第四百十六話 魔界、参戦。
「勝負は決した。其方らに、御神の定めたもうた道に従う以外の選択肢は残されていない」
サファニールの、非情な宣告。
彼の眼下には、傷つき地に落ちた三人の天使が伏していた。
特に重傷なのが、サファニールと直接刃を交わしていたグリューファスである。何処からどう見ても、戦闘続行は不可能。
グリューファスを守るかのように寄り添うウルヴァルドとシグルキアスも、浅くない傷を負い象徴たる翼の輝きは失われていた。
グリューファスら、地上界に味方する三人の天使たちは確かに奮戦した。が、彼らでは央天使に及ばなかった。
彼らの敗北に気付いた兵士たちの中を、恐怖がざわめきと共に駆け巡った。ただでさえ幻獣の大群相手に不利な…どころか非常に旗色の悪い状況に陥っていた上に、高位天使三人がかりでさえ倒せないサファニールを相手にするなど、不可能の極みだった。
「何を呆けているんですか!今は戦う時でしょう!!」
戦意を喪失しかけた兵士たちを叱咤し、ライオネルが再び【剣林弾雨】を放った。立ち竦む兵士の一団に食らいつこうとしていた幻獣が五、六体、衝撃波に打たれて動きを止めた。
そこにすかさずムジカが飛び込み、一体ずつとどめを刺していく。フレデリカとヒルダは、別の場所で術式混合により(かなり息が合うようになってきていた)ひときわ巨大な幻獣に大きな風穴を開けた。
勇者たちの戦いぶりに、鈍っていた兵士たちの動きも少しだけ回復する。しかし、そこから恐怖の色が消えることはない。
勇者たちもまた、自分たちが絶望的な状況に置かれていることは理解していた。彼らがどれだけ奮闘しようとも、頭上にいるサファニールがその気になれば、一瞬で全てが終わるのだ。
そして、そのときは来た。
往生際悪く足搔き続ける地上界の兵士たちを、感情を押し殺した瞳で見下ろしていたサファニールは、やっと決心と覚悟を決めた。
「憐れな魂たちよ、どうか許してほしい」
彼は何故、許しを乞う言葉を残すのか。
急速に高まるサファニールの霊力の渦巻くのを感じながら、ベアトリクスは思った。
サファニールは、創世神の側近であり、尖兵であり、従僕である。だからこそ彼は、ここで自分たちと敵対し向かい合っているのだ。
未だ世界に未練を…情を残しているのなら、何故自分たちに味方してくれないのだろう。
後悔するくらいなら、魔王や創世神と同じように自分の望みに素直になってくれればいいのに。
それは、疑問というより憤りである。サファニールの置かれた立場と複雑な心境を一切鑑みることのない、ベアトリクスの勝手な怒り。
理不尽な感情であると理解していながらも、大人しく彼の決定を承諾するほどベアトリクスは素直ではなかった。
しかし、承諾しなくても納得しなくても諦められなくても、彼女らに出来ることはない。
サファニールの練り上げる霊力は量だけでなく純度も密度も彼女の想像を超えていて、彼はおそらく【断罪の鐘】のような極位術式か、あるいはそれを超える手段で、この戦場を、この戦争を終わらせようとしているのだと思われた。
無駄だとは思いつつ、魔力と気力を振り絞り“聖母の腕”の出力を最大限に引き上げながらも、自分の無力さに歯噛みするベアトリクスだったが。
「なに、戦場でそう気負うものではないぞ?」
涼やかな、凛とした声と共に、彼女の肩に誰かが手を置いた。
力強く、芯のある、聞く者に安心を与えるような声色だった。
「………え?」
振り返ったベアトリクスは、思わず素っ頓狂な声を上げる。何故ならば、彼女のすぐ脇にいつの間にか立っていたのは、
「…アスターシャ…さん!?どうしてここに……」
「言わずとしれたこと。主君の命に決まっているだろう?」
「…サーシャ………おにいちゃんに言われて、来てくれた?」
ヒルダもまたアスターシャに気付き、傍に駆け寄った。なお、彼女はアスターシャの発音が上手くできなくてサーシャと呼んでいる。
「アス姉だけじゃ、ないけどね」
「……!ディオっちも!」
アスターシャの傍には、ディアルディオもいた。それだけではなく、エルネストまで。
そしてさらに、いつの間にか…本当に誰も気付かなかったのだが…万を超える魔族の大軍が、戦場を取り囲んでいた。
「其方らは……魔王の配下か」
“門”を用いて突如戦場に現れた新手に、サファニールは表情に憂いを留めたままで呟いた。
そこに驚愕は見られないことから、こうなることを予測していたものと思われた。
あの魔王が、いくら創世神との一騎打ちに向かうとは言え、地上界と魔界をそのまま見棄てるはずはなかった。
確実に、打てる手は打っているのだろうと、サファニールは分かっていたのだ。
「やはり軍を大きく動かすとなると、なかなか時間がかかるものでな。遅くなってすまない」
「いえ、そんな……来ていただけただけで………」
ベアトリクスに謝罪するアスターシャではあるが、実は当初のうちは参戦する予定ではなかったのだ。
彼女らが魔王に命じられていたのは、魔界の防衛及び魔界に敵する者の殲滅。地上界が幻獣に襲われたとて、それは地上界の問題であり、地上界の戦いである。そこに魔族が介入するのは、推奨されることではない。
しかし、央天使が戦場に現れたことで、状況は変わった。何がどう変わったかと言うと、央天使とは因縁というか犬猿の仲であるギーヴレイが、非常に怒り狂ったのである。
怒り狂ったあげく、自分が直接赴いて奴に引導を渡してくれる!と息巻く彼を必死に押しとどめ、自分たち遊撃軍が行ってくるから魔界で待っていてほしい、となんとか宥め、ようやくここにやって来たのだ。
勿論、央天使を放置すれば魔界にもいずれ危険が及ぶということ、個人的な感情としてベアトリクスとヒルダを死なせたくはない、ということも大きかったが、魔王の不在時に魔界の全てを統括するギーヴレイに無茶をされては困る、というのが一番の理由だったりする。
「ねえ、アス姉。ギー兄とあの天使って、なんかあったっけ?」
央天使の姿に怒り狂っていたギーヴレイの剣幕を思い出し、ディアルディオは首を傾げる。
冷静沈着なギーヴレイがあそこまで取り乱すことは珍しい。特に、魔王が絡まない事情でとなると、皆無に等しかった。
「さぁ、私も詳しくは知らぬよ。ただ、天地大戦の比較的初期の段階で、あの二人はぶつかり合っていたようだからな。…それはさておき」
アスターシャは、連れて来た遊撃軍一万二千に向かって高らかに吼えた。
「全軍、浅ましき天界の尖兵どもを殲滅せよ!これは、我らが王の威光を全世界に知らしめる尊き戦だ、誇るがいい!!貴様らは今、未来を切り開く先駆としてここにいる!!」
おおおー、と地鳴りのような歓声が低く轟いた。アスターシャの檄を待つことなく十分に闘志を高めていた魔族の軍勢が、雪崩のように戦場に押し寄せて幻獣の群れに向かっていく。
「さて、廉族の方々には、出来るだけこちらに集まっていただきましょうか」
激戦の最中でも変わらずにこやかなエルネストが、ベアトリクスを促して地上軍の兵士を集めさせた。その数は、既に半数近くに減っている。残った者も皆、満身創痍。中にはそう長くはないだろうと思われる重傷者を抱えている者たちも。
「あの…ベアトリクス嬢?この魔族たちは一体……?」
ライオネルが、顔にいくつも疑問符を貼り付けてベアトリクスに尋ねた。先の天魔会談の後、魔界と魔族は必ずしも地上界の敵ではないと広く周知されており、彼らもまた聖教会の態度から魔族に敵対するつもりはないという意志を感じ取ってはいたのだが、それでも魔族に対する警戒を解くことは難しかったし、何よりベアトリクスとヒルダがまるで旧知であるかのように親し気に魔族と言葉を交わしているのが不思議でならなかったのだ。
「一体、と言われましても……魔族の方々ですけど?」
「いえ、そうじゃなくて……いえ、そうなんですけど、知り合い…なんですか?一体どこで…」
「まぁまぁ、そんなことはいいじゃありませんか。少なくとも、彼らは私たちの味方なんですから」
「味方と言われても…」
素直にはい、と頷けないライオネルはなおもベアトリクスを問い詰めようとするが、その瞬間に彼らを柔らかな霧が覆った。
すわ、新たな敵の攻撃か…と身を固くして備えた彼らだったが、すぐにそれは勘違いだと知る。
攻撃どころか、彼らの負っていた少なくない傷が、見る間に癒えていった。
それだけではない。魔力は勿論、気力や精神力に至るまで、まるで開戦直前に戻ったかの如く、全身に漲ってきたのだ。
「これ……は、回復術式?けど、それにしては……」
「エルネストさん、なんかレベルアップしてません?」
「エルっちスゴイ……完全回復?」
エルネストの治癒能力を初めて目の当たりにしたライオネルや他の兵士たちは勿論のこと、知っているはずのベアトリクスとヒルダもその能力の向上っぷりに驚愕している。
「いえ、まあ…色々ありましてね」
権能云々の説明が実に面倒くさかったので(と言うか本来それについて口外することは魔界においてタブーとなっているのだがエルネストはそんなこと気にしていない)、適当に濁すエルネストだったが、常識では考えられない規格外の治癒能力に、兵士たちはただただ唖然としていた。
数こそ減ったが今までの激戦などなかったかのように回復した地上界の兵士たちと三人の天使、そして魔族軍と魔王の側近たる二人の武王を前にしてなお、サファニールは動揺を見せなかった。
そこに安堵によく似た感情が見え隠れしていることに気付いたベアトリクスは、もしかしたら彼は魔界の援軍が来ることを予測していたのではなくて、期待していたのではないか…と思い至る。
「サフィー、やはり、私たちと共に…」
「それは出来ぬ」
しかし、再三の呼びかけにも、サファニールは応じなかった。彼は、頑ななまでに自分の在り方を貫こうとする。
「この時代に生まれ、御神の加護から遠く離れた其方らには、分からぬであろうな」
天使としては、ただ一人黎明期を知る者。魔界の武王たちとは違い、当時を懐かしみ語り合い、支え合う同胞は彼にはいない。
自分の生きて来た時代。自分の歩んできた道。自分が関わって来た歴史。
彼にはもう、創世神しか残されていなかった。
「それが現世界の破滅だとしても、我が身の破滅だとしても、それでも私は御神の定め給うた道が行きつく未来を受け容れよう」
忠誠と、諦めと、羨望。自分ではどうしようもないそれらの思いを胸に、央天使サファニールはこの戦を自らの最後の舞台とすることを、覚悟と共に決心した。
ようやく魔界軍合流です。もう、今まで何してたんでしょうねグズグズしやがって。
別にタイミングを見計らってたわけじゃないですよ、魔王じゃないんだから。




