第三百九十五話 思春期ってほんと全てにおいて痛々しい。
氷の中に眠る竜の姿を、央天使サファニールは居たたまれない気持ちで見つめていた。
アリアは、魔王を憎んでいたわけではない。そのことを、サファニールは知っている。そしてそれは、彼もまた同じなのだ。
始めは、魔王を悪しき存在だと断定していた。それが彼らの「常識」だったから。しかし魔王を知る者と出逢い、魔王と出逢い、それに敵意を抱き続けるのが馬鹿らしいような気持ちになっていったことも事実。
仮に、創世神が目覚めることがなかったならば、自分もアリアも、魔王と敵対することはなく、寧ろ手を携えて共に歩んでいただろうと思う。
そう思う程度には、安易な表現をしてしまえば、サファニールは魔王のことを気に入っていたのである。
廉族の勇者たちと過ごした日々は、純粋に楽しいものだった。彼女らは、五権天使筆頭である自分に対して委縮することもなく、まるで旧知の仲ででもあるかのように胸襟を開いてくれた。
そしてそんな勇者たちの口から語られる魔王の姿は、信じられないことにとても興味深かった。
あのまま時間が過ぎていくのであれば、魔王のいる世界というものを受け容れてもいいかもしれない、とさえ思ってしまった。
だが、創世神は復活した。
そして、そうなった以上は、自分に許された道はただ一つだけ。
どれだけ勇者たちが好ましくても、どれだけ魔王が興味深くても、彼らと過ごす世界が魅力的に見えたとしても。
主である創世神が望むのであれば、それら全てを捨てなくてはならない。
それが、自分と神の在り方なのだ。それはアリアも同様で。
感情面では間違いなく、アリアは魔王を慕っていた。だが、主上への忠誠の前には自分の感情など無価値にして無意味。
……自分の存在そのものと、同じように。
「…あらあら、ヴェルったら。あの子を殺さないなんて、意外です」
創世神の声は、少しだけ不満げだった。彼女は、魔王の選択が理解出来ないでいる。
「ヴェルにとっては、あの子の振舞いは裏切りにしか見えないはずなのに……せっかくのお膳立てが、無駄だったじゃないですか」
「現在の魔王は、おそらくかつてとは違っているのではないか、と」
二千年前と現在を比べてそう言いかけたサファニールだったが、突然叩きつけられた強烈な威圧に、言葉を詰まらせる。
創世神が、鋭く冷たく、彼を睨み付けていた。
「そんなんじゃありませんよ。こんなの、ただの気の迷いに決まってます。ヴェルは今も昔も、私のヴェルなんですから」
「………左様でございますね……」
静かに怒りを滾らせる主に対し、サファニールはそう返すだけで精一杯だった。
そんなサファニールの怯えに気付くと、エルリアーシェは途端に態度を翻して破顔する。
「ええ、そう思うでしょう?今はちょっと色々と外野に惑わされてて自分を見失ってるかもですけど、大丈夫。ヴェルのことは、他の誰より私が理解ってるんです」
それからエルリアーシェは、ふと気付いたように、
「そういえば……ヴォーノさんはどちらに?」
「彼には、少しだけ暇を与えました。なんでも、身辺整理をする時間が欲しいとのことで」
「身辺整理…ですか。そんなの無意味だっていうこと、分かってないんですかね?」
エルリアーシェの声には、侮蔑というよりは憐憫の色が濃い。
「分かっていても割り切ることが出来ないのが、廉族というものなのでしょう。旧き世界と決別するために必要な儀式のようなものと考えてやっていただけますか?」
言う程サファニールは廉族の心情に詳しくない。だが、仮に詳しかったとしても真実を話すことはなかっただろう。
エルリアーシェはそんな彼のささやかな、取るに足らない小さな叛意に気付いていたのだろうか。その笑みからは、窺い知ることが出来ない。
が、彼女がその程度の些事に腹を立てるようなことはないと、サファニールは確信していた。
だから彼は、ヴォーノの行為を見逃すことで、相反する自分の忠誠と願望とに妥協点を見い出そうとしたのだ。
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鎮魂の鐘にも似た荘厳な音が、遠ざかっていく。七色に揺らめく光が、薄れていく。
やがて訪れた静寂に残るのは、文字どおりの荒野。あとは諸々の残骸。
【断罪の鐘】…聖属性極位術式は、敵中央部隊の半数以上、おそらく三分の二程度を、戦場から排除していた。
…うーん、まどろっこしい。けどこれが廉族の限界なんだから仕方ない。なんか、戦略的には三割だかなんだかがやられたら全滅って定義らしいって聞いたことがあるし、そう考えれば十分なダメージを与えたと言えるんじゃないだろうか。
両翼はまだ手付かずだけど、それはそれでヴィンセントたちが奮闘してくれてるはずだし、教会騎士団たちの方にはルガイアを行かせてるから、もしかしたらこちらよりも早くケリがついているかもしれない。
さて、いい加減時間も稼いだことだし、そろそろ頃合いだろうか。
「趨勢は決した。我々にはまだ余力が残されている。それでもなお抵抗を続けるつもりか?」
余力って言うのはちょっと吹かしてる部分があるけど、俺は敵の生き残りにそう声をかけた。戦場はもうぐちゃぐちゃになっていて、司令官がどこにいるのかもよく分かってないけど、死んでたら死んでたで統制が乱れるからしめたものだ。
「抵抗……だなんて、妙な表現をするんだね、リュート君」
累々とした死体の山の向こう側から、返答があった。
敵でありながら、俺の名前を知っている…俺をリュートと呼ぶ、ということは。
「ヨシュア、か。アンタなら、この状況くらい理解出来るだろ?」
「勿論さ。だけど、状況と言うのならば、君たちこそ理解しなくてはいけないんじゃないかな?」
死屍累々を乗り越えて、ヨシュアが姿を現した。負傷は……していないように見える。後方にいたのか、極位術式をやり過ごす何らかの術を持っていたのか。後者だとすれば、侮ることは出来ない。
だが、無傷とは言ってもそれは身体的な話であって、精神的にはとても無事には見えなかった。無理もない、二倍の兵力差が、瞬く間にひっくり返されてしまったのだ。
彼は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたままで、しかしそこには隠しようのない焦りや恐怖が纏わりついていた。
……つーか、それこそこの状況で笑っていられるあたり、どんなタフガイだよって問いたい。
「俺たちが、何を理解するって?」
「君たちが、何に敵対しようとしているのかってことさ」
ああ、なるほど。創世神がバックにいるもんな、そりゃ廉族の軍勢に怯んでなんていられないか。
「それは一応、分かってるつもり…だけどな」
言っとくけど、多分ヨシュアなんかより俺の方が状況のヤバさは分かってる。創世神に敵対するということ。彼女と戦うということ。
その意味と、もたらされる結果。考えられうる、いくつかの可能性。
そんなこと、嫌という程分かっている。かつて、散々思い知らされたことでもある。
だがそれをヨシュアに話しても意味はない。そしてヨシュアは、濁した俺の言葉の意味を取り違える。
「つもり……か。それはきっと、随分と楽観的な考えなんだろうね。……本当に、分かっているのかい?」
ヨシュアから笑顔が消えた。真剣な、真剣に俺たちを案じている表情で、彼の声には熱がこもり始める。
「この世界を創り給うた御神は、全ての支配者であらせられるんだよ?世界の行く末は、創り手であるあの御方のみに委ねられるもの。彼女によって生み出された僕たちが、そこに口を挟んだり、ましてや抵抗するだなんて、罪とかそういうレベルじゃなくて許されるものじゃないんだ」
頬を紅潮させて、まるで演説のように語るヨシュアには、戦闘前の俺みたいな造りものの胡散臭さは微塵もなかった。
彼が本気でそう信じ、そして俺にもそれを伝えたがっているのだと、そのことだけは伝わって来た。
それが、彼の真実。
彼が信じる、彼にとっての真実。彼が創世神に求める役割であり、自分で定義した自分の在り方。
だけど、俺は違う。
俺には俺の考えがあり、知識があり、願望がある。多分俺たちの差異は、話し合いで折り合いをつけられるようなものではないのだろうけど……
「ヨシュア、創世神が世界を創造したってのは、お前たちの……生命体の勘違いだよ」
それでも、彼の考えの根幹を支える事実についてだけは、真実を伝えようとしてみる。
「あいつは…創世神は、言葉で表すなら、原初の意思ってやつだ。それ以上でも、それ以下でもない。確かに世界の道筋を誘導して安定させるために拠り所となるもの、理ってのを創ったのはあいつだけど、世界そのものはそれとは関係なく生まれたものだ」
「………?君は、何を言ってるんだい?」
皮肉でもなく、ヨシュアは心底疑問に思っているように、首を傾げた。
俺は彼に、彼が今まで信じていたそもそもの前提ってのを否定しようとしている。
「俺が言ってるのは、俗にいう「真実」ってやつさ。始まりの混沌には、統合と分離を繰り返す特性がある……波が寄せて引いてを繰り返すみたいに」
…で、統合の周期のときにいろいろくっついて安定したのが、世界の始まり。それらは、理という防波堤を築いてやらなければ、すぐにまたバラバラに分離して混沌へと戻るはずだった。
それを上から抑えつけたのが原初の意思であるエルリアーシェであり、彼女の構築した理。
「創世神は、世界の統合を安定させた。そこから先の世界の動きに関しては、確かにあいつの力によるところが大きいけど……少なくとも、本当の意味での創り手じゃない」
俺はただ、「創られた存在」だから、「創り手である存在」に無条件で従わなくてはならない、だなんて負い目のようなものを感じる必要はないのだと伝えたかっただけ。
けれども、
「……ごめん、君が何を言ってるのかやっぱりよく分からない。……けど、仮にそれが真実だったとして、だからなんだって言うのかな?」
ヨシュアが言いたいのはそこではないのだと、分かってはいる。
「御神のおかげで世界があるということに変わりはないだろう?そして、彼の君はそれを為せるほどの強大にして偉大な存在であるということも」
彼の中にあるのが、彼の行動を支えているのが、大きな存在に対する畏怖……きっとそれはちっぽけな自分自身に対する諦めも内包している……であるならば、俺が何を言っても、それが真実であっても、彼に働きかけることは出来ない。
「御神は、その大いなる意志で僕たちを新たなるステージへと連れて行こうとなさっている。その優しさに甘えることは、いけないことなのかい?」
「アンタの言う、新たなるステージってやつ。アンタらが今の形のままで向こうへ行くことは出来ない。向こうの世界に、アンタが存在することはない」
「分かってるさ、そんなことは。多分、ここにいる同志たちは皆、分かってる。僕たちは、確かに肉体も自我も記憶も留めておくことは出来ないけど、それらは新しい世界を構築する要素の一つになり、そして魂だけは新世界に引き継がれるんだ」
驚いたことに、ほぼ正確に把握してやがる。
エルリアーシェの奴、そこまで話しても拒否られることはないと確信していたか?
或いは…そこまで聞いても拒否らない奴だけを、選別したかった……か。
「確かに、あいつなら魂だけ引っ張ってくことは出来るだろうさ…あくまでもそう望めば、だけどな。で、かつてアンタが使ってた空っぽの器だけ、他の別人(人かどうかも分からないけど)に受け継がれるわけだけど、そこにアンタはいないんだぞ?本当に、分かってんのか」
「僕が分からないのは、どうして君がそれをそこまで否定しようとするかってことだよ。それって、輪廻転生と呼ばれるものだよね?この世界でも、当然のように繰り返されていることじゃないか。ただ舞台が変わるだけで、行われることは同じなんだ。それだったら、より素晴らしい世界になった方が誰にとってもいいことのはずなのに」
新世界の方が旧世界よりも素晴らしい…優れている…という点に関しては、価値観によって判断が分かれるところなので言及を避ける。俺がそれを拒むのは、単純な好みの話だ。
けど、生命体であるヨシュアは、それでいいのか。
「……まさかだけどアンタ、輪廻転生した後も自分は自分…とか思ってるわけじゃないよな。転生した先で、新たなヨシュア=フォールズの人生が始まったりひょんなことで今の記憶が蘇ったりするかもとか、思ってるわけじゃないよな?」
転生なんて、魂のリサイクルに過ぎない。コ〇・コーラの瓶にアク〇リアスを入れ替えたところで、これは〇カ・コーラなんです、なんて主張出来るか?或いは、それがペ〇シだったとしても、「いやこれはコ〇です」って言ったりなんかしたら、四方八方から異議が飛んでくるに違いない。
転生先で彼が彼を自覚することがあるとしたら、それはただの手違いだ。何かのミスがあって、アクエリの瓶にコカが残ってたっていう、工場側のとんでもないミス。現代日本でそんなことがあれば、会社のトップがお詫び声明である。
因みに、魂のリサイクルと言っても、当然のように行われているものではない。普通は、魂そのものも霊素に分解されて核へ還っていき、新たな魂が作られる。
だって、同じ瓶を使いまわしするのは限界があるだろ?
溶かして新しいもの…この場合完全に別物になることもある…を作る方が、効率的にも衛生的にも良かったりする。
問題はコストだけど、世界から見ればそんなものは日常業務の範囲内だ。
だから、ヨシュアが新世界である日、「思い出した、僕は前世で……!」なんてことにはまずならない。
「いやだなぁ、リュート君。そんな思春期真っ盛りの少年みたいな痛い妄想を僕が持ってるはずないじゃないか」
……笑われてしまった。
いや、別に、俺はそんな思春期真っ盛りの痛い妄想なんてしたことないけどさ。ないから別に笑われたって平気だけどさ。ほらこれは、世間一般の話であって。
…………そんな妄想、したことないもん。
「……だったら、なんで平気そうにして……」
「理想郷のための礎になれるんだよ、これ以上の誉れがどこにあるって?」
「……………………」
結局、それか。
行き過ぎた信仰、或いは忠誠。自分を犠牲にして…なんて言えば聞こえはいいけど、盲目的なのはいただけない。
いただけないが……こればっかりは、俺にはどうしようもない。
彼が彼の望みとしてこの道を選ぶのだとしたら、同じように自分の望みとしてそれを否定しようとする俺に、彼を説得することなんて出来そうになかった。




