第四百十九話 魔王の甘言
「なぁ、お前は、どうしたい?」
それは、簡単でそして難しい問い。
既に答えを持っている者なら聞くまでもなく、持っていない者は絶対に答えられない、一言。
それを訊ねられたアルセリアは、しばらく無言のまま、何かを探しているようだった。
やがて、ぽつりと、質問から外れた答えが、返って来た。
「……私はね、許さなくちゃいけないの」
それは自分自身に向けて言っているように聞こえた。
「許す?誰を?」
「………………」
それについての返答はない。何故ならば、
「お前を売った両親と、お前を買った人買いと、そいつからまたお前を買った魔王崇拝者の連中、だろ?」
「………………」
それは、彼女が許したくないと、或いは許したいがどうしても許せないと、思っているから。
「どうして、そいつらを許さなくちゃいけないんだ?」
「だって………良くない気持ちだから」
アルセリアの、自分の膝を抱く腕に力が入るのが分かった。
「憎いって、嫌いだって、思うのは良くない気持ちだから……そのままじゃ私も辛いばっかりだから、そういう気持ちは捨てなきゃいけないんだって」
アルセリアの言葉に、ふとルーディア聖教の教義を思い出した。あれは、誰が言っていたことだったろうか…ルーディア教の教えは、許すことから始まっている…と。
汝、敵を許すべし。……というわけか。許すことで救いが生まれる。許すことで、先へ進むことが出来る。許すことで、憎悪から逃れることが出来る。
それは果たして……本当なのだろうか。
「…で、お前はそいつらを許せたのか?」
「………………」
アルセリアの表情を見れば、そうではないことは一目瞭然だった。けれども俺は、追い打ちをかけるように続ける。
「お前は、そいつらを許して、それで救われたのか?楽になれたのか?」
「…………苦しいよ」
幼いアルセリアの、絞り出すような擦れた声。憎しみや怒りよりも、淋しさと哀しみの方が勝っているように聞こえた。
「許さなきゃいけないって、でもどうしたら出来るのか分かんないし、お腹の中ぐちゃぐちゃで、みんなめちゃくちゃにしちゃいたいって思うこともあるし、こんなんじゃ、許すこと出来なくて、良い子にもなれない……」
「ふーん、そっか………そっかぁ」
肉体的な面で言えば、彼女は既に救われていた。
“魔宵教導旅団”のアジトに攻め込んだ七翼、その一員だったグリードの手で間一髪のところを救い出され、その後彼の後ろ盾を得てきちんとした環境を与えられ、勇者と呼ばれるまでになった。
グリードがいて、ビビとヒルダがいて、他にも親しい教会の連中はいるようだったし、それなりに楽しい、充実した毎日を送っているようだった。
過去の出来事が彼女に暗い影を落としたとしても、過去は過去。彼女自身が吹っ切ってしまえば、現在や未来に力を及ぼすことはない。
けど、そういうことではないのだ。
彼女は、自分の中の感情に落としどころを見付けられないでいる。勇者として立派であろうとすればするほど、正しくあろうとすればするほど、彼女は自分で自分の感情を…許せないという気持ちを、許せなくなっていく。
アルセリアが「許す」という行為にこれほど拘っているのも、創世神の影響だろうか。
あいつは、憎悪も哀しみも苦痛もない世界を創ろうとしている。そういった感情のない世界を。それらは、正しくない感情だから。
だから、正しくあるためには許さなくてはならない。憎しみと怒りを捨てて許すことが出来れば、安らぎを得ることが出来る。そうすれば、一切の苦しみから逃れることが出来る……
それは確かに、正しい考えなのかもしれない。争いや格差、不条理を無くすためには、必要な考えなのかもしれない。
そして………クソったれな考えだ。
「だったらさ、許さなくてもいいじゃないか」
「……?」
別に、許せないのなら無理して許す必要なんてないだろ。
許すことで救われるってのは、要するに許したフリをして苦しみを過去に捨ててくる行為だ。それはそれで間違いだとも思わないし、そうしたい奴はそうすればいい。
だが、そうすることで逆に苦しむことになるのなら、
「とことん憎んでやればいい。怒り狂って、思いっきり悪態をついてやればいいさ」
心ゆくまで、ぶつければいい。少なくとも、直接的な復讐であれば俺は止めるつもりはない。
かつてエルリアーシェに唆され、自分の感情に素直になるという言い訳で家族や親しい人々を殺めてしまった魔族の末裔の少女のように、憎しみを理由に関係のない人間まで巻き込むのは間違っている。
だが、アルセリアが両親と人買いと“魔宵教導旅団”に復讐したいと望むのであれば、俺は寧ろ進んでそれに手を貸そう。
彼女にはその権利があるし、連中にはそうされても文句を言う権利はない。俺がソニアにそうしたように、知った風に第三者が裁きを加えるよりも、よっぽど公平なやり方だ。
そう思う俺は、やはり魔王なのだろう。
だが、今のアルセリアを救うのは、おキレイな神サマの正論じゃない。間違っていようが悪いことだろうが、感情の赴くままにそれを発露させることだ。
何故ここで、創世神の中で、アルセリアが過去に囚われているのか。
それは、それこそが、彼女の強い未練だから。
聖円環が彼女の未練であるという俺の予想は、一部正しくて一部間違っていた。それは、彼女の大切な思い出などではなくて、彼女のおぞましい記憶の象徴。
憎しみと怒り。許せないという気持ち。助けられた後も彼女を捕らえて離そうとしない絶望と恐怖の中で、彼女の原動力…生きたいと願う強い思いは、そこから発生していたのだ。
それは決して、美しいことではない。恨み憎しみを生きる糧にするというのは、その道が修羅に続くという可能性を常に孕み続ける。
けど、俺はそれでもいいと思う。生きてさえいればなんとかなる…なんとでもなる。それは初めて会った日、魔王城でもアルセリアが言っていたこと。ずっと前から、自分に言い聞かせるようにそう思ってきたのだろう。
生と死は裏表ではなくて、隣り合った地続きの現象。だからこそ、その差は小さいようで大きい。
いつだって、今だって、生きてさえいればこっちの勝ち、なのだ。
理由だとか原動力だとか、そんなものはそのうち別のものを見付ければいい。そしてアルセリア=セルデンという少女は、それが出来る人間だ。
だから俺は、繰り返す。
「許さなくてもいいよ。お前がいつか、自然とそいつらを許せる日が来るまでは、許す必要なんてない」
「……けど、それは駄目な…」
「駄目な子でいいじゃん。俺が許可する!」
つーかさ、あれだけ好き勝手我儘放題やっておいて、根っこの部分では良い子に拘ってるのって馬鹿らしいと思うのは俺だけ?
それとも、そんだけ我儘に振り回されてるのって、もしかして俺だけ?
それはそれでなんか納得いかない気もするが……
「……いいの?」
「ああ、いいよ」
アルセリアは、俺をまっすぐに見つめてきた。思えば、こんな風にこいつと見つめ合ったことってどれくらいあっただろう。
思い出そうとしてみても、最初の(彼女にとっては)最悪だった出逢いのときくらいしか思い当たらない。
その碧の瞳は、俺のよく見知ったもののようでどこか違っていた。
創世神と同じ色、同じ輝き。けど、別人の眼差し。
「アルセリア、俺は魔王だ。魔王だから、良い子だとか善人だとか善行だとかはどうでもいい」
実を言うと、ちょっと嘘である。魔王だからどうでもいいのではなくて、俺自身の主義としてどうでもいいと思っているのではなくて、アルセリアがそんなことに囚われる必要はないと、そう思っているのだ。
「だから、お前が俺を選んでくれるなら、お前は良い子になる必要なんてない。好きなようにやってみればいいじゃないか」
えー、なんか告ってるみたいな台詞だけどそうではないからな。俺を選べっつーのは、勇者らしさだとか神託に選ばれたからとかなんとか、創世神の影響から離れろっていう意味だからな。
「……いいの?」
「だから、いいって言ってるじゃないか」
不安げに同じことを繰り返すアルセリアに苦笑しつつ、もう一度頷いてやる。そんなに不安なら、何度だって肯定してやろう。
「ほら、行くぞ」
俺は先に立ち上がると、アルセリアに手を差し伸べた。
そのときふと、一番最初に彼女らと会ったときにうっかり口を滑らせて(ノリで)世界の半分をくれてやる的なことを言ってしまったことを思い出した。
そのときの彼女は、屹然と俺を拒絶したのだけれど、今はもうそんなことないと分かっていた。
勇者に許しの道を捨てさせること、憎しみを受け容れさせることを勧める魔王ってのも、らしくていいじゃないか。
それに応える勇者ってのもさ。こういう勇者と魔王の在り方だって、面白い。
アルセリアの躊躇いは一瞬だった。彼女はおずおずと俺に手を伸ばし、そっと、しかし力強く、俺の手を握りしめた。
アルセリアの世界に対する未練ってのは、結局のところ自分を酷い目に遭わせた連中への憎しみだとか復讐心でした。勇者面の奥に隠されてて自分ですら気付かなかった感情ですが、多分彼女が物分かり良くそいつらを許していたら、そのままあっさり創世神の中で消滅してたでしょうね。
愛だとか希望だとか、綺麗なものだけが生きる糧でなくてもいいじゃないか、という話です。個人的意見ですが。




