第四百二十話 神だの魔王だの言ったところで、結局はみんな自分勝手なんじゃん、という話。
玄関の扉を出たところで、もう一人のアルセリアが立ち塞がっていた。
……いや、違う。あれはアルセリアではない。
「どういうことですか」
怒りか屈辱かその両方か、煮えたぎる熱いものを腹に抱えてエルリアーシェは低い声で言った。
「それは、肉体の保持のための仮初めの自我に過ぎないって言ったでしょう?これは、私が私のために用意したものなんです、なんで邪魔するんですか!」
「アルシェ……」
癇癪を起こした子供のように、叫ぶエルリアーシェ。ようやく手に入れた世界へ触れるための手段まで奪われそうになって、躍起になっている。
「なんで、なんで私を選んでくれないんですか?なんで私じゃなくて、こんな古びた世界を選ぼうとするんですか!?」
いつだったか、天地大戦の直前に、俺は同じようなことをアルシェに言った記憶がある。
あのときの俺は、彼女に棄てられる恐怖に駆られ、確かに世界を憎んだのだった。
だけど……だから、彼女の言い分は承服しかねる。
「それは……選んだのは、お前のほうじゃないか」
「……え?」
心底意外そうなアルシェの表情に、俺は少なからず痛みを感じた。
彼女は、自分がしたことを、選んだ道を、その結果俺が受けた痛みを、何一つ分かっていない。自分は好きなように振舞って、正しいことをしているのだと思い込んで。
ずっとずっと、一緒だったのに。二人だけだったのに。二人だけで、よかったのに。
それなのにアルシェは、そうじゃない道を選んだ。
俺に背を向けて、世界のことばかりに夢中になって、振り返ってくれなかった。
「俺が眠ってる間に、何もかも全部自分で取っていったじゃないか。俺が関わる余地なんて、残してくれなかったじゃないか」
思わず、声が震えた。
心を揺らすつもりはなかった。精神世界で心を不安定にさせてしまうと、それだけで存在が危うくなってしまう。
だから、冷静に話すつもりだった。
けれども、何千年も何万年も抱えてきた鬱憤めいた思い…彼女に言いたくて言えなかったことが、溢れて止まらなかった。
「世界を選んだのも、俺を棄てたのも、お前じゃないか」
「……ヴェル、私は………」
分かってる。こんな子供じみた我儘は、今ここで言うべきことじゃない。いい年した魔王が、彼女に振られた男みたいに情けなく取り乱す姿なんて、みっともないことこの上ない。
だけど。
「俺の居場所なんて、何処にもなかったじゃないか!!」
結局俺は、叫んでいた。
創世神に忘れられた場所…魔界の存在に気付くまでの間、俺は絶望と孤独の中をただひたすら耐えて過ごすしかなかった。
俺にはアルシェしかいなかったのに、気付いたらアルシェには俺以外にたくさんたくさん大切なものが出来ていて、そいつらからも大切にされていて、そこに俺が入り込む余地なんて何処にもなかった。
俺が寝過ごしたのなんて、せいぜい数百年か数千年がいいとこだろう。そのくらい、待っていてくれてもよかったはずなのに。先に始めるにしたって、俺の分を残しておいてくれたって、よかったはずなのに。
「だから、自分で見付けたんだ。ここにいていいって言ってくれる奴らを見付けたんだ。ここにいたいって思う場所を見付けたんだ」
それは、魔界と魔族たち。そして、地上界と勇者たち。
前者は偶然に見付けただけで、そして彼らの方から歓迎してくれたのだけれど、後者は俺がそうしたいと思って関わってきた連中。
どちらも、今さら手放すなんて出来ない。
「なのに、せっかく見付けたのに、手に入れたのに、お前がそれを壊すって言うから!!」
「ヴェル、違います!私は、世界じゃなくて貴方が…」
「違わない。お前は、俺より世界を選んだんだ。それはお前の選択だ。今さら、やっぱなし、だなんて認めない」
……とりあえず、ちょっと落ち着こうか、俺。
このままじゃ、横で唖然として見ているアルセリアに醜態を晒しまくりだ。
キョトンとした表情からして、まだ幼児期のままのようだったが、いつ元のアルセリアに戻るか分かったもんじゃない。
今の俺には、アルシェに癇癪をぶつけるよりも、アルセリアから子供じみた駄々をこねるめんどくさい奴扱いを受けるのを回避する方が優先だ。
そう、アルシェはもう、選んだのだ。今さら縋ったところで、意味はない。
「お前は選んで、俺も選んだ。これは、そういうことだろ?どっちも間違ってないし、どっちも間違えたんだと思う」
「何を言ってるのか、分かりません……」
「正当性なんか、クソくらえってことだ」
正しい世界?なんですかそれ美味しいの?
怒りも憎しみも哀しみも絶望もなくて?格差も苦痛も恐怖も不条理もなくて?安寧が約束された世界…だったっけ?
それってさ、怒りや哀しみがないってことは、大切なものがないってことだよな。
憎しみがないってことは、何も愛さないってこと。
絶望がないってのは、そのままイコールで希望がないってことだ。
格差がなければ、上昇しようという願いも努力も、達成感もなくなる。
苦痛と恐怖がなければ、危険から逃れることを忘れてしまう。
不条理は確かに嫌なものだけど、満たされるばかりの生命は切磋琢磨を棄ててしまう。
結局、アルシェの理想の新世界も、今のこの世界も、クソったれ具合では目クソ鼻クソってやつじゃないか。
だったら、好きな方を選ばせてもらう。
「私の……私の理想を、くだらないって言うんですか…?」
「くだらないなんて言ってないだろ。クソったれだって言って…」
べし。
俺の頭に、アルセリアがチョップをお見舞いしてきた。
「ってなんだよ、話してる途中に……」
「アンタね、仮にも腐っても魔王なんだから、その品性の欠片もない言葉遣いはどうにかならないわけ?」
「………………………」
呆れたように俺を見るアルセリアの眼差しから、弱々しい幼さは完全に消え去っていた。そこにあるのは、力強く凛とした光……ただし、シラけ気味の。
「アルセリア…なのか?」
「そうだけど、他に何に見えるってのよ。つか、なんでアンタまでここにいるわけ?」
なんでって……今までの俺の苦労、全否定っスか!?
「まぁ、そんなことより」
アルセリアは、愕然とする俺をついっと無視して自分の姿をしたエルリアーシェに向き直った。
「ええとですね、御神。別に私は、貴女が間違ってるとかそういうことは思ってません。貴女の理想は、少なくとも社会の底に押し込められている人々にとっては確かに救いでしょうから」
創世神に真向からノーを突きつけるつもりのアルセリアに驚いて俺は止めようとしたのだが、彼女は身振りでそれを制してきた。
廉族の身でありながら、創世神を否定するとかちょっとマズい展開なんじゃないか…?
「けど、貴女の救いって、結局は死と同じなんですよ。死ねば苦しみから逃れられるっていう考え。それはやっぱり、生命としては認めちゃいけないことなんだと思います」
「あ…貴女が、貴女に、認めてもらう必要なんて……」
胸を張って堂々と生命の在り方を説くアルセリアに、エルリアーシェは何故だか気圧されているようだった。
「御神にはその必要ないかもしれませんが、私は私で貴女の遣り方を認めません。少なくとも、私の身体を使って…だなんて、絶対に認めません」
「これは、貴女の身体じゃありません、私の肉体です!」
「いいえー、違いますぅ」
……ガキかよ。
「これは私の身体です。その証拠に、彼は私をアルセリア、と呼んでくれる」
急にアルセリアがすっごく良い笑顔でこちらを振り返ったので、思わず赤面してしまった。なんだこのシチュ。なんか新手のフラグですか?
「私には、私をアルセリアと呼んでくれる人が沢山います。リュートも、キアも、ビビもヒルダも。グリード猊下だってそうだし、他にも沢山……好きな人たちもそうじゃない人たちも。だからこの身体は…私は、アルセリア=セルデンなんです」
どういう理屈かはイマイチよく分からないが、どうやらアルセリアは驚いたことに創世神に対してマウントを取りにいったらしい。なぜならば、
「わ…私だって、名前を呼んでくれる人くらい………」
そこで、アルシェの言葉が詰まってしまったから。
創世神に対して、面と向かって名を呼ぶ者はいない。それはあまりに畏れ多いことで、ゆえに人々は彼女を御神と呼ぶ。
彼女を、エルリアーシェと…アルシェと呼びかけることが出来るのは、俺だけだ。
けれども今、俺はアルセリアの傍らにいる。
アルシェの視線がこちらに向いて、俺の表情が変わらないことに彼女は愕然とした。
今、この場の支配権はアルセリアに移りつつある。
とは言え、神は神。説得でどうにか出来る相手ではなく、強引に身体から追い出すだけの力は彼女にはない。
しかし、ここには俺がいる。肉体の主導権は、アルセリアが今まさに取り戻そうとしている。そしてアルシェが拠り所を失って揺らいでいる今ならば。
「なぁ、アルシェ。お前は少し、頭を冷やした方がいい」
俺もだけどな。内心でそう付け加えて、俺はアルセリアの手を再び握った。
いきなり手を握られてアルセリアは一瞬硬直したが、別に下心があってしてるわけじゃないんだし…つかこの状況でそんなことあるわけないんだし、少し我慢してほしい。
ここで、アルセリアの中で、彼女に負担をかけずに理に働きかけるためには、彼女の協力が必要なのだ。
「アルセリア、ちょっと手伝え」
「へ?手伝うって何を………」
唐突な俺の依頼にアルセリアが見せた戸惑いは一瞬のことで、俺の意図はすぐに彼女に伝わった。
それは、ここが彼女の中だからなのか、或いは彼女が俺を本当の意味で受け容れてくれたからなのか。
俺は、残りの存在値を総動員して、アルシェに断ち切られ虚空に漂う糸を無理矢理手繰り寄せた。
同時に、ほんの少しだけ、負担も影響も与えない程度にアルセリアの魔力を俺の力と同調させる。このあたり、力加減を間違えたらアルセリアは廃人まっしぐらなので細心の注意を払って。
アルセリアは、俺が何をしているのか、何をしようとしているのか、分かっているようだった。抵抗することなく、全てを俺に委ね預けてくれている。おかげで、彼女との同調は初めてとは思えないくらいすんなりと成功した。
「何をするつもりですか、今さら貴方たちが足搔いたって、無駄なんですよ!」
…まずい。アルシェの神力がこの場に流れ込み始めた。肉体の負担を完全に無視しなきゃ出来ない真似だ。こんなことしたら、仮に彼女が俺たちの排除に成功したとしても、二度と肉体は使い物にならないだろう。
せっかく長い時間を待ち続け、ようやく入手した器だっていうのに、癇癪起こして台無しにするつもりか?どう見ても、自棄としか思えない。
俺は即座には動けない。焦れば、それこそアルセリアの身体を破壊してしまう。が、この状況だとアルシェの方が一歩早いか…?
「もういいです!もう知りません!!ヴェルも世界も滅ぼして、私は私だけの世界を創ります、他の誰も必要ありません!!」
俺と同じくらい寂しがり屋のアルシェが、本心からそう言っているとは思えなかった。けど、彼女にそう言わせてしまったのは間違いなく、俺のせいだ。
どうする…少しばかりアルセリアには無理してもらうか?けど、ただでさえ創世神に抗い続けて摩耗している精神が、耐えられる保証は……
「今度こそ、ほんとのほんとにサヨナラです、ヴェル。私は、貴方のことを忘れることにします。消えてくだ……?」
アルシェの言葉が、途中で止まった。俺はまだ、何もしていない。
言葉だけじゃなく動きも止めて、アルシェは何か信じられない事態が起こったかのような、焦りの表情を浮かべていた。
「なんで……?私は、……違う…」
抗うように、ぽつりと漏らしたアルシェのすぐ傍らに、何かが見えたような気がした。
微かな人影。とても懐かしい感じがした。
「エルリアーシェ、様……?」
アルセリアにも、見えたようだ。苦悶するアルシェの横に、彼女を抱くようにしてもう一人のアルシェが佇んでいるのが。
その姿は透けていて、ほとんど力など有していないように見えた。けれども、優しく抱きしめられたアルシェはその腕を振りほどくことが出来ない。
透けてる方のアルシェが、俺たちの方を見た。温かくて、茶目っ気があって、穏やかな碧い光。それは、桜庭柳人にこの世界を慈しんでほしいと願ったあの女神のような気がした。
その視線を受けて、俺は頷く。彼女も、頷き返してくれた。
いくつにも分かたれた、創世神の欠片。その中の、ほとんど薄れかけていた世界を慈しむ一つが、俺たちに時間を与えてくれた。
俺とアルセリアは、声を重ねた。
『顕現せよ、其は原初に満ちる光也』
眩い光の奔流が生まれた。【断罪の鐘】なんて可愛く思えるほどの、膨大で、絶大で、苛烈な光が。
光は、自分自身に動きを止められて茫然としているアルシェと、どこか申し訳なさそうに微笑むもう一つのアルシェを呑み込んだ。
二つのアルシェの姿は、濁流に揉まれてすぐに見えなくなった。
…光に還る寸前、アルシェの口が僅かに動いて、俺に何かを伝えようとした。
けれども、俺に彼女の声が届くことはなかった。
創世神と魔王を絡めると、なんでか子供の喧嘩になります。ほんと子供ですこいつら。
いーから元サヤ戻っちまえよ、と言いたい気分。ストーリー的に戻せませんけど。




