら!悠香の表情が、「また新手かよ」って言いたげに冷ややかになっちゃった!!
「ふふ、可愛いのね。あんまり貴方と似てない…かしら。よろしく、ユーカちゃん。私はイライザ=ローデよ。貴女のお兄さんとは、同僚…みたいな感じかしら」
「え……お兄ちゃんの…同僚……?」
悠香には、一応七翼の仕事のことも伝えてある…と言っても教会の私設部隊に属してるって程度だけど。
だが、魔王という言葉の印象が強すぎて、その同僚と言われても悠香は戸惑うばかり。
…とは言え、俺の正体を内緒にするようにと言ってあるため「お兄ちゃん魔王なのに?」とか言い出さないのは流石だ。
……が、悠長に構えていられたのはそこまでだった。
何故ならば、
「ところでリュート。今晩は空いてるかしら?」
とかなんとか、イライザが余計なことを言い出すから!
「…お兄ちゃん…もしかして……」
「あーっあーっ、そのなんだ、仕事の話だよ仕事の!な、イライザ。なっ?」
「……………」
必死に同意を求めて視線でも訴えかける俺に、イライザは呆れたようだった…軽蔑とかじゃないと思いたい。
だが、彼女は他の連中と違ってその手に関しては海千山千。俺なんかより、よっぽど手慣れている。
「ええ…まぁ、そうね。ちょっと機密事項だったりするから、身内にも明かせないのだけど…」
とか、うまーく誤魔化してくれた。
そしてそう言い切られてしまうと、悠香もそれ以上何も言えないようだった。
が、ここでイライザのお誘いに乗るわけにもいかない。だって、
「…それは分かりましたけど、なら夜じゃなくったっていいですよね」
…はい、悠香サンの言うとおりです。わざわざ夜を指定するなんて、他にも理由があるんだろって勘ぐられてもおかしくない…と言うかそうなんだけど。
「うふふ、本当に可愛いわねぇ。心配しなくても、お兄さんを取ったりしないわよ?」
余裕たっぷりに微笑むイライザ。彼女と俺との関係は非常にドライなものなので、彼女自身俺に対して面倒臭い感情は持っていない。
「けど、そうね…話したいことがあるのは本当だから、今からでも少しいいかしら?」
……あれ?ほんとに任務の話?
「えっと…それは構わないけど………」
俺は悠香に目を遣る。出来れば、彼女から目を離したくはない。
「ごめんなさいね、ユーカちゃん。ちょっとだけお兄さんとお話があるから、そこのカフェで待っていてくれるかしら?」
俺が返事をするより早く、イライザが悠香にそう頼んでしまった。
「あ…はい、分かりました……」
「ちょっと待ってくれイライザ。妹はこの街初めてだし、一人にしたくないんだけど」
悠香は素直に頷いたのだが、俺は拒否する。
創世神の仕業か会話には苦労しない悠香だが、こっちの文字の読み書きはさっぱりなのだ。文化も風習も常識も日本とは違うし、一人になんてさせられない。
だが、そんな俺を見てイライザは笑い声を上げた。
「やだ、リュートってば。妹さん、見たところ貴方とそう変わらない年でしょ?小さな子供じゃないんだから、少しの間待ってるくらい何の問題があるのよ」
「そうだよ、お兄ちゃん。その代わり、早く戻って来てね」
「けど……」
確かに、イライザから見ると俺は過保護なのだろう。けど、ここは悠香にとっては異世界で、そして悠香が俺の妹である以上、過保護になるのは当然のこと。
……なんだけど。
「心配しなくても、タレイラの治安は世界一の水準よ?騒ぎがあればすぐに都市警が飛んでくるし」
そう、あのグリード=ハイデマンのお膝元であるここタレイラは、エクスフィアの中でも群を抜いて安全地帯なのである。スリや置き引きは勿論、しつこいナンパでさえも下手すると取り締まり対象になってしまう。飲酒できる時間帯も法律で定められていて、そのせいか酔っ払いの姿もほとんど見られることがない。
「……そう、か。分かった。それじゃ悠香、すぐに戻るから絶対ここを離れるなよ?いいな?」
「分かったって。お兄ちゃんほんと心配性なんだから」
呆れたように悠香が苦笑した。その様子に、俺も少し考えすぎかと恥ずかしくなる。
イライザから話を聞くだけなら半刻もかからないだろうし、騒ぎが起こればすぐに駆け付けられる場所にいれば問題ない…かな。
俺は悠香をカフェのテラス席につかせ、ついでに彼女の注文も済ませてから、イライザと共にその場を離れた。
なんでか、イライザがニヤニヤしていた。
「……なんだよ」
「いいえ?ただ、すっごく妹さんを溺愛してるんだなーって思って」
「当然だろ!あいつは世界一の妹だからな!」
胸を張って断言する俺に、イライザはうんうんと頷いた。
「なんか分かった気がするわ」
「……何が?」
「貴方の、勇者さま方に対する態度よ。なーんか、やけに面倒見がいいと思ったら……」
「い、いや、あいつらはほら、世話が焼けると言うか、面倒を見なきゃどんどん自滅の道を突っ走ろうとするもんだから……」
「別にいいじゃない、そんな必死に弁解しなくても」
確かに、弁解する必要なんてないか。
話しながら、イライザは俺を人気のない路地裏まで連れて来た。ここまでするということは、本当に誰にも聞かれたくない話ってわけか。
「で、話って?あ、言っとくけど新しい任務は勘弁な。今は妹を案内するので忙しいから」
「いえ、別に任務ってわけじゃないのよ。ただ、ちょっととんでもない情報を小耳に挟んだものだから、貴方にも話しておいた方がいいと思って」
イライザの言葉は意外なものだった。
てっきり、グリードから任務を預かってきたものとばかり…
「言っておくけど、これは私の独断だから。私から聞いたって、口外しないでね」
「分かったよ。随分と慎重なんだな」
俺とイライザとの間には、上層部を通さない相互契約がある。だから、イライザは上に秘密で俺に機密事項を明かし、俺はそのことを上には秘する。
その契約のおかげでイライザはかつて聖央教会を裏切っていた…今もかどうかは知らない…ことをバラされずに済んでいるし、俺はグリードとは別口での情報源を入手できたわけだ。
「まぁ、慎重にならざるを得ないことなのよ。……つい先日、新しい神託が下ったことは知ってる?」
「新しい神託!?いや…何も聞いてない」
寝耳に水だ。神託なんてそうしょっちゅう下るものじゃない。ついでに言うと、どうでもいい内容で下るものでもない。
そう言えば、俺が魔界に行っている間、勇者一行はエファントスからルシア・デ・アルシェに呼び出されていた。もしかしたら、それと関係あるのかもしれない。
「そう…やっぱり。どうも、上層部もだいぶ困ってるみたいなんだけど……」
歯切れの悪いイライザに、嫌な予感がする。教皇や枢機卿連中が困るような内容の神託って、どう考えてもいいものじゃないだろう。
「勿体ぶらずに教えてくれよ。神託の内容は?お前なら知ってるんだろ」
聞いたところによると、神託ってのは普通、大司教以下には決して明かされないものらしい。それは世界や国の運命を左右しかねないものだということと、その神聖さを保つためらしいが、イライザがわざわざ俺に接触してきたってことは、彼女はそれを知っていると見て間違いない。
「…そうね。これを」
イライザは、一枚の紙きれを俺に手渡した。メモ用紙に、何かが乱雑に書きなぐってある。
「ちょっと、口に出すのは憚られるから声に出さないで読んでちょうだい。終わったら、燃やしてね」
イライザの様子にただならぬものを感じますます強まる嫌な予感を押し殺して、俺はメモに目を落す。
そこには、こう記してあった。
─異界の門開くとき、赤き獣を携えた贖いの導き手が降り来たる。
其は戒めの乙女、黒き王の罪を暴き裁きの劫火で彼の者を焼き尽くさん。
まつろわぬ者は触れることなかれ、乙女の血流るるとき終末の扉は開くであろう─
「……………………」
「どう思う、これ?」
「……………………」
「上層部は、これを新たな聖戦士の出現だと考えてるみたいよ。黒き王ってのは、多分魔王のことね。その聖戦士と魔王との争いが起こって、魔王か世界かどちらかが滅びることになるんじゃないか…って」
「……………………」
「貴方は勇者さまの補佐役なわけだし、多分他人事では済まされないと思うわ。その聖戦士ってのが誰のことを指すのかは分からないけど、少なくともすでに神託で選ばれた勇者さまではないだろうし、そうなると神託の勇者の正当性にも関わりかねないことだもの」
「……………………」
「いえ、別に魔王が滅ぼされてくれるならそれはそれで良いことなのかもしれないけどね。相互不可侵条約なんて魔族がいつまでも守るとは思えないし。けど、気になるのは最後の一文。その聖戦士が負ければ、魔王はおそらく世界を滅ぼすのよ」
「……………………」
いや………これ、多分…つーか間違いなく、悠香のこと…だよな。あいつ、アルシェの手でこっちの世界に連れてこられたんだし、アルシェの奴、回りくどい言い方だけどそれについて神託って形で地上界に伝えたってわけか。
うーーーーーん、どうしよう。説明した方がいいのかな?けど、イライザにってわけにもいかない。彼女は俺が魔王だと知らないんだから。
けど…グリードには、伝えておいた方がいいのかなー。きっと、今頃ルシア・デ・アルシェは大騒ぎだろうし…………
けど…なー。そうすると、悠香が創世神から託された使命ってのにも言及しなきゃならなくなるんだよなー。
……魔王の、女癖の悪さを懲らしめる…っていう。
あああああ、ダメだそれはダメだ、なんかダメすぎる。そんなこっ恥ずかしいこと、言えるはずがない。
そんなこと話したら、後世までずっと、魔王は女癖が悪かったって伝わるに違いない。
……もしかしたら、それもアルシェの嫌がらせの一つ…なのか?
考え込んでいる俺を、事の重大さに慄いているのだとイライザは勘違いしたようだ……いやまぁ、重大って言えば重大なんだけどさ、俺にとっては。
けど、実際に世界から見たら大したことじゃないんだよなー。
要は、魔王の女癖の悪さ(って言うほど俺、女癖悪くないんだけど…)を懲らしめるために、魔王の最愛の妹が異世界から召喚されたっていう、ただそれだけ。
懲らしめるってのは、一連の悠香の糾弾のことを言うのだろう。あれでなかなか、精神的にやられた感じがする。
乙女の血流るるとき…って一文は、そりゃそうだ。悠香にもしものことがあったりなんかしたら、それこそ俺はブチ切れて乱心して何をするか分かったもんじゃない。
……ということで、俺以外の奴らにとっては、何の意味もない神託なわけだ。
だったら……黙ってても、いいかな。実害はないんだし、それに少しくらいグリードを困らせてやるってのもいいかもしれない。
いっつもいっつも俺をいいように扱いやがって、ちょっとは思い知ればいいんだ。
「私たちに出来ることなんてないでしょうけど、色々と厄介なことになりそうだし、覚悟くらいはしておいた方がいいかもしれないわよ?」
「ん……ああ、まぁ、そうだな。肝に銘じておくよ」
俺はイライザに下手に勘ぐられないようにワザと重苦しく答えると、そのメモをクシャっと握りしめて手の中で灰に変えた。
他事を考えてたせいでうっかり魔導じゃなくて理に直接干渉してしまったのだけど、威力も規模も極小だったからイライザに気取られることはなかった。
「それじゃ、私はもう行くわね。あんまりお兄さんを独り占めしてると、可愛い妹さんに嫉妬されちゃうから。夜のお楽しみは、妹さんがいないときにしましょ?」
「……んー、そう……だな」
俺の耳元で思わせぶりに囁くと、イライザはそのまま路地の奥へと消えていった。
さて、俺は悠香のところに戻るか。大した時間のロスにもならなかったし、俺も一緒にカフェでお茶してから、この後は悠香の服を見に行こう。
……あ、イライザにお薦めの店を聞けば良かった。お洒落のことに関しては、俺の知る限り彼女が一番詳しそうなのに。
まぁいいや。一緒に探すってのも楽しいしな。
そういや、こっちの服とか小物って、日本に帰るとき持っていけるのかな?出来れば、俺との思い出にずっと持っていてもらいたいんだけど……
「お待たせ、悠香………って、あれ?」
カフェに戻った俺だったが、悠香が席にいない。彼女に注文したケーキセットは、食べかけでテーブルに残っている。
トイレかな…?けど、悠香は食べてる最中に席を立つような不作法さんではない。いやいやだけど、緊急事態ってのもあるだろうし……
「あ、すいません。ここにいた女の子、知りませんか?」
ちょうどそこにウェイトレスさんが通りかかったので、尋ねてみた。悠香くらい可愛い娘なら、店員さんの記憶にも残ってるはず。
「え…あら?そちらのお嬢さんでしたら、先ほどまでお連れさんと一緒のようでしたけど……」
……へ?お連れさん…?
どういうことだ、悠香には俺以外の連れなんて……
「その連れって、どんな奴でした?」
「さぁ…後ろ姿だったので顔までは。ただ、若い娘さんみたいでしたよ、黒髪の」
………………若い娘?
こっちの世界で、悠香にそんな知り合いはいない…というか、知り合いそのものがいない。いるとしたら、地上界ならエファントスのシルヴァーナ王女だが、彼女は黒髪でもないしそもそもこんな場所にいるはずもない。
どうしよう……どうしようどうしよう。
悠香が…俺の妹が、俺以外に頼るもののないこの世界で何処かに行ってしまった………
なんてことだ、やっぱり目を離すんじゃなかった。俺は馬鹿だ、大馬鹿だ。
これで悠香に万が一のことがあったら…………
ダメだ!ダメだダメだ!!
そんなことより、探さなくちゃ。もしかしたら優しい悠香のことだから、道端で困ってるお年寄りとか見付けてお手伝いしてるのかもしれないし、或いは迷子を交番に連れて行ってるのかもしれないけど。
だけど、悠香の居場所が分からないという状況に、自分が耐えられる自信がない!
そして俺はその日いっぱいタレイラを駆け回った。
カフェの店員だけじゃなくそこにいた客にも、近くの店の人間にも、そこいらの通行人も片っ端から捕まえて聞きこんだし、タレイラの街門を全部回って、それらしい通行者がいなかったか門番に訊ねもした…もし悠香らしき少女が通りかかったら保護しておいてほしいと付け加えることも忘れずに。
タレイラ中を探して探して、探しまくって、判明したのは、たった一つの事実だけだった。
それは、悠香がどこにもいない、という先ほどから何の進展もない事実。
……悠香の痕跡は、驚くほど綺麗さっぱりと消え去っていた。
同じような失敗を繰り返す魔王です。




