第四百十七話 彼女の中へ
深く、深く、沈んでいく。
真っ暗な水底のような静謐。心地よい微睡みに誘う揺らめきは、全ての怖れと不安を消し去っていく。
何も、怖いものなどないような気がした。
全てが、あるべき場所へ…あるべき姿へ還っていくだけの、大きな流れの中に身を委ねて、ただ目を閉じていればちゃんと自分の場所へ連れて行ってくれるような、そんな安心感。
もし俺が、かつての俺と何一つ変わらないままであったならば、きっとその微睡みに抵抗することなく、彼女と一つになる道を選んでいたに違いない。
そのくらい、抗いがたく心地よい空間だった。
俺は、沈んでいく感覚を覚えながら目を開けてみた。
何もない世界。ただただ真っ白で、それは俺がこの世界に戻る前に、初めて桜庭柳人が神を名乗る妙なテンションの超絶美女と出逢った場所に、酷似していた。
ここは創世神の意識の中であることを、今の俺は知っている。そして彼女は俺と同じものであり、俺たちは…創世神と魔王は、とてつもなく親和性が高い。
それは、混ざり合えば簡単に一つに回帰してしまうほどに。
けれども、俺の中には桜庭柳人があった。
俺とアルシェにとっては、異質なもの。すなわち異物。本来、混ざり合い溶け合うはずだった俺たちを阻害する要素。
それは、ちっぽけな、他愛のない、脆弱で矮小な意思。路傍の石に等しい非力で無価値なはずの自我。
しかしそのちっぽけなリュウト=サクラバが、かつて創世神と同じ存在だった魔王を、まったく別の存在へと作り変えてしまっていた。
今こうして、俺が俺の自我を保っていられるのも、俺が異物を抱えているから。そうでなければ、今頃俺の精神は完全に消滅しアルシェへと吸収されていたことだろう。
何の力もない異世界の人間の存在が、創世神にとっての最大の誤算。
桜庭柳人にこの世界の行く末を託した彼女の欠片の一つは、こうなることを予想していたのだろうか。あのときの彼女の残留思念はもう消え去ってしまっていて、今となっては分からない。
……が、彼女のことだから、もしかしたらそこまでの期待を、あの日本人の少年に寄せていた…のかもしれない。
やがて、俺の意識はアルシェの意識の底に着いた。周りを見渡してみても、やっぱり何もない真っ白な空間。ここは、彼女自身ですら自覚することが出来ない、心の底の奥深く。そしてこの何処かに、俺が探し求める稀代のポンコツ勇者がいるはずだった。
彼女を探して歩き出した俺の全身に(上下の概念も曖昧なここで歩くって表現するのだろうか?)、まるで酸の海を突っ切っているかのような激痛が走った。
勿論、幻痛である。だが、精神体の受ける幻痛は、肉体における外傷と何ら変わらない。受け続ければ、死ぬ。
おそらく、アルシェの意識が、俺を異物だと判断したのだろう。相容れないものならば、同化しえないものならば、排除してしまおうというつもりのようだ。
彼女の抵抗の証であるような痛みを無視して進む俺の視界に、奇妙な建物が映った。
何が奇妙かと言うと、俺はその建物に覚えがあったのである。
玄関前の、広めに作られたポーチ。大きめに作られたリビングの窓と、そこから続くテラス。暖炉の煙突。ロフト部分の丸窓。新築だけど温かみのある、ログハウス。
これ…俺たちの家、だよな?
ということは、これを創り出しているのはアルセリアに間違いない。そして、彼女はこの中にいる、ということも。
創世神の攻撃に耐えるために、拠り所となるものを創ったのか。それだけこの家が彼女にとって強固な支えとなるものだったという事実は素直に嬉しいし、だからこそ彼女は未だ無事でいられたのだろう。
防御に徹してくれていて良かった。下手に動いて創世神をその気にさせてしまっていたら、彼女は今頃完全に消されてしまっていた。
しかし、現にこの家がまだこうして残っているということは、彼女もまだ無事ということだ。
良かった、これでようやくアルセリアを連れて帰ることが出来る。
……けれども、そのときの俺は、アルセリアの抱える傷の深さ…俺たちには決して晒そうとはしない闇の深さに、まるで気付いていなかった。
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玄関扉を開けた瞬間に俺を襲った違和感。
外側からだと分からなかったが、ここは俺たちの家じゃない。
…いや、俺たちの家だけじゃなくて、違うものも混じっている。変な具合に混じり合ってるのは、おそらくそれがアルセリアの記憶から形成されているものだから。
俺たちの家はログハウスで暖炉以外に石材は使われていないはずなのに、壁にはところどころ石造りの部分と木の部分が入り混じっていて、普請的にありえない感じになっている。玄関を入ってすぐの吹き抜け部分には、二階に向かう階段しかなかったはずなのに、何故か地下へと続く階段まで。
そこから下は完全に薄暗い石造りとなっていて、それが彼女のどの記憶から創られているのかは考えるまでもなかった。
彼女を守る幸せな記憶の中に、彼女を苛む嫌な過去が入り込んだのか。それとも、嫌な過去を塗り潰すために彼女自身がそれに耐えうる記憶を持ち出したのか。
どちらなのかは分からないけれど、混ざり具合を見る限り、このまま放置するのは危険だ。
俺は迷わず、地下へ向かう。
階段は長かった。それは彼女の、他者に立ち入ってほしくないという本心に影響されているのだろう。階段の横の石壁には、まるで絵画のごとく映像が投射されていた。そこに映るのは、彼女の記憶。断片的だが、俺との出逢い近辺のものもあった。他にも、鍛錬に勤しんでいる彼女と親友たちの姿や、他愛のない日常の風景、悪戯をして教会のシスターに叱られているところや、ちょっと信じがたいがグリードに甘えている場面も。
始めのうちは色とりどりの動画だったのに、下に降りるにつれ少しずつ色彩が失われていく。俺はきっと、彼女の思い出したくない部分に近付いてきている。
モノクロームの映像の前で、俺は足を止めた。
映像の中では、白黒ということを差し引いても不気味な空間で、俺も見覚えのある黒い法衣に身を包んだ魔導士らしき連中と、数人の騎士が殺し合いの真っ最中だった。
法衣の連中は、“魔宵教導旅団”のメンバーだ。そして騎士の方は…七翼の騎士に違いない。
それらの光景は、一段高くなった台座のような場所からの視点で描かれていた。台座を取り囲むように、地面には複雑な文様の魔法陣が敷かれ、同じ陣は真上の天井にも。
部屋の中はこれ見よがしなくらい不気味な調度品や魔導具で装飾されていて、そこが何らかの儀式のための空間だということは間違いなかった。
音声は、聞こえない。だが様子を見ていれば、そこには怒号と悲鳴が飛び交っているのが分かる。必死の形相の魔王崇拝者たちと、決死の表情の騎士たちの対比に、台座の上の彼女は何を感じたのだろうか。
彼女の視線が、自分の足元に移った。健康な子供ではありえない、痩せこけて棒のようになった両足。足首には、重々しい枷とそこから太い鎖が台座脇の金具へと伸びている。
やがて、一人の男が台座に近付いた。真っ先に彼女の足枷と手枷を破壊し、心配そうな顔で覗き込んでくる。それが若き日のグリード=ハイデマンであることはすぐに分かった。
これはアルセリアの記憶、すなわち過去の出来事でありその結果は俺も知るところではあるはずなのだが、それでも彼女が無事に救い出されたことに安堵して、その先へ進むことにした。
次の映像は、少しだけ前の光景。牢屋のような小さな部屋に閉じ込められているところだった。
アルセリアは、そう悪い生活ではなかった…と言っていたが、少なくともそれが悪い生活でないのならば、何をもって「悪い生活」と呼ぶのか分からなくなるような記憶だった。
確かに、食事は問題なく提供されているようだった。生贄に餓死されたら困るからだろう。そして、おそらく彼女の元へ食事を運んだり着替えを持って行ったりしている世話役の少年が…ラディウス=エルダー、なのか。俺の知るラディ先輩とはまるで別人だが、目鼻立ちに僅かながら面影が残っていた。
アルセリアの元を訪れるのは、ラディ先輩だけではなかった。寧ろ、違う大人の男たちの方が多いくらいだった。彼らが何の目的で彼女を訪ねるのかは容易く想像出来ることで、だからこそ考えたくなくて、俺は目を逸らしてしまった。逸らしてから自己嫌悪に陥って、けれどもやっぱり、視線を戻すことは出来なかった。
アルセリアは、ラディ先輩のことを覚えていなかった。追及されても、当時のことをよく思い出せないようで。
それはきっと、心の防衛反応だったのだ。おぞましい記憶を封印して絶望から目を逸らし、生きていくための。
そうじゃなきゃ、こんなのを「悪い生活じゃなかった」だなんて言えるはずがない。とてもじゃないけど、俺は直視することが出来なかった……直視したくなかった。
それなのにここにこうして彼女の記憶が投影されているということは、彼女は創世神の中で、蓋をし続けていた自分の過去…精神の奥深くに沈めたはずの恐怖と絶望を、目の前に突きつけられたのだ。
覚悟を決めて自分から向き合うことにしたのであればまだしも、こんな形で無理矢理に思い出させられてしまうなんて…。
この先に彼女がいるのは間違いないのだが、そこに辿り着いたとき、俺は彼女に何を言えばいいのだろう。彼女の過去を垣間見たとしても、それを経験したわけではない。彼女の苦しみを知っても、それを自分が受けたわけではない。
下手な慰めなんて、彼女を救うどころか逆に追い詰めてしまうことになるんじゃないだろうか。
悩みながらさらに降りると、ひときわ色あせた、まるで昔の八ミリフィルムみたいな荒い画像が目に入った。




