エピローグ 帰る場所 還る場所
アスターシャが、脚を止めた。ほぼ同時に、ディアルディオも。
「…どうなさったんですか、二人とも?」
撤収途中のベアトリクスが、首を傾げて問いかけた。
しかし、二人からは返事がない。
「………アス姉…」
「…そうだな、帰ろうか。我らには、まだやらねばならぬことが多く残っている。ギーヴレイばかりに任せきりでは、陛下に顔向けが出来ない」
仲の良い姉弟のように二人が手を繋いで再び歩き始めたときだった。
「……ちょうちょ」
ヒルダが空を見上げて小さく呟いた。
花の一輪もない荒れ果てた平原に、季節外れの蝶が一匹、いつのまにか紛れ込んでいた。
蝶はヒラヒラと、風に負けそうな頼りなさで必死にはためいて、彼女らの方へと飛んできた。
アスターシャとディアルディオの周りで何度か弧を描き、それからベアトリクスとヒルダのところでも同じように。
しばらくの間、名残惜しそうにその場で羽ばたいていたが、やがて夕焼け空へ向けて消えていった。
「……おにいちゃん…?」
さらに小さなヒルダの呟きは、行く宛てのないまま虚空へ溶けた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
アスターシャから戦闘終了の報告を受け取ったギーヴレイは、警戒レベルを一段階だけ引き下げて事後処理の準備を始めていた。
周囲は自軍の勝利に誇らしげな様子を隔そうともしていなかったが(流石にここで浮かれ騒ぐほど魔族たちはお気楽ではない)、ギーヴレイの表情はひどく険しかった。
「…ギーヴレイ殿」
気付いたイオニセスが、彼に歩み寄る。だが、彼の纏う空気にそれ以上は何も言えず、黙りこくった。
ギーヴレイは何もなかったかのように、次々と指示を下していく。その平静さに、彼の部下たちは誰も異変に気付くことはなかった。
そのとき、窓の外を何かが通り過ぎた。
何気なしに視線を遣って、ギーヴレイはいきなり立ち止まった。
「……閣下?」
「どうされたか?」
ちょうどそのときギーヴレイから指示を受けていた部下とイオニセスが怪訝に思って訊ねるが、ギーヴレイは答えなかった。
答えるかわりに、これまたいきなり走り出した。
「ああああの、閣下!?」
珍しく…と言うか初めて見るギーヴレイの取り乱した姿に部下は慌てるが、何かを察したイオニセスは、彼を追おうとしたその部下を止める。
そして、一瞬だけ自分もそこへ向かおうかどうか迷ってから、思い直して小さく首を振った。
「あの…イオニセス閣下、ギーヴレイ閣下はどうなさったのでしょうか…?」
「……今は、そっとして差し上げることだ」
「………は、はぁ……?」
部下は何がなんだか、といった様子だったが、イオニセスの様子にそれ以上何も聞こうとはしなかった。
ギーヴレイは、慌ててそれを追っていた。
廊下の窓に見え隠れしながらフラフラと漂う一匹の蝶を、見失わないように必死に走る。だが、無情にも目の前は行き止まり…ただしバルコニーに続いている…だった。
ギーヴレイは場合によってはそこから階下に飛び降りる覚悟も決めて、そのバルコニーに出た。
蝶は、まるでギーヴレイを待っていたかのように、その場にヒラヒラと漂っていた。
「……へい…」
思わず蝶に手を伸ばしたギーヴレイだったが、蝶はその指をかいくぐって彼の頭上をしばらくうろついた後、高く高く空へ昇っていき、やがてその姿は見えなくなった。
「………承知致しましてございます」
誰もいない虚空に向かい、ギーヴレイは深々と頭を下げて言った。その眦から一筋の涙が零れ落ち、彼はそれを拭おうともしなかった。
階下では、ルクレティウスが季節外れの蝶の行方を目で追っていた。
「……どうしたの?」
相変わらず腰にしがみつく幼い天使の声に相好を崩すと、彼はその頭を優しく撫でた。それから再び視線を空に戻したときには、蝶の姿はどこにも見付けられなかった。
「おじいちゃん?」
「…なんでもない。さ、ここにいては冷えるからな。中へ戻ろうか」
ルクレティウスの声に何かが押し隠されていることに気付いたセレニエレだったが、それについては何も言わなかった。
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「悠香ー、なんか一雨来そうだから、洗濯物取り込んでおいてちょうだい」
「はーい」
母親の呼びかけに答えると、桜庭悠香は勝手口から外に出て、庭の隅の物干し台へ向かった。
時間は午後二時。一日のうちでは一番温かい時間帯であるにも関わらず、冬の空気は張り詰めるように冷たかった。
湿っぽい洗濯物に触れていると、あっという間に手がかじかんでくる。時々息を吹きかけて冷えた手を温めながら手早く洗濯物を取り込んでいた彼女の目に、意外なものが映った。
「……蝶?可哀想に、こんな季節外れに…」
儚げな蝶が、フラフラとヒラヒラと、彼女に向かって近付いてきていた。
今にも消えてしまいそうな弱々しい姿に切なくなって思わず手を伸ばすと、蝶はそっと彼女の指先に止まった。
翅をゆっくりとゆらゆらと動かして、まるで何かを語りかけているようだった。
「…………?」
何かひどく懐かしい感覚に囚われて、悠香は蝶に顔を近付ける。だが、吐息がかかりそうなところまで近付くと、蝶は彼女の指先から離れた。
ヒラヒラ、ヒラヒラ。燐光を振りまきながらゆっくりと舞う蝶は、おかしな話だが、感傷に耽っているように彼女には見えた。
どのくらいそうしていたのだろうか、蝶は名残を棄てたように一直線に空に向けて飛んでいった。
悠香はそれをずっと見送っていたが、よく分からないうちに蝶は空に溶けるようにして消えてしまった。
「…おかえり、お兄ちゃん。………いってらっしゃい」
寂しさをひた隠して、彼女は精一杯の笑顔を見せて、そう言った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
世界は、救われた……と言ってもいいのだろうか。陳腐な言い方をしてしまえば、そういうことになる。
現世界を破壊して新世界を構築しようとした創世神と、それを阻もうとした魔王との戦いは、魔王の勝利寄りの引き分け…則ち、両者相討ちに終わった。
結果だけ見れば一件落着だが、世界にとって大変なのはここから先だった。
天界は、創世神側に付いた者たちとそうではなかった者たちとの間で、しばらく争いが絶えなかった。主である創世神を失った敗軍側の抵抗は強固なものだったが、風天使グリューファス率いる正規軍を前に、徐々に勢いを失っていった。
幾たびか大規模な騒乱を経た後に和睦が結ばれるのだが、それには百年近い年月を必要としたのだった。
魔界もまた、主たる魔王を失った。魔族たちの悲嘆は、生半可なものではなかった。しかし、魔王の意志を継ぐ武王たちの手により、ギリギリのところで統制は保たれた。
後継者が現れでもしない限り、いつ崩れてもおかしくない薄氷の上の秩序ではあったが、とりあえず今のところは平穏が続いている。
最も被害の大きかった地上界は、ルーディア聖教会がその存在意義とリーダーシップを問われていた。もとより、創世神を崇め奉るための宗教が、ルーディア聖教である。でありながら創世神に反旗を翻した時点で、聖教会の存在意義、存在理由は霧散した…はずだった。
しかし、教皇代理グリード=ハイデマンの策謀により、いつの間にか教義が微妙に変えられていた。
これは全て、世界が存続するに値するかどうかを審判する創世神の試練で、それに勝利したからこそ世界は助かったのだ…と。
ルーディア聖教は、この日のために人々の信仰を深め、そしてこの日の後、世界を人々に託しお隠れになった御神に代わって人々を導くという使命を与えられたのだ…と。
誰も、真実を知りようがなかった。だから、混乱の世の中で与えられた真実をそうだと信じるしかなかった。
創世神の試練に打ち勝ち、世界を守り救った者たちの中で、特に功績の大きかった三人がいた。聖教会は、その三人に新たな勇者の称号を与えた。
剣聖アルセリア=セルデン。創世神の力を封じ続け世界を守った少女は、後見人であるグリード=ハイデマンの下、二人の盟友と共に聖教会の重鎮として迎えられた。
剣姫ライオネル=メイダード。なぜ彼に剣姫の称号が与えられたのかは諸説あるが、本人が満足そうなので誰も何も言わなくなった。押し寄せる試練から地上界を守り抜いた彼は、その後も仲間たちと諸国を漫遊し、国家や聖教会の目が届かないところで苦しんでいる人々を救う活動をしているらしい。
剣帝リュート=サクラーヴァ。試練を与えるため世界に刃を向けた創世神を打ち倒し、この聖戦の最大の功労者となった彼はしかし、御神と刺し違える形で命を落としたという。その功績に敬意を示し、その死に哀悼の意を示し、聖教会は彼に「剣帝」の称号を与え、また聖教会最高の栄誉である「天藍なる聖人」に叙した。
三剣の勇者の存在は、ともすればバラバラになりがちな地上界の結束を高めるために非常に有用だった。…と言うよりも、そのために作られた称号といってもいい。
ルーディア聖教会は、荒れ果てた地上界の復興の陣頭指揮を執った。壊滅した国には人員を送り、生き残った人々が最低限の生活を営むことが出来るよう差配した。死者が多かった国へは、教皇が自ら赴き遺族に哀悼の意を示した。それまで雲の上の存在だった教皇から直接言葉をかけられ、人々は哀しみの中に希望を見い出した。戦後の混乱の中で起こった暴動や叛乱には、容赦なく異端審問官や教会騎士団を差し向け、それを平定した。
歩みは遅々としていたが、それでも少しずつ、確実に、人々は前へ向かって進んでいた。
肝心なときに役に立たなかった国家とは裏腹に、人々を守り抜いた勇者を擁する聖教会は、さらに勢力を伸ばすこととなった。
そのことは後に新たな火種を生むことになるのだが、それはまた別の話。
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荘厳な神殿の奥の奥、特に清浄な空気に満ちた聖堂で、一人の女性が祈りを捧げていた。その首から下がるのは、漆黒の聖円環。
女性の表情は、ひどく穏やかだった。それは、何かを固く信じている者の表情だった。
祈りを終えて、女性が顔を上げる。すると、どこから入り込んだのか一匹の蝶が彼女の目の前に漂っていた。
女性は、何も言わなかった。穏やかな笑みを浮かべたまま、身じろぎもせず、蝶を見つめていた。
そして蝶は、女性の目の前で、陽光に照らされた朝霧の如く、すぅっと消えた。
「……おかえりなさいませ」
女性は笑みを深めて、聖円環を固く抱きしめた。
ずっとずっと待ち望んでいたものをようやく手に入れたような、それはどこか狂気めいた慈愛の表情だった。
終わったー、終わりましたよ!長くお付き合いいただいた皆様、ありがとうございます!!
飽きっぽくて三日坊主(と言うか一日坊主)な自分ですが毎日執筆毎日更新に挑戦してみました。ちょっと?な日もありましたが、概ね達成出来たと思ってます。読んでくださった皆様、感想をお寄せ下さった皆様、本当に感謝感謝でございます。
今後、ちょっと番外編とか別の作品とか挟みまして、近いうちに続編的なものも書ければなーと思っておりますので、その際にはまたどうぞよしなにお願いいたします。




