最終話 世話焼き魔王(リュート=サクラーヴァ)
「見事だ、魔族の将軍よ」
アスターシャを見上げて、サファニールは言った。
「…あまり素直に喜べないのだが、な」
サファニールを見下ろして、アスターシャは言った。
剣を振るったのは両者同時であったが、相手に刃が届いたのは、アスターシャが僅かに先だった。
「このタイミングで創世神の加護が消えていなければ、どうなっていたかは分からなかった」
「起こらなかった未来を想定するのは、無駄なこと。其方は私に打ち勝った、ただそれだけだ」
二人の攻撃の寸前、サファニールを強固に守り強化していた創世神の加護が消え去った。そしてそれは則ち、
「……魔王は、勝ったのだな……」
「無論だ。我らが主が、二度も敗北することなどありえない」
魔王の勝利を意味していた。
アスターシャが誇らしげなのは当然として、サファニールまでもが晴れ晴れとした表情をしていた。そんなサファニールに、ベアトリクスとヒルダが近付く。
二人に気付いたサファニールは、僅かに目を伏せた。
「……サフィー、貴方は、こうなることを望んでいたのですか?」
ベアトリクスがその傍らに屈みこんで、サファニールに問う。
自分たちを本気で殺そうとしていたようには見えないサファニールに、疑問を抱いていたのだ。だが、サファニールは静かに首を振った。
「いや、望んでいたわけではない…が、どちらの未来にしても、受け容れる覚悟は出来ていた…」
「……エルん」
ヒルダが、後ろにいるエルネストを振り返った。その視線は、命の嘆願。エルネストの能力で、サファニールを助けてほしいと訴えていた。
それを受けて、エルネストが歩み寄る。魔族である彼が天使族であるサファニールを治癒することにどのような副作用があるのかは分からないが、放置すれば彼は命を落とすことになる。であれば、試す価値はあろう。
本来は憎むべき宿敵であるはずのサファニールを前に、そして廉族であるヒルダの願いを聞き届ける義理もないはずなのに、エルネストにそれを拒否するつもりはなかった。
しかし、
「……できれば、それは御免被りたい」
エルネストが自分を癒そうとしていることに気付いたサファニールが、それを拒否した。
エルネストはといえば、その申し出にも特に驚くことはなく、能力の発動を止めた。
「…よろしいんですか?」
「御神が還られたのであれば、私も共に行こう。本来ならば、遥か昔に潰えていたはずの身だ。遅ればせながら解放されるときが来ただけのこと」
満ち足りた表情で告げるサファニールに、ヒルダが寂し気な視線を落とした。忠誠だとか在り方だとか世界の攻防だとか、そういったものを抜きにして純粋にサファニールに生きていてほしいと彼女は願っていた。
「サフィー……行っちゃうの…?」
「左様。そろそろ行かねば、我が主はああ見えて淋しがりのところがおありだからな」
「…それ、おにいちゃんもおんなじ」
「ふふ、互いに世話の焼ける主を持ってしまったものだな」
結局はその主の幼さに世界は振り回されてしまったのだという事実に苦笑して、サファニールはヒルダから視線を外すと、空を見上げた。
先ほどまで空を重苦しく覆っていた厚い雲は薄れ、隙間から陽光が射し込んでいるのが見えた。
その光を眩しそうに見つめてから、央天使サファニールは、静かに瞼を閉じた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
真っ白な空間は、影も形もなく消え去っていた。
仰向けに寝っ転がる俺の目に映るのは、晴れかけの空。日が傾いて、地平線に近いところの雲が茜色に染まっている。
……明日は、晴れるかな。なんとなく、晴れる気がする…と言うか、晴れるといいな。
ぼんやりとそんなことを考えていると、アルセリアと、解放されたキアが屈みこんで俺を見下ろしているのに気付いた。
「……アンタ、ほんと何してんのよ、こんな無茶して……馬鹿じゃないの」
安堵と心配とがごちゃ混ぜになって変な泣き笑いの表情になったアルセリアが、口調だけはいつものまま、俺を馬鹿呼ばわりしてくれた。
キアは、それよりももっと沈痛な顔で黙り込んでいた。
アルセリアが呆れるのも、無理はない。今の俺は、どう見ても死にかけである。と言うか、この状態で生命停止していなかったあたり、この肉体もなかなか頑張ってくれたんだな、うん。
とは言え……
「ほら、何してんのよ。さっさとコアだか何だかいつものでパパっと怪我治して、みんなのところに帰るわよ」
……帰る………帰る、か。
そうしたいのは、山々なんだけど。
創世神もいなくなって、もう“星霊核”への接続を妨げるものはなくなったはずなのに、俺は糸を伸ばすことが出来ないでいた。
そうするだけの存在値は、もう残っていなかった。
「…………リュート?」
何もしようとしない、答えようともしない俺を怪訝に思ったのか、アルセリアの声のトーンが変わった。
俺を挟んで反対側にいるキアを見て、何かに耐えている彼女の顔を見て、自分の表情を凍り付かせて、それから再び俺を見下ろした。
何か、小粋で気障な台詞を言ってやりたかった。
湿っぽいのは好きじゃないし、俺と彼女にはそんなの似合わないし、多分俺もラディ先輩から深刻になったら死んじゃう病をうつされてたっぽいから。
けど、肝心なときに限って、いい感じの言葉が出てこない。なんだか、随分と締まらない感じだ。
「ちょっと…そういう、趣味の悪い冗談はやめてよね。アンタまさか、このまま全部放り出して退場するとか、許されると思ってんの?」
アルセリアの表情に、怒りが加わった………いや、怒り…じゃないのかな。そう見せようとしているだけで。
「アルシー…」
「これからが大変なんじゃない。地上界だってめちゃくちゃになっちゃったし、復興とかどうすんのよ」
キアの呼びかけを無視して、アルセリアは実に理不尽なことを要求してくる。
って、地上界の復興は俺の仕事じゃないだろ。
それに、グリードがいてくれるからそこんところは安心していいと思うよ。あのオッサンは、魔王が唯一全面的に信頼する廉族だからな。
色々大変だろうけど、あらゆる手段(汚い手も含めて)を総動員して、地上界を元のそれなりに平和な世界へ戻してくれるだろう。
時間はかかると思うが、廉族はそういった変化に強い種族だ。
「そ…それに、魔界だって、アンタがいなきゃ困るんでしょ?」
…大丈夫。魔界には、ギーヴレイがいてくれる。あいつに任せておけば、何も心配ない。
戦いに赴く前の遣り取りで、多分ギーヴレイはこうなることを…俺がこうなることを予期していた、ということに気付いていた。気付いていながら、送り出してくれた。
なんだかんだ言って、俺の我儘を聞き入れてくれたんだよな。
並外れた頭脳で先を読むギーヴレイと、あと直感的に深くを知るイオニセス(彼もまた、こうなることを予感していたっぽい)の二人がいれば、魔界のことはまず心配ない。
二千年前よりも、魔族との距離は間違いなく縮まった。今の俺が彼らに何を望んでいるか、何を求めているかは、きっと分かってもらえているに違いない。
「…それに、それに…エルネストは?あいつ、アンタがいなきゃ存在出来ないって…」
ああ…そうだな、エルネストと、ルガイア。彼らに関しては、俺も非常に心残りだ。
このまま俺が完全に消滅してしまうのか、ただ深い眠りにつくだけなのか、正直分からない。が、前者であった場合、彼らマウレ兄弟も共に消滅してしまうことになる。
けど、こればっかりはどうしようもないのだ。彼らには償いようがないけれど、勘弁してもらうしかない。
同じように俺の眷属となってしまったイオニセスとセレニエレに関しては、多分だけど大丈夫だと思う。そこまで強い干渉ではなかったから。
……うん、セレニエレはもしかしたら白い翼に戻れるだろうか。けどそうしたらどうするんだろう。天界に帰るのか、魔界…というかルクレティウスの下に留まるのか。
彼女が天界に情を残すものがあるようには思えなかったし、多分大好きなおじいちゃんの方を選びそうだけど、もし天界を望むのであればきっとルクレティウスはそれを許すんだろうな。
「て…っ天界は?ボスがいなくなったら、統制も取れないじゃないの。それで地上界に攻め込んできたりしたら、アンタどう責任取ってくれるわけ?」
……え、そこまで俺の責任ですか?ちょっと理不尽じゃね?
ま、まぁ、ボス(勇者が創世神をボスとか呼んじゃうのか)がいなくても、高位天使は残ってるし。四皇天使はもう風天使だけになっちまったけど…あいつ今どこで何してるんだろう……ウルヴァルドもいるし、もともと天使族は種族特性として統制と安定を好む傾向が強いから、今さら暴動とか戦争とかは考えにくい。
……ほら、何も問題ない。魔王がいなくても、創世神がいなくても、世界はちゃんと廻り続ける。
これからのことは、世界の住民たる生命たちの仕事だ。せいぜい、頑張ってもらうとしよう。
「……家は、どうすんのよ。せっかく建てたのに……アンタの部屋、余っちゃうじゃない。私たちだって、いつもあそこにいるわけにはいかないのよ?管理だって大変だし」
あー、それね。大丈夫大丈夫。ちゃーんとディアルディオに管理を任せてる。あいつのことだから、しばらくのうちは魔界よりもそっちに入り浸るんじゃないかな。
アスターシャも地上界で剣の指導者をやりたいって言ってたし、ちょいちょい様子を見に行ってくれれば安心だ。あの二人は仲良いから、言わなくてもそのくらいはやってくれそう。
…ただいまって、言えなかったけどな。
せっかくのキッチンも、全然使えなかった。アルセリアたちのことだから、料理なんてまともにしないだろうし、誰かに有効活用してもらえればいいんだけど…俺の周りで料理上手ってちょっと思い浮かばない。
…………いやいやいやいや、暴走超特急娘は別だ。彼女には、まだやってもらわなくてはならないことがある。片田舎の家の台所で料理に勤しむのは、姫巫女の仕事じゃない。
「ビビとヒルダは?ビビ、アンタのこと好きっぽかったじゃない。ちゃんと返事してあげたの?それに、アンタがいなくなったら、ヒルダがどれだけ泣くと思ってんのよ…」
…うん、それなんだよ。俺としては、彼女らにちゃんと別れを告げられなかったのが心苦しい。
ビビに関しては…多分こんなことにならなくても上手く返事出来たかどうか自信ないけど…だってちゃんと返事しようとしたらなんか怖いんだもん。
ヒルダは……ああ、俺はまたもや妹を置いて行ってしまうのか。兄貴失格だな、これじゃ。シスコンの神さまに叱られてしまうかもしれない。
きっと彼女らは悲しんでくれるだろうと思うのは魔王としてどうなのよって話だが、そこのところは間違いないだろう。
ただ、彼女らの傷が、時間の経過と共に薄れていくタイプのものであってほしいと、そう願うばかりだ。
「そ…それに………」
俺の頬に、ぽたりと雫が落ちた。
…参ったな、女の子を泣かせるのは趣味じゃないんだが……
「それに、アンタが……アンタが、俺を選べって言ったんじゃない。それなのに、私を置いてくって……どんだけ無責任なのよ…」
……うーん…そう言われると、返す言葉もございません。
それに関しては、俺に出来るのは謝ることくらい、かな。
「……悪い」
「あ、謝るくらいなら、もう少し根性見せなさいよ!」
なんとか声を振り絞って謝ったのに(声って、こんなにも力を使うものだったっけ?)、とうとうキレられてしまった。
もう、ほんとに怒りっぽい勇者だよな。しかも理不尽だし。
「だから、悪かったって。……なんつーの、こう…なるべくしてこうなったって言うか、これしか方法がなかったって言うか……そう怒るなって。勇者だろ?」
「勇者だから怒ってんのよ!魔王のくせに勇者以外が死因だなんて、セオリー無視してんじゃないこのバカ魔王!なに勇者に世話焼いてこんなことになってんの!?」
なんでってそりゃ、まぁ。
「どーせ俺は、世話焼き魔王だからな」
「……シスコンとヘタレとタラシが抜けてる」
「……さいですか…」
相変わらず容赦ない言いっぷりに、俺は苦笑するしかなかった。
気付けば、辺りはだいぶ暗くなっていた。落陽には、まだ少し早い気がするんだけど。
さて、そろそろ時間かな。
「……キア」
「………ん」
キアは、感情を爆発させないように耐えていた。
せっかくヒヒイロカネと同化することを選んだのに、ずっと一緒にいてやれなくてゴメン。けど、彼女にはもう少し世界に留まってもらいたい。
「悪いけど、アルセリアのこと、頼むな。ちょっとまだ、危なっかしいところあるから…」
キアは、素直に頷いてくれた。
「分かった。……もう大丈夫ってなったら、そっち行ってもいい?」
「ん、待ってる」
短い、けれどそれで充分な遣り取りの後でアルセリアに視線を移すと、彼女も少しは落ち着いたようだった。
或いは、気丈な姿を見せたかっただけか。
「仕方ないわね、仕方ないから、補佐役の業務は少しだけお休みにしてあげる」
……へ?一時休暇?
「またすぐ、戻ってくるんでしょ?」
「…さぁ、それは…どーだかなぁ……」
「フフ、アンタってそうやってすぐ煙に巻くのよね。なんかグリード猊下みたい」
ちょっとちょっと、最後に聞き捨てならないですな。誰があの狸親父みたいだって?
「流石に…あのオッサンみたくはなれねーよ…」
「その猊下が、アンタを勇者の補佐役に任命したのよ。逃げられると思う?」
「………ちょっと自信ない…」
思わず素直なところを答えると、アルセリアは満面の笑みを浮かべた。目尻にはまだ涙が残っていたが、俺が今まで見た中で最高の笑顔だった。
勇者とか、使命とか、世界の命運だとか、そういうものを全部取っ払った、それこそが生のアルセリアの表情だと思った。
何か言おうと思ったけど、どうやらこの辺が限界のようだった。
あれ…俺、まさか「ちょっと自信ない」が遺言だったりする?
ちょっと待ってちょっと待って、せめて、ダイニングメッセージとして「テーブルの上にハンバーグがあります、チンして食べてね」くらいのことは、言わせてほしかった……
「それじゃあね。寝過ごすんじゃないわよ」
最後にアルセリアは俺の頭を撫でて、そう言った。
「少しだけ…おやすみなさい。ルーディア聖教会“七翼の騎士”そして神託の勇者補佐、リュート=サクラーヴァ」
……あのね。
最後に言っておきたいんだけどさ。
って最後だから言わないでおくけどさ。
これは、アルセリアだけじゃなくってこの世界の全住人に声を大にして言いたい。
サクラーヴァ、じゃなくって、サクラバ……だから。




